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本編
26.まばたきの音(前編)
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ハウス・デュマーの外観は僕が知っている他のハウスには似ていない。外国の別荘や城館といった言葉が似合う雰囲気で、大きな看板があるわけでもない。入口には慎ましくドアマンが立っている。
受付に用意されていた腕時計を僕はジャケットの内ポケットへしまった。またデュマーのタグと間違えたら嫌だったからだ。予約した個室に入るとほっとした。パジャマが用意されていたのでありがたく着替える。さっそく来てもらった医師は母を思わせる年配の女の人だった。
「いつもはこんな風にはならないんですね?」
他に持病はないか、ヒートの間隔はどのくらいか、苛々するか、といった質問を受ける。ヒートで医者にかかるなんて数年ぶりのことだ。医師は部屋に持ちこんだ機械で簡易的な検査をすませ、やっと緩和剤を出してくれた。僕は銀色のアンプルをみつめた。
「これまで軽くてすんでいたなら、一度も使ったことはないかしら?」
「一度だけありますけど、何年も前で……たしか、二回目か三回目のヒートの時です」
「きっとまだ安定していなかったのね」
銀色の針がちくっと肌を刺す。でも頭はぼうっとしているし、体の内部からじくじくするような感覚に気を取られ、痛いとも思わなかった。
「効き目には個人差があります。体調にも左右されるから睡眠と食事をきちんと取ってください。それから薬は症状を和らげるだけで、ヒートを終わらせてしまうわけではありませんよ。落ちついたと思っても、いつもの軽いヒートと同じ状態だと考えて」
医師は励ますように軽く微笑んで部屋を出て行った。僕はベッドに横になり、モバイルをサイドテーブルに放り出してルームサービスの紙を眺めた。やはりお値段は相当だ。でも飲み物は冷蔵庫に入っているし(ミネラルウォーターはサービスらしい)サンドイッチかピザを取っても罰は当たらないんじゃないか。そんなことを考えているうちに眠くなった。
きっと薬が効いたのだろう。夢も見ずにぐっすり眠って、目覚めると夕方だった。半日寝ていたのだ。
シャワーを浴びて着替え、調子が戻ってくると、いくらヒートだとはいえ、せっかくの平日休暇を浪費しているような気がした。今度こそピザをルームサービスで取り(宅配ピザのたぐいを想像していたら、イタリアの窯から出しました、といった雰囲気のものがワゴンで運ばれてきて反応に困った)テレビを見ながらチーズとアンチョビを堪能する。
館内設備を説明するパンフレットを眺めていると気力と一緒に好奇心も戻ってきた。鷹尾と何度か行ったカフェの隣にレストラン(ここはひとりで入るのはきつそうだ)以前藤野谷さんと来たときにちらっと見物したオーディオルーム。シアタールームは小型貸切映画館といった感じだろうか? そしてバーにダンスフロア。
踊るほどの余裕はなくても音楽を聴きたくなった。バーはダンスフロアの上にあったはずだ。吹き抜けから見下ろすようになっていなかったっけ?
僕は腕時計をはめて自分の服装をチェックした。朝がフラフラだったから、手近にあったものを着ただけでろくな服装ではないけれど、まぁいいだろう。誰と会うわけでもないのだ。一杯飲んだら車を出してもらって、帰ればいい。僕はすっかり忘れていたのだ。デュマーの医者が「薬はヒートを終わらせてしまうわけではない」と注意したことや、アルコールで緩和剤の効き目が薄れてしまうことを。
バーカウンターの横には花ではなく鮮やかな緑の葉のグラデーションが飾られていた。すらりと剣のように立つ葉、丸葉の蔓が絡まる切り株のオブジェ。注文を聞かれて僕は迷った。こんな高級なハウスのバーで、いつものビールももったいない。ダイキリを頼んでダンスフロアが見下ろせるソファに陣取った。
バーにもダンスフロアにも人影はほとんどいない。久しぶりに飲むカクテルはひんやりと甘く、するりと喉を下っていく。頭の底でチリチリと波立っていた苛立ちも薄れた。僕は眼をとじてため息をつく。
「朋晴」
名前を呼ばれたのはその時だった。座ったまま見上げた僕には、逆光になった人の顔がよく見えなかった。眼をこすってもう一度みた。
「――秀哉」
*
高校のグラウンドを囲むフェンスの隅に、誰かが切って広げたように丸い穴が開いている。
「あそこから猫が入ってくるんだ」と秀哉はいう。
「すごく可愛いんだけど、慣れてくれない」
「ふうん」
僕はうなずきながら、肩に触れるほど近く寄ろうとする秀哉からさりげなく、注意深く半歩離れる。同時にそんなことを気にする自分にいささかうんざりする。そんなことを気にしなければならないこの状況にもだ。秀哉は僕のこのささいな仕草に気づいているのだろうか。
もしかしたらまったく気づいていないのかもしれない。猫が可愛いなんてほざいているが、秀哉にはひなたでくつろいでいる大型の獣のような雰囲気がある。彼の自信や気前のいい雰囲気はのんびりした獣の鈍感さの裏返しで、そこが周囲に慕われるポイントでもあった。
この一年でまた背が伸び、肩幅も広くなって、ますますアルファらしくなっている。三年になって部活を引退しても、体がなまるのが嫌だといって、昌行と一緒にトレーニングしているはずだ。
昌行もよく秀哉につきあうものだと僕は思う。彼も秀哉と同じように小学生からの腐れ縁なのだが、高校に入ってから秀哉の「副官」という雰囲気が強くなった。秀哉と息が合っているのか合わせているのか、部活でも副将だったし、試験勉強でも参謀のように戦略を練ったりする。そのくせときおり対抗するように秀哉と張り合ったりもした。
ふたりとも、折に触れて後輩や同学年に告白されているだろうが、今は誰とも付き合っていない。僕は僕で、誰が好きだとか恋をしたとか、かしましい早熟なオメガの子をしらけて眺めているところがある。もちろん最初のヒートの経験は強烈だったが、恋だとか好きだとかいうのはひどく遠いところにあった。
自分の体と自分の気持ちは別々の場所にあって、うまく重ならないようなのだ。自分のことすらまだよくわからないのに、人のことまでかまっていられるはずもない。
けれど僕ら三人をよく知らない連中は、僕と秀哉が「ペア」だと思っているふしがあった。聞かれればすぐにちがうと答えるのに。
「なあ」秀哉がいう。「いいかげん教えてくれてもいいんじゃないか」
「何」
「朋晴の進路。北斗にもいってないだろ」
「シャイなんだよ」僕は冗談めかしていう。
「どこがシャイだよ」秀哉は笑う。
「で、どこ?」
彼が期待している回答を僕は知っているが、僕の口から出る言葉はまったくちがうものだ。
「国立の……」僕は学部名を答える。
「面白い教授がいるらしい。千歳がずっと前に教えてくれたんだ」
秀哉の足が一瞬とまる。並んで歩いていた僕は彼より一歩前に出て、立ち止まろうか、どうしようかと迷った。フェンスは僕らの横にずっと続いている。地面には夏の草が枯れてそのままになっていて、わびしい感じがする。でもグラウンドのおかげでこのあたりの空は高くて、だから僕はこの道が好きだった。
「国立か」と秀哉はいう。
「全然、違うんだな。方向も……」
「秀哉はあそこだろ」
僕は彼の父も通った名門私立大の名をあげる。
「うちじゃ私大はきついよ」
「そんなの」
秀哉は何かいいかけてやめた。
「朋晴。話があるんだけど」
「何?」
僕はフェンスの横を歩きつづける。秀哉はまた僕の肩に触れるほど近くに寄せてくる。うかつにフェンス側を歩いたのを僕は後悔する。これ以上彼を避けられない。
「何度もいおうと思っていたんだ」
「だから何」
秀哉は僕の腕をひいた。僕らはフェンスの横に立ちどまる。
「おまえが好きだ。卒業したら――俺とつきあって、つがいになってほしい」
秀哉の体が僕の方に迫ってくる。フェンスが僕のうしろにある。唐突に恐怖がわきあがる。彼にこのままのしかかられたら僕は抵抗できないだろう。秀哉は立っているだけだ。でも彼の、アルファの体躯や匂いが僕を圧倒する。
僕は首をふる。
「ごめん」
「朋晴、俺は本気でいってるんだ。ずっとそう思っていた。だから……」
「おまえのことは好きだよ。小学生のころからずっと仲がいい友達なんて、あとは昌行だけだ。大事な友達だと思ってる。でもこれは……違う」
「でも……試しにつきあってみるとか、そんなことも駄目なのか? 誰か好きなやつがいるとか?」
「そんなことじゃないんだ」
僕は自分のいいたいことをなんとか言葉にできないかと考える。
「秀哉はずっと――ずっと友達じゃないか。僕が目立たないただのチビのころから。僕の外見がどうとか、そんなことは関係なくずっと友達だっただろう? 考えられないよ。つがいなんて」
「でも朋晴はオメガだし、俺は」
だからなんだ。急に大声で叫びたくなる気持ちがわきあがって、僕はこらえた。
秀哉にはどうしてわからないんだろう? 自分がアルファで僕がオメガだから、僕らはつきあうべきだというのか? つがいになるべきだって? そんな馬鹿なことがあるもんか。
フェンスにスニーカーの踵が当たった。秀哉が僕の方へにじり寄ったせいだ。
「あのなあ、秀哉。僕はおまえが中学の時に夢中だった子のことをいまだに覚えてるよ。僕と昌行にいろいろごたくを並べたのもさ。僕なんかおまえの眼中にもなかっただろう?」
「朋晴」
「いくら僕がオメガ性らしくなったからって、そんな――」
息がとまりそうになった。秀哉の両手が僕をフェンスに押しつけたからだ。
「朋晴」
鞄が地面に落ちる音が鈍く響く。
「離せよ。やめろって」
「俺がどれだけおまえを守ろうとしてきたか、気づいていなかったとはいわせない」
「秀哉」
「みんな――アルファはみんなおまえを見ていたんだ。おまえを狙って――あわよくばって――俺がそんな奴らをどうやって」
「あのな、秀哉。ふざけんな!」
我慢の限界だった。至近距離にある秀哉の顔を手で押しやって、僕は怒鳴った。
「だったらなんなんだ。僕がそんなこといつ頼んだ? ああ、僕は守られていたさ。そんなことは知ってる。でもそれはおまえじゃない。僕を守ってくれたのは僕の家族だ。おまえみたいな勘違い野郎からな!」
「朋晴」
「アルファは僕を見ているさ。それは僕がオメガだからだ。おまえだってそうだ。僕がオメガじゃなかったら、ヒートが来て変わらなかったら、僕なんてただの友達だったんだ。そうだろう? でも僕はおまえが――」
うかつにも鼻の奥がつんとした。熱いものがこみあげてくる。
「おまえがただの友達でいてくれたから、おまえが好きだったんだ」
僕の剣幕にひるんだのか、腕をおさえる秀哉の力が一瞬ゆるんだ。ここぞとばかりに僕は膝を蹴った。格闘ごっこは昔はよくやったものだ。昌行と秀哉はいまだにトレーニングのあいだの遊びとしてこんなことをやっているのかもしれない。
不意を打たれたせいだろう、秀哉の体が揺らぎ、僕はそのすきにフェンスのそばから走り出る。鞄を拾い、そのまま走っていく。走りながら、もうこの道は通れない、という言葉が頭の中をよぎっていく。秀哉と並んでここを歩くなんてもう無理だ。この先もずっと。
帰ってたまたま家にいた千歳に「どうしたんだ」と聞かれたのは覚えているが、なんと返したかは覚えていない。
夜になって昌行から電話があった。このときも奇妙なことに、僕は何を話したのかさっぱり覚えていないが、たぶん秀哉のことを相談したのだろう。昌行なら秀哉についてよくわかっているし(少なくとも当時の僕はそう思っていた)ベストな解決方法というか、調停方法をみつけてくれると思ったのだ。
そして翌日、僕と秀哉は仲直りした。けれどあの道を彼とふたりで歩いて帰ることは二度となかった。
*
受付に用意されていた腕時計を僕はジャケットの内ポケットへしまった。またデュマーのタグと間違えたら嫌だったからだ。予約した個室に入るとほっとした。パジャマが用意されていたのでありがたく着替える。さっそく来てもらった医師は母を思わせる年配の女の人だった。
「いつもはこんな風にはならないんですね?」
他に持病はないか、ヒートの間隔はどのくらいか、苛々するか、といった質問を受ける。ヒートで医者にかかるなんて数年ぶりのことだ。医師は部屋に持ちこんだ機械で簡易的な検査をすませ、やっと緩和剤を出してくれた。僕は銀色のアンプルをみつめた。
「これまで軽くてすんでいたなら、一度も使ったことはないかしら?」
「一度だけありますけど、何年も前で……たしか、二回目か三回目のヒートの時です」
「きっとまだ安定していなかったのね」
銀色の針がちくっと肌を刺す。でも頭はぼうっとしているし、体の内部からじくじくするような感覚に気を取られ、痛いとも思わなかった。
「効き目には個人差があります。体調にも左右されるから睡眠と食事をきちんと取ってください。それから薬は症状を和らげるだけで、ヒートを終わらせてしまうわけではありませんよ。落ちついたと思っても、いつもの軽いヒートと同じ状態だと考えて」
医師は励ますように軽く微笑んで部屋を出て行った。僕はベッドに横になり、モバイルをサイドテーブルに放り出してルームサービスの紙を眺めた。やはりお値段は相当だ。でも飲み物は冷蔵庫に入っているし(ミネラルウォーターはサービスらしい)サンドイッチかピザを取っても罰は当たらないんじゃないか。そんなことを考えているうちに眠くなった。
きっと薬が効いたのだろう。夢も見ずにぐっすり眠って、目覚めると夕方だった。半日寝ていたのだ。
シャワーを浴びて着替え、調子が戻ってくると、いくらヒートだとはいえ、せっかくの平日休暇を浪費しているような気がした。今度こそピザをルームサービスで取り(宅配ピザのたぐいを想像していたら、イタリアの窯から出しました、といった雰囲気のものがワゴンで運ばれてきて反応に困った)テレビを見ながらチーズとアンチョビを堪能する。
館内設備を説明するパンフレットを眺めていると気力と一緒に好奇心も戻ってきた。鷹尾と何度か行ったカフェの隣にレストラン(ここはひとりで入るのはきつそうだ)以前藤野谷さんと来たときにちらっと見物したオーディオルーム。シアタールームは小型貸切映画館といった感じだろうか? そしてバーにダンスフロア。
踊るほどの余裕はなくても音楽を聴きたくなった。バーはダンスフロアの上にあったはずだ。吹き抜けから見下ろすようになっていなかったっけ?
僕は腕時計をはめて自分の服装をチェックした。朝がフラフラだったから、手近にあったものを着ただけでろくな服装ではないけれど、まぁいいだろう。誰と会うわけでもないのだ。一杯飲んだら車を出してもらって、帰ればいい。僕はすっかり忘れていたのだ。デュマーの医者が「薬はヒートを終わらせてしまうわけではない」と注意したことや、アルコールで緩和剤の効き目が薄れてしまうことを。
バーカウンターの横には花ではなく鮮やかな緑の葉のグラデーションが飾られていた。すらりと剣のように立つ葉、丸葉の蔓が絡まる切り株のオブジェ。注文を聞かれて僕は迷った。こんな高級なハウスのバーで、いつものビールももったいない。ダイキリを頼んでダンスフロアが見下ろせるソファに陣取った。
バーにもダンスフロアにも人影はほとんどいない。久しぶりに飲むカクテルはひんやりと甘く、するりと喉を下っていく。頭の底でチリチリと波立っていた苛立ちも薄れた。僕は眼をとじてため息をつく。
「朋晴」
名前を呼ばれたのはその時だった。座ったまま見上げた僕には、逆光になった人の顔がよく見えなかった。眼をこすってもう一度みた。
「――秀哉」
*
高校のグラウンドを囲むフェンスの隅に、誰かが切って広げたように丸い穴が開いている。
「あそこから猫が入ってくるんだ」と秀哉はいう。
「すごく可愛いんだけど、慣れてくれない」
「ふうん」
僕はうなずきながら、肩に触れるほど近く寄ろうとする秀哉からさりげなく、注意深く半歩離れる。同時にそんなことを気にする自分にいささかうんざりする。そんなことを気にしなければならないこの状況にもだ。秀哉は僕のこのささいな仕草に気づいているのだろうか。
もしかしたらまったく気づいていないのかもしれない。猫が可愛いなんてほざいているが、秀哉にはひなたでくつろいでいる大型の獣のような雰囲気がある。彼の自信や気前のいい雰囲気はのんびりした獣の鈍感さの裏返しで、そこが周囲に慕われるポイントでもあった。
この一年でまた背が伸び、肩幅も広くなって、ますますアルファらしくなっている。三年になって部活を引退しても、体がなまるのが嫌だといって、昌行と一緒にトレーニングしているはずだ。
昌行もよく秀哉につきあうものだと僕は思う。彼も秀哉と同じように小学生からの腐れ縁なのだが、高校に入ってから秀哉の「副官」という雰囲気が強くなった。秀哉と息が合っているのか合わせているのか、部活でも副将だったし、試験勉強でも参謀のように戦略を練ったりする。そのくせときおり対抗するように秀哉と張り合ったりもした。
ふたりとも、折に触れて後輩や同学年に告白されているだろうが、今は誰とも付き合っていない。僕は僕で、誰が好きだとか恋をしたとか、かしましい早熟なオメガの子をしらけて眺めているところがある。もちろん最初のヒートの経験は強烈だったが、恋だとか好きだとかいうのはひどく遠いところにあった。
自分の体と自分の気持ちは別々の場所にあって、うまく重ならないようなのだ。自分のことすらまだよくわからないのに、人のことまでかまっていられるはずもない。
けれど僕ら三人をよく知らない連中は、僕と秀哉が「ペア」だと思っているふしがあった。聞かれればすぐにちがうと答えるのに。
「なあ」秀哉がいう。「いいかげん教えてくれてもいいんじゃないか」
「何」
「朋晴の進路。北斗にもいってないだろ」
「シャイなんだよ」僕は冗談めかしていう。
「どこがシャイだよ」秀哉は笑う。
「で、どこ?」
彼が期待している回答を僕は知っているが、僕の口から出る言葉はまったくちがうものだ。
「国立の……」僕は学部名を答える。
「面白い教授がいるらしい。千歳がずっと前に教えてくれたんだ」
秀哉の足が一瞬とまる。並んで歩いていた僕は彼より一歩前に出て、立ち止まろうか、どうしようかと迷った。フェンスは僕らの横にずっと続いている。地面には夏の草が枯れてそのままになっていて、わびしい感じがする。でもグラウンドのおかげでこのあたりの空は高くて、だから僕はこの道が好きだった。
「国立か」と秀哉はいう。
「全然、違うんだな。方向も……」
「秀哉はあそこだろ」
僕は彼の父も通った名門私立大の名をあげる。
「うちじゃ私大はきついよ」
「そんなの」
秀哉は何かいいかけてやめた。
「朋晴。話があるんだけど」
「何?」
僕はフェンスの横を歩きつづける。秀哉はまた僕の肩に触れるほど近くに寄せてくる。うかつにフェンス側を歩いたのを僕は後悔する。これ以上彼を避けられない。
「何度もいおうと思っていたんだ」
「だから何」
秀哉は僕の腕をひいた。僕らはフェンスの横に立ちどまる。
「おまえが好きだ。卒業したら――俺とつきあって、つがいになってほしい」
秀哉の体が僕の方に迫ってくる。フェンスが僕のうしろにある。唐突に恐怖がわきあがる。彼にこのままのしかかられたら僕は抵抗できないだろう。秀哉は立っているだけだ。でも彼の、アルファの体躯や匂いが僕を圧倒する。
僕は首をふる。
「ごめん」
「朋晴、俺は本気でいってるんだ。ずっとそう思っていた。だから……」
「おまえのことは好きだよ。小学生のころからずっと仲がいい友達なんて、あとは昌行だけだ。大事な友達だと思ってる。でもこれは……違う」
「でも……試しにつきあってみるとか、そんなことも駄目なのか? 誰か好きなやつがいるとか?」
「そんなことじゃないんだ」
僕は自分のいいたいことをなんとか言葉にできないかと考える。
「秀哉はずっと――ずっと友達じゃないか。僕が目立たないただのチビのころから。僕の外見がどうとか、そんなことは関係なくずっと友達だっただろう? 考えられないよ。つがいなんて」
「でも朋晴はオメガだし、俺は」
だからなんだ。急に大声で叫びたくなる気持ちがわきあがって、僕はこらえた。
秀哉にはどうしてわからないんだろう? 自分がアルファで僕がオメガだから、僕らはつきあうべきだというのか? つがいになるべきだって? そんな馬鹿なことがあるもんか。
フェンスにスニーカーの踵が当たった。秀哉が僕の方へにじり寄ったせいだ。
「あのなあ、秀哉。僕はおまえが中学の時に夢中だった子のことをいまだに覚えてるよ。僕と昌行にいろいろごたくを並べたのもさ。僕なんかおまえの眼中にもなかっただろう?」
「朋晴」
「いくら僕がオメガ性らしくなったからって、そんな――」
息がとまりそうになった。秀哉の両手が僕をフェンスに押しつけたからだ。
「朋晴」
鞄が地面に落ちる音が鈍く響く。
「離せよ。やめろって」
「俺がどれだけおまえを守ろうとしてきたか、気づいていなかったとはいわせない」
「秀哉」
「みんな――アルファはみんなおまえを見ていたんだ。おまえを狙って――あわよくばって――俺がそんな奴らをどうやって」
「あのな、秀哉。ふざけんな!」
我慢の限界だった。至近距離にある秀哉の顔を手で押しやって、僕は怒鳴った。
「だったらなんなんだ。僕がそんなこといつ頼んだ? ああ、僕は守られていたさ。そんなことは知ってる。でもそれはおまえじゃない。僕を守ってくれたのは僕の家族だ。おまえみたいな勘違い野郎からな!」
「朋晴」
「アルファは僕を見ているさ。それは僕がオメガだからだ。おまえだってそうだ。僕がオメガじゃなかったら、ヒートが来て変わらなかったら、僕なんてただの友達だったんだ。そうだろう? でも僕はおまえが――」
うかつにも鼻の奥がつんとした。熱いものがこみあげてくる。
「おまえがただの友達でいてくれたから、おまえが好きだったんだ」
僕の剣幕にひるんだのか、腕をおさえる秀哉の力が一瞬ゆるんだ。ここぞとばかりに僕は膝を蹴った。格闘ごっこは昔はよくやったものだ。昌行と秀哉はいまだにトレーニングのあいだの遊びとしてこんなことをやっているのかもしれない。
不意を打たれたせいだろう、秀哉の体が揺らぎ、僕はそのすきにフェンスのそばから走り出る。鞄を拾い、そのまま走っていく。走りながら、もうこの道は通れない、という言葉が頭の中をよぎっていく。秀哉と並んでここを歩くなんてもう無理だ。この先もずっと。
帰ってたまたま家にいた千歳に「どうしたんだ」と聞かれたのは覚えているが、なんと返したかは覚えていない。
夜になって昌行から電話があった。このときも奇妙なことに、僕は何を話したのかさっぱり覚えていないが、たぶん秀哉のことを相談したのだろう。昌行なら秀哉についてよくわかっているし(少なくとも当時の僕はそう思っていた)ベストな解決方法というか、調停方法をみつけてくれると思ったのだ。
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