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番外編&後日談
蔓の誘惑
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「ねえ、どうしてアボカドってアボカドっていうんでしょう?」
シンクの前で朋晴が唐突にそんなことをいった。
隣でアボカドにナイフを入れていた峡は「ん?」とひとまず相槌をうつ。
朋晴はとても頭の回転が速い。こちらが話していることもすぐに理解するし、思考も素早く切り替わるから、見たもの聞いたことをつなぎあわせて唐突に思いがけない話をはじめるのはよくあることだ。そのひとつひとつはほとんどの場合、多くの人がふだん見過ごしているような些細な物事に対する観察や洞察から来るもので、彼がブログに書くレポートが面白いのもそのせいだろう。時々辛辣で、なのにユーモラスなのも彼の知性のなせる技だろうし、それが類のない美貌と組み合わせられているのはきわめて稀なことだ。
本人はそんな峡の思いをよそに「でも僕はただの庶民ですよ?」などというが、いまだに峡はこの子が――二〇歳も年下だとそう思ってしまうのは仕方ない――自分の横に立っているのを信じられない時がある。
もっとも朋晴にも弱点はあって、料理は苦手意識が強い。おいしいものが好きなあまり食レポを書きまくり、ベストレビュアーにもなっているくせに自分で作るのはからきしなのだ。だが峡のみるところ、料理がダメな理由の半分は勘違い――習得初期におかしなことを教えられて失敗し、怖気づいてしまったことで自分は向いてないと思いこんでいること――で、もう半分は経験不足だった。
だから並んでキッチンに立っていれば、観察力の鋭い彼のことだ、いずれ勝手に上達するにちがいない。そんなことを考えながらアボカドと玉ねぎを刻む峡のそばで、朋晴は「そういえばアボガドロ定数ってのがありましたよね」などと喋りはじめる。
たしかに聞き覚えはあるものの、いまやほとんど縁のない言葉に峡は苦笑し、ついつい朋晴をからかいたくなって「学生のころに習ったんだろう?」などといってしまう。つい最近だろう、などと続けたものだから、朋晴はぷくりと唇を尖らせて「最近ってことはないですよ」と反論してきた。
それが可愛くてどうしようもなく、峡はついにやにやしてしまう。いやらしいオヤジの顔になっているのではないかと不安になるが、幸い朋晴は気にしていないようだ。朋晴とキッチンに立っていると時々自分の年齢も忘れそうになるのだが、それがいいのかどうか。
ワカモーレを味見させると、朋晴はかたちのよい唇をすぼめるようにして嬉しそうにスプーンを舐めている。小動物にエサをあげているようだ。料理を味わう朋晴の表情はころころ変わるので見ているだけで楽しい。すこしひらいた唇はピンク色で、ちらりとのぞいた白い歯は峡を誘っているようにみえる。思わず唇を重ねた直後、これじゃ完全にセクハラエロオヤジではないか……と一瞬後悔するものの、さしだされた朋晴の舌に触れるとどうでもよくなって、しっかりキスをしてしまう。
四十も半ばになってから二〇歳年下の彼とこんなことになろうとは、峡自身はまったく予想していなかった。朋晴ほど魅力的なオメガなら、どんなアルファにも望まれるに決まっている。
それなのに彼は峡を選んだ。
たぶんそこが肝心なのだろう、と峡は思う。オメガの彼が「選べる」ことが重要なのだ。なぜなら今のような社会であってさえ、オメガのほとんどには実質的に選択の余地がないからだ。アルファ、オメガ、ベータの三性でオメガは絶対的に少数だし、つがいを持たないアルファはよほどおかしな事情がないかぎりオメガを求めるのがふつうである。そこにはかなりの頻度で「早い者勝ち」の論理が働く。シングルのオメガを先に獲ったものが勝ち、というわけだ。
アルファとオメガのカップルには、学校で幼少期から互いを知っていたとか生まれたときから家族ぐるみの付き合いをしていたとか、そういう場合が多いのもうなずけるし、名族は長年、きわめて稀なオメガの血統――峡が家来筋として仕える佐井家のような――を囲いこもうとしてきた。
藤野谷天藍と〈運命のつがい〉である甥の零の場合はさらに特殊な事情があった。しかし世の中には「選べない」ことにすら気づいていないオメガもたくさんいるのだ。研修医時代の峡が出会ったオメガ――アルファとまともに出会ったことがなかったあの子もそうだった。
あの子。そう彼を形容している自分に気づいて峡は苦笑いする。峡と一歳ちがいで、今はどこかでアルファと子供のいる家庭を築いているのに「あの子」もないものだ。記憶の中の彼の像は変わらず若いままだから、自分が歳をとっていくにつれて峡の中で彼は「あの子」として定着した。朋晴に出会った当初は、ふたりが重なってみえたこともないとはいわない。
しかしあの子と朋晴には決定的な違いがある。
休日の昼下がり、隣り合わせで座っていたはずの朋晴はいつの間にか峡の膝のあいだにいて、峡は彼の指を唇でなぞっている。以前贈った腕時計を朋晴は今日もつけていて、峡が薔薇を思わせる留め金をはずすと、白い手首の内側に跡がくっきりと浮かんでいる。そこに口づけするだけで朋晴の目尻が赤くなり、お喋りな口元がうっすらと扇情的にひらく。
「……峡さん……あ、」
「ん?」
朋晴はあの子とはまったく似ていない。あの子は峡にこんな顔をみせたことは一度もなかった。向こうから望んだにも関わらず、峡と体を重ねると、いつもどこかに苦痛を隠しているようだった。おかげで峡の愛撫は上達したかもしれない(今思うと予想だにしない効果だ)。しかしそれもひとりのアルファがあの子の前にあらわれるまでだった。
「この時計……いいですよね」
「知り合いの勧めだよ。俺は洒落たものなんてあまり知らないから」
「僕はすごく好き……」
実はあの時計を買ったショップは上司の真壁が教えてくれたのだった。真壁は医療系の職種に似合わない洒落者のアルファで、新しい流行をよく知っている。趣味のいい贈り物を探しているとひとこと峡がもらしただけで、すぐにいくつかの候補を挙げた。峡より十歳ほど年下で、やや軽々しいところもあるが、本来性格のいい人間だと峡は思っている。上司としても悪くない。
実家が名族の家来筋だった峡は特殊な働き方をせざるを得なかった。資産家の名族なら専門職の家来筋はまるごと家業の雇用で抱えこむのだろうが、佐井家のような資産のない家ではそうもいかない。しかし何か事があれば本家のために駆り出される以上、普通のベータの出世コースなど望めないし、専門職の免許があってもそれでやっていけるとも限らない。
峡のようなベータの事情を理解しないアルファはざらにいるが、真壁はこの点正反対だった。彼自身が家来筋に近いところにいて、内情を知っているのかもしれない。
もっとも朋晴は真壁を煙たがっているが、あれはタイミングが悪かったとしかいいようがなかった。しかしあのとき峡が懸念したことはすべて外れた。朋晴は真壁を選ぶことはなかった。アルファであっても。
薔薇の時計を買った小さな店は、新しいファッションビルが立ち並ぶ街並みの真ん中にひとつだけ残された古い団地の一角にあった。文化財クラスの古い建物をリノベーションし、新進ブランドのアトリエやショップを集めているのだった。店の入口脇には蔓薔薇が植えられ、小さな白い花をびっしりと咲かせていた。
「蔓薔薇と他の薔薇――木のようになった薔薇のちがい、お客様はご存知でしょうか?」
蔓薔薇がこのブランドのイメージなのだと、若い女性のショップ店員は峡に話をふってきた。
「いや」
「花屋さんでみる薔薇は四季咲きといいまして、一定の温度があれば蕾をつけて開花する薔薇なんです。だから冬でも温室で花を咲かせます。一方蔓薔薇は決まった季節しか花を咲かせませんし、安定して花をつけません。花が咲くとそこで蔓がのびるのは止まるのですが、花がつかない枝はずっと伸び続けます。薔薇というと大輪でぱっと、女王のように咲くイメージがあると思いますが、蔓薔薇には野生の自由があって、そのイメージをこめたんですね」
なるほど。それなら彼にぴったりだ。才気煥発で、縦横無尽で、矯められることを拒絶する、そんな彼に。
「あの薔薇は蔓薔薇なんだそうだ。元気に自由にのびる……」
膝にまたがってくる朋晴の胸元を指でいじりながら峡はささやく。
「峡さんだって元気ですよ」
朋晴はじれったそうに身をよじり、峡のシャツを開こうとしている。
「じらさないで……」
「俺は二十歳の元気なんてないよ」
「僕も二十歳はとっくに過ぎてますよ……あ……ん……」
蔓のように朋晴の腕が峡の背中に絡みつく。首筋から鎖骨、さらにその下へ、唇をゆっくりずらして峡は朋晴の肌を味わう。腕の中で甘い声があがるたびに花がひとつひとつ開いていくようだ。昼下がりの部屋は蔓の誘惑に負けるまま、ゆっくりと閉じていく。
シンクの前で朋晴が唐突にそんなことをいった。
隣でアボカドにナイフを入れていた峡は「ん?」とひとまず相槌をうつ。
朋晴はとても頭の回転が速い。こちらが話していることもすぐに理解するし、思考も素早く切り替わるから、見たもの聞いたことをつなぎあわせて唐突に思いがけない話をはじめるのはよくあることだ。そのひとつひとつはほとんどの場合、多くの人がふだん見過ごしているような些細な物事に対する観察や洞察から来るもので、彼がブログに書くレポートが面白いのもそのせいだろう。時々辛辣で、なのにユーモラスなのも彼の知性のなせる技だろうし、それが類のない美貌と組み合わせられているのはきわめて稀なことだ。
本人はそんな峡の思いをよそに「でも僕はただの庶民ですよ?」などというが、いまだに峡はこの子が――二〇歳も年下だとそう思ってしまうのは仕方ない――自分の横に立っているのを信じられない時がある。
もっとも朋晴にも弱点はあって、料理は苦手意識が強い。おいしいものが好きなあまり食レポを書きまくり、ベストレビュアーにもなっているくせに自分で作るのはからきしなのだ。だが峡のみるところ、料理がダメな理由の半分は勘違い――習得初期におかしなことを教えられて失敗し、怖気づいてしまったことで自分は向いてないと思いこんでいること――で、もう半分は経験不足だった。
だから並んでキッチンに立っていれば、観察力の鋭い彼のことだ、いずれ勝手に上達するにちがいない。そんなことを考えながらアボカドと玉ねぎを刻む峡のそばで、朋晴は「そういえばアボガドロ定数ってのがありましたよね」などと喋りはじめる。
たしかに聞き覚えはあるものの、いまやほとんど縁のない言葉に峡は苦笑し、ついつい朋晴をからかいたくなって「学生のころに習ったんだろう?」などといってしまう。つい最近だろう、などと続けたものだから、朋晴はぷくりと唇を尖らせて「最近ってことはないですよ」と反論してきた。
それが可愛くてどうしようもなく、峡はついにやにやしてしまう。いやらしいオヤジの顔になっているのではないかと不安になるが、幸い朋晴は気にしていないようだ。朋晴とキッチンに立っていると時々自分の年齢も忘れそうになるのだが、それがいいのかどうか。
ワカモーレを味見させると、朋晴はかたちのよい唇をすぼめるようにして嬉しそうにスプーンを舐めている。小動物にエサをあげているようだ。料理を味わう朋晴の表情はころころ変わるので見ているだけで楽しい。すこしひらいた唇はピンク色で、ちらりとのぞいた白い歯は峡を誘っているようにみえる。思わず唇を重ねた直後、これじゃ完全にセクハラエロオヤジではないか……と一瞬後悔するものの、さしだされた朋晴の舌に触れるとどうでもよくなって、しっかりキスをしてしまう。
四十も半ばになってから二〇歳年下の彼とこんなことになろうとは、峡自身はまったく予想していなかった。朋晴ほど魅力的なオメガなら、どんなアルファにも望まれるに決まっている。
それなのに彼は峡を選んだ。
たぶんそこが肝心なのだろう、と峡は思う。オメガの彼が「選べる」ことが重要なのだ。なぜなら今のような社会であってさえ、オメガのほとんどには実質的に選択の余地がないからだ。アルファ、オメガ、ベータの三性でオメガは絶対的に少数だし、つがいを持たないアルファはよほどおかしな事情がないかぎりオメガを求めるのがふつうである。そこにはかなりの頻度で「早い者勝ち」の論理が働く。シングルのオメガを先に獲ったものが勝ち、というわけだ。
アルファとオメガのカップルには、学校で幼少期から互いを知っていたとか生まれたときから家族ぐるみの付き合いをしていたとか、そういう場合が多いのもうなずけるし、名族は長年、きわめて稀なオメガの血統――峡が家来筋として仕える佐井家のような――を囲いこもうとしてきた。
藤野谷天藍と〈運命のつがい〉である甥の零の場合はさらに特殊な事情があった。しかし世の中には「選べない」ことにすら気づいていないオメガもたくさんいるのだ。研修医時代の峡が出会ったオメガ――アルファとまともに出会ったことがなかったあの子もそうだった。
あの子。そう彼を形容している自分に気づいて峡は苦笑いする。峡と一歳ちがいで、今はどこかでアルファと子供のいる家庭を築いているのに「あの子」もないものだ。記憶の中の彼の像は変わらず若いままだから、自分が歳をとっていくにつれて峡の中で彼は「あの子」として定着した。朋晴に出会った当初は、ふたりが重なってみえたこともないとはいわない。
しかしあの子と朋晴には決定的な違いがある。
休日の昼下がり、隣り合わせで座っていたはずの朋晴はいつの間にか峡の膝のあいだにいて、峡は彼の指を唇でなぞっている。以前贈った腕時計を朋晴は今日もつけていて、峡が薔薇を思わせる留め金をはずすと、白い手首の内側に跡がくっきりと浮かんでいる。そこに口づけするだけで朋晴の目尻が赤くなり、お喋りな口元がうっすらと扇情的にひらく。
「……峡さん……あ、」
「ん?」
朋晴はあの子とはまったく似ていない。あの子は峡にこんな顔をみせたことは一度もなかった。向こうから望んだにも関わらず、峡と体を重ねると、いつもどこかに苦痛を隠しているようだった。おかげで峡の愛撫は上達したかもしれない(今思うと予想だにしない効果だ)。しかしそれもひとりのアルファがあの子の前にあらわれるまでだった。
「この時計……いいですよね」
「知り合いの勧めだよ。俺は洒落たものなんてあまり知らないから」
「僕はすごく好き……」
実はあの時計を買ったショップは上司の真壁が教えてくれたのだった。真壁は医療系の職種に似合わない洒落者のアルファで、新しい流行をよく知っている。趣味のいい贈り物を探しているとひとこと峡がもらしただけで、すぐにいくつかの候補を挙げた。峡より十歳ほど年下で、やや軽々しいところもあるが、本来性格のいい人間だと峡は思っている。上司としても悪くない。
実家が名族の家来筋だった峡は特殊な働き方をせざるを得なかった。資産家の名族なら専門職の家来筋はまるごと家業の雇用で抱えこむのだろうが、佐井家のような資産のない家ではそうもいかない。しかし何か事があれば本家のために駆り出される以上、普通のベータの出世コースなど望めないし、専門職の免許があってもそれでやっていけるとも限らない。
峡のようなベータの事情を理解しないアルファはざらにいるが、真壁はこの点正反対だった。彼自身が家来筋に近いところにいて、内情を知っているのかもしれない。
もっとも朋晴は真壁を煙たがっているが、あれはタイミングが悪かったとしかいいようがなかった。しかしあのとき峡が懸念したことはすべて外れた。朋晴は真壁を選ぶことはなかった。アルファであっても。
薔薇の時計を買った小さな店は、新しいファッションビルが立ち並ぶ街並みの真ん中にひとつだけ残された古い団地の一角にあった。文化財クラスの古い建物をリノベーションし、新進ブランドのアトリエやショップを集めているのだった。店の入口脇には蔓薔薇が植えられ、小さな白い花をびっしりと咲かせていた。
「蔓薔薇と他の薔薇――木のようになった薔薇のちがい、お客様はご存知でしょうか?」
蔓薔薇がこのブランドのイメージなのだと、若い女性のショップ店員は峡に話をふってきた。
「いや」
「花屋さんでみる薔薇は四季咲きといいまして、一定の温度があれば蕾をつけて開花する薔薇なんです。だから冬でも温室で花を咲かせます。一方蔓薔薇は決まった季節しか花を咲かせませんし、安定して花をつけません。花が咲くとそこで蔓がのびるのは止まるのですが、花がつかない枝はずっと伸び続けます。薔薇というと大輪でぱっと、女王のように咲くイメージがあると思いますが、蔓薔薇には野生の自由があって、そのイメージをこめたんですね」
なるほど。それなら彼にぴったりだ。才気煥発で、縦横無尽で、矯められることを拒絶する、そんな彼に。
「あの薔薇は蔓薔薇なんだそうだ。元気に自由にのびる……」
膝にまたがってくる朋晴の胸元を指でいじりながら峡はささやく。
「峡さんだって元気ですよ」
朋晴はじれったそうに身をよじり、峡のシャツを開こうとしている。
「じらさないで……」
「俺は二十歳の元気なんてないよ」
「僕も二十歳はとっくに過ぎてますよ……あ……ん……」
蔓のように朋晴の腕が峡の背中に絡みつく。首筋から鎖骨、さらにその下へ、唇をゆっくりずらして峡は朋晴の肌を味わう。腕の中で甘い声があがるたびに花がひとつひとつ開いていくようだ。昼下がりの部屋は蔓の誘惑に負けるまま、ゆっくりと閉じていく。
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