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しおりを挟む茅野の部屋は蒸し暑かった。クーラーをかけてもじわりと汗がにじむ。
「クーラーの調子よくないんだ。悪いな」
「いいよ、別に」
茅野が部屋の窓を開けて、二人で並んで座った。鞄から教科書やノートを取り出し、茅野の苦手な数学を教えてやる。俺たちはこうやって親しくなった。
同じ陸上部。同じ学年。同じクラス。でも俺たちは碌に話したことがなかった。
テストの結果が悪い奴は大会に出さないと、突然顧問が言い出して。数学が苦手な茅野は真っ青になって俺に頼みに来た。
「朝賀。頼む。俺に数学を教えてくれ」
確かに俺は数学が得意だ。だからって友達でもない茅野に勉強を教えるのは気が進まなかった。
しぶしぶ。しかたなく。部活の後、授業の休憩時間に、教えてやった。でも、その時間が増えれば増えるほど、俺が勝手に定義していた茅野の姿はどんどん崩れていった。
こいつは口下手なだけ。何と言えばいいか分からないから黙ってしまうだけ。他人を見下しているわけではない。実はちょっと天然で、受け答えがどこかずれている。基本的に素直で、努力家で、笑うとかわいい。
到底、同性の友人に抱くようなものじゃない感情が俺のなかに芽生えたのは、ほどなくのことだった。
ノートを見るために伏せた長い長いまつ毛が、頬に影をつくる。丸く整った額。すっとのびた鼻梁。こいつを形作るすべてがきれいだ。
「朝賀、この問いなんだけど……」
落ち着いた声も好きだ。朝賀、とお前が俺を呼ぶ声が。
勝手に手が、体が動きそうになる。どんどんと、際限なく膨らむ気持ち。距離がなくなるまでお前に近づきたい。思うままに、俺の気持ちをぶちまけたい。お前に触って、もういっそ、滅茶苦茶にしてやりたい。
親友だから、こいつの特別でいられるんだ。だから、それ以上を望むな。そう必死で押しとどめる。俺の自制心はいつまでもつだろう。この気持ちはどこまで大きくなるのだろう。
壊れたクーラーから出る風は生ぬるくて、さっき茅野が出してくれた麦茶のグラスはもう汗をかいている。俺の頬にもぽた、と汗がつたう。
茅野も汗をかいている。ぐい、と肩で頬の汗をぬぐって、俺を見た。
「あっつい。今日寝られるかな」
「夜はもう少し涼しいだろ。扇風機でも回せよ」
「あぁ俺、汗臭いよな。着替えようかな」
「別に、お前は臭くねぇよ。俺の方がやばい」
「いや、前から思ってたけど、朝賀っていい匂いだよな」
そんなことを言って、俺の胸辺りに顔を近づけてくる。俺の気も知らず、そのまま俺の顔を見上げ、ほら、何でだろう、柔軟剤かな。朝賀は汗だくでもいい匂いだ、なんて言い始める。
そんな筈がないだろ。馬鹿かお前。そう言いたいのに、言葉が出ない。
そういうお前の言動一つで、俺の心臓は締め付けられて、うまく呼吸もできなくなるんだ。助けてくれよ、茅野。お前のせいだ。お前のせいで、息ができない。人は息ができないと死んでしまうだろ。
気が付くと、俺は茅野の手を握っていた。体が自然に動いていた。
「好きだ」
茅野の手を掴む力が、強くなる。
言った。言ってしまった。伝えようと思ったんじゃない。もう溢れてしまったんだ。あまりに大きくなった気持ちが苦しくて。
茅野は大きな目を更に見開いて、固まっている。戸惑うように目線を揺らし、それでも俺を見ていた。
好きという言葉は、他に取り違えようもなく、こいつに伝わっているに違いない。
数秒か、数分か……、分からないけれど、ひどく長く感じた沈黙の後で、ようやく茅野の唇が動いた。
「考えたことなかった」
気持ち悪いとか、嫌だとか、困るとか、嬉しいとか。そういう反応じゃなくて、茅野から伝わる感情は動揺だった。
打算も計算もなく、ただ零れてしまった言葉だ。すごく好きだと思って、口走った言葉。もうこの気持ちを体の中に留めておけなかった。出してしまった言葉は、どうあがいても戻すことはできない。
でも、今日抑えられても、きっともう無理だった。いつか俺は必ず言ってしまっただろう。萎むこともなく、ただ膨らむだけの気持ちだったから。
きれいな茅野の瞳が俺を映している。
「恋愛対象として、ってこと?」
「……あぁ」
「朝賀は、男が好きなのか?」
「違う。でも、多分茅野だから好きになった」
明らかに、茅野は困っていた。
答えは分かりきっている。聞くまでもない。
俺は茅野から手を離し、鞄を持って、立ち上がった。
「ごめんな」
「えっ、朝賀!」
後ろで俺を呼ぶ声が聞こえる。俺は茅野の家から逃げ出した。
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