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1章 セレン・フォーウッド
14 抱きしめられなくとも
しおりを挟む息がようやく整ってきた。全速力で走ったのなんて子供の頃ぶり……いや、前世の子供の頃ぶりかもしれない。
リスター家の馬車は私たちの家に向かっている。
身体が落ち着いてくると、無性に落ち着かなくなる。副所長のぎらついた瞳やべったりした指の感触を思い出して。せっかく息は落ち着いたのに。
流れるようにいろんなことが起きて戸惑いがほとんどを占めていたけど、今になって身体が震えそうになる。
「セレン」
優しい声に導かれて隣を見るとレインが心配そうにこちらを見つめていた。
「……大丈夫よ」
そう答える私の声音はちっとも大丈夫そうではなかった。
「うん」
レインはそれしか言わず、私の右手に自分の左手を重ねた。重ねられて初めて手が震えていることに気がつく。
「レイン、」
アレルギーは大丈夫なの?と聞こうとしたけれど、彼の瞳がそれを制止した。
「手を繋ぐ、はもうクリアしているよ」
「グローブも手袋もしていないわ」
「さっきも問題なかったから」
「でも……」
でも、私も今はこの手を離さないで欲しいと思ってしまった。指先から熱が伝わっていって、ガチガチにかたまっていた身体がほぐれていく気がする。
「本当は抱きしめられたらいいんだけど」
レインは苦笑するから、私は首を振った。
「ううん、さっきはありがとう」
さっき、強い風から私を引っ張り出してくれた。そのまま抱き留めてくれた。砂や石から私を守ってくれた。それだけでも、彼にとっては命がけだったはずだ。
助けるために抱きしめるのと、二人で並んで抱きしめるのでは、全く違う。
こうして手を重ねてくれるだけでいい。手の温度だけで泣きたくなる。
「レイン、ありがとう」
いつしか気持ちは凪いでいる。あんなに心の中はめちゃくちゃくに吹き荒れていたのに。指先の熱だけでこんなに穏やかになるなんて。
「無事でよかった」
私もレインもそれ以上は何も話さなかった。
・・
帰宅した私たちは使用人たちにすぐに綺麗にされた。全身土だらけだったのだ。
カーティス以外にも治癒魔法が使える使用人もいて、擦り傷や縛られた手足の痣などを全て治療し終えると心のざらつきも洗い流されて塞がってきていた。
そして同じ頃、カーティスも帰宅した。
「カーティス、おかえりなさい!あなたの身体は!?」
「レイン様もセレン様も無事でよかったです。私ももう問題ありませんよ」
カーティスも土だらけで、風で傷ついて服もボロボロだけどもう傷はないみたいだ。帰ってくるまでに治療したのだろう。
「アントニー・デイビーズは騎士団に引き渡しました」
カーティスの言葉に安堵する。隣でレインもほっとした表情を見せた。
「あの脅迫状は母の嫌がらせだと思ったんだ、色々な可能性を考えず危険にさらしてすまなかった」
「私も副所長――デイビーズの思惑には全く気付かなったから」
レインはまだ申し訳なさそうな表情をしている。
「どうしてあの男はセレンを……」
「セレン様のことが好きだったようですよ。愛情が暴走したんですね、連行される時もずっと愛を叫んでいましたから。結婚したことが許せなかったそうです」
「そうか……」
副所長はどんなことを叫んでいたんだろう。転生だとか、美少女ゲームだとかおかしなことを言っていないだろうか。少し気になるがあまり突っ込んで、私がおかしいと思われるのも困る。
転生。副所長の衝撃的な告白はその後の騒動で忘れていたけど。
彼の言うことが本当ならば。私は、悪役令嬢ではないらしい。外見から勝手にそう判断していたけれど。
しかも原作は既にエンディングを迎えている段階で。主人公はリリーの夫で、リリーをヒロインとして選んで結婚している。ゲームの内容は知らないけれどハッピーエンド後だ。
彼の言い方では私の設定は原作とはだいぶ変わっているみたいだし、レインはモブなのだと言う。
――レインと結ばれるヒロインは、存在しない。ということ?
……よかった。
シンプルすぎる感情がこぼれた。
私は、心のどこかで怯えていたんだ。
少しずつレインに触れることができて、触れてもらえて。少しずつ、でも着実に二人で積み上げていったものが。
私とレインの時間がなかったみたいに全部消えて、彼の心が一瞬で溶けてしまうんじゃないかって。
レインのアレルギーが治るなら。触っても問題ない女性が現れるなら。それが一番いいはずなのに。ヒロインが登場しないことに、よかった、と思ってしまう。なんて身勝手な醜い感情なのかしら。
――いつかセレンと本当の夫婦になりたい。
レインの言葉を思い出す。隣で歩いて、手を繋いで、彼はそう言った。
どくん、と心臓が音を立てる。
いつか登場するかもしれないヒロインに怯えて、気づいていたけど気づかないふりをしていた想い。
信じてみたい。私も願いたい、同じことを。
「そういえば」
カーティスが懐中時計を取り出した。もう日付が変わっている。
「お二人が素手で手を繋いだり、レイン様がセレン様を抱き寄せたりしてから三時間は経過していますね」
「本当だ」
「あの時どれくらい手を繋いで、抱き寄せていましたかね?」
「覚えてるわけないな」
もちろん私も覚えていない。カーティスはいつも記録をつけている手帳を取り出して、なんと記録をつけていいか困っているようだ。
「まあどちらも人助けの現場ですしね、スキンシップというわけでないので記録はやめておきましょうか」
「ああでも、帰りの馬車で手を繋いだ。二十分くらいかな?」
手帳を閉じようとしていたカーティスが少し目を見開く。
「では『素手で手を繋ぐ』はクリアですね。それは完全にスキンシップですから」
そう言われると途端に恥ずかしくなってレインを見やると、レインも咳払いをして視線を漂わせた。
「おや?おやおや」
カーティスはニコニコしながら私たちを見比べる。
「今日は大変な夜でしたけど、収穫はあったみたいですね」
「カーティス、面白がるな。セレンは本当に大変な目に遭ったんだから」
「レインもう私は大丈夫よ」
私が言うとようやくレインも表情を和らげてくれた。
「とりあえず今日は休もう。明日は仕事も休んで。私も休むから」
そして私の肩に羽織りものをかけてくれる。後ろを振り向くと微笑んでくれる。
直接抱きしめられなくても、抱きしめてもらった気がした。
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