6 / 43
5.おかえりなさい
しおりを挟む
夕方、夕食作りに取り掛かっていると、玄関でガチャリとドアノブを引く音がした。
俺はペットの犬猫よろしく、その音を聞き逃さず玄関に顔を出す。
見れば亜貴がむっつりとした顔で入ってきた所だった。
人恋しくなっていた俺はついはしゃいだ子どもの様に飛び出す。
「おかえり!」
いや~、こういうの久しぶりだなぁ。
親父は出ていくのも帰ってきたのもいつか分からず、いつもこの瞬間を逃していたのだ。
「……」
亜貴は靴を脱ぐのも忘れて、ぽかんとこちらを見ていた。
「なんだ? どうかしたか?」
問えば、我に返ったのかすぐに気まずげに顔を背け。
「…別に」
相変わらずの可愛げだ。俺は気にせず続ける。
「お前、先風呂使ったらどうだ? 汗かいて来たんだろ?」
「なにそれ」
「いつも、寝る前にはいってんのか? 食事前に入るのも気分いいぞ? すっきりするし。後回しにすると面倒くさくなる奴もいるらしいからな? お前もそのくちか?」
「…うざ」
「うざくて結構だ。いいから入ってこい。風呂から上がったら飯にする。これは岳からの命令だと思え」
「なんで? 兄さん、そんなこと言ったの?」
「岳は俺を兄と思えと言っただろう? だからだ。亜貴チャンは大好きなお兄ちゃんには背かないんだろ? だったら俺にだって背かない筈だ」
「っとに、うざいな…」
そう言い残し、ジロリと睨んだ後、亜貴は自室へと向かった。
まあいい。
入るか入らないかは本人に任せるしかない。
結構、早めに入ると気分がいいんだけどなぁ。外の汚れもすっきり落とせて気持ちいし。
かくいう俺は、バイトの合間にささっとシャワーで済ませる口だったが。
いつかのんびり風呂につかるのが夢だった。だからたまの休みに近くの銭湯につかりにいくのが至福の時で。
ああ、いつか各地の温泉に浸かって回りたい…。
それは俺のささやかな夢だった。
湯治とでもいうのか。気に入った温泉に暫く滞在するのだ。風呂に入って飯食って。ちょっと散策してまた風呂に入って食って寝て。
いいなぁ。
そうこうしていれば、廊下をドタバタと走る音がしてリビングのドアが乱暴に開かれた。
「おい! 俺の部屋、勝手に掃除した?!」
「おいじゃない。俺は大和だ。そうだ。掃除したぞ。お前の汚れた部屋の埃を吸い取ってやった。だが、ものは一ミリも動かしてねぇ」
いや、一旦はどけたが、すべて元通りにおいたはず。
「勝手にすんなよ! やるなら言えよ!」
「はいはい。分かったよ。次から言う。ただ、掃除機は毎日かけるからな? 洗濯物はちゃんと脱衣所にある籠にいれとけよ? 部屋汚くしてんじゃモテねぇぞ?」
「モテなくったっていいっていってんだろっ! なんなんだよ、お前!」
「大和だ。俺は君の兄貴に雇われた家政婦だ。文句があるなら兄貴に言え。風呂入ったら飯だ」
「っ!」
先ほどと同じことを繰り返すと、それ以上、口答えはしてこなかったが、すっかり頭に血が上ったようで。
それでもどしどし廊下を踏み鳴らしつつ、浴室に向かった音が聞こえてきた。
案外、素直なのか?
拗ねて部屋に閉じこもってハンガーストライキでもするかと思ったが。
俺は一つ息をついてから、再び夕飯作りに取り掛かった。
今日は男子に受ける事間違い無しのハンバーグだ。これを嫌いという奴は少ないだろう。
ただ、中身は半分キノコでかさましし、カロリーオフにしている。若いから気にしなくてもいいだろうが、肥満は大敵だ。
それでなくとも、今まで適当に食べてきた様子から、少しカロリーは抑えたほうがいいだろう。デブにしてやってもいいと思ったが、それはそれで可愛そうな気もして。
あれだけ、見てくれはいいんだからな?
それを保護してやるのも年上の役割だろうと思い直した。岳も弟を肥満児にはしたくないだろう。
そういえば、今晩は岳、顔を見せんのかな?
特に帰って来るとは言っていなかったが。
一応、明日の弁当分と、今晩の分とを作って取り置いておいた。来なければそのまま冷凍して俺の昼飯にでも回せばいい。
とりあえず、皿を二枚用意していると。ガチャリと玄関ドアのノブの音が聞こえてきた。
ここでも俺は素早く反応をしめし、玄関先に出迎えに出る。
丁度、ドアを開けて岳が入ってきた所だった。背後には洲崎の姿も見える。岳は心なしか疲れているようにも見えた。
「おかえり。お疲れさんだったな?」
「……」
そう声をかければ、岳も亜貴と同じようにこちらに顔を向けて固まった。その背後で洲崎が唐突に肩を揺らして笑い出す。
相変わらずぼうっとしている岳に。
「んだよ。ただいまとか言えねぇのかよ? 亜貴といい、そういう習慣ねぇのか?」
「あ、いや…。ただいま」
「おかえり。洲崎さんもな? 二人とも夕飯は?」
洲崎は玄関先で立ったまま。
「俺はここで失礼する。まだ事務所にもどって仕事があるからな。…でも、機会があればお邪魔させてもらってもいいか?」
最後のセリフは岳に向けられている。岳は靴を脱ぎながら置いておいたスリッパに履き替えると。
「ああ。いいさ。…じゃあな」
「ふふ。じゃあ、また明日」
洲崎は俺にブリーフケースを手渡すと、謎の笑みを残してそこを去って行った。
俺は岳とともに玄関先でその背を見送りつつ。
「これからまた仕事かぁ。案外、大変なんだな? ヤクザも」
「ヤクザは職業じゃないって言ったろ? てか。なんか新鮮だな…」
「何が?」
その言葉に俺は傍らに立つ岳を見上げた。
相変わらず三つ揃えのスーツが嫌というほど似合っている。髪型は朝より幾分乱れた様だが、それがまた妙に色気が漂って見えた。
これは、男女構わず相当モテるだろう。
「帰った時、出迎えがあるってことさ。いつも玄関は真っ暗が当たり前だし、亜貴は部屋に閉じこもりっきりだしな」
「もしかして、今までそういうのなかったとか?」
「いや。俺は母子家庭だが、そういうのはあったな。だが相当昔の話だ。成人してからはないな」
「まあ、一人暮らししてればそんなもんだろうな。でも組の事務所に行けばみんな出迎えてくれるんだろ?」
すると大きな手が俺の頭に振ってきて、子どもにするようにくしゃりと撫でる。
けれど嫌だとは思わなかった。多少、くすぐったい気がするくらいで、逆に岳の手の温もりが心地いい。
「それとこれとは違うさ。時に亜貴はそういうのはきっと今までなかったはずだ。…大和を雇って正解だったな」
「正解? 俺が? 可愛いメイドさんの方が亜貴には良かったんじゃないのか?」
「…それは目的が違うだろう。ちゃんと家族らしくふるまってくれるのがいいんだ。亜貴には普通を知って欲しいからな」
「けどさ、これは普通じゃないと思うけど?」
「いいんだ。やってることは普通の家庭と同じだろ?」
岳は笑うと再び俺の頭にぽんぽんと手を置きながら、ネクタイを緩める。
「あ、兄さん、お帰り…」
まだホカホカと湯気が立つような亜貴がそこに立っていた。今しがた、風呂から上がったばかりなのだろう。上気した頬が可愛い。(みてくれは)
「ああ、ただいま。俺も先風呂にしていいか?」
俺を振り返る岳に。
「勿論だ。それから夕飯だな。亜貴も待てるだろ?」
俺の問いに亜貴はむすっとしたまま。
「当たり前だろ! 待てないわけないっての」
「そうそう。お前の大事なお兄ちゃんだもんな? じゃ、そう言うことで、岳はゆっくり入ってくれ」
「むかつく!」
亜貴はなおも突っかかってくるが、それを無視して、ブリーフケースを手に岳とともに部屋までついて行った。
+++
岳の書斎はかなりシンプルだった。
木目調のデスクに本棚。質はいいのだろうがこだわりはないようで。
隣にある寝室も似たようなものだ。まるでモデルルームの様に人の気配がない。趣味の物が何一つ置かれていないのだ。
けれど、ここには違和感半端ないものが、一つだけ鎮座している。
「カバン、ここでいいか?」
「ああ。そこでいい」
デスクの横にある脇机へとケースを置く。
その間に岳は寝室のクローゼットへと向かって行った。
俺が覗くと岳はちょうどスーツのジャケットを脱ぐ所だ。すかさず脱ぐのに手を貸す。
「ああ、済まない」
「疲れてるみたいだな?」
受け取ったジャケットには岳の温もりがまだあった。
それをハンガーにかけ、元々あった専用ブラシをあてる。これはネットで調べたお手入れ方法だ。あとは洲崎に聞けば色々有益な情報を教えてくれそうだ。
また明日聞いてみよう。
岳はその様を見ながら。
「まあな。色々あるのさ。しかし、なんだか…」
「どうした?」
振り返ると岳は口元を抑え、何かを必死にこらえている様子。
「いや。言うと怒るからやめておく」
「ならやめとけ」
笑いたいのを堪えているのだろう。
俺は手入れを続けた。
カフスやネクタイを外ず音が背後でする。
それと共に微かに香水らしき薫りもした。
体臭と混じり合ったそれは、ともすると人を不快にさせるのだが、岳から薫るそれはちっとも嫌ではなかった。寧ろ岳の香りになっている。強すぎない香りは好感が持てた。
流石できる男が違うのか。
時々いる、ありったけつけましたと薫りをばらまく輩もいるが、あれには辟易する。ほんのり香るくらいで丁度いいのだ。
「着替え、バスルームには下着だけ用意しとくか? いつもどうしてる?」
「そうだな。バスローブだけ置いといてくれ。こっちに戻ってきて着替えるから」
「了解」
ブラッシングを終えると、背後を振り返った。
と、ワイシャツの襟元を寛げた岳がこちらを見つめていた。今までに見たことのない種類の視線にドキリとする。
「どした?」
「いや。甲斐甲斐しいなと思ってね」
「家政婦ならこれくらい普通だろ? 俺は自分の仕事はきっちりこなしたいタイプだからな? ただ、やって欲しくないことは先に言えよ? こっちの引き出しは絶対開けるなとか、ここの本棚はさわるなとか。スタンドの下にはぬいぐるみが隠れてるから見るな、とか」
「見たか?」
「見た…」
今もスタンド下に、それは置かれていた。
頷けば、岳は笑って。
「言うなればライナスの毛布だな。あれは。子どもの頃、突然、不安に駆られて眠れなくなったとき、母親がくれたんだ。『友だちだよ』ってね。この子が悪いものから守ってくれるよってな。それ以来、どうにも手放せなくてな。お守りみたいなもんだ」
ライナスの毛布ね。
ないと寝られないってやつか。
案外カワイイ所がある。
「特に見られたくないものはない。どこを見られても別に構わない。…大和」
そういうと、こちらに手を差し伸べてきた。いったい何事かと、その手をまじまじと見つめていると。
「手、握手だ」
「あ、なる」
俺もおずおずと右手を差し出し、岳の手を握り返した。
大きく骨ばった右手。俺の手は水仕事の所為か荒れている。
なんか、生活感ばっちりだな…。
その手を岳はぎゅっと包み込む様に握り返すと。
「これからもよろしく。家政婦さん」
妙に眼差しが熱かったのには、ちょっと動揺してしまったが。
「お、おう」
岳の手はとても温かかった。
俺はペットの犬猫よろしく、その音を聞き逃さず玄関に顔を出す。
見れば亜貴がむっつりとした顔で入ってきた所だった。
人恋しくなっていた俺はついはしゃいだ子どもの様に飛び出す。
「おかえり!」
いや~、こういうの久しぶりだなぁ。
親父は出ていくのも帰ってきたのもいつか分からず、いつもこの瞬間を逃していたのだ。
「……」
亜貴は靴を脱ぐのも忘れて、ぽかんとこちらを見ていた。
「なんだ? どうかしたか?」
問えば、我に返ったのかすぐに気まずげに顔を背け。
「…別に」
相変わらずの可愛げだ。俺は気にせず続ける。
「お前、先風呂使ったらどうだ? 汗かいて来たんだろ?」
「なにそれ」
「いつも、寝る前にはいってんのか? 食事前に入るのも気分いいぞ? すっきりするし。後回しにすると面倒くさくなる奴もいるらしいからな? お前もそのくちか?」
「…うざ」
「うざくて結構だ。いいから入ってこい。風呂から上がったら飯にする。これは岳からの命令だと思え」
「なんで? 兄さん、そんなこと言ったの?」
「岳は俺を兄と思えと言っただろう? だからだ。亜貴チャンは大好きなお兄ちゃんには背かないんだろ? だったら俺にだって背かない筈だ」
「っとに、うざいな…」
そう言い残し、ジロリと睨んだ後、亜貴は自室へと向かった。
まあいい。
入るか入らないかは本人に任せるしかない。
結構、早めに入ると気分がいいんだけどなぁ。外の汚れもすっきり落とせて気持ちいし。
かくいう俺は、バイトの合間にささっとシャワーで済ませる口だったが。
いつかのんびり風呂につかるのが夢だった。だからたまの休みに近くの銭湯につかりにいくのが至福の時で。
ああ、いつか各地の温泉に浸かって回りたい…。
それは俺のささやかな夢だった。
湯治とでもいうのか。気に入った温泉に暫く滞在するのだ。風呂に入って飯食って。ちょっと散策してまた風呂に入って食って寝て。
いいなぁ。
そうこうしていれば、廊下をドタバタと走る音がしてリビングのドアが乱暴に開かれた。
「おい! 俺の部屋、勝手に掃除した?!」
「おいじゃない。俺は大和だ。そうだ。掃除したぞ。お前の汚れた部屋の埃を吸い取ってやった。だが、ものは一ミリも動かしてねぇ」
いや、一旦はどけたが、すべて元通りにおいたはず。
「勝手にすんなよ! やるなら言えよ!」
「はいはい。分かったよ。次から言う。ただ、掃除機は毎日かけるからな? 洗濯物はちゃんと脱衣所にある籠にいれとけよ? 部屋汚くしてんじゃモテねぇぞ?」
「モテなくったっていいっていってんだろっ! なんなんだよ、お前!」
「大和だ。俺は君の兄貴に雇われた家政婦だ。文句があるなら兄貴に言え。風呂入ったら飯だ」
「っ!」
先ほどと同じことを繰り返すと、それ以上、口答えはしてこなかったが、すっかり頭に血が上ったようで。
それでもどしどし廊下を踏み鳴らしつつ、浴室に向かった音が聞こえてきた。
案外、素直なのか?
拗ねて部屋に閉じこもってハンガーストライキでもするかと思ったが。
俺は一つ息をついてから、再び夕飯作りに取り掛かった。
今日は男子に受ける事間違い無しのハンバーグだ。これを嫌いという奴は少ないだろう。
ただ、中身は半分キノコでかさましし、カロリーオフにしている。若いから気にしなくてもいいだろうが、肥満は大敵だ。
それでなくとも、今まで適当に食べてきた様子から、少しカロリーは抑えたほうがいいだろう。デブにしてやってもいいと思ったが、それはそれで可愛そうな気もして。
あれだけ、見てくれはいいんだからな?
それを保護してやるのも年上の役割だろうと思い直した。岳も弟を肥満児にはしたくないだろう。
そういえば、今晩は岳、顔を見せんのかな?
特に帰って来るとは言っていなかったが。
一応、明日の弁当分と、今晩の分とを作って取り置いておいた。来なければそのまま冷凍して俺の昼飯にでも回せばいい。
とりあえず、皿を二枚用意していると。ガチャリと玄関ドアのノブの音が聞こえてきた。
ここでも俺は素早く反応をしめし、玄関先に出迎えに出る。
丁度、ドアを開けて岳が入ってきた所だった。背後には洲崎の姿も見える。岳は心なしか疲れているようにも見えた。
「おかえり。お疲れさんだったな?」
「……」
そう声をかければ、岳も亜貴と同じようにこちらに顔を向けて固まった。その背後で洲崎が唐突に肩を揺らして笑い出す。
相変わらずぼうっとしている岳に。
「んだよ。ただいまとか言えねぇのかよ? 亜貴といい、そういう習慣ねぇのか?」
「あ、いや…。ただいま」
「おかえり。洲崎さんもな? 二人とも夕飯は?」
洲崎は玄関先で立ったまま。
「俺はここで失礼する。まだ事務所にもどって仕事があるからな。…でも、機会があればお邪魔させてもらってもいいか?」
最後のセリフは岳に向けられている。岳は靴を脱ぎながら置いておいたスリッパに履き替えると。
「ああ。いいさ。…じゃあな」
「ふふ。じゃあ、また明日」
洲崎は俺にブリーフケースを手渡すと、謎の笑みを残してそこを去って行った。
俺は岳とともに玄関先でその背を見送りつつ。
「これからまた仕事かぁ。案外、大変なんだな? ヤクザも」
「ヤクザは職業じゃないって言ったろ? てか。なんか新鮮だな…」
「何が?」
その言葉に俺は傍らに立つ岳を見上げた。
相変わらず三つ揃えのスーツが嫌というほど似合っている。髪型は朝より幾分乱れた様だが、それがまた妙に色気が漂って見えた。
これは、男女構わず相当モテるだろう。
「帰った時、出迎えがあるってことさ。いつも玄関は真っ暗が当たり前だし、亜貴は部屋に閉じこもりっきりだしな」
「もしかして、今までそういうのなかったとか?」
「いや。俺は母子家庭だが、そういうのはあったな。だが相当昔の話だ。成人してからはないな」
「まあ、一人暮らししてればそんなもんだろうな。でも組の事務所に行けばみんな出迎えてくれるんだろ?」
すると大きな手が俺の頭に振ってきて、子どもにするようにくしゃりと撫でる。
けれど嫌だとは思わなかった。多少、くすぐったい気がするくらいで、逆に岳の手の温もりが心地いい。
「それとこれとは違うさ。時に亜貴はそういうのはきっと今までなかったはずだ。…大和を雇って正解だったな」
「正解? 俺が? 可愛いメイドさんの方が亜貴には良かったんじゃないのか?」
「…それは目的が違うだろう。ちゃんと家族らしくふるまってくれるのがいいんだ。亜貴には普通を知って欲しいからな」
「けどさ、これは普通じゃないと思うけど?」
「いいんだ。やってることは普通の家庭と同じだろ?」
岳は笑うと再び俺の頭にぽんぽんと手を置きながら、ネクタイを緩める。
「あ、兄さん、お帰り…」
まだホカホカと湯気が立つような亜貴がそこに立っていた。今しがた、風呂から上がったばかりなのだろう。上気した頬が可愛い。(みてくれは)
「ああ、ただいま。俺も先風呂にしていいか?」
俺を振り返る岳に。
「勿論だ。それから夕飯だな。亜貴も待てるだろ?」
俺の問いに亜貴はむすっとしたまま。
「当たり前だろ! 待てないわけないっての」
「そうそう。お前の大事なお兄ちゃんだもんな? じゃ、そう言うことで、岳はゆっくり入ってくれ」
「むかつく!」
亜貴はなおも突っかかってくるが、それを無視して、ブリーフケースを手に岳とともに部屋までついて行った。
+++
岳の書斎はかなりシンプルだった。
木目調のデスクに本棚。質はいいのだろうがこだわりはないようで。
隣にある寝室も似たようなものだ。まるでモデルルームの様に人の気配がない。趣味の物が何一つ置かれていないのだ。
けれど、ここには違和感半端ないものが、一つだけ鎮座している。
「カバン、ここでいいか?」
「ああ。そこでいい」
デスクの横にある脇机へとケースを置く。
その間に岳は寝室のクローゼットへと向かって行った。
俺が覗くと岳はちょうどスーツのジャケットを脱ぐ所だ。すかさず脱ぐのに手を貸す。
「ああ、済まない」
「疲れてるみたいだな?」
受け取ったジャケットには岳の温もりがまだあった。
それをハンガーにかけ、元々あった専用ブラシをあてる。これはネットで調べたお手入れ方法だ。あとは洲崎に聞けば色々有益な情報を教えてくれそうだ。
また明日聞いてみよう。
岳はその様を見ながら。
「まあな。色々あるのさ。しかし、なんだか…」
「どうした?」
振り返ると岳は口元を抑え、何かを必死にこらえている様子。
「いや。言うと怒るからやめておく」
「ならやめとけ」
笑いたいのを堪えているのだろう。
俺は手入れを続けた。
カフスやネクタイを外ず音が背後でする。
それと共に微かに香水らしき薫りもした。
体臭と混じり合ったそれは、ともすると人を不快にさせるのだが、岳から薫るそれはちっとも嫌ではなかった。寧ろ岳の香りになっている。強すぎない香りは好感が持てた。
流石できる男が違うのか。
時々いる、ありったけつけましたと薫りをばらまく輩もいるが、あれには辟易する。ほんのり香るくらいで丁度いいのだ。
「着替え、バスルームには下着だけ用意しとくか? いつもどうしてる?」
「そうだな。バスローブだけ置いといてくれ。こっちに戻ってきて着替えるから」
「了解」
ブラッシングを終えると、背後を振り返った。
と、ワイシャツの襟元を寛げた岳がこちらを見つめていた。今までに見たことのない種類の視線にドキリとする。
「どした?」
「いや。甲斐甲斐しいなと思ってね」
「家政婦ならこれくらい普通だろ? 俺は自分の仕事はきっちりこなしたいタイプだからな? ただ、やって欲しくないことは先に言えよ? こっちの引き出しは絶対開けるなとか、ここの本棚はさわるなとか。スタンドの下にはぬいぐるみが隠れてるから見るな、とか」
「見たか?」
「見た…」
今もスタンド下に、それは置かれていた。
頷けば、岳は笑って。
「言うなればライナスの毛布だな。あれは。子どもの頃、突然、不安に駆られて眠れなくなったとき、母親がくれたんだ。『友だちだよ』ってね。この子が悪いものから守ってくれるよってな。それ以来、どうにも手放せなくてな。お守りみたいなもんだ」
ライナスの毛布ね。
ないと寝られないってやつか。
案外カワイイ所がある。
「特に見られたくないものはない。どこを見られても別に構わない。…大和」
そういうと、こちらに手を差し伸べてきた。いったい何事かと、その手をまじまじと見つめていると。
「手、握手だ」
「あ、なる」
俺もおずおずと右手を差し出し、岳の手を握り返した。
大きく骨ばった右手。俺の手は水仕事の所為か荒れている。
なんか、生活感ばっちりだな…。
その手を岳はぎゅっと包み込む様に握り返すと。
「これからもよろしく。家政婦さん」
妙に眼差しが熱かったのには、ちょっと動揺してしまったが。
「お、おう」
岳の手はとても温かかった。
52
あなたにおすすめの小説
旦那様と僕
三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。
縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。
本編完結済。
『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。
雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―
なの
BL
百年に一度、森の魔物へ生贄を捧げる村。
その年の供物に選ばれたのは、誰にも必要とされなかった孤児のアシェルだった。
死を覚悟して踏み入れた森の奥で、彼は古の守護者である獣人・ヴァルと出会う。
かつて人に裏切られ、心を閉ざしたヴァル。
そして、孤独だったアシェル。
凍てつく森での暮らしは、二人の運命を少しずつ溶かしていく。
だが、古い呪いは再び動き出し、燃え盛る炎が森と二人を飲み込もうとしていた。
生贄の少年と孤独な獣が紡ぐ、絶望の果てにある再生と愛のファンタジー
ハイスペックストーカーに追われています
たかつきよしき
BL
祐樹は美少女顔負けの美貌で、朝の通勤ラッシュアワーを、女性専用車両に乗ることで回避していた。しかし、そんなことをしたバチなのか、ハイスペック男子の昌磨に一目惚れされて求愛をうける。男に告白されるなんて、冗談じゃねぇ!!と思ったが、この昌磨という男なかなかのハイスペック。利用できる!と、判断して、近づいたのが失敗の始まり。とある切っ掛けで、男だとバラしても昌磨の愛は諦めることを知らず、ハイスペックぶりをフルに活用して迫ってくる!!
と言うタイトル通りの内容。前半は笑ってもらえたらなぁと言う気持ちで、後半はシリアスにBLらしく萌えると感じて頂けるように書きました。
完結しました。
初恋ミントラヴァーズ
卯藤ローレン
BL
私立の中高一貫校に通う八坂シオンは、乗り物酔いの激しい体質だ。
飛行機もバスも船も人力車もダメ、時々通学で使う電車でも酔う。
ある朝、学校の最寄り駅でしゃがみこんでいた彼は金髪の男子生徒に助けられる。
眼鏡をぶん投げていたため気がつかなかったし何なら存在自体も知らなかったのだが、それは学校一モテる男子、上森藍央だった(らしい)。
知り合いになれば不思議なもので、それまで面識がなかったことが嘘のように急速に距離を縮めるふたり。
藍央の優しいところに惹かれるシオンだけれど、優しいからこそその本心が掴みきれなくて。
でも想いは勝手に加速して……。
彩り豊かな学校生活と夏休みのイベントを通して、恋心は芽生え、弾んで、時にじれる。
果たしてふたりは、恋人になれるのか――?
/金髪顔整い×黒髪元気時々病弱/
じれたり悩んだりもするけれど、王道満載のウキウキハッピハッピハッピーBLです。
集まると『動物園』と称されるハイテンションな友人たちも登場して、基本騒がしい。
◆毎日2回更新。11時と20時◆
【完結】少年王が望むは…
綾雅(りょうが)今年は7冊!
BL
シュミレ国―――北の山脈に背を守られ、南の海が恵みを運ぶ国。
15歳の少年王エリヤは即位したばかりだった。両親を暗殺された彼を支えるは、執政ウィリアム一人。他の誰も信頼しない少年王は、彼に心を寄せていく。
恋ほど薄情ではなく、愛と呼ぶには尊敬や崇拝の感情が強すぎる―――小さな我侭すら戸惑うエリヤを、ウィリアムは幸せに出来るのか?
【注意事項】BL、R15、キスシーンあり、性的描写なし
【重複投稿】エブリスタ、アルファポリス、小説家になろう、カクヨム
闘乱世界ユルヴィクス -最弱と最強神のまったり世直し旅!?-
mao
BL
力と才能が絶対的な存在である世界ユルヴィクスに生まれながら、何の力も持たずに生まれた無能者リーヴェ。
無能であるが故に散々な人生を送ってきたリーヴェだったが、ある日、将来を誓い合った婚約者ティラに事故を装い殺されかけてしまう。崖下に落ちたところを不思議な男に拾われたが、その男は「神」を名乗るちょっとヤバそうな男で……?
天才、秀才、凡人、そして無能。
強者が弱者を力でねじ伏せ支配するユルヴィクス。周りをチート化させつつ、世界の在り方を変えるための世直し旅が、今始まる……!?
※一応はバディモノですがBL寄りなので苦手な方はご注意ください。果たして愛は芽生えるのか。
のんびりまったり更新です。カクヨム、なろうでも連載してます。
不幸体質っすけど、大好きなボス達とずっと一緒にいられるよう頑張るっす!
タッター
BL
ボスは悲しく一人閉じ込められていた俺を助け、たくさんの仲間達に出会わせてくれた俺の大切な人だ。
自分だけでなく、他者にまでその不幸を撒き散らすような体質を持つ厄病神な俺を、みんな側に置いてくれて仲間だと笑顔を向けてくれる。とても毎日が楽しい。ずっとずっとみんなと一緒にいたい。
――だから俺はそれ以上を求めない。不幸は幸せが好きだから。この幸せが崩れてしまわないためにも。
そうやって俺は今日も仲間達――家族達の、そして大好きなボスの役に立てるように――
「頑張るっす!! ……から置いてかないで下さいっす!! 寂しいっすよ!!」
「無理。邪魔」
「ガーン!」
とした日常の中で俺達は美少年君を助けた。
「……その子、生きてるっすか?」
「……ああ」
◆◆◆
溺愛攻め
×
明るいが不幸体質を持つが故に想いを受け入れることが怖く、役に立てなければ捨てられるかもと内心怯えている受け
人気アイドルグループのリーダーは、気苦労が絶えない
タタミ
BL
大人気5人組アイドルグループ・JETのリーダーである矢代頼は、気苦労が絶えない。
対メンバー、対事務所、対仕事の全てにおいて潤滑剤役を果たす日々を送る最中、矢代は人気2トップの御厨と立花が『仲が良い』では片付けられない距離感になっていることが気にかかり──
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる