ズボラ上司の甘い罠

松丹子

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「お疲れー」
「おやすみー」
「また飲もうねー」
 店の前で手を振り、さあ帰ろうときびすを返したとき、おいこらと肩を掴んだのは五十嵐だった。
「何でしょう」
 春菜が驚いて問うと、五十嵐は呆れたように腰に手を置いた。
「何でしょう、じゃないだろ。覚えてないの?課長が言ってたこと」
 春菜は首をひねりかけ、
「……ああ」
 思い出したと手を叩いて頷いた。
 五十嵐は、たはーと身体中で嘆息する。そんなに全力で呆れなくてもと春菜は唇を尖らせた。
「でも、あんなの冗談でしょ。律儀に守らなくても」
 春菜が笑ってひらひら手を振ると、五十嵐は睨みつけるように春菜を見た。が、元々愛嬌のある顔立ちなので迫力はない。
「冗談でわざわざ店の中まで入ってくるかよ。当然本気だろ」
 そうかなぁと春菜は言いながら歩き出す。五十嵐はお前なぁとぐちぐち言いながらついてきた。
「そんなぐちぐち言うなら、花梨ちゃん達送ってあげなよ。私は大丈夫だから」
「あいつらは一緒に駅に向かうんだから、わざわざ送る必要ないだろ。みんなで帰るよ」
 確かにそれもそうだが、何となく申し訳ない。
「五十嵐殿に恩を売るわけにはいかぬ」
「何だそれいきなり武士か」
「いや、そう言えば諦めるかなって思ったんだけど」
 五十嵐は分かってねぇなと笑った。
「俺に恩を売ったのは小野田課長であってハルじゃない」
 春菜はその台詞を聞くと、首を右に左に曲げながら考えた。が、理解を諦める。
「よくわかんないけど、めんどくさいからいいや。ついてくるならついておいで。あ、コンビニで何か買って二次会する?うちで宅飲み」
「お前ほんとに分かってないな。そこで宅飲みとか言うか普通」
 五十嵐は嫌そうに眉を寄せた。
「一応確認しておくけど、一人暮らしの家に男上げたりしてないだろうな」
「ないよー。ないない。だって男友達、同期くらいだし。あっ、弟は別だよね?」
 弟の夏樹はたまに遊びに来る。というか都内で飲み会があったときに帰宅が面倒だから泊めろとやって来るのだが。そういえばそろそろ忘年会の時期でもあるので、またいつも通りやって来るに違いない。片付けておかなくては両親に部屋の惨状をばらされかねない。考えてみれば、勝手に泊まりに来るというのに恩知らずな弟である。
「ハルはさぁ、ぶっちゃけ、どうなの」
 いずれ来る弟に想いを馳せていた春菜は、五十嵐の声かけに何がと気の無い応答をした。五十嵐はやはり呆れたような顔のまま、
「小野田課長だよ」
 春菜は何もいわずに五十嵐に目線を向ける。またその話?という心中の声は充分伝わっているだろう。飲み会の間散々からかわれ、羨ましがられ、もうその話はお腹いっぱいだ。今日はおしまいにしていただきたい。
「いいじゃん、小野田課長」
 と飲み会の席でも言っていたことを繰り返す五十嵐に、春菜ははー、と嘆息で答えた。
「そりゃ素敵だよ。小野田課長は。素敵過ぎて無理でしょ。高嶺の花でしょ」
「……それって男にも使う表現?」
 いや知らないけど。使わないかも知れないけど。そういう些末なこと気にしないでくれる。……という気分は、やはり目線で訴える。
「でも、向こうからアプローチしてきたら?」
「釣り合わないもん、無理だよ」
 分かってないなと春菜は鼻で笑う。五十嵐は訳がわからないという風に大きく首を傾げた。
「小野田課長はハルにはもったいないってこと?」
「ああそうそう、それそれ」
「本人がそれでいいって言っても?」
「いや、だからさぁー」
 わかんない奴だなーと、疲れきった春菜は頭をうなだれる。女の気持ちはわかんないけどさ、と五十嵐は前置きしてから、
「小野田課長に似合う女になろう!とかはないの?」
「なれないよ」
 春菜の即答は今までで一番強い語調になった。五十嵐が驚いて立ち止まる。
「なれない。ーー取り柄なんて何も無い私には」
 春菜は表情を浮かべず大股で歩く。脳裏には田畑の姿が浮かんでいた。すっと伸びた背筋に切れ長の瞳、穏やかな笑みにハイヒール。どれも春菜には手に入らないものだが、小野田には相応しいものに思えた。
 五十嵐は不服げに嘆息して、春菜の後を追いかけてきた。
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