君の恋人

risashy

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 俺たちがあの日起きた事を話題に出すことはなかった。しかし俺たちの間には、あの出来事がはっきりと居座っていた。

 俺は茅野の家に行くことはなくなったし、茅野は前のように俺の真横に座ることはなくなった。ふいに俺が近寄ると、あいつの体が強張るのが分かる。緊張しているのだ。俺があの日のように自分に触るんじゃないかと。

 それでもあいつは俺の良い恋人になるという目標を捨てない。またショッピングモールへ行こうとか、水族館へ行こうとか、近所のイベントに行ってみようとか、沢山の計画を立てては、「いつ行けるかな」と俺に聞いてくる。
 相変わらず茅野は努力を惜しまない。あちこちで破綻して切れてしまいそうな糸を必死でつなごうと、頑張っている。

 俺に触れられるのを恐れながら、俺が離れてしまうのを怖がっているのだ。

 俺はもうそんな茅野を見ることが辛いと思うようになってきた。


「千尋。もしかしてお前ら喧嘩してる?」

 練習の休憩中、隣に座った京島が聞いてきた。こいつはいつも前置きなし。本当に良く周りを見てる奴だ。
 喧嘩か。俺たちは今、一体どういう状態なんだろう。何となく、喧嘩には当てはまらない気がした。終わりが近付いているのをお互い肌で感じているのに、踏み出せないだけ。

「……喧嘩なのか?」
「いや知らねえよ。俺が聞いてんのに」

 長距離トラックを走る茅野を見る。走る姿も綺麗で、あいつの周りだけ空気が違う気がする。

「さぁ。なんでそう思う」
「お前らの距離感バグが治ってるからさぁ」
「あぁ……」

 確かにそうだろう。今までのようにはできない。あいつの髪の毛一本にだって触れるのをためらうようになった。
 茅野をこれ以上傷つけたくない。あいつはもう俺に触られたくなんてないだろうから。
 俺は京島の問いになにも答えられずに、ただ茅野を見ていた。

「俺から、茅野と話そうか?」

 京島が言った。こいつはどこまで分かっているんだろう。何もかも感づいているのだろうか。俺は首を横にふる。

「そんなことすんな。俺が悪いんだから。全部」
「千尋ぉ。どうした。お前……泣きそうだぞ」

 急に視界が暗くなった。京島がバサッとハンドタオルを俺の頭からにかけたのだ。

 あぁ、茅野が見えない。

 可哀想な茅野。
 最初から分かっていた。お前の好きと俺の好きが違うことぐらい。分かったうえで、俺はお前の好意に甘えたんだ。

 お前が俺に執着するのは、俺がお前にとって初めてできた友達だからだ。
 俺がお前に好きだ、と言ってしまって、一方的に離れようとしたから。お前はただ怖かったんだよな。友達が離れていくことが。だから俺の恋人になる、なんて言ったんだろ。

 一生懸命に、俺の恋人になろうとお前はよく頑張った。

 もっと早く解放してやるべきだった。
 嬉しかったよ。お前が恋人になってくれて。もっと俺が頑張るべきだった。お前に好きになって貰えるように、俺こそがもっと努力しなければならなかった。
 キスも嬉しかったのに。俺をお前の特別な存在にしてくれたことが何よりも嬉しかったのに。本当に夢みたいなことだったのに。

 俺は馬鹿だ。お前が俺のことを本当に好きにならないことをガキみたいに苛ついていた。自分のことばかりだった。お前に求めてばかりだった。

 もうやめよう。
 茅野のために、また友達に戻ろう。
 この気持ちはきっとこれからも変わることはないけど、ちゃんと箱にしまうんだ。



 夕焼け空を二人で歩く。
 今日はこっちの道で帰ろう、と茅野に言うと、不思議そうにしながらも付いてきた。少し遠回りをして、ゆっくり歩く。

 途中の自販機で飲み物を買い、公園のベンチに座った。お互い何も喋らない。茅野はきっと、俺が何を言おうとしているか感づいているのだろう。

「茅野、もう別れようぜ」

 ペットボトルの蓋を開けることもせず、茅野は固まった。遠くで鳴る小学校のチャイムがやけに大きく感じる。俺は茅野の答えを待った。

「なんでだ」
「俺たちはその方がいいと思ったから」

 茅野の顔が大きく歪んだ。グレーの瞳に薄く水の膜がはる。

「教えてくれ。俺の何がだめだった……?」
「ちがう。お前は全然、だめじゃなかった。でも、付き合ってみて、やっぱり俺たちは友達の方がいいと思ったんだ」
「友達……、になりたいのか。朝賀は」
「俺はそうしたい。お前が受け入れてくれるなら。そうしてほしい」

 友達と聞いたからか、歪んでいた茅野の表情が和らいでいく。安心しているんだろう。やっぱりお前はそれを望んでいるんだな。
 ここで俺が傷ついた顔なんかしたら駄目だと、俺は茅野から目をそらした。

「じゃあ、友達としてなら、これからも朝賀の隣にいていいのか?」
「あぁ。今までみたいに、俺とつるんでくれ」
「飯食ったり、一緒に帰ったり、話してくれるか?」
「当たり前だろ。友達だから」

 茅野が笑顔を浮かべた。ずきずきと心が痛む。でも茅野が笑ってくれた。俺は強がりではなく、こうして良かったと思った。

 じゃあな、と言い合って別れる。

 空は夕焼けから夜に変わりかけていた。ぼんやり見える薄い月を見上げながら、数歩歩いて立ち止まる。俺は振り返り、段々と小さくなる茅野の後姿を見ていた。

 さよなら、ありがとう。

 手をつないだこともない。好きだと言われたこともない。抱きしめ合ったこともない。

 でも確かにお前は俺の大切な恋人だったよ。

 目の奥が熱くなり、勝手に涙が溢れた。止まらなくて、止める気にもならなくて、そのままぼろぼろと泣いた。
 ちゃんと明日からあいつと友達になるために、俺は泣いた。

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