肩甲骨に薔薇の種(アルファポリス版・完結済)

おにぎり1000米

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本編

2.月曜日の音楽

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 僕がボスに眼をとめられたきっかけは、休憩中に私用のタブレットで趣味の動画を垂れ流していたことにある。

 それはネットで発見した断片的なアートアニメーションを編集してつないだもので、どんな順番でつなぐのが適切か、同好の士と掲示板でさんざん議論したものだ。元の作成者は匿名のクリエイターで、モノクロの線が幻想的に動いていく手のかかった作品である。

 数年前に投稿された最初の動画をたまたまみつけてから、僕はネットをしつこく探し、同じシリーズを拾い集めていた。短ければ十秒ほど、長くても二、三分といった作品なのに投稿元のアカウントは毎回違い、いつの間にか消されてしまうのもたびたびで、匿名性は徹底していた。
 作風と作品に共通したモチーフによって同一作者だと推測できたし、断片的な作品を何通りかの解釈でつないで展開を推測したりもした。しかし次の作品がいつどこに投稿されるかはわからないから、追跡と情報交換用の掲示板まであった。

 お察しの通りスレを立てたのはこの僕だ。要するに僕はこの見知らぬアーティストの、ただのファンだった。

 ある日休憩を終えてデスクに戻ると、藤野谷さんが勝手に僕の椅子に座り、タブレットを食い入るように見ていた。
「えっと……?」
「これ、どこで手に入れた」

 創業十年に満たないTEN‐ZEROは役員と社員の距離が近いとはいえ、いきなり社長に椅子に座られるのは困惑する。そんな僕の顔を見もせずに低い声が詰問した。命令に慣れたアルファの声だ。
「ネットです。匿名の作者がたまに投稿するので」

 てっきり私用のタブレットについて何かいわれるのかと思った。直属の上司は業務に関係ないガジェットを休憩中にいじってもうるさいことはいわなかったが、何といっても彼は社長だ。

「作者の名前は?」
「匿名だっていったじゃないですか。いつも使い捨ての乱数IDで、アップロード元のサーバーも毎回違うから場所もわかりません。僕らはDandyって呼んでますけど」
「僕ら?」
「あー……追跡用に作った趣味の掲示板の連中で」
 そこではじめて藤野谷さんは僕の顔をみた。

「この動画の作者を探せ」
「え?」

 予想外の指示にあっけにとられているうちに彼は立ち上がる。アルファの例にもれず背が高い。僕の顔をしげしげと眺めて「たしか三波――だったな。入社は――三年前」といった。

 会社のトップに名前を覚えられていることに、僕は多少の安心とひやりとした感覚を同時に覚えた。

「ええ、はい」
「まずは現時点でわかっている情報をまとめて送ってくれ」
「は、はい?」
「すぐにだ」

 これがDandy(このひどいニックネームは動画のなかにくりかえし現れる人物の影にあやかってつけられていた)こと佐枝零と、運命のつがいであるボスが再会するきっかけだったのだから、世の中は何が起こるかわからないものだ。

 とはいえ世間から隠れたまま作品を放流していた佐枝さんを特定するには時間と手間がかかり、その作業中にボスは僕のことを思い出してしまった。僕がまだ学生だったころ、とある場所でボスと何度か接近遭遇していたことを、である。

 その接近遭遇はあまり褒められた話ではなかった。といって、べつに恥じるようなことでもなかった。ただ当時の僕がいささか弾けていて、オメガとアルファの社交場である〈ハウス〉のいくつかで目立つアルファを食いまくって悪名を馳せていたというだけだ。そして藤野谷さんも、立場は逆でも似たような悪名を轟かせていた。

 そんな僕らのハウスでのことは、社会人になった今は闇に葬りたい黒歴史の側面もあったわけだが、社員とボスという立場での再会となると、すこし事情が変わってくる。僕らが「Dandyを探せ!」プロジェクト(ひどい名前だと思うが、会社なんてそんなものだ)を通して再度、接近遭遇したのも成り行きというものだろう。

 それにいってはなんだが、僕は庶民出身のオメガとはいえ顔は目立つし(くりかえしになるが良い意味で)能力も比較的高く(少なくとも自分ではそう信じている)そこそこまっとうな自信と自己評価のおかげで卑屈さもない(前記二つを参照のこと)。だから藤野谷さんとの関係にひるむこともなかった。

 もっともあれは少し取引に似ていた。お互いにとって都合がよかったのだ。僕はそろそろ「つがいのいないシングルのオメガ」である不便から抜け出したかったし、藤野谷さんは当時ベータのふりをしていた佐枝さんへの思いをこじらせすぎて出口を探していた。

 とはいえ僕は最後には藤野谷さんの抱える「諸事情」についていけなくなったわけだが――運命の骰子はどう転ぶかわからない。
 あのとき彼がたまたま僕のタブレットを見なかったら、僕は何年も追っていたアーティストを発見することもなく、〈運命のつがい〉が再会することもなかったのかもしれない。




 月曜日の僕の目覚ましは威勢のいいラッパの音だ。特別休暇に続く週末が明け、数日ぶりに出社したその日の夕方、佐枝さんの意識が戻った。

 そのとき僕は自然食コンビニで夕食の弁当を物色中だった。寸前のところで僕を押しのけたベータの男に値引き札つき照り焼き弁当を奪われたのにむくれていると、隣にいたアルファの男が思わせぶりに目配せしてくる。無視してハンバーグ弁当の包みを手にレジへ向かい、会計が終わるとすかさずポケットに手をつっこむ。
 通知が来たかのようにモバイルを取り出すのは十代の終わりに学んだ、一般社会でのアルファ回避技のひとつだ。

 僕の体臭(アルファだけがわかるオメガの匂い)はそれほど強くないと思う。TEN‐ZEROの香水で多少ごまかしているし、発情期ヒートはまだ先だ。僕のヒートの間隔は年に三回から四回で、標準的なものだろう。個人差があるというが、僕はそれほど不便を感じたことはない。はじまると匂いをまき散らして大変なオメガもいるらしいが、僕はそんなことはなかった。

 しかしヒートでなくても道を歩くだけでアルファにじろじろみられるのはよくあることだった。パーティ会場なら悪い気はしないが、道端や電車の中では鬱陶しい。

 やれやれと僕は思う。世の中のアルファは全員、その辺のオメガとつがいになってしまえ。ただし僕以外と。

 その時タイミングよくモバイルが光り、僕は相手をろくにたしかめもせずに電話に出た。
『朋晴?』
「……秀哉か」
 さっきのアルファの男が肩をすくめて店を出ていく。うっかり取ってしまった通話を僕は後悔した。
『どうして出なかった。あれからずっとかけていたのに』

 ワイヤレスのイヤホンから聞こえてくるのは懐かしくも押しつけがましいアルファの口調だ。ここ数年ですっかり大人の声になって、子供の頃の甲高い響きはかけらもない。彼の声変わりは早かった。その前はびっくりするほどきれいなソプラノだったのに。

「忙しかったんだよ」
 昔の記憶に蓋をしつつ、僕は店を出ながらぶっきらぼうに答える。相手はやや性急な口調で問いかけてきた。
『週刊誌やネットを見てるが、大丈夫なのか?』
「問題ない」
『北斗がインタビューに答えていただろう。おまえの話、あることないこと――』
「あれはそれほど間違っていないよ?」
 僕は途中で相手をさえぎった。

「学生時代の僕の所業くらい、おまえもよく知っているだろう」
『だからってあんなふうに――おまえのプライベートをぺらぺら喋るなんて……ベータのくせに……それにあのころおまえがああなったきっかけだって、あいつが』
 言葉の背後に聞き取れる鈍い怒りを僕は無視する。
「昌行が週刊誌に喋ったのは僕の話で、おまえのことじゃない。それに僕は気にしていないね。勝手にいわせておけばいいんだ。どうせあることないこと書くのがああいうメディアなんだろう?」
『そうか……なら……』
 声のトーンがすこし下がった。
『朋晴が気にしていないならいいんだ。心配していただけだから。なあ今度――』
「悪いけど、最近仕事が楽しすぎてさ」また僕は最後までいわせなかった。
「休みは家でのんびりしたいから、おまえとは遊べそうにない」
『……そうか』
「暇ができたら連絡するよ」

 電話を切って、僕はまたやれやれ、と思っていた。アルファの幼馴染なんてものはさっさとその辺のオメガとつがいになってしまえばいい。

 桜本秀哉は子供の頃からの友人で、北斗――北斗昌行もそうだ。僕らは三人とも男で、ちがいは秀哉がアルファ、昌行がベータ、そして僕がオメガであることだけ。

 歩き出すと同時にまたイヤホンが着信を知らせてきた。秀哉はいい忘れたことでもあったのか。ボタンをおして反射的に出た声はいささか強すぎたかもしれない。
「はい?」
『……三波君?』

 耳の奥に到達した声は、さっきとはまったくちがうなめらかな低めのテノールだった。すこしかすれた響きがある。
「は、はいっ」
『佐枝峡です』
「はい。あ、あの――」

 勘違いに僕は青くなりそうだった。モバイルごしでよかったと思ったが、もちろん峡さんが気づくはずもない。

『忙しそうなところ申し訳ない。零の意識が戻ったんだ』
 あたりは薄暗くなっていたが、僕の視界は逆に明るくなったような気がした。
「そうなんですか! えっと……ボスはそっちに?」
『ああ、藤野谷君はずっと横にいたからね。彼からも連絡があると思うが、零が直接連絡をとれるのは少し先になるかもしれない。三波君には世話になったから先に知らせておこうと思って』
「ありがとうございます! 良かったです! とても良かった」

 テキストメッセージだったらTPOもわきまえず、顔文字を大量に打っていたかもしれない。僕は馬鹿みたいに繰り返し同じことをいい、峡さんは乾いた声で小さく笑った。とても嬉しそうな、ほっとした声だった。

『いやあ、事件の前からマスコミのせいで三波君にも迷惑をかけたし、申し訳なかった。今度何かお詫びとお礼をするから』
「いえいえそんな、とんでもないです」
『よかったら、零が落ち着いたころに見舞いに来てくれ』
「もちろんです。ぜひ!」

 時間にすれば短い通話だった。なのに僕は全速力で走りながら喋ったような気分になっていた。電話を切ったあとは心臓がどきどきして、空腹まで感じた。しぶしぶ選んだハンバーグ弁当が楽しみになったくらいだ。我ながら現金なものだと思う。
 どうして峡さんがこんなに気になるんだろうか。やはり彼があの人を思い出させるからだろうか。

 あの人――名前も思い出せないのに、教室の風景だけが頭に浮かぶ。今よりも明るい夕暮れの中でカーテンが揺れている。

 僕は十五歳だった。ヒートはまだはじまっていなかったが、なぜか急に周囲の人々の反応、とくに親友ふたりの反応が読めなくなったことに途惑っていた。あの人はたった一学期の間だけ、それも月曜日しか授業のない代理講師だった。他の教師とちがって、生徒に聞かせるために大きく声を張ったりしないところが僕は好きだった。

『どんな人間も周りの人がはめようとする枠に無理におさまる義務はない。きみがオメガだからといって、周囲が求めるオメガの枠を受け入れる必要もない』
 あの日彼がいった言葉だ。今もはっきり思い出せる。
『でも、同時にきみはきみであることを誰かのせいにはできない。誰も責めずにきみ自身になりなさい。それだけできみは勝利できる』

 いったい何に勝つのかと、あのとき僕はたずねただろうか。
 この部分はよく思い出せなかった。覚えているのは、勝利という言葉がラッパの音を連想させたということ、それだけだ。



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