ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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番外編① Shall we dance? ー田畑さんのお話

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 香耶が「お見合い」を設定してくれたのは、合コンの二週間後の金曜だった。
 香耶は親戚がダンス教室を営んでいるのだが、その教室に通い始めた生徒らしい。
 「お見合い」とは組む相手を探すための相性確認のようなものだ。業界用語ではあるが、確かに結婚相手を探す「お見合い」にかなり近い感じはある。
 挨拶を交わし、手を取り、簡単なステップを踏む。
 好きなステップ、相手の癖やダンスの感性はリードからもなんとなく察しがつくものだ。

(いい人だといいなぁ)

 金曜の夜、期待に胸を高鳴らせながら定時退社しようと席を立ったさおりは、廊下で手洗いから戻って来る春日とすれ違った。

「あ、お疲れさまです」

 言うさおりをちらりと見下げ、

「……デートか?」
「はっ? いや、違います」
「ふぅん」

 わくわくしているのが外に出ていたのかもしれない。そう思ってさおりは顔を引締める。
 春日はどこかおもしろくなさそうな表情のまま、行ってしまった。
 さおりは立ち止まり、振り返る。

「あの、春日さん」

 その背に声をかけたのは、かなり反射的だった。
 春日が立ち止まり、振り向く。
 そのとき、不意に想像してしまった。
 さおりは小さなときめきに、唇をきゅっと引き締める。

(絶対、絶対、似合う。ーー燕尾服)

 着せたい。この人の燕尾服姿、見たい。
 ついにやけそうになる顔を引き締め、口を開いた。

「私がデートだと、おもしろくないですか?」

 さおりはまっすぐに春日の目を見ていた。
 眼鏡の奥の目が動揺し、一瞬宙をさまよってから、さおりを睨みつける。

「どうして」
「だって、そういう感じだったから」
「お前がどんな男と会おうが何をしようが、俺と関係ないだろう」
「ほんとに?」

 さおりはじっと、春日を見つめる。
 その感情の動きを、ごくわずかでも見逃さないとばかりに。
 春日はさおりの視線を受け止めかねたように、目を反らした。
 さおりは手にした鞄の持ち手を、ぎゅっとにぎりしめる。
 ぺこりと頭を下げた。

「お疲れさまです。お先に失礼します」

 言って背を向け、走り出そうとしかけて、やめた。
 ばたばた走っては、あまりに優雅さに欠ける。
 ダンスで慣れた7センチヒールのパンプスでリノリウムの床をたたきながら、さおりは颯爽とオフィスを後にした。

 * * *

『あっ、もしもし、さおりー?』
「もしもし」

 翌週、月曜の昼休み。
 廊下に出たさおりは、大変不機嫌な声で、香耶の電話に応対していた。

『ごめんね、そのーー』
「いいよ、別に」
『でも、声すごい不機嫌』
「そりゃそうでしょ」

 さおりは深々と息を吐き出した。

「だって素敵な人だったのに。まさか先に、他の人とお見合いしちゃってるなんて」
『いや、私も聞いてなかったのよ。前日のレッスンで急にまとまっちゃったんだって。ほんとごめん』

 さおりは手すりに頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺める。
 紅葉した銀杏の葉が、道を黄色く彩っていた。
 さおりはつくづく、ため息をつく。

「はぁ……楽しみにしてたのになぁ」
『だから、ごめんって……! また次の人探してあげるから!』
「もーいいよぉ。何か期待した分、疲れちゃった。香耶が言うように、婚活がんばってみようかなぁ」
『さおり……』

 香耶はフォローしようとした後で、気を改めたようだった。
 ちょうどそのとき、横を春日が通ったので、さおりは目で会釈する。春日は黙って過ぎ去った。

『それもいいかもね』
「婚活?」
『うん』

 香耶は頷く。

『だって、さおりの夢は、ただダンスすることじゃないでしょ』

 さおりは黙った。香耶は続ける。

『さおりのおじいちゃんとおばあちゃんみたいに、夫婦でずっとダンスすることなんでしょ』

 さおりは目を閉じた。
 歩けなくなるまで、二人で寄り添い立つ祖父母の姿。
 軽やかな音楽に合わせて手を重ね、互いを気遣いながら踊る二人。
 口元が緩んだ。

「……そうだね」

 さおりは頷く。ふと、もう事務室に入って行った先輩の姿を思い返した。

「そうだね。そうしてみる」

 口元に笑みを浮かべ、電話を切った。
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