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5A会議室に行くには、庶務課の前を通る。
「田畑さん、お疲れさま」
小野田が一声かけると、田畑が振り向いた。
小野田の顔を見た途端、目が輝く。切れ長の目を細めて田畑が礼を返した。
「小野田課長。お疲れさまです」
(あれ?)
春菜は意外な思いがした。容姿が変わった小野田を見た人は、ほとんど脳内検索するタイムラグの後に挨拶を返す。小野田が庶務課に顔を出すことはほとんどないので、田畑がきちんとしたなりを見るのは初めてだと思うのだが、驚いた様子はなかった。
こんなに変わったので、まったく噂が立っていないとも思えない。出勤のときなどにでも見かけたのだろうか。
「随分すっきりされたんですね。素敵です」
デスクから立ち上がった田畑は微笑みながら言った。ということは、やはり容姿が変わった小野田を初めて見るのだろう。それでも全く動揺した様子はなかったことと、その大人な物言いに、春菜は感心する。たった一つ上なだけのはずだが、とてもそうとは思えない。
「そうかな、ありがとう」
小野田が微笑みを返した。フロアに残っていた他の社員の目も、ちらりちらりと二人へ向く。春菜の頭一つ上で、二人の目線が合わさっていることに、なんとなく居心地の悪さを感じた。
「ええと。私行ってきます」
「こらこら。僕も行くって言ったでしょう」
二人の邪魔にならないようにと、つつつと会議室へ足を向けた春菜の肩に、小野田の手が触れた。
その瞬間、ずきり、と無視できないほどの胸の痛みを感じて、身体中がすくむ。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「すみません、うちのミスで」
「いやいや、お互い様だよ」
小野田と田畑がまた頭上で言い合うのを遠くに聞きながら、春菜は小さくなって小野田の後ろに続いた。
会議室につくと、会計課の社員は案の定嫌そうな顔で出てきた。
「定時って言っても、まだ一時間しか過ぎてないじゃないですか。IT推進課はいつももう帰れてる時間ですか?うらやましいことです」
ちくちくと言われる厭味を、小野田は微笑みながら流す。
「うちがいつまで残っているかはその時次第ですが、会計課さんがいつもお忙しいのは承知しています。とはいえ、明日の会議は重役も参加するもので設営の遅れや不備があったら他の部署にご迷惑になりますから、すみませんが譲っていただけませんか。資料を運ぶのに人が必要ならお手伝いします」
「そんな大事な会議なら、部屋の予約くらいきちんとしとけよ」
春菜は小野田の後ろで小さくなった。
「すみません。これからは気をつけます」
「ったく」
「ご迷惑おかけします」
小野田が丁寧に頭を下げた。うつむいたままの春菜の肘上を、小野田の手が軽く覆う。服越しにわずかな温もりを感じたとき、手は離れた。
「……すみません」
「何が?」
「頭、下げさせてしまって」
申し訳なさで顔を上げられない春菜の方を、小野田はきょとんとして見ている。
かと思うと、ふっと破顔した。
「小松さんって」
小野田は手で口を覆いつつ、くすくすと笑う。
「なんていうか……バカ真面目だね」
春菜は表情が歪むのを自覚した。
「バカは余計です」
「ああ、ごめん。生真面目、にしといて」
「しときません。傷つきました。明日佐藤さんと三原さんに慰めてもらいます」
小野田がえーと首を傾げた。が、その顔は穏やかに笑っている。
ぎゅうと春菜の胸を何かが締め付けた。息苦しさに泣きそうになる。
「どうせバカですもん」
ふいと顔を反らして、春菜は言った。そうでもしなければ、また妙な顔を見せることになりそうだったからだ。
ーー切なさに泣き崩れそうな。
「バカじゃないよ。バカ真面目って言ったんだよ」
「バカはバカでしょう」
「何バカバカ言ってんの。小野田、荷物運ぶの手伝ってよ」
中から段ボールを抱えて出てきたのは、目つきの悪い眼鏡の男だった。
「あ、春日。やっぱりいたんだ。最初から出てきてくれればいいのに」
「だったらご指名するんだな。早く部屋開けたいんなら手伝え」
男は小野田の手に、自分が持った箱を押し付ける。身長の高い小野田と同じくらいの背の高さだ。
春菜がきょとんとしていると、小野田が苦笑した。
「同期。ごめんね、態度悪くて」
「聞こえてんぞ」
春日と呼ばれた男はまた違う箱を持って出てきた。
「つーかお前、見た目は変えない主義じゃなかったの」
「そんなこと言ったっけ」
「言ったよ。外見が変わっても中身は変わんないんだから、外だけ変えても意味ないって、鼻で笑ってたじゃないか」
「そうだったかなぁ」
小野田は曖昧に答えながら、男の後ろについていく。
「僕らも若かったよねぇ」
「まだ30過ぎたばっかだ。年寄り臭いこと言ってんじゃねぇ」
「そうだけどさぁ。春日、相変わらず奥さんとテニスやってるの?」
「減らず口叩くな。とっとと会場設置して帰れ」
「春日こそ帰りたいでしょ、スイートホーム」
「殴るぞ」
「暴力反対」
いつも冷静で穏やかな小野田が、ずいぶんと多弁である。いじられるタイプかと思っていたのだがいじるタイプらしい。意外な面を見たと思いながら春菜がぼんやり立っていると、春日という男が声をかけてきた。
「おい、そこの。小野田んとこのだろ。5Bの鍵開けて。これ」
鍵をひょいと投げて来る。春菜は驚きながらそれを受け取り、隣にある5B会議室のドアを開けた。
「女性に対して指示語で呼ぶのはどうかと思う」
「じゃあなんて呼ぶんだよ。おい、とでも呼ぶのか」
「それじゃ亭主関白な夫婦みたいじゃないか。家でそんな呼び方するの」
「する訳ねぇだろ」
「じゃあなんて呼ぶの」
「お前に教える必要性がない」
「おやおや、照れちゃって」
そんな二人の会話は夫婦漫才みたいなんですけど、と思いつつ、春菜は二人の様子を伺っていた。
荷物を置いた二人は、また5A会議室へ向かう。
「私もお手伝いできますけど」
「ああ?とりあえず邪魔にならないとこに立ってろ」
「春日」
睨むような目線を返されて怯んだとき、小野田の鋭い声が男を呼んだ。春日はぎくりと小野田を見やる。表情は笑顔のままだったが、その目はまったく笑っていなかった。
「それは言いすぎだろう」
「ああ……悪かった」
春日は居心地悪そうに目をそらした。
「田畑さん、お疲れさま」
小野田が一声かけると、田畑が振り向いた。
小野田の顔を見た途端、目が輝く。切れ長の目を細めて田畑が礼を返した。
「小野田課長。お疲れさまです」
(あれ?)
春菜は意外な思いがした。容姿が変わった小野田を見た人は、ほとんど脳内検索するタイムラグの後に挨拶を返す。小野田が庶務課に顔を出すことはほとんどないので、田畑がきちんとしたなりを見るのは初めてだと思うのだが、驚いた様子はなかった。
こんなに変わったので、まったく噂が立っていないとも思えない。出勤のときなどにでも見かけたのだろうか。
「随分すっきりされたんですね。素敵です」
デスクから立ち上がった田畑は微笑みながら言った。ということは、やはり容姿が変わった小野田を初めて見るのだろう。それでも全く動揺した様子はなかったことと、その大人な物言いに、春菜は感心する。たった一つ上なだけのはずだが、とてもそうとは思えない。
「そうかな、ありがとう」
小野田が微笑みを返した。フロアに残っていた他の社員の目も、ちらりちらりと二人へ向く。春菜の頭一つ上で、二人の目線が合わさっていることに、なんとなく居心地の悪さを感じた。
「ええと。私行ってきます」
「こらこら。僕も行くって言ったでしょう」
二人の邪魔にならないようにと、つつつと会議室へ足を向けた春菜の肩に、小野田の手が触れた。
その瞬間、ずきり、と無視できないほどの胸の痛みを感じて、身体中がすくむ。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「すみません、うちのミスで」
「いやいや、お互い様だよ」
小野田と田畑がまた頭上で言い合うのを遠くに聞きながら、春菜は小さくなって小野田の後ろに続いた。
会議室につくと、会計課の社員は案の定嫌そうな顔で出てきた。
「定時って言っても、まだ一時間しか過ぎてないじゃないですか。IT推進課はいつももう帰れてる時間ですか?うらやましいことです」
ちくちくと言われる厭味を、小野田は微笑みながら流す。
「うちがいつまで残っているかはその時次第ですが、会計課さんがいつもお忙しいのは承知しています。とはいえ、明日の会議は重役も参加するもので設営の遅れや不備があったら他の部署にご迷惑になりますから、すみませんが譲っていただけませんか。資料を運ぶのに人が必要ならお手伝いします」
「そんな大事な会議なら、部屋の予約くらいきちんとしとけよ」
春菜は小野田の後ろで小さくなった。
「すみません。これからは気をつけます」
「ったく」
「ご迷惑おかけします」
小野田が丁寧に頭を下げた。うつむいたままの春菜の肘上を、小野田の手が軽く覆う。服越しにわずかな温もりを感じたとき、手は離れた。
「……すみません」
「何が?」
「頭、下げさせてしまって」
申し訳なさで顔を上げられない春菜の方を、小野田はきょとんとして見ている。
かと思うと、ふっと破顔した。
「小松さんって」
小野田は手で口を覆いつつ、くすくすと笑う。
「なんていうか……バカ真面目だね」
春菜は表情が歪むのを自覚した。
「バカは余計です」
「ああ、ごめん。生真面目、にしといて」
「しときません。傷つきました。明日佐藤さんと三原さんに慰めてもらいます」
小野田がえーと首を傾げた。が、その顔は穏やかに笑っている。
ぎゅうと春菜の胸を何かが締め付けた。息苦しさに泣きそうになる。
「どうせバカですもん」
ふいと顔を反らして、春菜は言った。そうでもしなければ、また妙な顔を見せることになりそうだったからだ。
ーー切なさに泣き崩れそうな。
「バカじゃないよ。バカ真面目って言ったんだよ」
「バカはバカでしょう」
「何バカバカ言ってんの。小野田、荷物運ぶの手伝ってよ」
中から段ボールを抱えて出てきたのは、目つきの悪い眼鏡の男だった。
「あ、春日。やっぱりいたんだ。最初から出てきてくれればいいのに」
「だったらご指名するんだな。早く部屋開けたいんなら手伝え」
男は小野田の手に、自分が持った箱を押し付ける。身長の高い小野田と同じくらいの背の高さだ。
春菜がきょとんとしていると、小野田が苦笑した。
「同期。ごめんね、態度悪くて」
「聞こえてんぞ」
春日と呼ばれた男はまた違う箱を持って出てきた。
「つーかお前、見た目は変えない主義じゃなかったの」
「そんなこと言ったっけ」
「言ったよ。外見が変わっても中身は変わんないんだから、外だけ変えても意味ないって、鼻で笑ってたじゃないか」
「そうだったかなぁ」
小野田は曖昧に答えながら、男の後ろについていく。
「僕らも若かったよねぇ」
「まだ30過ぎたばっかだ。年寄り臭いこと言ってんじゃねぇ」
「そうだけどさぁ。春日、相変わらず奥さんとテニスやってるの?」
「減らず口叩くな。とっとと会場設置して帰れ」
「春日こそ帰りたいでしょ、スイートホーム」
「殴るぞ」
「暴力反対」
いつも冷静で穏やかな小野田が、ずいぶんと多弁である。いじられるタイプかと思っていたのだがいじるタイプらしい。意外な面を見たと思いながら春菜がぼんやり立っていると、春日という男が声をかけてきた。
「おい、そこの。小野田んとこのだろ。5Bの鍵開けて。これ」
鍵をひょいと投げて来る。春菜は驚きながらそれを受け取り、隣にある5B会議室のドアを開けた。
「女性に対して指示語で呼ぶのはどうかと思う」
「じゃあなんて呼ぶんだよ。おい、とでも呼ぶのか」
「それじゃ亭主関白な夫婦みたいじゃないか。家でそんな呼び方するの」
「する訳ねぇだろ」
「じゃあなんて呼ぶの」
「お前に教える必要性がない」
「おやおや、照れちゃって」
そんな二人の会話は夫婦漫才みたいなんですけど、と思いつつ、春菜は二人の様子を伺っていた。
荷物を置いた二人は、また5A会議室へ向かう。
「私もお手伝いできますけど」
「ああ?とりあえず邪魔にならないとこに立ってろ」
「春日」
睨むような目線を返されて怯んだとき、小野田の鋭い声が男を呼んだ。春日はぎくりと小野田を見やる。表情は笑顔のままだったが、その目はまったく笑っていなかった。
「それは言いすぎだろう」
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春日は居心地悪そうに目をそらした。
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