異世界で王子様な先輩に溺愛されちゃってます

野良猫のらん

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第二十三話

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 自分の性欲は枯れているのだと、マコトは思っていた。
 
 睡眠時間すらまともに取れない激務の最中では、自慰をする暇も体力もなかった。
 次第にそういう欲求を感じることがまったくなくなった。
 もう一生勃たないかもしれないとすら思っていた。

 どうせその機会もないだろうと思っていたマコトは、深刻には捉えていなかった。
 それよりも目の前に差し迫った激務と、上司の罵詈雑言の方がよほど深刻な危機だった――――

 それは前の世界での話だ。

 この世界ではマコトをいじめる人間はいない。
 睡眠をまともにとれないほどの過酷な労働もない。
 マコトの心は少しずつ色を取り戻していった。
 そして、愛しい人ができた。

 マコトの性欲が戻るのも自明の理だろう。
 
(どうしよう、先輩と顔を合わせられないよ……!)

 フェリックスとえっちなことをする夢を見て夢精してしまったマコトは、休日明けの出勤が億劫だった。
 それでも日常のルーチンをなぞって、身体は勝手に出勤する準備を整えていく。
 顔を洗い、服を着替え、朝食をとる。
 すると、玄関の呼び鈴が鳴る。

(ああ、そうだ先輩が直接迎えにきてくれるんだった!)

 まだこの気持ちに整理がついていないのに。
 否応なく、彼と顔を合わせる時間がきてしまった。

「せ、先輩、おはようございます!」

 彼を待たせるわけにもいかず、ドアを開けた。
 仮病を使うなどという発想は、マコトにはなかった。

「おはよう、マコト」

 いつも通りの爽やかさで、彼がそこに立っていた。

「あ、あ、あの、もうご飯をも食べ終わったので、準備は万端です。さっそく行きましょう」

 彼の顔をまっすぐに見られなくて、マコトは俯く。

「ああ……って、マコト顔赤くないか? もしかして熱か?」
「へ!?」

 彼の手が近づいてきて、マコトの額に触れる。
 急に触れられて、マコトは顔が熱くなるのを感じた。

「うわっ、熱いな! 熱があるじゃないか!」

 当然、彼はマコトが発熱していると判断してしまった。

「いえ、あの、違うんです……。別に熱があるわけでは……」
「何を言ってるんだ、こんなに熱いのに。真面目なのはいいけれど、具合が悪いときは休まなきゃだぞ」

 彼は家の中にマコトを押し込み、さらにはベッドの上に寝かせた。

「今日はオレも休む。マコトの看病をする」
「え!?」

 彼の性格を考えれば、看病をすると言い出すのは当然だったかもしれない。

「大丈夫です、大したことないので。移ったりしたら大変ですし……!」

 自分がずる休みするだけでも申し訳ないのに、彼まで休ませてしまったら申し訳なくて仕方がない。

「大したことないなら、移らないだろ?」
「そう、でしょうか……? そうなのかな……?」
 
 彼の口にした理論に、首を傾げる。

「オレは一旦ギルドに連絡してくるから、大人しく寝てろよ?」
「あの、本当に大丈夫ですから……!」

 マコトの制止を聞かず、彼は出ていってしまった。

「はあ……」

 不思議なことに、ベッドにひとり横になっていると本当に熱が上がってきたように感じる。
 申し訳なさのあまりに、身体が本当に熱を出したのだろうか。
 もしくは今朝から熱が出ていたことに、自分が気がついていなかったのか。
 
 前の世界では、熱が出ても休むなんてありえなかったから常に風邪薬を服用していた。体調不良は無視するのが普通だった。
 以前のように、発熱を無視しようとした可能性はあるだろうか。

「先輩は、いつでも僕を助けてくれようとするんだな……」

 結果的には彼が休ませてくれて、助かったのかもしれない。
 
 彼はいつも自分のことを考えてくれる。
 こんなに優しい人が自分を愛してくれているなんて、現実のこととは思えない。
 いつか魔法みたいに溶けて消えてしまうのではないだろうか。
 彼が恋人になってくれたということも、優しいひとだらけの職場で働いていることも、異世界に転移してきたことも。
 すべて夢だったら、どうしよう。

 酷く寂しさを覚えるのは、発熱のせいだろうか。

「先輩……早く戻ってきてください」

 呟いて、目を閉じた。


「マコト、寝ちゃったかな?」

 囁くような声に、マコトは目を開けた。
 目の前にフェリックスがいた。
 少しの間、眠っていたようだ。

 頭がひんやりと冷たくて、気持ちいい。
 頭の上に感じる重量感から、氷嚢かなにかを乗っけてもらったようだ。
 
「先輩……」
「マコトはよくがんばってるもんな。疲れが出ちゃったのかな?」
 
 優しい声に、マコトはぽろりと涙の粒を零した。
 一度涙が出てしまうと、堰を切ったように次から次へと涙の粒が流れ出した。

「ど、どうしたんだマコト!?」

 マコトの涙に、当然彼は動揺を見せた。

「先輩……先輩がいない間、寂しかったです」

 涙と共に内情を零す。
 
「そうか。人恋しくなっちゃったんだな。もうどこにもいかないからな」

 その辺にあった椅子をベッドの側に引っ張ってきて、彼はベッドのすぐ横に腰かけた。
 彼がマコトを見下ろす。

「僕……先輩が消えちゃうかもしれないと思って。そしたら、どうしようもなくて……」

 熱に浮かされてぼやけた思考のまま、言葉を吐き出した。
 いつもならば、こんな弱音は吐かなかったかもしれない。
 だが熱が奪った思考力が、マコトに素直な言葉を口にさせた。

「オレは消えたりしないよ。ずっとマコトのそばにいる」

 彼は答えて、マコトの手を握った。
 優しく温かい手が、マコトの手を包み込む。
 その温度が、マコトの胸の内に潜む不安を吐き出させた。
 
「先輩があんまりにも優しくて、信じられないほど幸せだから……僕は、こんなに幸せになる価値がないから。いつの日か『全部夢でした』って、消えちゃうんじゃないかと……怖いんです……」

 マコトの心の内には、まだ上司に「死刑」と詰られていたときの自分が巣くっている。
 自分に価値などない。死んだ方がマシな無能。
 その頃の自分が、囁いてくるのだ。「こんなに愛される価値があるのか?」と。

「マコト」

 気がつくと、真剣な眼差しで彼が見つめていた。

「マコトが過去にどんな体験をしてどんな言葉をかけられてきたのか、オレは知らない」

 彼は、強くマコトの手を握った。

「けど、これだけは言える。マコトに価値がないなんて、そんなわけは絶対にない」
「絶対に……?」

 マコトは弱々しく彼を見つめ返した。
 彼の視線も手の感触も力強くて、儚く消えてしまいそうにはない。

「いいか、マコトはマコトだっていうだけで価値があるんだよ。そもそも価値があるとかないとか、判断されるべきじゃないんだ……」

 ぽたり、ぽたり。
 ベッドのシーツに染みを作っているのは、マコトの涙ではない。

「先輩……?」

 彼は、マコトのために涙してくれていた。
 マコトのために傷ついてくれたのだ。
 彼の涙を目にして、「価値がない」と囁く自分が溶けて小さくなって消えていく感じがした。

「マコトにはマコトのいいところがたくさんあって、オレはそういうところを好きになったんだ。マコトは優しくて素直で、オレを見つけるとパッと顔色が明るくなるんだ。顔を見ただけでマコトの全力の好意が伝わってきて、それだけで一日が楽しくなる。マコトの顔を見ると、癒されるんだ。マコトなしの日常なんて、オレにはもう考えられないよ」

 彼の言葉が胸の内に染み込んでいく。
 言葉として口に出してもらって、初めて知った。
 そんなに愛されていたなんて。
 自分なしの日常が考えられないなんて、至上の愛の言葉ではないだろうか。

「僕は、先輩の支えになれていますか……?」
「ああ、なれているよ。だからもう二度と価値がないなんて言わないでくれ。そしてオレを信じてくれないか。オレがマコトを愛していること、消えたりなんかしないってことを」

 暖かい。胸の内が熱いくらいだ。
 
 大事に想ってくれる人がいる。
 自分を疑うことは、大事に想ってくれている人をも傷つけてしまうのだ。彼の涙で知った。

「二度と言いません。先輩の愛を、信じます」

 彼の涙に、誓った。
 もう二度と、過去の亡霊の囁きを聞くことはないだろう。
 彼の愛が心を守ってくれるから。

「ありがとう。信じてくれて嬉しいよ」

 温かい手が、優しくマコトの頭を撫でた。
 心地よさに、心が落ち着くのを感じた。

「ところでマコト、腹は空いてないか?」
「あ、そういえば……」

 彼に問われて、空腹を思い出したかのように急に感じた。
 壁時計を見ると、もうお昼ご飯の時間は過ぎていた。思いのほか長く寝ていたようだ。

「具合が悪いとパンをそのまま食べるのも大変だろ。スープでふやかして食べような」
「え、あ、はい」

 答えたあと、けれどもスープなんてどこにあるんだろうと思った。

「オレがスープを作っておいたから、食べてくれよ。……初めて作ったから、美味いかわかんないけど」
「え、ええ……先輩が!? 作ってくれたんですか!?」

 雷が落ちたような衝撃だった。

 マコト自身は料理ができない。
 前の世界にいたときは仕事に忙殺されていたし、この世界にきてからは名前もわからない野菜や肉をどう扱えばいいかわからないしで料理をしてこなかった。

 なのに、料理をする必要のない貴族である彼がスープを作ってくれたなんて。

「勝手にキッチンを借りてごめんな。ブライアンさんやクレアさんに、スープの作り方を聞いたんだ。始業時間を過ぎてたのに、親切に教えてくれたよ。みんな、マコトによくなってほしいんだ」
「みんな……」

 彼と、そしてギルド職員の仲間たちのありがたさを噛み締めた。

 彼は魔術でキッチンに火を灯し、スープを温め直した。
 スープを器に盛り、市場で買ったのであろうパンも皿に載せてマコトの元に持ってきてくれた。
 スープにはベーコンに似た燻製肉を角切りにしたもの、煮られすぎてくたくたになった葉野菜に、不揃いな大きさの根菜が入っていた。
 匙を手に取り、スープを口に運んだ。

「ふふ、塩気が強い……でも、世界一美味しいスープです」

 まるで涙の雫を集めたような塩辛さだったが、それが美味しかった。
 スープをすすり、スープでふやかして柔らかくしたパンを腹の中に収める。
 食べ終わると、すっかり身体が暖かくなっておまけに熱が少し引いたように感じた。

「口に合ってよかった」
「ありがとうございます、元気になれそうです。また明日からお仕事がんばります」
「それはよかった。でも明日も本調子じゃなかったら休んでいいんだからな。休んだ分取り戻そうなんて考えなくても、大丈夫だから」

 彼はどこまでも優しい。
 でも、いまはもう「こんなに優しくされていいのかな」とは感じない。
 優しくされることへの罪悪感といつ消えてもおかしくないという気持ちは消え、代わりに感謝と幸福を強く感じるようになった。

「元気になるまで、そばにいるからな」
「はい……ありがとうございます」

 幸福な一日だった。
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