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本編
9.川へゆく鳥
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それからほどなくして、TEN‐ZERO社内の雰囲気が劇的に変わった。
主な原因は、ベータの社員から漂っていた微妙な緊張の気配が急に薄れたせいだ。設備が変わったわけでもないのに社屋が明るくなった気がしたくらい、気楽な雰囲気が漂いはじめたのだ。
べつにこれまでのTEN‐ZEROの雰囲気が悪かったわけではない。ただ、TEN‐ZEROには新興企業にありがちな切迫感やビリビリした空気が常にあった。その空気は社内に活発な気配や適度な緊張感を与えていたが、プロジェクトのスケジュールが過密になったり、会社の周囲で不穏な出来事が起きたりすると(佐枝さんとボスをめぐる藤野谷家のゴシップがいい例だ)、緊張が行き過ぎて、キツい雰囲気を醸し出すこともあったのだ。
そうするとベータの社員からはストレスの匂いがかすかに発せられるようになる。ベータがストレスフルになるとアルファたちも影響を受ける。一見些細な齟齬やミス、行き違いが積み上がったり、悪い偶然が重なりはじめる。なのにベータの本人はなぜか自分のストレス状態に気づかず、穴を埋めようと無理を重ねることもある。
そんなときにオメガが重宝されるのだった。こういう匂いにもっとも敏感なのは僕らだし、だからベータの緊張を感じとるとなんとなく、彼らとアルファのあいだを調整するように動いてしまう。最近のビジネス本にオメガをバランスよく入れた組織を作れなどと書いてあるのはこのせいだ。
ところがそんなベータの社員たちの緊張感が急に軽くなったのである。おおもとの原因はすぐにわかった。社長だ。ボスの藤野谷さんの匂いがはっきり変化したのだ。
TEN‐ZEROはそれほど大きな会社ではないから、社長の存在感は絶対的に大きい。おかげでボスの匂いが(驚くなかれ)一日にして変わったとたん、会社全体にのしかかっていた切迫感、時に暗さを内包していた気配が消えてしまった。ベータの社員たちが眼に見えて楽になったのが(少なくともオメガの社員には)すぐに感じ取れた。
その後まもなくボスと廊下ですれちがったことがある。いまの僕は直接ボスと接点のないプロジェクトにいたし、彼は例によって忙しそうな様子で風を切って歩いていて、一度は僕に気づかない様子で通り過ぎた。ところが数メートル先で急にふりむき、うしろから大声で僕を呼びとめた。
「あ、三波!」
何をいいつけられるのかと思いながら僕はふりむいた。
「なんですか?」
「ありがとう」
そして藤野谷さんは――笑って手を振った。
満面の晴れやかな笑顔だった。僕は一瞬あっけにとられた。これまで一度も見たことのない表情だった。長いあいだ背負っていた荷物がなくなったかのような、幸福感に満たされているような……。
なるほど、と思ったものだ。あのふたりはうまくいったらしい。つがいになるとはこういうことか。
雨が多いと思った時期もあっという間で、晴れた日が数日続いたあと、いつの間にか梅雨は終わってしまったらしい。アパートの窓から見下ろした池では藻のあいだに魚の尻尾がひらひらしている。夜中にぴしゃんと跳ねる音も聞こえる。
会社の空気が明るくなったせいか、この頃は社内全体に上向きの雰囲気が漂うようになっていた。これも佐枝さんとボスがうまくいったおかげなら、社員一同は遠くから佐枝さんを拝むしかない。結婚式のようなセレモニーの計画は当分ないようだが、僕らはひそかにボスと佐枝さんへ、サプライズプレゼントの企画を立てはじめた。
そんな中、僕と峡さんとの夕食の約束はなかなか実現しなかった。今晩も僕は峡さんから届いたメッセージを確認しながら、例によって自分の部屋でビールと簡単な食事を広げている。
Saedakai:
申し訳ない、この前の話なんだけど、なかなか都合がつかなくて。
Haru3WAVE:
問題ないですよ。峡さんこそ、忙しいのに気にしないでください。
僕の方は明白に大嘘だが、他に何と返せばいいと思います? 峡さんの毎日はどんな様子なのだろう。彼はひとりでもきちんと料理をするのだろうか?
最近僕はこれまであまり興味を持たなかったレシピサイトを検索していた。分量や工程が細かく書いてあるクッキング初心者向けのサイトだ。夜はビールを片手にイヤホンで音楽を聴きながらここを精査するのが近頃の日課になっている。というのも、僕が料理に挫折した最大の原因は、むかし実家で受けた姉と次兄のレクチャーにあるかもしれないと思い至ったからだ。このふたりはすぐ「適当に」とか「塩ちょっと」などというのだが、右も左もわからない超初心者には「適当」といわれてもさっぱりなのである。
二缶目のビールを空にして、いい感じで酔っぱらったときモバイルが振動した。Saedakai ――峡さんだ。
『急に悪い。いま、時間大丈夫かな』
イヤホンから峡さんの声が聞こえる。以前と同じように落ち着いている。一方僕の心臓は急にどきどきしはじめるが、それを気取られないように、僕はつとめて普通に返事をする。
「ええ、大丈夫です」
『この前の夕食の件だけど、来週の月曜が早く出れそうだから、どうかな』
「月曜ですか?」
『週のはじめで悪いけど、三波君の都合がよければ。割烹風の居酒屋みたいなところで、すごく高級ってわけじゃないが、魚が美味くて好きなんだ』
「峡さんの好きな店ならもちろん問題ないですよ」
『そういってもらえるならありがたいね。気に入るといいが』
いやいや、きっと大丈夫だ。もちろん大丈夫だ。大丈夫なのだが……。
それなのに僕はすこし困っていた。峡さんの声が心地よく響きすぎるからだ。イヤホンで聞くからますますそう思うのかもしれない。耳の奥に届くせいで、すぐそばで峡さんがささやいているような気分になるから?
モバイルで話すときはたいていの人が不自然に声が大きくなってしまうのに、峡さんの話し方は自然だった。トーンが低すぎずクリアに聞こえるし、そこにちょっとかすれたような響きがまじるのが、そう……セクシーだった。
おい、馬鹿なことを考えるのはやめろって。
峡さんはそんな僕の焦りなどもちろん知らず、待ち合わせ場所と時間を告げると急いだ様子で通話を切った。まだ外出中らしい。
待ち合わせは月曜の夜七時、ターミナル駅の鈴の噴水前。有名な待ち合わせスポットだ。今日が水曜だからあと五日。
落ち着け、三波朋晴。僕はモバイルを片手に自分にいいきかせる。別にそこまで特別なことじゃないんだから。ただ峡さんおすすめの店に行くだけで。もちろん後で食レポを書くんだし、どんなレビューにするか、あらかじめ考えておいた方がいいかもしれない。いや、その場で考える方がいいか。それに何を着ていくか。伸びてきた髪を切った方がいいだろうか。
僕はそわそわして椅子を立ち上がり、ベッドにごろっと横になった。会社のあとだし、大袈裟なスタイルはだめだ。まともな社会人の恰好じゃないと……でもせっかく会うんだから、いつもと同じなのはいやだ。今シーズン買ったシャツでまだ着ていないのが一枚ある。時計――もちろんあの時計はつけていくとして……。
ああ、困ったな。と僕はまた思った。横になったままでベッド横に置いた棚をみつめる。うなじから背中が熱くなり、むずむずする。ヒートはまだ当分先だ。なのにこんな気分になるなんてどうかしている。酔っているせいだろうか。そこに峡さんの声を聞いたから――ああ、もう。
(三波君の都合がよければ…)
ちくしょう。
僕はがばっと起き上がって洗面所に走った。バスタオルをとってくると棚の引き出しの一番下をあける。奥から袋を引っ張り出す。中身はローションやジェルやローターなどなどの玩具類だ。先日のハウスでのあの一件以来、何年も敬遠していたこのたぐいのものを僕はついに購入してしまったのである(もちろん通販で)。
もともとディルドは家にあったが、これは僕くらいの年齢のオメガならたいていひとつは持っている。何しろ今は最初にハウスに登録する時、オメガは衛生講習を受けさせられ、緊急避妊の方法を教えられ、ビデオで自己処理の方法を見せられて、お土産に玩具を持たせてくれる時代なのだ(性教育万歳)。
でも僕はこの手のものがあまり好きになれなかった。最中はいいとしてもその後が嫌だった。片付けをしたり洗ったり、うんざりだ。でも、今日は……。
部屋を暗くして服を脱ぐ。ベッドに座った僕はもう、うんざりどころではなくなっている。耳の奥に峡さんの声が聞こえるような気がして、ローターの唸る音も気にならない。
機械が僕の中で居場所をみつけて震えた。快感の波が押し寄せて、僕は声を殺して悶えた。このアパートは壁がうすい。
(気に入るといいが)
耳もとで妄想の峡さんがささやいた。興奮しはじめると僕はすぐに濡れてしまう。前はもちろん、ローションで濡らしたうしろもそうだ。
「ん、ん、あ、あぁっ……」
すぐに僕自身のしずくがバスタオルにこぼれ、ヒートでもないのにこんなことになるなんて、と僕は思う。遊びでアルファとセックスしていたときだって同じだったはずだが、最近の僕は我ながらかなりおかしい。
(朋晴)
妄想の中で峡さんは僕を「三波君」ではなく朋晴と呼ぶ。妄想なのにひどくうしろめたかった。峡さんはこんなことを想像するだろうか? ちょっと知り合っただけのオメガの男がこんなふうに自分をオカズにするなんて。僕は峡さんの肌が自分にぴったり寄り添うのを想像する。彼のものが僕の中に入って――手が僕のペニスを握り……。
「あ―――ん、峡さん……」
僕は声を殺しながら射精するが、中の機械はまだ淫靡にうごめいて、意識は羽根でも生えたかのようなオーガズムの中を漂った。これは妄想だからと僕の内心は必死にいいわけをする。現実になることを期待しているわけじゃない。いや、期待しているのかもしれないが、あくまでも単なる期待であって、確率は――何パーセントだろう?
終わると僕はすっかりくたびれている。ヒートに入ったオメガを淫乱だといって弄るのはハウスではよく聞く睦言だが、僕はそんな戯言を本気にしたことはなかった。しかしモバイルで少し峡さんと話しただけでこんな有様になるのでは、本当に淫乱か、さもなければ条件づけられた犬みたいだ。峡さんはベータで、アルファのように匂いで圧倒したりしないのに。
あきらかに問題は僕の妄想脳だった。峡さんが僕のことをどう思っているかなどろくにわからないのに、ふわふわして舞い上がっているのだ。
週末に僕は髪を切りにいった。ついでに初心者用レシピサイトに記載された道具をいくつか買った。味を正確に整えるには計量用の調理器具をそろえるのがポイントらしい。日曜の夜は靴を磨き、ジャケットとスラックスにスチームブラシをかけた。爪を手入れしながら、これはデートじゃない、と僕はまだいいきかせていた。デートじゃない――そうなるかもしれないけど、っていうかこれが「第一回目のデート」になったらいいに決まっているが、きっとそんなのじゃない――たぶん。
翌日会社で鷹尾に会うと、彼女は変な眼つきで僕をみつめていたが、何もいってこなかった。それに僕は日中ずっと気もそぞろだったので、昼休みもろくに話さなかった。峡さんには朝のうちに連絡を送った。どうということもない、今晩はよろしくお願いしますという、それだけの連絡だ。
仕事は定時をわずかに過ぎた程度で切り上げた。出る前にトイレで手と顔を洗って髪を撫でつけ、待ち合わせの駅へついたのは十五分前だった。すこし早すぎたと思ったが、コーヒーショップに入って待つほどでもない。僕はイヤホンを耳に入れたまま待ち合わせ場所の近くへと歩いた。
鈴の噴水は駅を出てすぐの丸い広場の中央にあり、囲むようにベンチが並んでいる。すぐ近くに劇場があり、開場前の時間をつぶしている人も多い。噴水のてっぺんにはカリヨンが据えられ、毎時ぴったりに鳴るしかけだ。僕は隅のベンチに座り、音楽を聴きながら待つ。
ベンチには僕と同じようにあたりをみたり、ちらちら時計を眺めながら座っている人が何人もいた。もっとも僕はこんな風に誰かと待ち合わせをするのは久しぶりだった。ハウスで知り合ったアルファと二度目にデートするときは同じハウスで会えばよく、いちいち外で待ち合わせる必要がない。
イヤホンの曲が二度変わったあと、僕は不安になって時計をみた。あと一分。まだ七時じゃない。噴水の周囲に人が集まっている。水の噴射が一度止まったと思うとカリヨンが響きはじめた。同時にブルーとグリーンのライトアップがはじまった。カリヨンの音にあわせて水が吹き、小さなしぶきがベンチの僕まで跳んできた。
七時だ。僕は立ち上がり、イヤホンの音楽を止めてあたりを見回した。立って噴水に注目する人の群れにも、その外にも峡さんは見当たらなかった。
鐘の音が止み、あたりを照らす光が通常の白っぽい照明に戻る。峡さんの姿はまだ見えない。僕はジャケットの袖をまくっていらいらと時計を見る。薔薇の留め具が指に触れる。ひやりとする。七時五分。
僕は何か間違えただろうか。彼はそこにいるのに見落としている? モバイルをたしかめたが連絡は来ていない。中腰になってきょろきょろしていると背の高い男が視界に入った。噴水を囲むベンチの向こうに立っている。三十代くらいのアルファで、ビジネススーツ。
強い視線を感じた。僕を見ている。眼を合わせないように体を傾けたとき、男の影に隠れていた人が見えた。
峡さんだ。
主な原因は、ベータの社員から漂っていた微妙な緊張の気配が急に薄れたせいだ。設備が変わったわけでもないのに社屋が明るくなった気がしたくらい、気楽な雰囲気が漂いはじめたのだ。
べつにこれまでのTEN‐ZEROの雰囲気が悪かったわけではない。ただ、TEN‐ZEROには新興企業にありがちな切迫感やビリビリした空気が常にあった。その空気は社内に活発な気配や適度な緊張感を与えていたが、プロジェクトのスケジュールが過密になったり、会社の周囲で不穏な出来事が起きたりすると(佐枝さんとボスをめぐる藤野谷家のゴシップがいい例だ)、緊張が行き過ぎて、キツい雰囲気を醸し出すこともあったのだ。
そうするとベータの社員からはストレスの匂いがかすかに発せられるようになる。ベータがストレスフルになるとアルファたちも影響を受ける。一見些細な齟齬やミス、行き違いが積み上がったり、悪い偶然が重なりはじめる。なのにベータの本人はなぜか自分のストレス状態に気づかず、穴を埋めようと無理を重ねることもある。
そんなときにオメガが重宝されるのだった。こういう匂いにもっとも敏感なのは僕らだし、だからベータの緊張を感じとるとなんとなく、彼らとアルファのあいだを調整するように動いてしまう。最近のビジネス本にオメガをバランスよく入れた組織を作れなどと書いてあるのはこのせいだ。
ところがそんなベータの社員たちの緊張感が急に軽くなったのである。おおもとの原因はすぐにわかった。社長だ。ボスの藤野谷さんの匂いがはっきり変化したのだ。
TEN‐ZEROはそれほど大きな会社ではないから、社長の存在感は絶対的に大きい。おかげでボスの匂いが(驚くなかれ)一日にして変わったとたん、会社全体にのしかかっていた切迫感、時に暗さを内包していた気配が消えてしまった。ベータの社員たちが眼に見えて楽になったのが(少なくともオメガの社員には)すぐに感じ取れた。
その後まもなくボスと廊下ですれちがったことがある。いまの僕は直接ボスと接点のないプロジェクトにいたし、彼は例によって忙しそうな様子で風を切って歩いていて、一度は僕に気づかない様子で通り過ぎた。ところが数メートル先で急にふりむき、うしろから大声で僕を呼びとめた。
「あ、三波!」
何をいいつけられるのかと思いながら僕はふりむいた。
「なんですか?」
「ありがとう」
そして藤野谷さんは――笑って手を振った。
満面の晴れやかな笑顔だった。僕は一瞬あっけにとられた。これまで一度も見たことのない表情だった。長いあいだ背負っていた荷物がなくなったかのような、幸福感に満たされているような……。
なるほど、と思ったものだ。あのふたりはうまくいったらしい。つがいになるとはこういうことか。
雨が多いと思った時期もあっという間で、晴れた日が数日続いたあと、いつの間にか梅雨は終わってしまったらしい。アパートの窓から見下ろした池では藻のあいだに魚の尻尾がひらひらしている。夜中にぴしゃんと跳ねる音も聞こえる。
会社の空気が明るくなったせいか、この頃は社内全体に上向きの雰囲気が漂うようになっていた。これも佐枝さんとボスがうまくいったおかげなら、社員一同は遠くから佐枝さんを拝むしかない。結婚式のようなセレモニーの計画は当分ないようだが、僕らはひそかにボスと佐枝さんへ、サプライズプレゼントの企画を立てはじめた。
そんな中、僕と峡さんとの夕食の約束はなかなか実現しなかった。今晩も僕は峡さんから届いたメッセージを確認しながら、例によって自分の部屋でビールと簡単な食事を広げている。
Saedakai:
申し訳ない、この前の話なんだけど、なかなか都合がつかなくて。
Haru3WAVE:
問題ないですよ。峡さんこそ、忙しいのに気にしないでください。
僕の方は明白に大嘘だが、他に何と返せばいいと思います? 峡さんの毎日はどんな様子なのだろう。彼はひとりでもきちんと料理をするのだろうか?
最近僕はこれまであまり興味を持たなかったレシピサイトを検索していた。分量や工程が細かく書いてあるクッキング初心者向けのサイトだ。夜はビールを片手にイヤホンで音楽を聴きながらここを精査するのが近頃の日課になっている。というのも、僕が料理に挫折した最大の原因は、むかし実家で受けた姉と次兄のレクチャーにあるかもしれないと思い至ったからだ。このふたりはすぐ「適当に」とか「塩ちょっと」などというのだが、右も左もわからない超初心者には「適当」といわれてもさっぱりなのである。
二缶目のビールを空にして、いい感じで酔っぱらったときモバイルが振動した。Saedakai ――峡さんだ。
『急に悪い。いま、時間大丈夫かな』
イヤホンから峡さんの声が聞こえる。以前と同じように落ち着いている。一方僕の心臓は急にどきどきしはじめるが、それを気取られないように、僕はつとめて普通に返事をする。
「ええ、大丈夫です」
『この前の夕食の件だけど、来週の月曜が早く出れそうだから、どうかな』
「月曜ですか?」
『週のはじめで悪いけど、三波君の都合がよければ。割烹風の居酒屋みたいなところで、すごく高級ってわけじゃないが、魚が美味くて好きなんだ』
「峡さんの好きな店ならもちろん問題ないですよ」
『そういってもらえるならありがたいね。気に入るといいが』
いやいや、きっと大丈夫だ。もちろん大丈夫だ。大丈夫なのだが……。
それなのに僕はすこし困っていた。峡さんの声が心地よく響きすぎるからだ。イヤホンで聞くからますますそう思うのかもしれない。耳の奥に届くせいで、すぐそばで峡さんがささやいているような気分になるから?
モバイルで話すときはたいていの人が不自然に声が大きくなってしまうのに、峡さんの話し方は自然だった。トーンが低すぎずクリアに聞こえるし、そこにちょっとかすれたような響きがまじるのが、そう……セクシーだった。
おい、馬鹿なことを考えるのはやめろって。
峡さんはそんな僕の焦りなどもちろん知らず、待ち合わせ場所と時間を告げると急いだ様子で通話を切った。まだ外出中らしい。
待ち合わせは月曜の夜七時、ターミナル駅の鈴の噴水前。有名な待ち合わせスポットだ。今日が水曜だからあと五日。
落ち着け、三波朋晴。僕はモバイルを片手に自分にいいきかせる。別にそこまで特別なことじゃないんだから。ただ峡さんおすすめの店に行くだけで。もちろん後で食レポを書くんだし、どんなレビューにするか、あらかじめ考えておいた方がいいかもしれない。いや、その場で考える方がいいか。それに何を着ていくか。伸びてきた髪を切った方がいいだろうか。
僕はそわそわして椅子を立ち上がり、ベッドにごろっと横になった。会社のあとだし、大袈裟なスタイルはだめだ。まともな社会人の恰好じゃないと……でもせっかく会うんだから、いつもと同じなのはいやだ。今シーズン買ったシャツでまだ着ていないのが一枚ある。時計――もちろんあの時計はつけていくとして……。
ああ、困ったな。と僕はまた思った。横になったままでベッド横に置いた棚をみつめる。うなじから背中が熱くなり、むずむずする。ヒートはまだ当分先だ。なのにこんな気分になるなんてどうかしている。酔っているせいだろうか。そこに峡さんの声を聞いたから――ああ、もう。
(三波君の都合がよければ…)
ちくしょう。
僕はがばっと起き上がって洗面所に走った。バスタオルをとってくると棚の引き出しの一番下をあける。奥から袋を引っ張り出す。中身はローションやジェルやローターなどなどの玩具類だ。先日のハウスでのあの一件以来、何年も敬遠していたこのたぐいのものを僕はついに購入してしまったのである(もちろん通販で)。
もともとディルドは家にあったが、これは僕くらいの年齢のオメガならたいていひとつは持っている。何しろ今は最初にハウスに登録する時、オメガは衛生講習を受けさせられ、緊急避妊の方法を教えられ、ビデオで自己処理の方法を見せられて、お土産に玩具を持たせてくれる時代なのだ(性教育万歳)。
でも僕はこの手のものがあまり好きになれなかった。最中はいいとしてもその後が嫌だった。片付けをしたり洗ったり、うんざりだ。でも、今日は……。
部屋を暗くして服を脱ぐ。ベッドに座った僕はもう、うんざりどころではなくなっている。耳の奥に峡さんの声が聞こえるような気がして、ローターの唸る音も気にならない。
機械が僕の中で居場所をみつけて震えた。快感の波が押し寄せて、僕は声を殺して悶えた。このアパートは壁がうすい。
(気に入るといいが)
耳もとで妄想の峡さんがささやいた。興奮しはじめると僕はすぐに濡れてしまう。前はもちろん、ローションで濡らしたうしろもそうだ。
「ん、ん、あ、あぁっ……」
すぐに僕自身のしずくがバスタオルにこぼれ、ヒートでもないのにこんなことになるなんて、と僕は思う。遊びでアルファとセックスしていたときだって同じだったはずだが、最近の僕は我ながらかなりおかしい。
(朋晴)
妄想の中で峡さんは僕を「三波君」ではなく朋晴と呼ぶ。妄想なのにひどくうしろめたかった。峡さんはこんなことを想像するだろうか? ちょっと知り合っただけのオメガの男がこんなふうに自分をオカズにするなんて。僕は峡さんの肌が自分にぴったり寄り添うのを想像する。彼のものが僕の中に入って――手が僕のペニスを握り……。
「あ―――ん、峡さん……」
僕は声を殺しながら射精するが、中の機械はまだ淫靡にうごめいて、意識は羽根でも生えたかのようなオーガズムの中を漂った。これは妄想だからと僕の内心は必死にいいわけをする。現実になることを期待しているわけじゃない。いや、期待しているのかもしれないが、あくまでも単なる期待であって、確率は――何パーセントだろう?
終わると僕はすっかりくたびれている。ヒートに入ったオメガを淫乱だといって弄るのはハウスではよく聞く睦言だが、僕はそんな戯言を本気にしたことはなかった。しかしモバイルで少し峡さんと話しただけでこんな有様になるのでは、本当に淫乱か、さもなければ条件づけられた犬みたいだ。峡さんはベータで、アルファのように匂いで圧倒したりしないのに。
あきらかに問題は僕の妄想脳だった。峡さんが僕のことをどう思っているかなどろくにわからないのに、ふわふわして舞い上がっているのだ。
週末に僕は髪を切りにいった。ついでに初心者用レシピサイトに記載された道具をいくつか買った。味を正確に整えるには計量用の調理器具をそろえるのがポイントらしい。日曜の夜は靴を磨き、ジャケットとスラックスにスチームブラシをかけた。爪を手入れしながら、これはデートじゃない、と僕はまだいいきかせていた。デートじゃない――そうなるかもしれないけど、っていうかこれが「第一回目のデート」になったらいいに決まっているが、きっとそんなのじゃない――たぶん。
翌日会社で鷹尾に会うと、彼女は変な眼つきで僕をみつめていたが、何もいってこなかった。それに僕は日中ずっと気もそぞろだったので、昼休みもろくに話さなかった。峡さんには朝のうちに連絡を送った。どうということもない、今晩はよろしくお願いしますという、それだけの連絡だ。
仕事は定時をわずかに過ぎた程度で切り上げた。出る前にトイレで手と顔を洗って髪を撫でつけ、待ち合わせの駅へついたのは十五分前だった。すこし早すぎたと思ったが、コーヒーショップに入って待つほどでもない。僕はイヤホンを耳に入れたまま待ち合わせ場所の近くへと歩いた。
鈴の噴水は駅を出てすぐの丸い広場の中央にあり、囲むようにベンチが並んでいる。すぐ近くに劇場があり、開場前の時間をつぶしている人も多い。噴水のてっぺんにはカリヨンが据えられ、毎時ぴったりに鳴るしかけだ。僕は隅のベンチに座り、音楽を聴きながら待つ。
ベンチには僕と同じようにあたりをみたり、ちらちら時計を眺めながら座っている人が何人もいた。もっとも僕はこんな風に誰かと待ち合わせをするのは久しぶりだった。ハウスで知り合ったアルファと二度目にデートするときは同じハウスで会えばよく、いちいち外で待ち合わせる必要がない。
イヤホンの曲が二度変わったあと、僕は不安になって時計をみた。あと一分。まだ七時じゃない。噴水の周囲に人が集まっている。水の噴射が一度止まったと思うとカリヨンが響きはじめた。同時にブルーとグリーンのライトアップがはじまった。カリヨンの音にあわせて水が吹き、小さなしぶきがベンチの僕まで跳んできた。
七時だ。僕は立ち上がり、イヤホンの音楽を止めてあたりを見回した。立って噴水に注目する人の群れにも、その外にも峡さんは見当たらなかった。
鐘の音が止み、あたりを照らす光が通常の白っぽい照明に戻る。峡さんの姿はまだ見えない。僕はジャケットの袖をまくっていらいらと時計を見る。薔薇の留め具が指に触れる。ひやりとする。七時五分。
僕は何か間違えただろうか。彼はそこにいるのに見落としている? モバイルをたしかめたが連絡は来ていない。中腰になってきょろきょろしていると背の高い男が視界に入った。噴水を囲むベンチの向こうに立っている。三十代くらいのアルファで、ビジネススーツ。
強い視線を感じた。僕を見ている。眼を合わせないように体を傾けたとき、男の影に隠れていた人が見えた。
峡さんだ。
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