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本編
17.夕暮れの猫
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『三波、急に悪い。俺の家のネットワーク設定のことなんだけど……』
サプライズパーティの翌週、珍しく佐枝さんから連絡があった。
僕は会社からアパートに帰ったばかりだった。今週はひどい暑さで、帰宅時には連日、アパートの入口に大家さんの猫がだらりと寝そべっている(寝そべるのにちょうどいい冷たいタイルがあるらしい)。僕も部屋に戻るなり、エアコンの真下に寝そべって日本を覆う太平洋高気圧を呪っていたところだった。佐枝さんから連絡があるのは珍しいから、焦ってモバイルをひっつかむ。
「家って……何かトラブルでもありました?」
佐枝さんの家というのは、ボスと同居する前に佐枝さんが住んでいた郊外の家のことだ。丘陵地帯に林や畑が点在するのどかな場所にあって、二度ばかりお邪魔した。最初に訪問したのは会社の都合で、佐枝さんもチームの一員だったTEN‐ZEROのプロジェクトに必要な機材を設置するためだった。
『いや、引っ越すんだ』佐枝さんの声は明るかった。『中古の家を買うことになって――というかもう藤野谷が買ったんだが、そこに俺の元の家に置きっぱなしの家財も運ぶことになってる。で、実はまえに藤野谷のマンションへ、元の家から少し物を移した時、三波にセッティングしてもらった機械が再設定できなかったんだ』
「佐枝さん――」僕はすこし呆れた。
「それもっと早くいってくださいよ」
『いや、いちいち三波に頼むのは悪いなと思って――結局そのままだったけど。だから今回引っ越した後、都合のいいときに一度見てもらいたいんだけど、どうかな』
「かまいませんよ」
僕は即答した。中古の家というのが意外だった。ボス――藤野谷家の財力をもってすれば、家なんて土地からとことんこだわり物件を建てそうなものだ。特に佐枝さんのためとあっては。
「どの辺に引っ越すんですか? いつ?」
『来週の水曜日。住所は――』
佐枝さんは昔ながらの高級住宅地の番地をいった。
『メールで送っておくよ。三波の都合がつく時でいいから』
「いえ、早めに行きますよ」
『気をつかうなよ』
「申し訳ないんですが、つかってません。ただの野次馬です」
『あ、そう』
佐枝さんはからかうような声をあげる。そっけないのはふざけているのだ。僕はたずねた。
「こんな暑い中で引越なんて大変じゃないですか? 機材の件じゃなくても手伝いますよ」
『引越自体はほとんど業者がやるから、当日は楽なんだ。俺はいま各種書類手続きで唸ってるけど』
「それは替われませんけど、引越祝いの希望があればどうぞ」
佐枝さんの息が電話口でふふっと漏れた。
『もうたくさん貰ったよ。みんなのサプライズで十分だ。ありがとう』
運命のつがいと呼ばれるアルファとオメガは、出会った瞬間にそれとわかるらしい。抗いがたい匂いや感覚で惹きあうのだそうだ。過去数十年の科学研究で、この現象はホルモンの型が一致したペアに起きることがわかったという。
マンガやアニメや小説に〈運命のつがい〉はホイホイ登場する。しかし実際はそんなにいないはずだ。僕が知っている実例は佐枝さんとボスだけで、僕自身も「運命」なんてどこかのアルファに感じたことはないし、これから出会うとも思っていない。
それにもし〈運命のつがい〉がいたとしても、生理的な偶然で拒否できないような関係は、実はものすごく辛いんじゃないだろうか。実際ボスと佐枝さんは何年もの間、とても苦しかったようだから。
でもそんな二人がいまやこうして落ち着いているのなら、それも運命、というか、だからこそ運命なのかなぁ……などと、通話を終えた僕はぼんやり考えていた。おまけに彼らの「運命」がなければ、僕が峡さんに会うこともなかったかもしれない。
僕は天井の壁紙を眺めながら、家を買ったとあっさり話す佐枝さんの声を思い返した。実家を出てからアパート暮らしの僕には家を買うなんて早々思いつきもしないことだ。だいたい、いま他のアパートへ引っ越せといわれただけでも面倒くささに拒否するだろう。こんなに素早く動けるなんて、ボスも佐枝さんもフットワークが軽い。
そう考えるとがぜん好奇心が湧いてきた。中古の家ってどんなものだろう? そこに佐枝さんのアトリエも作るのだろうか。
どうせなら早くのぞいてみたい――そう思った時またモバイルが鳴った。最近電話が鳴ることが多いのだ。峡さんの声を期待してモバイルをとったが、ハズレだった。画面にあらわれたのは「桜本秀哉」。僕の昔馴染みだ。
出るか、出られないふりをするか。僕は迷った。
秀哉と最後に話したのはまだ佐枝さんが病院にいたころだった。あれから不在着信が何度かあったが、僕はかけ直しもせずに放置していた。
なんとなく嫌な予感がしたが、出なければ出ないで、あいつは何度もかけてくるだろう。迷っているあいだもコールが続いた。自動応答に切り替わる直前、僕は画面をタップした。
『朋晴』
「久しぶり。何?」
軽い吐息が聞こえた。ためいきとも苦笑ともとれた。
『何はないだろう。心配していたんだ。元気か?』
「ああ、何度か連絡もらっていたね。元気だよ」
『あれから落ち着いているのか? いろいろ。それを……聞きたくてさ』
「もう何もないよ。マスコミも忘れたようだ」
内心うんざりしたが、僕はできるだけ普通に答えた。短期間とはいえボスと付き合っていたばっかりに、学生時代の僕の悪行(これは昌行のリークだ)やその他のプライベートをマスコミに暴かれた一件は、今ではほとんど終わっていた。そもそもこれに関しては僕はメインディッシュですらない。藤野谷家の騒動のオマケに過ぎないのだ。
『マスコミはそうかもしれないが、北斗は?』
そう来るだろうな、と思った。秀哉の目的はむしろこっちだろう。
「昌行も大丈夫だよ」
『本当か? あいつは前から朋晴にいろいろ――』
「それはおまえも同じだろ」
僕は軽い調子で遮った。
「だいたいおまえも昌行も昔からおせっかいすぎるんだ。昌行のおせっかいは近年ちがう方向にいっちゃったけどさ。誰だって魔がさすこともあるだろうが、いまやみんな立派な社会人なんだぜ。秀哉もいちいち僕を助けに走ってこなくていい」
『そういっても――こっちは責任を感じてる』
「責任って、何に」
『何にって……何となく。俺はずっと』
「僕はその話はしない」
僕は秀哉の声をさえぎった。あきらかに話は僕が望んでいない方向へ進んでいたからだ。
『朋晴』
「あのなあ、秀哉。何回も話しただろう。あの時だけじゃない」
自然と声が大きくなったのに気づき、僕はあわてて口調を弱める。
「おまえのことはランドセル背負ってたころから知ってるんだ。いくらアルファだオメガだっていっても、そんな風には思えない」
モバイルの向こう側が沈黙した。
「だいたい昌行とこじれたのだって、秀哉が誤解されるようなことをするから――」
即座に低い声がつぶやいた。
『あれは誤解じゃなかった。今もそうかもしれない』
「僕にとっては誤解だよ。ぜんぶ」
だんだん腹が立ってきた。学生時代から何年も経ったというのに、どうしていまだに僕はこんな会話をしているんだろう。何年も前に決着をつけたはずなのだ。だからこそ僕は秀哉とまだ友達だと(これでも)思っているというのに。
子供の頃はそんな素振りなどまったくなかったのに、高校に入ってから僕のオメガ性が成熟していくにつれ、秀哉は僕を「自分のオメガ」のように扱おうとした。既成事実でもあるかのように、僕のことをわかっているのは自分だけだとでもいうように。僕はそんな秀哉に腹を立て、何度か本格的な喧嘩もした。
間にいたのはいつも昌行だ。少なくとも僕はそう思っていた。昌行がいるおかげで、僕らはなんだかんだいっても友情を保っていられるのだと。あいにくと僕は、昌行と僕――あるいは昌行と秀哉――の関係が別の意味でこじれていたことに気づかなかった。
「何度もいうけど、僕にとっては完全に誤解だし、今はおまえに構っている場合じゃないんだ」
『朋晴』
「この話をするならもう切るよ」
『待てよ』
秀哉は低い声でいった。僕はため息をついた。彼がこんな風に食い下がってくる様子は小学生のころと変わらないが、今の声色にはアルファの調子があった。高圧的で、有無をいわせない、あの感じ。
「なに」
うんざりした僕の声の響きはモバイル経由で秀哉へぶつかり、そこに彼は何を読み取ったのだろう。返事は質問で戻ってきた。
『今は誰かいるのか。おまえのアルファ』
誰か?
いたとしてもアルファじゃない。口から出かかった言葉を僕は飲みこむ。
「いるよ。じゃあな」
それだけ答えて通話を切った。
時計をみると佐枝さんと話してからそれほど時間は経っていない。なのに疲れた気分だった。夜になっても外気温が高いのでエアコンはずっと轟音を立てっぱなしだ。今晩はそうめんを茹でるつもりだった。やけどにさえ気をつければ、そうめんは夏場の料理初心者にとって救いの神である。なのにもう気力が失せたとくる。
あきらめて、とりあえず冷えた缶ビールを冷蔵庫から出してプルタブを引く。と、またモバイルの着信が光った。
Saedakai:
こんばんは。今日は暑いね。
僕はビールにむせそうになった。
メッセージを返信するつもりだったのに、焦ってモバイルを弄っているうちに僕は受話器のアイコンをタップしていた。一度目のコール音を聞いたとき、僕からこんな風に峡さんへ電話するなんて初めてじゃないか、という思いが浮かんだ。またも僕は焦った。やばい。どうしよう。
『もしもし』
とっくに聞きなれたはずなのに、峡さんの声の響きにどきっとする。いったいどういう魔法なんだろう。言葉を返すタイミングを失った僕に峡さんは追い打ちをかけるように『朋晴?』と呼ぶ。
「は、はい」僕はあわてて答える。
「いきなり電話してすみません。今って……大丈夫ですか?」
いつも峡さんから電話がかかってくるのはもう少し遅い時間だ。案の定モバイルのスピーカーからは雑踏のような荒い音が鳴り響き、峡さんは『まだ帰ってないんだ。電車を待っていたから』といった。
「すみません」僕はさらにあわてた。
「また後でかけなお――いや、メッセ送ります」
『まさか、切らないで。何かあった?』
いえ、何も。ただ峡さんの声を聞きたかっただけだと思います――なんてセリフ、吐けるわけないじゃないか。まして秀哉のことなんて。
僕は大慌てで話題をさがし、はたと思いついた。
「零さんから引っ越すって連絡をもらったんですけど」
モバイルの向こうからはガタンゴトンと大きな音が響く。峡さんの声はいつもより少し大きめだ。
『俺も聞いたよ。来週だって?』
「峡さんは手伝いに行ったりするんですか?」
スピーカーから軽い笑い声が響いた。自嘲するような響きを感じたのは気のせいだろうか。
『正直気になるんだが、いいかげん過保護なのはやめようと思ってね』
駅のアナウンスらしい雑音がまた響く。
『それにその日の夜は佐井本家に頼まれた用事がある。行ったとしても夕方様子を見にすこし寄る程度だな。そのまま車で銀星を迎えにいくから』
佐井本家は佐枝さんの産みの親の実家だ。あまり知られていない名族のひとつで、佐枝さんは佐井家から佐枝家へ養子に出された。佐枝家は長年佐井家に仕えている一家なのだという。
「峡さん、あの――」
僕はじっくり考えもせず口走った。軽率な発言をするのは暑さのせいだ。今週の気温が悪いのだ。
「零さんの様子をみにいくなら、僕と一緒に行きませんか。夕方なら時間は合わせられると思います」
もちろんこんなセリフが出たのは直前の秀哉との会話でモヤモヤが溜まっていたせいだろう。とはいえこれだけではあまりにも唐突すぎるかも――と、僕はあわてて言い訳をでっちあげる。
「零さんに、引越のついでに以前設定した機材を見てくれって頼まれているんです」
本当は引越当日はそこまでの余裕はないだろうから、これは罪のない嘘というか方便というか、そういうことになるわけだが。
幸い、峡さんはそんな僕のこずるい内心には気づかないでくれたらしい。ひとりごとのように『一緒なら単に過保護というわけでもないか』とつぶやく声を僕は聞いた。
『ただ――車なんだ。TEN‐ZEROの前で朋晴を拾ってもいい?』
「全然問題ないです!」
ほっとしたのと嬉しいのとで、僕の返事はほとんど叫ぶような勢いになっていたと思う。
「ありがとうございます」
『いやこちらこそ――過保護に言い訳をくれてありがとう』
峡さんはそういって、また軽い笑い声を立てた。
サプライズパーティの翌週、珍しく佐枝さんから連絡があった。
僕は会社からアパートに帰ったばかりだった。今週はひどい暑さで、帰宅時には連日、アパートの入口に大家さんの猫がだらりと寝そべっている(寝そべるのにちょうどいい冷たいタイルがあるらしい)。僕も部屋に戻るなり、エアコンの真下に寝そべって日本を覆う太平洋高気圧を呪っていたところだった。佐枝さんから連絡があるのは珍しいから、焦ってモバイルをひっつかむ。
「家って……何かトラブルでもありました?」
佐枝さんの家というのは、ボスと同居する前に佐枝さんが住んでいた郊外の家のことだ。丘陵地帯に林や畑が点在するのどかな場所にあって、二度ばかりお邪魔した。最初に訪問したのは会社の都合で、佐枝さんもチームの一員だったTEN‐ZEROのプロジェクトに必要な機材を設置するためだった。
『いや、引っ越すんだ』佐枝さんの声は明るかった。『中古の家を買うことになって――というかもう藤野谷が買ったんだが、そこに俺の元の家に置きっぱなしの家財も運ぶことになってる。で、実はまえに藤野谷のマンションへ、元の家から少し物を移した時、三波にセッティングしてもらった機械が再設定できなかったんだ』
「佐枝さん――」僕はすこし呆れた。
「それもっと早くいってくださいよ」
『いや、いちいち三波に頼むのは悪いなと思って――結局そのままだったけど。だから今回引っ越した後、都合のいいときに一度見てもらいたいんだけど、どうかな』
「かまいませんよ」
僕は即答した。中古の家というのが意外だった。ボス――藤野谷家の財力をもってすれば、家なんて土地からとことんこだわり物件を建てそうなものだ。特に佐枝さんのためとあっては。
「どの辺に引っ越すんですか? いつ?」
『来週の水曜日。住所は――』
佐枝さんは昔ながらの高級住宅地の番地をいった。
『メールで送っておくよ。三波の都合がつく時でいいから』
「いえ、早めに行きますよ」
『気をつかうなよ』
「申し訳ないんですが、つかってません。ただの野次馬です」
『あ、そう』
佐枝さんはからかうような声をあげる。そっけないのはふざけているのだ。僕はたずねた。
「こんな暑い中で引越なんて大変じゃないですか? 機材の件じゃなくても手伝いますよ」
『引越自体はほとんど業者がやるから、当日は楽なんだ。俺はいま各種書類手続きで唸ってるけど』
「それは替われませんけど、引越祝いの希望があればどうぞ」
佐枝さんの息が電話口でふふっと漏れた。
『もうたくさん貰ったよ。みんなのサプライズで十分だ。ありがとう』
運命のつがいと呼ばれるアルファとオメガは、出会った瞬間にそれとわかるらしい。抗いがたい匂いや感覚で惹きあうのだそうだ。過去数十年の科学研究で、この現象はホルモンの型が一致したペアに起きることがわかったという。
マンガやアニメや小説に〈運命のつがい〉はホイホイ登場する。しかし実際はそんなにいないはずだ。僕が知っている実例は佐枝さんとボスだけで、僕自身も「運命」なんてどこかのアルファに感じたことはないし、これから出会うとも思っていない。
それにもし〈運命のつがい〉がいたとしても、生理的な偶然で拒否できないような関係は、実はものすごく辛いんじゃないだろうか。実際ボスと佐枝さんは何年もの間、とても苦しかったようだから。
でもそんな二人がいまやこうして落ち着いているのなら、それも運命、というか、だからこそ運命なのかなぁ……などと、通話を終えた僕はぼんやり考えていた。おまけに彼らの「運命」がなければ、僕が峡さんに会うこともなかったかもしれない。
僕は天井の壁紙を眺めながら、家を買ったとあっさり話す佐枝さんの声を思い返した。実家を出てからアパート暮らしの僕には家を買うなんて早々思いつきもしないことだ。だいたい、いま他のアパートへ引っ越せといわれただけでも面倒くささに拒否するだろう。こんなに素早く動けるなんて、ボスも佐枝さんもフットワークが軽い。
そう考えるとがぜん好奇心が湧いてきた。中古の家ってどんなものだろう? そこに佐枝さんのアトリエも作るのだろうか。
どうせなら早くのぞいてみたい――そう思った時またモバイルが鳴った。最近電話が鳴ることが多いのだ。峡さんの声を期待してモバイルをとったが、ハズレだった。画面にあらわれたのは「桜本秀哉」。僕の昔馴染みだ。
出るか、出られないふりをするか。僕は迷った。
秀哉と最後に話したのはまだ佐枝さんが病院にいたころだった。あれから不在着信が何度かあったが、僕はかけ直しもせずに放置していた。
なんとなく嫌な予感がしたが、出なければ出ないで、あいつは何度もかけてくるだろう。迷っているあいだもコールが続いた。自動応答に切り替わる直前、僕は画面をタップした。
『朋晴』
「久しぶり。何?」
軽い吐息が聞こえた。ためいきとも苦笑ともとれた。
『何はないだろう。心配していたんだ。元気か?』
「ああ、何度か連絡もらっていたね。元気だよ」
『あれから落ち着いているのか? いろいろ。それを……聞きたくてさ』
「もう何もないよ。マスコミも忘れたようだ」
内心うんざりしたが、僕はできるだけ普通に答えた。短期間とはいえボスと付き合っていたばっかりに、学生時代の僕の悪行(これは昌行のリークだ)やその他のプライベートをマスコミに暴かれた一件は、今ではほとんど終わっていた。そもそもこれに関しては僕はメインディッシュですらない。藤野谷家の騒動のオマケに過ぎないのだ。
『マスコミはそうかもしれないが、北斗は?』
そう来るだろうな、と思った。秀哉の目的はむしろこっちだろう。
「昌行も大丈夫だよ」
『本当か? あいつは前から朋晴にいろいろ――』
「それはおまえも同じだろ」
僕は軽い調子で遮った。
「だいたいおまえも昌行も昔からおせっかいすぎるんだ。昌行のおせっかいは近年ちがう方向にいっちゃったけどさ。誰だって魔がさすこともあるだろうが、いまやみんな立派な社会人なんだぜ。秀哉もいちいち僕を助けに走ってこなくていい」
『そういっても――こっちは責任を感じてる』
「責任って、何に」
『何にって……何となく。俺はずっと』
「僕はその話はしない」
僕は秀哉の声をさえぎった。あきらかに話は僕が望んでいない方向へ進んでいたからだ。
『朋晴』
「あのなあ、秀哉。何回も話しただろう。あの時だけじゃない」
自然と声が大きくなったのに気づき、僕はあわてて口調を弱める。
「おまえのことはランドセル背負ってたころから知ってるんだ。いくらアルファだオメガだっていっても、そんな風には思えない」
モバイルの向こう側が沈黙した。
「だいたい昌行とこじれたのだって、秀哉が誤解されるようなことをするから――」
即座に低い声がつぶやいた。
『あれは誤解じゃなかった。今もそうかもしれない』
「僕にとっては誤解だよ。ぜんぶ」
だんだん腹が立ってきた。学生時代から何年も経ったというのに、どうしていまだに僕はこんな会話をしているんだろう。何年も前に決着をつけたはずなのだ。だからこそ僕は秀哉とまだ友達だと(これでも)思っているというのに。
子供の頃はそんな素振りなどまったくなかったのに、高校に入ってから僕のオメガ性が成熟していくにつれ、秀哉は僕を「自分のオメガ」のように扱おうとした。既成事実でもあるかのように、僕のことをわかっているのは自分だけだとでもいうように。僕はそんな秀哉に腹を立て、何度か本格的な喧嘩もした。
間にいたのはいつも昌行だ。少なくとも僕はそう思っていた。昌行がいるおかげで、僕らはなんだかんだいっても友情を保っていられるのだと。あいにくと僕は、昌行と僕――あるいは昌行と秀哉――の関係が別の意味でこじれていたことに気づかなかった。
「何度もいうけど、僕にとっては完全に誤解だし、今はおまえに構っている場合じゃないんだ」
『朋晴』
「この話をするならもう切るよ」
『待てよ』
秀哉は低い声でいった。僕はため息をついた。彼がこんな風に食い下がってくる様子は小学生のころと変わらないが、今の声色にはアルファの調子があった。高圧的で、有無をいわせない、あの感じ。
「なに」
うんざりした僕の声の響きはモバイル経由で秀哉へぶつかり、そこに彼は何を読み取ったのだろう。返事は質問で戻ってきた。
『今は誰かいるのか。おまえのアルファ』
誰か?
いたとしてもアルファじゃない。口から出かかった言葉を僕は飲みこむ。
「いるよ。じゃあな」
それだけ答えて通話を切った。
時計をみると佐枝さんと話してからそれほど時間は経っていない。なのに疲れた気分だった。夜になっても外気温が高いのでエアコンはずっと轟音を立てっぱなしだ。今晩はそうめんを茹でるつもりだった。やけどにさえ気をつければ、そうめんは夏場の料理初心者にとって救いの神である。なのにもう気力が失せたとくる。
あきらめて、とりあえず冷えた缶ビールを冷蔵庫から出してプルタブを引く。と、またモバイルの着信が光った。
Saedakai:
こんばんは。今日は暑いね。
僕はビールにむせそうになった。
メッセージを返信するつもりだったのに、焦ってモバイルを弄っているうちに僕は受話器のアイコンをタップしていた。一度目のコール音を聞いたとき、僕からこんな風に峡さんへ電話するなんて初めてじゃないか、という思いが浮かんだ。またも僕は焦った。やばい。どうしよう。
『もしもし』
とっくに聞きなれたはずなのに、峡さんの声の響きにどきっとする。いったいどういう魔法なんだろう。言葉を返すタイミングを失った僕に峡さんは追い打ちをかけるように『朋晴?』と呼ぶ。
「は、はい」僕はあわてて答える。
「いきなり電話してすみません。今って……大丈夫ですか?」
いつも峡さんから電話がかかってくるのはもう少し遅い時間だ。案の定モバイルのスピーカーからは雑踏のような荒い音が鳴り響き、峡さんは『まだ帰ってないんだ。電車を待っていたから』といった。
「すみません」僕はさらにあわてた。
「また後でかけなお――いや、メッセ送ります」
『まさか、切らないで。何かあった?』
いえ、何も。ただ峡さんの声を聞きたかっただけだと思います――なんてセリフ、吐けるわけないじゃないか。まして秀哉のことなんて。
僕は大慌てで話題をさがし、はたと思いついた。
「零さんから引っ越すって連絡をもらったんですけど」
モバイルの向こうからはガタンゴトンと大きな音が響く。峡さんの声はいつもより少し大きめだ。
『俺も聞いたよ。来週だって?』
「峡さんは手伝いに行ったりするんですか?」
スピーカーから軽い笑い声が響いた。自嘲するような響きを感じたのは気のせいだろうか。
『正直気になるんだが、いいかげん過保護なのはやめようと思ってね』
駅のアナウンスらしい雑音がまた響く。
『それにその日の夜は佐井本家に頼まれた用事がある。行ったとしても夕方様子を見にすこし寄る程度だな。そのまま車で銀星を迎えにいくから』
佐井本家は佐枝さんの産みの親の実家だ。あまり知られていない名族のひとつで、佐枝さんは佐井家から佐枝家へ養子に出された。佐枝家は長年佐井家に仕えている一家なのだという。
「峡さん、あの――」
僕はじっくり考えもせず口走った。軽率な発言をするのは暑さのせいだ。今週の気温が悪いのだ。
「零さんの様子をみにいくなら、僕と一緒に行きませんか。夕方なら時間は合わせられると思います」
もちろんこんなセリフが出たのは直前の秀哉との会話でモヤモヤが溜まっていたせいだろう。とはいえこれだけではあまりにも唐突すぎるかも――と、僕はあわてて言い訳をでっちあげる。
「零さんに、引越のついでに以前設定した機材を見てくれって頼まれているんです」
本当は引越当日はそこまでの余裕はないだろうから、これは罪のない嘘というか方便というか、そういうことになるわけだが。
幸い、峡さんはそんな僕のこずるい内心には気づかないでくれたらしい。ひとりごとのように『一緒なら単に過保護というわけでもないか』とつぶやく声を僕は聞いた。
『ただ――車なんだ。TEN‐ZEROの前で朋晴を拾ってもいい?』
「全然問題ないです!」
ほっとしたのと嬉しいのとで、僕の返事はほとんど叫ぶような勢いになっていたと思う。
「ありがとうございます」
『いやこちらこそ――過保護に言い訳をくれてありがとう』
峡さんはそういって、また軽い笑い声を立てた。
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