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2章 レイン・リスター
17 重なる影
しおりを挟むそれから二日間。
私たちはリゾート地を堪能した。
船に乗ってもっと沖の方まで出てイルカを見てみたり、ガラス工房でペアグラスを購入したり、今度こそシーフードのお店で食事をすることもできたし、大好きなフルーツをたくさん食べた。
とても楽しかった。……表面的には。
普段はできないような体験ができて、思い出の品も購入できて、美味しいものもたくさん食べて。
どれもとても楽しかったのだけど、レインと私の間には見えない壁があるようで。
原因はあの夜のアナフィラキシーショックしかない、と思う。
レインと私は距離も心も近づいて、もう私にはアレルギー症状が出ないのかも、なんて自惚れた気持ちがあったのだと思う。
まさかあんなに酷いショック症状が出るなんて予想していなかったので、正直落ち込んでいないとは言えない。
でも私の何倍もレインは傷ついていたように見えた。
レインはこの二日間にこやかに笑顔を浮かべているけれど、出会ったときのような笑顔だ。
誰に対しても穏やかに紳士的に接するけど、決して誰ともダンスを踊らない壁の花時代のレインだ。
ここ最近は当たり前のように繋いでいてくれた手が。もう触れることもない。
「本日の宿はビーチが素敵なんですよ」
今夜の宿に着いたところで、カーティスが切り出した。
「夕焼けが素敵なようなので、お二人で散歩してきたらどうでしょうか?夕飯まではまだ結構時間がありますし」
そろそろ夕暮れ時だ。見なくても素敵な光景が広がることは容易に想像できる。それにこうしてカーティスが提案してくれた理由もわかる。
「レイン、どうかしら?もう明日帰るだけだし行ってみたい」
レインを見ると、彼は少し困った笑顔になる。もう私と二人でいるのは怖いのかもしれない……と不安がこみあげてくるけど「いいよ、行こうか」と初めて会ったときのような笑顔を浮かべた。
・・
「すごくきれいな砂浜ね」
この旅で出会った海は、船場ばかりだったからビーチを歩くのは初めてだ。サラサラの白い砂浜がずっと伸びている。そして砂浜の向こうには大きな海が。まだ空は青く明るいが、これからオレンジが訪れると思うと胸が高鳴る。
「うん、きれいだね」
私の数歩前を歩くレインも海をじっとみている。今日も手は、繋いでくれない。
このままでは私たちは、本当に仮面夫婦になってしまう。
「レイン」
私はレインを呼んだ。レインが振り向く。風にサラサラと白髪が揺れる。
「手を、繋いでみませんか」
私はレインに手を差し出した。穏やかな微笑みは消えて、レインは差し出した手をじっと見つめる。
「嫌だったら遠慮せずに断ってほしい。アレルギーのこともあるし体調もあるから。でも私のことを気遣って、距離を取ろうとしているなら……私は傷つかないから」
二日間のレインを見て思った。彼は優しいから、私を思って傷ついているんじゃないかって。私の気持ちを想像してあえて離れようとしているんじゃないかって。
「レイン」
私は精一杯の笑顔を作って、彼に手を伸ばした。
「ごめん」
レインが一歩近づく。「セレンにそんな顔をさせたいわけじゃなかったのに」
そして、ためらいながらも私の手を取った。
「ありがとう、レイン」
「ううん、本当にごめん」
「謝らないで。レイン、話したいことがあるの。散歩しながらでいいから聞いてくれる?」
人と本音で話すのは怖い。気持ちをぶつけるのは怖い。臆病で弱気な私には自分の意見を言うのは本当に怖い。
前世でようやく自分の気持ちを伝えられた時は、全てなくしてしまった後だった。
だから、大切な人には、伝えたい今。壊れてしまった後では遅いから。
レインをまっすぐ見ると、レインも見つめ返してくれる。そして私たちは歩き始めた。
「実は私ね、少しだけ前世の記憶があるの」
これを話してどうなるのか、少し悩んだ。でも私の気持ちをまず話さないと。私の正直な気持ちを全部伝えないと。
「前世……?」
レインは予想外と言った様子で私の顔を見る。脈略もなくそんなことを言い出すなんて普通に考えたら変だ。
「思い出したのはつい最近なんだけどね。以前『誰かを愛すのが怖い』って言ったのを覚えている?」
「うん」
「あれはどうやら前世のことだったみたいなの。前世でその時の夫と友人に裏切られていて、それが今も残ってしまっていたみたい」
「前世で……」
「情けないでしょ、死ぬ前のことにずっと傷ついて……」
「そんなことないよ」
「正直怖い気持ちもまだある。でも今レインといて。私はもう一度、愛したいし、信じたい」
私の言葉にレインは立ち止まり、私をじっと見た。レインの後ろの空が少しずつオレンジに染まっていく。
「レインのことが好きなの。一緒にいると気持ちが楽になるの。今までずっと一人で暮らしてきたけど、二人でいるのがこんなに楽しくて、それなのに一人と同じくらい楽だなんて初めて知った。
レインが抱えているものは大きいものだと思う。でもあなたの行動では、私は傷つかないから。ゆっくりでいいから、夫婦として一緒に歩んでいきたい」
レインの瞳が揺れる。白髪がオレンジに染まる。
「セレン、ありがとう」
そう言って微笑むレインの笑顔はもう偽物じゃない。
「私もセレンが好きだよ。私は女性が怖い。特に好意を抱かれるのは怖い。でも、セレンには好きになってほしいと思うし、こうして言葉にしてもらうとこんなに嬉しいことなのかって思う」
レインもまっすぐ私を見つめて伝えてくれる。
「私はこんな体質のくせにセレンに触れたいって思うんだ。セレンがどんな反応になるか見たかったり、もっとただ純粋に触れたいとも思うし。これって恋なのかな?」
「私もわからない。でもレインに触れてもらえると満たされる、気持ちが」
「それじゃあセレンも恋なのかもしれないね」
二人とも二十を超えているというのに、恋の一つもわからない。それがおかしくて二人で小さく笑う。
「でも私はセレンを抱きしめられないかもしれない、いつまでたっても」
レインは真面目な顔になる。夕日が強く彼の顔を照らしていく。
「いつかレインに抱きしめてほしいって思う日が来るかもしれない」
こんなこと言ったらプレッシャーになるかもしれない。
でも、全部伝えてみよう。きっとレインは私の心の奥まで気遣ってくれるから。心の中に少しでも隠している気持ちが残っていれば、すれ違ってしまう気がした。
「でも、たとえ触れられなくてもレインがいいの。……キスをして、抱いてくれる、それができる夫が素晴らしい夫だとは思わない」
思わず前世の夫を思い出してしまう。義務的な行為に意味はない。
キスをして、行為をして。それで愛ははかれない。愛を誓っていない相手にも平気でできることなのだから。
「触れられなくても、私の心に隙間はないの。いつもレインが優しさで満たしてくれるから。抱きしめるよりもキスするよりも、難しくてうれしいことよ。大切にしてくれるのは伝わっているから」
「大切にするよ絶対に。……でも」
レインは真剣な表情で続けた。
「キスをするとかそれ以上の愛情表現が「大切にする」に含まれることもあると思うんだ」
それには思い当たることがある。キスをされたり、抱きしめられることで満たされることもあることを私は知っている。それがない日々がどれだけつらかったかも。
「だから、やっぱりいつかはこの体質を治したい。セレンが触れて欲しいと思っているからだけじゃないよ、私だってセレンに触れたいんだ」
そう言ってレインはぎゅっと私の手を強く握った。私も握り返してみる。
「一緒ね。これからは一人で悩まないで欲しい。こないだの夜のように、うまく距離がはかれなくて結果的に失敗になることもあると思う。でも私は傷つかないから」
「うん」
「時間はたくさんあるから焦らなくていいの。抱きしめることが出来るようになる日がおじいちゃんやおばあちゃんになってもいいわ。私はそれまでレインといたいから」
レインはくしゃっとした顔で笑った。子供のような笑顔だ。
「ふふ、こういう時にこそ抱きしめたいって思うのになあ」
「思ってもらえているだけで嬉しいわ」
「私もずっとセレンといたい」
身体がぴったりとくっつかなくてもいい。オレンジの空はピンクに変わり、私たちの影は重なっている。
「セレン、私の話も聞いてくれる?楽しい話ではないけど」
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