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伝説のパン屋になりましたが、路地裏でのんびり弟子を育てます! ― 焼きたての幸せと、三人の小さな夢 ―
第60話 スパイスと理論と、大騒ぎのパン生地
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翌朝。「アトリエ・フィオナ」の厨房は、期待と緊張、そして三者三様のやる気が入り混じった、不思議な熱気に満ちていた。
「さて、皆さん。パン作りの基本は、まず生地と友達になることです。今日は、最もシンプルな丸パンの生地を、一緒に作ってみましょう」
フィオナは、師匠としてできる限り穏やかに、そして分かりやすく説明を始めた。彼女が用意した、完璧な分量が記されたレシピを、三人の弟子たちが覗き込む。
「ふむ。小麦粉250グラム、水160cc、酵母3グラム……なるほど、実に合理的で美しい配合ですな。さすがは師匠(マスター)」 セオドアは、まるで聖典でも読むかのようにレシピを熟読し、持参したであろう精密な天秤で、一分の狂いもなく材料を計量し始めた。その姿は、パン職人というよりは、実験室の科学者のようだ。
一方、その隣でアシュラフは、レシピを一瞥しただけで、興味なさそうに大きな欠伸をした。 「へっ、こんな細かい数字、見てるだけで頭が痛くなるぜ! パンってのは、頭でこねるもんじゃねえ、心で感じるもんだろ!」 彼はそう言うと、小麦粉の袋を豪快にひっくり返し、両手でざっくりと粉をすくう。水も水差しから「だいたい、これくらい!」と感覚だけで注ぎ込んだ。
「あ、あの……」 そしてリリナは、三人の間で完全に固まっていた。彼女はレシピと材料を交互に見比べ、小さな指先を何度も合わせたり離したりしている。 (こ、小麦粉、こぼしちゃったらどうしよう……。お水、入れすぎたら……。失敗したら、きっと、見捨てられちゃう……) その小さな心は、失敗への恐怖でいっぱいだった。
「おい、セオドア! お前のパン生地、なんかカチカチで悲鳴を上げてるぜ? もっとこう、愛情を込めてやらねえと!」 アシュラフが、粘土のように硬いセオドアの生地を指さして笑う。 「黙りなさい、アシュラフ君! レシピこそが、パン作りにおける唯一絶対の法典だ! 君のように目分量で進めるなど、パンへの冒涜に等しい!」 セオドアが、額に青筋を浮かべて言い返す。 「冒涜だとぉ? こっちのセリフだ! アンタのパンからは、規則の匂いしかしないぜ! 俺の生地は、ほら、故郷のスパイスを入れてやったから、もう歌い始めてる!」 アシュラフは得意げに、どこからか取り出した謎のスパイスを生地に振りかけた。途端に、厨房にエキゾチックで食欲をそそる香りが広がる。
「まあまあ、二人とも! 喧嘩しないで、ね?」 カウンターから顔を出したエリィが、いつものように仲裁しようとするが、二人の勢いは止まらない。 「レシピにないものを入れるなど、言語道断!」 「アンタのパンは、教科書みたいに味気ないに決まってる!」 言葉の応酬は、やがて小麦粉の投げ合いに発展し、厨房はあっという間に真っ白な戦場と化した。リリナは、その隅で小さく悲鳴を上げてしゃがみこんでしまう。
「やれやれ、初日からこれかよ……」 壁に寄りかかっていたルーカスが、呆れたように呟いた。
「――そこまでです」
凛とした、しかし静かな怒気を含んだフィオナの声が、全ての騒音を切り裂いた。 アシュラフもセオドアも、はっとしたように動きを止め、小麦粉まみれの顔で、恐る恐る師匠の顔を見上げた。
フィオナは、ため息を一つついてから、言った。 「アシュラフ。あなたの言う通り、パンは心で感じるものです。セオドア。あなたの言う通り、レシピは先人たちの知恵が詰まった、大切な道標です。どちらも、決して間違ってはいません」 彼女は、対極に立つ二人の弟子を、真っ直ぐに見つめた。 「ですが、今のあなたたちは、自分の正しさしか見ていない。一番大切な、パンの先にいる『食べる人』の顔が、全く見えていないわ」
フィオナは、にこりともせずに、二人に新しい小麦粉の袋を差し出した。 「課題を出します」 その言葉に、二人の肩がびくりと震える。 「セオドアは、アシュラフから『砂漠のパン』の作り方を教わりなさい。レシピはありません。彼の言葉と、感覚だけを頼りに作るのです」 「なっ……!?」 「そしてアシュラフは、セオドアから『王宮のパン』の作り方を教わりなさい。一グラム、一秒の狂いも許されません。彼の理論通りに作るのです」 「げっ、マジかよ……!」
二人は顔を見合わせ、絶望的な表情を浮かべた。 「それができなければ、アトリエ・フィオナの弟子として、パンを焼く資格はありません」 フィオナのその言葉は、陽だまりのアトリエの主人として、そして、彼らの師匠としての、揺るぎない決意に満ちていた。
厨房の隅で、ルーカスが、ほんの少しだけ口の端を吊り上げた。 「へっ、面白くなってきたじゃねえか」
こうして、陽気な砂漠の少年と、真面目な王宮の青年による、前代未聞のパン作り交換留学が始まった。 「だから! 『太陽の砂を掴むように、ふわりと』って言ってるだろ!」 「『ふわりと』の定義を、まず定量的に説明していただきたい!」
賑やかすぎる弟子たちの声と、焼きたてのパンの香り、そして師匠の頭痛の種が混じり合った、アトリエ・フィオナの新しい日常。その一日は、まだ始まったばかりだった。
「さて、皆さん。パン作りの基本は、まず生地と友達になることです。今日は、最もシンプルな丸パンの生地を、一緒に作ってみましょう」
フィオナは、師匠としてできる限り穏やかに、そして分かりやすく説明を始めた。彼女が用意した、完璧な分量が記されたレシピを、三人の弟子たちが覗き込む。
「ふむ。小麦粉250グラム、水160cc、酵母3グラム……なるほど、実に合理的で美しい配合ですな。さすがは師匠(マスター)」 セオドアは、まるで聖典でも読むかのようにレシピを熟読し、持参したであろう精密な天秤で、一分の狂いもなく材料を計量し始めた。その姿は、パン職人というよりは、実験室の科学者のようだ。
一方、その隣でアシュラフは、レシピを一瞥しただけで、興味なさそうに大きな欠伸をした。 「へっ、こんな細かい数字、見てるだけで頭が痛くなるぜ! パンってのは、頭でこねるもんじゃねえ、心で感じるもんだろ!」 彼はそう言うと、小麦粉の袋を豪快にひっくり返し、両手でざっくりと粉をすくう。水も水差しから「だいたい、これくらい!」と感覚だけで注ぎ込んだ。
「あ、あの……」 そしてリリナは、三人の間で完全に固まっていた。彼女はレシピと材料を交互に見比べ、小さな指先を何度も合わせたり離したりしている。 (こ、小麦粉、こぼしちゃったらどうしよう……。お水、入れすぎたら……。失敗したら、きっと、見捨てられちゃう……) その小さな心は、失敗への恐怖でいっぱいだった。
「おい、セオドア! お前のパン生地、なんかカチカチで悲鳴を上げてるぜ? もっとこう、愛情を込めてやらねえと!」 アシュラフが、粘土のように硬いセオドアの生地を指さして笑う。 「黙りなさい、アシュラフ君! レシピこそが、パン作りにおける唯一絶対の法典だ! 君のように目分量で進めるなど、パンへの冒涜に等しい!」 セオドアが、額に青筋を浮かべて言い返す。 「冒涜だとぉ? こっちのセリフだ! アンタのパンからは、規則の匂いしかしないぜ! 俺の生地は、ほら、故郷のスパイスを入れてやったから、もう歌い始めてる!」 アシュラフは得意げに、どこからか取り出した謎のスパイスを生地に振りかけた。途端に、厨房にエキゾチックで食欲をそそる香りが広がる。
「まあまあ、二人とも! 喧嘩しないで、ね?」 カウンターから顔を出したエリィが、いつものように仲裁しようとするが、二人の勢いは止まらない。 「レシピにないものを入れるなど、言語道断!」 「アンタのパンは、教科書みたいに味気ないに決まってる!」 言葉の応酬は、やがて小麦粉の投げ合いに発展し、厨房はあっという間に真っ白な戦場と化した。リリナは、その隅で小さく悲鳴を上げてしゃがみこんでしまう。
「やれやれ、初日からこれかよ……」 壁に寄りかかっていたルーカスが、呆れたように呟いた。
「――そこまでです」
凛とした、しかし静かな怒気を含んだフィオナの声が、全ての騒音を切り裂いた。 アシュラフもセオドアも、はっとしたように動きを止め、小麦粉まみれの顔で、恐る恐る師匠の顔を見上げた。
フィオナは、ため息を一つついてから、言った。 「アシュラフ。あなたの言う通り、パンは心で感じるものです。セオドア。あなたの言う通り、レシピは先人たちの知恵が詰まった、大切な道標です。どちらも、決して間違ってはいません」 彼女は、対極に立つ二人の弟子を、真っ直ぐに見つめた。 「ですが、今のあなたたちは、自分の正しさしか見ていない。一番大切な、パンの先にいる『食べる人』の顔が、全く見えていないわ」
フィオナは、にこりともせずに、二人に新しい小麦粉の袋を差し出した。 「課題を出します」 その言葉に、二人の肩がびくりと震える。 「セオドアは、アシュラフから『砂漠のパン』の作り方を教わりなさい。レシピはありません。彼の言葉と、感覚だけを頼りに作るのです」 「なっ……!?」 「そしてアシュラフは、セオドアから『王宮のパン』の作り方を教わりなさい。一グラム、一秒の狂いも許されません。彼の理論通りに作るのです」 「げっ、マジかよ……!」
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厨房の隅で、ルーカスが、ほんの少しだけ口の端を吊り上げた。 「へっ、面白くなってきたじゃねえか」
こうして、陽気な砂漠の少年と、真面目な王宮の青年による、前代未聞のパン作り交換留学が始まった。 「だから! 『太陽の砂を掴むように、ふわりと』って言ってるだろ!」 「『ふわりと』の定義を、まず定量的に説明していただきたい!」
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