肩甲骨に薔薇の種(アルファポリス版・完結済)

おにぎり1000米

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本編

6.球体の内側

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 スピーカーの振動で床も壁も揺れている気がする。黄色い照明が頭上で光っている。ダンスフロアからピカッとカラフルな色が差しこみ、僕の眼をくらませる。ピンク、青、グリーン。
 カウンターの前で僕に飲み物を差し出したアルファの男は悪くない雰囲気に見えた。二十代? 同じくらいの齢かな、と僕は思う。髪は短く、服装はすっきりしている。清潔感があるのはポイントが高い。僕は栓をあけたばかりのビール瓶を受け取りながら礼をいう。音楽が大きくて自分の声すらろくに聞こえない。

「ビールでよかった?」
 耳元で男が怒鳴った(音楽のせいだ)。僕も怒鳴り返した。
「どうも!」

 ヒートで得たささやかな休暇を消化するため、何年もご無沙汰していたこの大きなハウスに入ったのはまだ日も高い時刻だった。ここの利用者は学生や若者が中心で、値段も安い。僕が頻繁に通ったのは学生の頃だった。
 日が暮れるまではミニブースのビデオゲームで時間をつぶし、夜になってダンスフロアが賑やかになったのでブースの外へ這いだしたら、たまたま人気DJが担当で、思ったより客が多い。ごった返す人のなかで僕は踊る気をなくしていた。

「踊らないのか?」
 男がまた怒鳴った。僕は瓶をあおりながら彼を見上げる。男のグラスは空だ。首を振って彼の飲み物を買おうとカウンターに向き直った時、いらないとでもいいたげに手をつかんでとめられた。とたんにぞくっとして肩が震えた。
 やれやれ。ヒート本番だ。

 男は僕の反応に気づいたようだった。すばやく腕がのびて背中にまわり、僕の腰のあたりに触れる。アルファの匂いが背筋をくだって、うなじのあたりがひくついた。
「相手が必要?」

 唇が耳に触れそうなくらいの近さでささやいてくる。性急な気配に、遊びたい盛りだなと僕は思った。アルファは年上に見えることが多い。彼はまだ学生なのかもしれない。でも単にセックスが目的でハウスに来ている連中の方が、つがいを探しているアルファより気楽につきあえる。

 ビール瓶をカウンターに置いて、僕は「いいよ」といった。男はすぐさま立ち上がった。
「プレイルームに行こう」
「プレイルーム?」
 ここにそんな部屋があったっけ?
「こっちだ」

 アルファの男は僕の手首を引いて強引に先をいこうとする。思いのほか強い力で引っ張られ、僕はあきらめて彼の先導にまかせた。ハウスの中ではアルファは身元をごまかせないし、オメガが嫌だといえばそれで終わりだ。それでも強引にふるまうアルファが多いのは、リードされるのを喜ぶオメガがそれなりに多いからでもある。それにこっちがヒートに入っていると、前から漂ってくるアルファの匂いを拒否するだけでも余計な気力が必要になる。

 僕がしばらく来なかった間にこの施設は大幅に改装したらしい。ダンスフロアの上階は、こぎれいな扉が並んだ個室のフロアになっていた。慣れた足どりで彼は部屋を選び、僕らはそれぞれ腕のタグをかざして中に入った。思ったより広いし、それに――
 僕は笑い出した。

「なんだよ、こんなのが好きなの?」
「面白いだろう?」

 清潔そうな見た目とは正反対の趣味の持ち主らしい。この部屋はひとつの壁一面が小さな棚に占領され、展示されているかのようにディルドやローターなどの玩具が並んでいる。ひらいたクロゼットのハンガーには制服やレース、レザーのコスチュームがぶら下がっていた。ど真ん中に天蓋付きの大きなベッド。金色のランプに照らされた内装は紅と淡い紫で、こうなると何かの懐古趣味なのか単なる悪趣味なのか、よくわからない。

「昔はここ、こんな部屋なかったけどな」
 僕はぼやいたが、男はさっさと服を脱ぎはじめていた。
「気に入らないか? 楽しもうぜ」

 締まった腹と胸から肩につながる筋肉は悪くない。彼の腋から流れてくる匂いに僕のうなじの毛が立ちあがる。ざわっと皮膚の下で震える波を感じ、呼吸が速くなる。僕は自分のシャツとスラックスを脱いで椅子にかけた。シャワーブースを開けると男が後ろから小さな布切れを押しつけてくる。

「つけろよ」
 その口調にすこし引いたが、背中に感じるアルファの体温と匂いに僕は圧倒されはじめていた。渡されたのは光沢のあるビキニ――Tバックだ。おいおい、マジか。

「これ履いてするの?」
「その方がエロい」
 男は僕のボクサーに手をかけ、引き下ろしながら尻を揉んだ。
「それとも履かせてもらいたい?」
「待てよ。シャワー――」
「このままがいい。いい匂いだ」

 うなじに息がふきかけられ、背筋に走った震えに膝がくだけそうになった。気づくと腰を背後からがっつり抱かれて、僕はベッドにへたりこんでいる。男は僕を膝に抱えるような姿勢でボクサーを引き抜き、ぴっちりしたビキニを履かせようとする。あまり経験したことのないシチュエーションだ。僕は思わず笑いだし、男はすこしムッとしたようだった。

「ヒートなんだろ?」
 見た目より力は強く、腰を持ち上げられていきなり後口に指がさしこまれる。同時に耳たぶを噛まれ、僕は体を硬直させた。
「すごく匂うし、もうこんなに濡れてるもんな」
「離せよ。強引なのは嫌だ」

 僕は男の手を払おうと足を曲げ、体をよじる。指が離れたとき、濡れはじめていた後ろの穴から雫がこぼれた。中途半端にビキニを履かされた前が緊張する。

「強引? まさか」男はへらっと笑った。「真最中なのに?」
「お互いさまだろ」
「そのツンツンした顔もさ……どうせすぐに気持ちよくなって溶けるんだから――」
 男は吐息をもらしながら、やたらと優しげな声音でささやいた。
「早く俺を反応ラットさせろって……」

 唐突に彼の口調の何かが僕の気に触った。僕は片手をついて体をひねり、ベッドの上で反転した。急な動作に驚いた男が捕まえようと上体をかがめてくるのを反射的に足で蹴る。
「おい!」
「そんなに急いで指をいれるなって」
 息を吐きながら僕はつぶやく。男の匂いが気に入らない、と思った。弄られた内側がひくつき、体は熱いにもかかわらず、急激に気分がしらけていく。

「なんだよ」
 男はぼやいた。僕はため息をついた。
「ちょっと……ストップ。やめない? のれないかも」
「本気で?」
 男は眉をあげ、口を曲げてへらっと笑う。
「ヒートで熱くてたまらないくせに。匂うぜ。触ってほしくないのか? 好きなんだろう? そんなにいい匂いをさせて、きれいな顔してさ……」

 逆効果だった。男の口調と裏腹に僕の思考はますますクリアになっていく。悪い顔立ちじゃないのにこの表情では台無しだと冷静に分析する。たしかに僕の体は冷めてはいない。アルファの匂いで腕から肩、うなじの産毛が逆立ち、腰の奥はもっと濡れている。それでも……。

「いやだね」
「嘘つくな。気持ちよくなってるくせに」
「のらないものはのらないね」

 僕はベッドから降りようとした。ふいに足をつかまれ、引き戻された。舌打ちして体をねじり、男の顔をみる。

「離せ。嫌だっていったろ?」
 男の指が動き、腰から背中に快感が走る。
「こんなになってるのに?」
「僕がどうなってようが関係ない!」
 思いがけず鋭い声が出た。僕は肘でマットレスを押し返した。尻を揉んで暴こうとする指を全身でふりはらう。男は本気の抵抗に途惑ったようだった。

「おい――」
「嫌だっていってるだろ」僕はさらに怒鳴った。
「おまえ、匂いにあてられてマジでラットする前にやめろって。ハウスの中でアルファがひとりでラットするのはみっともないよ?」

 男は一瞬でゆるんだ表情をひきしめ、ついで冷めた顔になった。僕はすこしほっとした。ハウスではオメガの拒絶は絶対だし、いきずりでセックスするだけなのに、わざわざ変な面倒を抱えこむ必要はない、そう彼が計算したのが眼に見えるようだった。第一まだ夜は長い。男は僕から眼をそらして慌ただしく服を拾った。

 ドアが閉まったとき、僕はまだ彼が履けといったTバックのビキニを身につけていた。そのまま仰向けにどさっと広いベッドに横たわる。シーツはかすかに甘ったるい香りがして、僕自身の匂いがその上にまとわりつく。耳の奥で血流が鳴り、腰の奥がどくんとひきつれるようにうずいた。
 ヒートの熱と、衝動的に他人を怒鳴りつけてしまった興奮と、失敗したという後悔が混ざりあった。望みどおりになったはずなのに泣きたい気分だった。

 この期に及んで、自分以外の温もりが横にいたらいいのにと思った。背中に誰かの体温を感じて、柔らかく抱きしめられたい。

 僕はそのままじっとしていた。視界に入る壁の棚にはオブジェよろしく玩具が並んでいる。どうせならこのままひとりで処理してしまえばいい、そんな考えが浮かぶ。

 棚の中身はお店が開けそうなコレクションだ。人間というより馬向きにみえる奇天烈なサイズのディルドにはじまって、コンドームやローション、消毒用のスプレーといった些細なものまで、どんなお道具もそろっているようだ。
 僕は小さなローターを取ってスイッチを入れた。本体はピンクの真珠色で、スイッチはワイヤレス。この手の玩具を使うのはあまり好きではなかった。音がうるさすぎるのだ。

 スラックスのポケットからワイヤレスのイヤホンを取り出して耳につっこむ。モバイルに登録した音楽ストリーミングサービスのアプリを検索し、ちょうどいいプレイリストを探す。
 メロディアスなEDMが僕の最近のお気に入りで、音楽を聴くうちに気分が落ち着いてきた。悪趣味なくらいごてごての部屋でTバックを履いてひとりでベッドにいる自分を、滑稽だと思えるくらいの余裕が戻ってくる。すると皮膚の下で脈打つヒートの波がまたじわじわと寄せてきて、腰の奥を濡らしはじめる。

 僕は深く息を吐き、腰を持ち上げて座った姿勢で後口にローターを押し込んだ。ひやりとした感触に一瞬目をつむる。スイッチを入れるとそれは緩やかに震えはじめた。
「ん……あ……あっ」

 最近の玩具は出来がいい。音楽に合わせて体を揺らすとちょうどいいところへ先端が当たり、快感に頭がぼうっと霞む。ワイヤレスのスイッチを僕は片手で切り替え、もう片手でビキニの上から自分自身を弄んだ。足先から背中まで快楽が走り抜けていく。僕の中の小さな機械は細かな振動のパターンを繰り返した。速くなったかと思うとすごくゆっくりになり……。

 突然耳の中で音楽が消え、鋭い鈴の音が繰り返し鳴った。

 仰天した僕はローターのスイッチを取り落とした。ころころとベッドの隅に転がるのをなかば霞んだ視界で眺め、何も考えられない頭のままイヤホンに手をやる。耳に触れた途端に鈴の音が止んだ。

『えっと……三波君?』
 聞こえてきたのは少しかすれたテノールの声だ。
 僕は息を飲んだ。

「峡さん……ですか」
『ごめん、いきなり連絡して悪かったかな』
「あ、いえ……」

 僕は状況と状況の板挟みになった。峡さんが連絡をくれたという事実と、今の僕のこの――切迫した状態の間で。



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