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第八章
70,憂い
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──シシ村を後にし、西へ続く道は穏やかだった。北北西の山で凍えてしまったヤエにとって、真夜中でも肌寒い程度の平地は全く苦ではない。むしろ心地が良い。
月の明かりがよく届き、夜道がはっきりと照らされた。
「シシ村ではろくに休めなかったからな。ヤエ、疲れたら遠慮なく休もう」
「はい……」
ヤエは意図せず、無気力な声になってしまう。一つ、気がかりなことを残したまま、シシ村を出ていってしまったからだ。
「どうした?」
心配そうに、ナナシはヤエの顔を覗き込む。
今さら話したところで村に戻るわけにはいかない。そうではあっても、ナナシの表情を前にすると、この人になら不安を打ち明けても良いかと考えた。一人で考え込むよりも、不安を口にして悩みを共有したい。
ナナシの灰色の瞳を真っ直ぐと見つめ、ヤエは胸の内を語った。
「リュウキ様の炎で負傷させてしまった兵士たちのことが、気がかりなのです」
「何?」
「リュウキ様は、人の生命を奪うのを極度に嫌がっています。あの者たちが助からなければ、自分は人殺しだと言い放った彼の言葉を、私は否定できなくなってしまいます」
兵や民だけではない。たとえ化け物になってしまったヤオ村の人々であっても同じだ。自らの精神を削ってまで、リュウキは守ろうとしている。
そんな彼が、記憶を失う前は人々の生命を奪うような皇帝だったとは──ヤエにはとても信じられないのだ。
思い悩んでいると、ナナシはふっとヤエの前に立った。そして、そっとヤエの頭に大きな手を置くのだ。優しくひと撫でするナナシの体温は、やはり熱く感じられる。
「心配するな。あの人間どもの火傷は、既に治療を済ませてある」
「……えっ?」
思いがけない一言に、ヤエは目を見開いた。
「旅の途中で出会った化け物の朱鷺を覚えているか? 彼女から治療薬をもらったんだ」
「治療薬、ですか?」
「ああ。あの朱鷺の翼は、癒しの力があるんだぜ。特異能力のひとつだな。兵士たちのあの大火傷でさえ、あっという間に治るんだ」
「そうだったのですね……」
「不安になりすぎるなよ」
ナナシは少しいたずらっぽく笑うのだ。
──いつも厳格そうなナナシが、こんな風に優しい顔をするなんて。
ナナシに抱いていた僅かな疑心感が解けていく。そんな気がした。
しかしヤエの中にはいくつか疑問が残っている。思いきって問いただしてみようと、ヤエはさらに続ける。
「あの、ナナシ様。特異能力と言えば、私は氷の力を。リュウキ様は炎を扱います。そしてあなたも、特異能力を持っているのだと仰いましたね?」
「ああ、そうだ」
「まさか……幻想成分を浴びてしまったのですか? 化け物になりそうなのですか?」
「前者は正解、後者は不正解」
「え?」
「俺は既に──化け物だからな」
冷静且つ何の感情も乗せられずに放たれた一言。ナナシはその続きを、切ない声で語り始めるのだ。
「だが俺には、大切な人がいる。その人を守る為、俺は精神崩壊するわけにはいかないんだ。人間を食らうことも絶対にしない。人肉を食らった化け物は、その味が忘れられず、次々と人を食らいたいと衝動が止まらなくなると聞いたことがある。俺は人と共生したいから、絶対に人の味を知るわけにはいかねえ。……そういう想いがあって、俺は今日まで正気でいられたと思う」
「ナナシ様……」
正直、ヤエはナナシが化け物だと全く気づかなかった。
恐怖など微塵も感じられない、むしろあたたかみのあるナナシはヤエと目が合うとまた優しい顔になった。
「ナナシ様の大切な人って?」
「……それは」
ほんのりと頬を夕焼けのように染めるナナシは、そこで口ごもる。
「あまり深い話をすると、シュウに叱られるんだがな……」
次に何かを口に出そうとしていた──その時である。
「ゥウウッ……!」
どこからともなく、低い唸り声がした。明らかに、人間のものではない。
野生動物なのか、化け物なのかはっきりとは分からないが、何かが威嚇しているようにも感じ取れる。
ヤエは立ち止まり、腰から剣を引き抜いて構えの姿勢に入った。その横で、ナナシは低い姿勢になって周囲の様子を探るように耳を澄ませているようだった。
瞬きもしない内、ナナシは叫んだ。
「狼だっ」
「えっ?」
「化け物の狼がいる! 背後だ!」
ヤエが後ろを振り向こうとした刹那、突如何かに背中を押された。とんでもない程の力。ヤエは衝撃で口から唾を吐き出してしまう。気づいた時にはうつ伏せに倒れていて、毛むくじゃらの大きな「化け物」に身体を押さえつけられていたのだ。
「ウゥゥゥ……」
姿を確認しなくても分かる。背中を押さえつけているのは、化け物の大狼だ。
獲物を捕まえたことを喜ぶかのように、息を荒くしている。
「てめぇ、ヤエに手を出すな!」
怒り心頭のナナシの叫び。と同時に、どん、と鈍い音がした。身体が解放され、ヤエが慌てて立ち上がると、目の前で大狼が倒れていた。
ナナシは拳を握り締め、目を真っ赤にして狼を睨み付ける。
「ナナシ様、あの……」
礼を言おうとするとヤエは背中に激痛を感じて蹲った。大狼の攻撃を不意に食らってしまい、受け身が遅れてしまった。その反動がきたのだ。
「ヤエ、大丈夫か!」
ナナシが慌てたようにヤエの所に近づこうとすると──
「ゥウウゥゥッ!」
大狼は再び立ち上がり、次にナナシ目掛けて突進してきた。その攻撃を躱すナナシの目は怒りに満ち溢れている。
月の明かりがよく届き、夜道がはっきりと照らされた。
「シシ村ではろくに休めなかったからな。ヤエ、疲れたら遠慮なく休もう」
「はい……」
ヤエは意図せず、無気力な声になってしまう。一つ、気がかりなことを残したまま、シシ村を出ていってしまったからだ。
「どうした?」
心配そうに、ナナシはヤエの顔を覗き込む。
今さら話したところで村に戻るわけにはいかない。そうではあっても、ナナシの表情を前にすると、この人になら不安を打ち明けても良いかと考えた。一人で考え込むよりも、不安を口にして悩みを共有したい。
ナナシの灰色の瞳を真っ直ぐと見つめ、ヤエは胸の内を語った。
「リュウキ様の炎で負傷させてしまった兵士たちのことが、気がかりなのです」
「何?」
「リュウキ様は、人の生命を奪うのを極度に嫌がっています。あの者たちが助からなければ、自分は人殺しだと言い放った彼の言葉を、私は否定できなくなってしまいます」
兵や民だけではない。たとえ化け物になってしまったヤオ村の人々であっても同じだ。自らの精神を削ってまで、リュウキは守ろうとしている。
そんな彼が、記憶を失う前は人々の生命を奪うような皇帝だったとは──ヤエにはとても信じられないのだ。
思い悩んでいると、ナナシはふっとヤエの前に立った。そして、そっとヤエの頭に大きな手を置くのだ。優しくひと撫でするナナシの体温は、やはり熱く感じられる。
「心配するな。あの人間どもの火傷は、既に治療を済ませてある」
「……えっ?」
思いがけない一言に、ヤエは目を見開いた。
「旅の途中で出会った化け物の朱鷺を覚えているか? 彼女から治療薬をもらったんだ」
「治療薬、ですか?」
「ああ。あの朱鷺の翼は、癒しの力があるんだぜ。特異能力のひとつだな。兵士たちのあの大火傷でさえ、あっという間に治るんだ」
「そうだったのですね……」
「不安になりすぎるなよ」
ナナシは少しいたずらっぽく笑うのだ。
──いつも厳格そうなナナシが、こんな風に優しい顔をするなんて。
ナナシに抱いていた僅かな疑心感が解けていく。そんな気がした。
しかしヤエの中にはいくつか疑問が残っている。思いきって問いただしてみようと、ヤエはさらに続ける。
「あの、ナナシ様。特異能力と言えば、私は氷の力を。リュウキ様は炎を扱います。そしてあなたも、特異能力を持っているのだと仰いましたね?」
「ああ、そうだ」
「まさか……幻想成分を浴びてしまったのですか? 化け物になりそうなのですか?」
「前者は正解、後者は不正解」
「え?」
「俺は既に──化け物だからな」
冷静且つ何の感情も乗せられずに放たれた一言。ナナシはその続きを、切ない声で語り始めるのだ。
「だが俺には、大切な人がいる。その人を守る為、俺は精神崩壊するわけにはいかないんだ。人間を食らうことも絶対にしない。人肉を食らった化け物は、その味が忘れられず、次々と人を食らいたいと衝動が止まらなくなると聞いたことがある。俺は人と共生したいから、絶対に人の味を知るわけにはいかねえ。……そういう想いがあって、俺は今日まで正気でいられたと思う」
「ナナシ様……」
正直、ヤエはナナシが化け物だと全く気づかなかった。
恐怖など微塵も感じられない、むしろあたたかみのあるナナシはヤエと目が合うとまた優しい顔になった。
「ナナシ様の大切な人って?」
「……それは」
ほんのりと頬を夕焼けのように染めるナナシは、そこで口ごもる。
「あまり深い話をすると、シュウに叱られるんだがな……」
次に何かを口に出そうとしていた──その時である。
「ゥウウッ……!」
どこからともなく、低い唸り声がした。明らかに、人間のものではない。
野生動物なのか、化け物なのかはっきりとは分からないが、何かが威嚇しているようにも感じ取れる。
ヤエは立ち止まり、腰から剣を引き抜いて構えの姿勢に入った。その横で、ナナシは低い姿勢になって周囲の様子を探るように耳を澄ませているようだった。
瞬きもしない内、ナナシは叫んだ。
「狼だっ」
「えっ?」
「化け物の狼がいる! 背後だ!」
ヤエが後ろを振り向こうとした刹那、突如何かに背中を押された。とんでもない程の力。ヤエは衝撃で口から唾を吐き出してしまう。気づいた時にはうつ伏せに倒れていて、毛むくじゃらの大きな「化け物」に身体を押さえつけられていたのだ。
「ウゥゥゥ……」
姿を確認しなくても分かる。背中を押さえつけているのは、化け物の大狼だ。
獲物を捕まえたことを喜ぶかのように、息を荒くしている。
「てめぇ、ヤエに手を出すな!」
怒り心頭のナナシの叫び。と同時に、どん、と鈍い音がした。身体が解放され、ヤエが慌てて立ち上がると、目の前で大狼が倒れていた。
ナナシは拳を握り締め、目を真っ赤にして狼を睨み付ける。
「ナナシ様、あの……」
礼を言おうとするとヤエは背中に激痛を感じて蹲った。大狼の攻撃を不意に食らってしまい、受け身が遅れてしまった。その反動がきたのだ。
「ヤエ、大丈夫か!」
ナナシが慌てたようにヤエの所に近づこうとすると──
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大狼は再び立ち上がり、次にナナシ目掛けて突進してきた。その攻撃を躱すナナシの目は怒りに満ち溢れている。
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