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本編
25.遅れた夏の蝶
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高いところから落ちるような驚きとともに眼が覚めた。
足元から崩れていって、何の理由もないのにぞっとする。部屋は真っ暗だった。何時だろう。眠ったのは早い時間だった。まだ朝じゃない。
かぶっていたはずのタオルケットが消えている。ランニングもボクサーも、その下のシーツも汗びっしょりだ。濡れた感触が気持ちが悪かった。エアコンが止まっているのかと思ったが、天井の一角で緑色のランプがしっかり存在を主張している。九月といってもまだまだ暑いから、外から帰るとすぐつけて、朝まで消さないことにしている。
立ち上がると風邪で熱が出ているようにふらついていた。喉が渇いてたまらない。スタンドの明かりに浮かび上がるのはいつもの部屋だ。ハンガーにかかった服の列の横には靴の箱が積んである。本と雑誌の棚、パソコン、スピーカー、その他のガジェットがごちゃごちゃと並べられたデスク、一人用の小さなテーブル。
僕は冷蔵庫を開けて飲み物を探した。手前にあるのはコーラ、ビール、炭酸水……アルコールかアルコールを割るようなものばっかりだ。ようやくミネラルウォーターを探しあてる。あわてて蓋をねじったらどこかへ飛んで行ってしまった。無視してボトルから直接飲む。いったん渇きはおさまったが、体の火照りはとれなかった。
すごくイライラする。
ベッドに戻ってシーツをはがした。きれいにベッドメイクする余裕はなく、新しいシーツを適当に広げるだけだ。湿ったシーツは丸めて洗濯機の方向へ放り投げた。体がだるく、シャワーを浴びるのも面倒くさい。着ているものを全部脱ぎ捨て、清潔なTシャツとボクサーをひっぱりだして履く。きれいなシーツにくるまっても苛立ちはおさまらない。
そういえばモバイルはどこへ行ったんだろう? 床に落ちたのをみつけるのに手間取って、それにも苛立つ。もうっ。
すでに午前一時すぎだ。モバイルには十一時頃、峡さんから着信があった。その後でスタンプが一件。おやすみ、と子グマが手を振っている。
ああ、出られなかった……。
がっかりして僕はシーツを頭にひっかぶった。肌に触れる布がざらついて感じられる。足の裏が敏感になっている。無意識のうちに両方の手のひらで太腿や胸、腕を撫でまわしているのに気づいて止めた。僕はシーツの中ではぁっと息を吐いた。腰の真ん中から背中に熱が昇るのを今度ははっきり意識する。
マズい。どうしよう。
その辺にローターがあるはずだ。ほとんど使ったことがないディルドも。自己処理しないとだんだん辛くなるだろう。早めにどうにかした方がいい。
でもヒートの時、僕は声が大きくなりがちだった。いったんはじめると――抑えられない。住民はオメガばかりとはいえ、深夜は隣のテレビもかすかに聞こえるくらいの壁の薄さでは気が引ける。ヒートのあいだ必ずハウスに行っていた理由のひとつはこれだった。実家住まいの頃はなおさらだったし、この前のヒートの時もそうだ。でもこの前のヒートの時は思いがけないアクシデントがあって……。
心臓がどきんと跳ねた。あの時僕はものすごく恥ずかしいことをやらかしたのではなかったか。今となってはハウスでいい感じのアルファをひっかけるなんてありえない感じがするが、それだけでなく、忘れもしない、あのオモチャでいっぱいの部屋でオナニーしていたら峡さんから電話がかかってきて――
そういえば、電話。
僕はシーツの上に転がったままのモバイルを拾った。少なくとも峡さんから送られたスタンプに何か返しておくべきだと思ったのだ。本当は声を聞きたかった。声を聞けばこの火照りがおさまったりしないだろうか? 馬鹿、そんなことあるはずないだろう。逆だ。きっともっとひどくなる。いや、でも……。
結局、僕は誘惑に抵抗できなかった。連絡先の「よく使う項目」に峡さんの名前を確認しながら、寝ぼけて押し間違えたことにしようと頭のすみでいいわけを考えた。それに峡さんはもう寝ているにちがいない。明日は平日だ。まだ木曜だ。スリーコールで切って、朝になったらメッセージを送ろう。そうしよう。
われながら矛盾した希望だった。どうせ出ないと思っているなら電話をかけなければいいのだ。ところがワンコールで通話はつながった。
『はい――佐枝です。……朋晴?』
こもった、眠そうな声がびっくりしたように途切れて、大きくなる。
「ごめんなさい、夜中に」
僕はあわてていった。
「その、電話するつもりは」
『どうして?』峡さんはかすれた声で笑った。
『嬉しいよ。帰りが遅かった?』
「いえ、早めに寝ていたんです」
『具合でも悪い? 声が少しちがうようだ』
いつもの僕なら「実はボイスチェンジャーを使ってるんです」なんて冗談をいったかもしれない。でも今夜の僕はためらった。声を聞いただけで峡さんが気遣ってくれるのが嬉しい一方で、今の自分の状態を悟られたくないとも思ったのだ。
「ちょっと熱っぽいかも。でも大丈夫です」
『そう? 日曜に……無理をさせてないかと思って』
体の中心がぱっと熱くなる。僕は脚のあいだにまとわりつくシーツを蹴り飛ばそうとした。うまくいかない。
「いいえ、そんなこと」
『それならいいんだが』
モバイルから響く声がほんのわずか途絶えた。
『今度の週末なんだが……予定がなければどこかに行かないか? 朋晴が好きなところで。映画でも買い物でも、行きたいところはない?』
うわっデートだ……デート――僕は喉の奥がひゅっと鳴りそうになるのをこらえた。下半身から一気に熱がのぼってくるような気がした。頭がくらくらする。行きたいところ――行きたいところなんてそんな……。
「僕は峡さんに会えるならどこでも――あ、いえ」
理性が止めるまもなく勝手に口が動きはじめたが、馬鹿三波! と頭の一部が大声で叫んだ。「理性」と顔の部分に書かれたこびとが僕に説教する。
あのな、週末ってのは三日後だ。そしておまえはヒートが来たばかり。おまけにいつもと様子がちがうし、土曜にどんな状態になっているかわからないだろう?
「すみません、今週末はちょっと」
『予定があるの?』
峡さんの口調はとてもやさしかった。とたんに「楽観的なサル」と顔に書いた生き物が木の上から理性こびとにドロップキックする。土曜ならどうにかなってるさ! 日曜はなおさら! ていうかヒートでなんか問題ある? 峡さんにまた抱いてもらえ――
「日曜なら……あ……でもまだわからないので」
『いま決めなくていい』
耳にくっつけたモバイルから峡さんの声が背筋を下る。下半身の奥、内側の襞が悶えるようにびくびくしたと思うと、うしろから出た液体でボクサーが濡れた。熱い息がもれた。僕はシーツにくるまったままもどかしく腰を動かし、片手を股間に押しあてる。手のひらの下で僕自身はもう堅くなり、濡れた先端が下着を持ち上げている。
『朋晴、眠い?』
怪訝そうな峡さんの声にモバイルを支える手が震えた。
「いいえ。僕が峡さんを起こしたのに、すみません」
『大丈夫なのか? ほんとうに具合は悪くない?』
大丈夫じゃないです。あなたに今ここにいてほしいです。
僕の中に新たに登場した悲観的なサルがわめいた。ほんとは僕を抱きしめて、あなたの太いのを中につっこんでかき回して、僕をいっぱいにしてほしいです。奥まで突いてどろどろにして、何もかもわからなくなるくらい、この熱がおさまるまでずっと抱いて――
馬鹿三波、だめだ。
だって――峡さんはアルファじゃない。僕がヒートだからって発情《ラット》するわけじゃない。ヒートがおさまるまで一緒にいてくれなんて、そんなこと頼めるもんか。今日が週末ならともかく、峡さんには仕事がある。途中で置いていかれたらもっとみじめだろう? 週末のデートの誘いだけで十分すぎるくらいだ。
「大丈夫です。大丈夫だから……」
喉の奥からせりだされたような僕の声は自分でもおかしな響きだったが、何もいわないよりましだった。
「予定がはっきりしたらすぐ連絡します」
『そう? じゃあ、どこへ行きたいか考えておいて』
「夜中に電話してごめんなさい」
『朋晴と話せて嬉しいのは俺だよ』
びくびくっと僕の内側の襞がふるえ、熱い液体がうしろからこぼれ出る。涙があふれて耳までつたった。
「峡さん」
『ゆっくり休むんだ。おやすみ』
「おやすみなさい」
通話が切れるまでにすこし間があった。僕はシーツのあいだにモバイルを落とし、ついに我慢の限界を超えてボクサーの中に手をつっこんだ。根元からびっしょり濡れた先端まで、軽く刺激しただけであっけなく達しても、腰のうしろの深いところに灯った熱は消えない。
ローターはどこにあったっけ……半分かすんだ頭でオモチャのありかを思い出そうとするが、頭に浮かぶのは日曜に感じたばかりの峡さん自身だ。熱くて太くて……先の方が僕の中にぴったりはまって、動く……。
僕はからまるシーツをはねのけた。ボクサーもTシャツも脱ぎ捨て、ベッドの上に座るとうしろの穴に指をつっこむ。濡れた襞を擦ると奥からさらに体液が沁みだすが、渇望は消えない。上ずった声が漏れそうになって、唇を噛むと痛みで正気が戻ったような気がしたが、ほんの一瞬にすぎなかった。背中にあてられた峡さんの唇を思い出したからだ。噛まれ、舐められ、吸われて……。
疲労で体が勝手に眠ってしまうまで僕はそうやって悶えていたにちがいない。気がつくとカーテンの向こうがうっすらと明るくなっている。
いくらかマシになったような気がして、僕はほっと息をついた――のもつかのまだった。起きあがっただけで尾てい骨から腰の奥へこもった熱がズキンと全身をつらぬく。手も添えていないのに、股間でたちあがった僕自身がぷるぷると物欲しそうにうなずいて、うしろの穴からも前からもしずくが垂れた。
こんなヒートはあまり経験がなかった。こんなにどうしようもない感じのものは。僕のヒートはいつも、少しイライラするけれども、自慰である程度解消できる場合がふつうだった。自分がしたいと思っていればハウスにいるアルファを誘惑するのも簡単だし、ヒートなんてそんなものだと思っていた。
なのに今回はまったく感じがちがう。渇望感が強くのしかかり、どうしたらいいのかわからない。
いったい今は何時だろう? モバイルを探そうとして僕はふと思った。腕時計をどこに置いたっけ? 峡さんがくれた薔薇の留め金の腕時計。あれを昨夜手首からはずした記憶がない。
僕はあわてて昨日の服を探した。スラックスとシャツの中に腕時計はなかった。焦って鞄をひっくり返す。ない。どこにも。でもたしかにつけていたはずだ。昨日デュマーでも――
そう考えたときに思い至った。デュマーのトイレで手と顔を洗った時に外したのだ。それから――どうしたっけ? コミュニケーションタグをつけたのは覚えているが、腕時計は……。
しまった。僕は頭を抱えた。あそこに置き忘れたのか。可能性は高い。鷹尾がさんざん大丈夫かといっただけあって、完全にデュマーでも注意散漫だったのだ。手首にハウスのタグをつけただけで安心してしまったのか。
でもデュマーで忘れたのならまだいい。あのハウスの客層なら、置き忘れた腕時計一個を勝手に持っていくような人間はいないだろうし、保管しているにちがいない。メールで問い合わせればいいのだ。
僕はモバイルを拾ってデュマーのサイトを探した。時間をみると朝の五時だ。問い合わせフォームでIDを入力しようとして、ふと気づいた。きっとAIエージェントが対応しているに違いない。電話でいいじゃないか。
予想通りデュマ―へのコールはすぐに繋がった。応答には聞き覚えがあった。深みのある男の声だ。
『ハウス・デュマーです。ご用件は?』
「昨日そちらのカフェに行った三波です」
僕はデュマーに登録したIDを告げる。
「カフェのすぐそばのトイレに忘れ物をしたと思うんだ。腕時計で、留め金が花のような形をしたもので」
『お忘れ物ですね』
検索は一瞬で済んだらしい。
『はい。たしかにございます』
僕はほっと息をついた。
「大事なものなんだ。取っておいてほしいんだけど」
『もちろんです。近いうちいらっしゃいますか? しばらくおいでにならないならご郵送も承ります』
AIエージェントの落ちついた声は僕の気分も多少落ちつかせた。郵送で送ってくれるように返事をしようとして、僕はふと思いつく。
「そういえばデュマーはドクターが常駐してるんだっけ?」
『当館専属の医師は午前九時から十時間の対応ですね。それ以外でご必要な場合は外部派遣となります』
「じゃあ取りに行くよ。それと個室、ひとりになれる小さなスペースでいいんだけど、予約できますか?」
『おひとりでのご利用なら、シングルベッドルーム、オーディオルームをお取りできます。オーディオルームの方が広いですが、いかがなさいますか?』
至れり尽くせりの案内を聞いて、このハウス・デュマーのIDを作ってくれたボス――藤野谷さんに感謝したい気分になった。申し訳ないが、あの人にこんな気持ちを抱いたのはこれが初めてかもしれない。IDをもらったときは、デュマーのような高級なハウスを僕が自分の都合で使うことがあるなんて思いもしなかったのだ。きっとお値段もかなり張るにちがいないが、それでも今の状況には嬉しかった。僕はシングルルームを予約し、医師の来館時間をもう一度たしかめ、さらに送迎を頼んだ。
つらいヒートを和らげるのに緩和剤という手段がある。処方箋がないと手に入らないが、ハウスの医師なら簡単な診察で処方してくれるだろう。緩和剤がちゃんと効くまでデュマーで過ごして家に帰ればいいのだ。そうすれば日曜に峡さんと会うのも楽勝。
僕は心の底から安堵して通話を切った。
足元から崩れていって、何の理由もないのにぞっとする。部屋は真っ暗だった。何時だろう。眠ったのは早い時間だった。まだ朝じゃない。
かぶっていたはずのタオルケットが消えている。ランニングもボクサーも、その下のシーツも汗びっしょりだ。濡れた感触が気持ちが悪かった。エアコンが止まっているのかと思ったが、天井の一角で緑色のランプがしっかり存在を主張している。九月といってもまだまだ暑いから、外から帰るとすぐつけて、朝まで消さないことにしている。
立ち上がると風邪で熱が出ているようにふらついていた。喉が渇いてたまらない。スタンドの明かりに浮かび上がるのはいつもの部屋だ。ハンガーにかかった服の列の横には靴の箱が積んである。本と雑誌の棚、パソコン、スピーカー、その他のガジェットがごちゃごちゃと並べられたデスク、一人用の小さなテーブル。
僕は冷蔵庫を開けて飲み物を探した。手前にあるのはコーラ、ビール、炭酸水……アルコールかアルコールを割るようなものばっかりだ。ようやくミネラルウォーターを探しあてる。あわてて蓋をねじったらどこかへ飛んで行ってしまった。無視してボトルから直接飲む。いったん渇きはおさまったが、体の火照りはとれなかった。
すごくイライラする。
ベッドに戻ってシーツをはがした。きれいにベッドメイクする余裕はなく、新しいシーツを適当に広げるだけだ。湿ったシーツは丸めて洗濯機の方向へ放り投げた。体がだるく、シャワーを浴びるのも面倒くさい。着ているものを全部脱ぎ捨て、清潔なTシャツとボクサーをひっぱりだして履く。きれいなシーツにくるまっても苛立ちはおさまらない。
そういえばモバイルはどこへ行ったんだろう? 床に落ちたのをみつけるのに手間取って、それにも苛立つ。もうっ。
すでに午前一時すぎだ。モバイルには十一時頃、峡さんから着信があった。その後でスタンプが一件。おやすみ、と子グマが手を振っている。
ああ、出られなかった……。
がっかりして僕はシーツを頭にひっかぶった。肌に触れる布がざらついて感じられる。足の裏が敏感になっている。無意識のうちに両方の手のひらで太腿や胸、腕を撫でまわしているのに気づいて止めた。僕はシーツの中ではぁっと息を吐いた。腰の真ん中から背中に熱が昇るのを今度ははっきり意識する。
マズい。どうしよう。
その辺にローターがあるはずだ。ほとんど使ったことがないディルドも。自己処理しないとだんだん辛くなるだろう。早めにどうにかした方がいい。
でもヒートの時、僕は声が大きくなりがちだった。いったんはじめると――抑えられない。住民はオメガばかりとはいえ、深夜は隣のテレビもかすかに聞こえるくらいの壁の薄さでは気が引ける。ヒートのあいだ必ずハウスに行っていた理由のひとつはこれだった。実家住まいの頃はなおさらだったし、この前のヒートの時もそうだ。でもこの前のヒートの時は思いがけないアクシデントがあって……。
心臓がどきんと跳ねた。あの時僕はものすごく恥ずかしいことをやらかしたのではなかったか。今となってはハウスでいい感じのアルファをひっかけるなんてありえない感じがするが、それだけでなく、忘れもしない、あのオモチャでいっぱいの部屋でオナニーしていたら峡さんから電話がかかってきて――
そういえば、電話。
僕はシーツの上に転がったままのモバイルを拾った。少なくとも峡さんから送られたスタンプに何か返しておくべきだと思ったのだ。本当は声を聞きたかった。声を聞けばこの火照りがおさまったりしないだろうか? 馬鹿、そんなことあるはずないだろう。逆だ。きっともっとひどくなる。いや、でも……。
結局、僕は誘惑に抵抗できなかった。連絡先の「よく使う項目」に峡さんの名前を確認しながら、寝ぼけて押し間違えたことにしようと頭のすみでいいわけを考えた。それに峡さんはもう寝ているにちがいない。明日は平日だ。まだ木曜だ。スリーコールで切って、朝になったらメッセージを送ろう。そうしよう。
われながら矛盾した希望だった。どうせ出ないと思っているなら電話をかけなければいいのだ。ところがワンコールで通話はつながった。
『はい――佐枝です。……朋晴?』
こもった、眠そうな声がびっくりしたように途切れて、大きくなる。
「ごめんなさい、夜中に」
僕はあわてていった。
「その、電話するつもりは」
『どうして?』峡さんはかすれた声で笑った。
『嬉しいよ。帰りが遅かった?』
「いえ、早めに寝ていたんです」
『具合でも悪い? 声が少しちがうようだ』
いつもの僕なら「実はボイスチェンジャーを使ってるんです」なんて冗談をいったかもしれない。でも今夜の僕はためらった。声を聞いただけで峡さんが気遣ってくれるのが嬉しい一方で、今の自分の状態を悟られたくないとも思ったのだ。
「ちょっと熱っぽいかも。でも大丈夫です」
『そう? 日曜に……無理をさせてないかと思って』
体の中心がぱっと熱くなる。僕は脚のあいだにまとわりつくシーツを蹴り飛ばそうとした。うまくいかない。
「いいえ、そんなこと」
『それならいいんだが』
モバイルから響く声がほんのわずか途絶えた。
『今度の週末なんだが……予定がなければどこかに行かないか? 朋晴が好きなところで。映画でも買い物でも、行きたいところはない?』
うわっデートだ……デート――僕は喉の奥がひゅっと鳴りそうになるのをこらえた。下半身から一気に熱がのぼってくるような気がした。頭がくらくらする。行きたいところ――行きたいところなんてそんな……。
「僕は峡さんに会えるならどこでも――あ、いえ」
理性が止めるまもなく勝手に口が動きはじめたが、馬鹿三波! と頭の一部が大声で叫んだ。「理性」と顔の部分に書かれたこびとが僕に説教する。
あのな、週末ってのは三日後だ。そしておまえはヒートが来たばかり。おまけにいつもと様子がちがうし、土曜にどんな状態になっているかわからないだろう?
「すみません、今週末はちょっと」
『予定があるの?』
峡さんの口調はとてもやさしかった。とたんに「楽観的なサル」と顔に書いた生き物が木の上から理性こびとにドロップキックする。土曜ならどうにかなってるさ! 日曜はなおさら! ていうかヒートでなんか問題ある? 峡さんにまた抱いてもらえ――
「日曜なら……あ……でもまだわからないので」
『いま決めなくていい』
耳にくっつけたモバイルから峡さんの声が背筋を下る。下半身の奥、内側の襞が悶えるようにびくびくしたと思うと、うしろから出た液体でボクサーが濡れた。熱い息がもれた。僕はシーツにくるまったままもどかしく腰を動かし、片手を股間に押しあてる。手のひらの下で僕自身はもう堅くなり、濡れた先端が下着を持ち上げている。
『朋晴、眠い?』
怪訝そうな峡さんの声にモバイルを支える手が震えた。
「いいえ。僕が峡さんを起こしたのに、すみません」
『大丈夫なのか? ほんとうに具合は悪くない?』
大丈夫じゃないです。あなたに今ここにいてほしいです。
僕の中に新たに登場した悲観的なサルがわめいた。ほんとは僕を抱きしめて、あなたの太いのを中につっこんでかき回して、僕をいっぱいにしてほしいです。奥まで突いてどろどろにして、何もかもわからなくなるくらい、この熱がおさまるまでずっと抱いて――
馬鹿三波、だめだ。
だって――峡さんはアルファじゃない。僕がヒートだからって発情《ラット》するわけじゃない。ヒートがおさまるまで一緒にいてくれなんて、そんなこと頼めるもんか。今日が週末ならともかく、峡さんには仕事がある。途中で置いていかれたらもっとみじめだろう? 週末のデートの誘いだけで十分すぎるくらいだ。
「大丈夫です。大丈夫だから……」
喉の奥からせりだされたような僕の声は自分でもおかしな響きだったが、何もいわないよりましだった。
「予定がはっきりしたらすぐ連絡します」
『そう? じゃあ、どこへ行きたいか考えておいて』
「夜中に電話してごめんなさい」
『朋晴と話せて嬉しいのは俺だよ』
びくびくっと僕の内側の襞がふるえ、熱い液体がうしろからこぼれ出る。涙があふれて耳までつたった。
「峡さん」
『ゆっくり休むんだ。おやすみ』
「おやすみなさい」
通話が切れるまでにすこし間があった。僕はシーツのあいだにモバイルを落とし、ついに我慢の限界を超えてボクサーの中に手をつっこんだ。根元からびっしょり濡れた先端まで、軽く刺激しただけであっけなく達しても、腰のうしろの深いところに灯った熱は消えない。
ローターはどこにあったっけ……半分かすんだ頭でオモチャのありかを思い出そうとするが、頭に浮かぶのは日曜に感じたばかりの峡さん自身だ。熱くて太くて……先の方が僕の中にぴったりはまって、動く……。
僕はからまるシーツをはねのけた。ボクサーもTシャツも脱ぎ捨て、ベッドの上に座るとうしろの穴に指をつっこむ。濡れた襞を擦ると奥からさらに体液が沁みだすが、渇望は消えない。上ずった声が漏れそうになって、唇を噛むと痛みで正気が戻ったような気がしたが、ほんの一瞬にすぎなかった。背中にあてられた峡さんの唇を思い出したからだ。噛まれ、舐められ、吸われて……。
疲労で体が勝手に眠ってしまうまで僕はそうやって悶えていたにちがいない。気がつくとカーテンの向こうがうっすらと明るくなっている。
いくらかマシになったような気がして、僕はほっと息をついた――のもつかのまだった。起きあがっただけで尾てい骨から腰の奥へこもった熱がズキンと全身をつらぬく。手も添えていないのに、股間でたちあがった僕自身がぷるぷると物欲しそうにうなずいて、うしろの穴からも前からもしずくが垂れた。
こんなヒートはあまり経験がなかった。こんなにどうしようもない感じのものは。僕のヒートはいつも、少しイライラするけれども、自慰である程度解消できる場合がふつうだった。自分がしたいと思っていればハウスにいるアルファを誘惑するのも簡単だし、ヒートなんてそんなものだと思っていた。
なのに今回はまったく感じがちがう。渇望感が強くのしかかり、どうしたらいいのかわからない。
いったい今は何時だろう? モバイルを探そうとして僕はふと思った。腕時計をどこに置いたっけ? 峡さんがくれた薔薇の留め金の腕時計。あれを昨夜手首からはずした記憶がない。
僕はあわてて昨日の服を探した。スラックスとシャツの中に腕時計はなかった。焦って鞄をひっくり返す。ない。どこにも。でもたしかにつけていたはずだ。昨日デュマーでも――
そう考えたときに思い至った。デュマーのトイレで手と顔を洗った時に外したのだ。それから――どうしたっけ? コミュニケーションタグをつけたのは覚えているが、腕時計は……。
しまった。僕は頭を抱えた。あそこに置き忘れたのか。可能性は高い。鷹尾がさんざん大丈夫かといっただけあって、完全にデュマーでも注意散漫だったのだ。手首にハウスのタグをつけただけで安心してしまったのか。
でもデュマーで忘れたのならまだいい。あのハウスの客層なら、置き忘れた腕時計一個を勝手に持っていくような人間はいないだろうし、保管しているにちがいない。メールで問い合わせればいいのだ。
僕はモバイルを拾ってデュマーのサイトを探した。時間をみると朝の五時だ。問い合わせフォームでIDを入力しようとして、ふと気づいた。きっとAIエージェントが対応しているに違いない。電話でいいじゃないか。
予想通りデュマ―へのコールはすぐに繋がった。応答には聞き覚えがあった。深みのある男の声だ。
『ハウス・デュマーです。ご用件は?』
「昨日そちらのカフェに行った三波です」
僕はデュマーに登録したIDを告げる。
「カフェのすぐそばのトイレに忘れ物をしたと思うんだ。腕時計で、留め金が花のような形をしたもので」
『お忘れ物ですね』
検索は一瞬で済んだらしい。
『はい。たしかにございます』
僕はほっと息をついた。
「大事なものなんだ。取っておいてほしいんだけど」
『もちろんです。近いうちいらっしゃいますか? しばらくおいでにならないならご郵送も承ります』
AIエージェントの落ちついた声は僕の気分も多少落ちつかせた。郵送で送ってくれるように返事をしようとして、僕はふと思いつく。
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