笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~

虹湖🌈

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伝説のパン屋になりましたが、路地裏でのんびり弟子を育てます! ― 焼きたての幸せと、三人の小さな夢 ―

第65話 嵐の夜と、奇跡のパン生地

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 王都を叩きつける豪雨は、まるで天が悲しんでいるかのように、夜になってもその勢いを増すばかりだった。アトリエ・フィオナの厨房は、外の荒れ狂う世界とは切り離された、小さな孤島。そこに灯るランプの光は、絶望の闇の中でかろうじて輝く、最後の希望だった。

「――行きます!」

 最初に沈黙を破ったのは、リリナだった。彼女は古い雨合羽をぎゅっと握りしめ、その瞳にはもう怯えの色はなかった。 「雨は、森の恵みを呼び覚まします。小麦粉がないのなら、森が与えてくれる『粉』を探しに行きます! きっと、この雨の中でしか顔を出さない、特別な木の実や根っこがあるはずです!」 「馬鹿野郎! こんな嵐の中、一人で行けるか!」 ルーカスが、思わず怒鳴る。だが、リリナは一歩も引かなかった。 「一人じゃありません。私には、森の友達がいますから」 その覚悟に満ちた瞳を見て、ルーカスは大きくため息をつくと、自分の背丈ほどもある大剣を無造作に背負った。 「……チッ。分かったよ。俺も行く。お前の言う『友達』とやらが、熊や猪じゃねえことを祈るぜ」

 二人が嵐の中へ飛び出していくと、厨房では残された者たちの戦いが始まった。 セオドアは、まるで野戦病院の外科医のように、持ちうる全ての知識を総動員していた。彼は、店に残っていた僅かな穀物や豆を調べ上げ、紙の上に緻密な計算式を書き連ねていく。 「この豆は澱粉質が7割だが、水分を吸うと粘性が強すぎる。こちらの燕麦は風味がいいが、グルテンが皆無だ。これらをどう組み合わせれば、パンとしての骨格を維持できる……?」 彼の額には、汗が浮かんでいた。教科書には載っていない、未知の挑戦。だがその瞳は、絶望ではなく、困難な謎に挑む学者のように、爛々と輝いていた。

 その隣で、アシュラフは、古びた石臼と格闘していた。 「セオドア! 店の隅にあった、少し湿気ちまった木の実、こいつはまだ生きてるか!?」 「待て、アシュラフ君! その状態では、粉にしてもカビ臭さが残るだけだ!」 「分かってる! だから、砂漠の太陽を呼ぶんだよ!」 アシュラフはそう叫ぶと、石窯の余熱で熱した分厚い石板の上に、その湿気た木の実を広げた。ジュッ、と微かな音がして、湿気が白い湯気となって立ち上る。彼は、石板を揺すりながら、まるで砂を焙るかのように、木の実を丁寧に煎っていく。やがて、カビ臭さは完全に消え去り、代わりにナッツのような香ばしい匂いが、厨房に満ち始めた。 「……すごい。熱で湿気を飛ばし、同時に風味を引き出すとは。実に合理的だ。君たち砂漠の民の知恵は、私の理論を超えている……!」 セオドアが、驚きに目を見開いた。

 夜が更け、雨と風が最も激しくなった頃、リリナとルーカスが戻ってきた。二人はずぶ濡れだったが、その腕に抱えた籠はずっしりと重かった。 「見てください! 『土栗(つちぐり)』と、一族に伝わる『太陽の種』です!」 籠の中には、土の香りがする栗のような木の実と、ひまわりの種に似た、栄養価の高い種子が溢れんばかりに入っていた。

 ここからが、本当の戦いだった。 四人は、一つのテーブルを囲んだ。そこには、リリナが命懸けで集めた森の恵み、セオドアが理論で選び抜いた穀物の配合、アシュラフが魂を込めて再生させた木の実の粉。それら全てが、一つの大きな鉢に入れられる。

 フィオナは、その未知の粉に、静かに手を差し入れた。 その手触りは、いつもの小麦粉とは全く違う。ざらざらとして、少し重く、様々な生命の匂いがした。 「……この生地は、生きている。そして、少しだけ、戸惑っているわ」 フィオナは、まるで赤子に語りかけるように、優しく生地を捏ね始めた。

「師匠! 水分量が、通常の小麦より15%は高い! このままでは、生地がだれて形を保てません!」 セオドアが、悲鳴に近い声を上げる。 「そ、それなら……!」リリナが、震える声で叫んだ。「この土栗の粉を少し足してください! この粉は、水を吸うと、お餅みたいに粘りが出るんです!」 「よし! それで骨格が緩くなるなら、この煎った太陽の種の粉が、砂みたいにガッシリと支えてやるぜ!」 アシュラフが、すかさず粉を加える。

 感覚と、理論と、森の知恵。 フィオナの導きのもと、四人の知恵と技が、一つの生地の上で、奇跡のように融合していく。 捏ねては、休み。祈るように、発酵を待つ。その時間は、まるで嵐の夜に生まれた、新しい生命の誕生に立ち会っているかのようだった。

 やがて、東の空が白み始め、嘘のように雨が上がった頃。 彼らの目の前には、一つの大きなパン生地の塊が、静かに呼吸をしていた。 それは、純白ではない。森の土の色、太陽の種の色、様々な生命の色が混じり合った、力強い斑(まだら)模様の生地。 誰もが、疲労の限界を超えていた。だが、その顔には、一点の曇りもなかった。

 フィオナは、その愛おしい生地に、そっと触れた。 「……ありがとう、みんな」 彼女の声は、朝露のように澄んでいた。 「これはもう、小麦粉の代用品なんかじゃない。嵐の夜にしか生まれなかった、私たちの、全く新しいパンです」

 窓の外では、雨上がりの虹が、王都の上に大きな橋をかけていた。 収穫祭の朝が、来た。
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