【完結】モブ令嬢のわたしが、なぜか公爵閣下に目をつけられています

きゅちゃん

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 正式採用から三ヶ月が経った。

 詠唱補助式の研究は順調に進んでいた。第二王子の後押しで予算が増え、研究室に新しい設備が入り、ミラは毎朝上機嫌で出勤してくるようになった。トルヴェン主任は相変わらず口数が少ないが、わたしの提案をほぼ却下しなくなった。デニスはいつの間にかわたしのことを「エリーゼさん」と呼ぶようになっていた。

 変わったことは、もうひとつある。

 カイル公爵が、週に一度、研究室に顔を出すようになった。

 長官代理として進捗確認をするのは業務の範囲内だ。ただ、確認が終わった後も少しだけ居残って、わたしの作業を黙って見ていることがある。それがここ最近、ひとつの習慣になっていた。

 今日も公爵は、資料確認を終えた後、窓際に立っていた。

「閣下、お暇なのですか」

 ミラが震え上がりそうなことをさらりと言ったが、公爵は気分を害した様子もなく「少しだけ」と答えた。

 わたしはペンを置いて、立ち上がった。

「外に出ませんか。少し煮詰まってきたので」

 公爵が微かに目を瞬かせた。わたしから誘うのは初めてだったから、少し驚いたのかもしれない。

「……構いません」


 王宮に隣接した中庭は、この時間には人が少ない。石畳の間から秋の草が顔を出していて、噴水が静かに水を流していた。

 並んで歩きながら、しばらくどちらも喋らなかった。沈黙が苦にならない相手というのは、前世を含めてもそう多くなかった。

「閣下」

「なんですか」

「王宮の発表会の日、何と言おうとしていたんですか」

 公爵の足が、一瞬だけ止まった。

「……何の話ですか」

「廊下で、『あなたは思っていたよりずっと』と言いかけて、やめましたよね。あれから三ヶ月、ずっと気になっていました」

 正面を向いて歩きながら言った。目を合わせると聞きにくいことも、並んで歩きながらなら言える。前世で覚えた、小さな技術だ。

 公爵はしばらく黙っていた。

 噴水の水音だけが続いた。

「……強い、と言おうとしていました」

 低い声だった。

「強い?」

「あの場で、セラフィーヌ嬢に、ああいう言葉をかけられる人間は、そうはいない。潰すこともできた。でも、そうしなかった」

 少し間があった。

「それは強さだと思った。頭の良さとは、また別の」

 わたしは少し考えた。

「でも、止めに行く必要はないと言ったのはわたしです。正面からやり合う方がきれいに終われると。結果的に、自分にとって都合のいい場所で決着をつけただけかもしれません」

「それでも同じです」

 公爵は静かに、でもはっきりと言った。

「自分が有利な土俵を作るのも、実力のうちです。そしてそこで、相手を叩き潰す代わりに別の選択をした。それはあなた自身の意志だった」

 わたしは黙った。

 そういう見方をする人なのか、とまた少し、この人のことが分かった気がした。

「……ありがとうございます」

「事実を言っただけです」

 相変わらず、そういう言い方をする。でも今は、その不器用さが少しおかしくて、少し好ましかった。

「閣下はどうして、週に一度研究室に来るんですか」

 続けて聞いた。今日は聞ける気がした。

「進捗確認は」

「月次報告で足りているはずです」

 また沈黙があった。今度は少し長い。

 噴水の前で、公爵が立ち止まった。わたしも止まって、横を向いた。

 翡翠色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。

「……あなたがどう考えているか、知りたかった」

「研究のことですか」

「違います」

 短い否定だった。

 それだけで、充分だった。

 胸の奥で、何かが静かに音を立てた。前世も今世も経験したことのない、初めての感覚だった。

「……そうですか」

 気の利いた返し方は、思いつかなかった。三十数年分の経験も、こういうときには役に立たない。

「わたしも」

 でも、それだけは言えた。

「閣下のことを、もっと知りたいと思っています」

 公爵は何も言わなかった。

 ただ、視線を噴水に向けて、静かに息を吐いた。耳の先が、また少し赤かった。今度は、気のせいではないと思う。

「……では」

 しばらくして、公爵が口を開いた。

「来週、王都に新しい茶葉の店が入ると聞きました」

「はい」

「研究の気分転換に、どうですか」

 さりげなさを装った、不器用な誘い方だった。

 わたしは笑った。声には出さなかったが、たぶん顔に出た。

「ぜひ」

 噴水が、変わらず水を流していた。秋の午後の空は高くて、すこし遠かった。

 前世のわたしに、いつか教えてあげたかった。壁際でひとりジュースを飲んでいた夜から始まって、こんな場所まで来られたよ、と。

 でも今は、先のことを考えるより、今日の続きが楽しみだった。
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