笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~

虹湖🌈

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伝説のパン職人と、麦畑の守り神 ~陽だまりのアトリエと、古代酵母の約束~

第68話 路地裏と、しおれた麦穂

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 その日、フィオナのパンは、死んでいた。

 王都アウレリアの路地裏、「アトリエ・フィオナ」。早朝の厨房を満たすはずの、甘く、胸がふくらむような酵母の歌声が、どこにも聞こえない。 フィオナは、木鉢(こねばち)の中にある生地の塊を、途方に暮れて見つめていた。

(……おかしい)

 彼女の手は、水と粉の比率、捏ねる回数、室温と湿度の完璧な調和を、寸分の狂いもなく覚えている。ヴェストリアの荒野でも、王宮の厨房でも、その手は常に奇跡を生み出してきた。 だが、今、彼女の手の中にある生地は、まるで命を吹き込まれることを拒絶するかのように、重く、冷たく、沈黙している。

「嘘……」

 昨日もそうだった。一昨日も。 最近、王都中のパン屋が「どうにも膨らみが悪い」と首をかしげていた。フィオナも最初は気のせいだと思っていた。だが、違う。 これは、技術の失敗ではない。もっと根源的な、小麦そのものの生命力が、まるで張り詰めた糸のように、か細くなってしまっているのだ。 “国を救った伝説のパン職人”――世間が彼女に贈ったその名声は、命の源そのものが枯れ果てようとしている今、あまりに無力だった。

「フィオナ? 大丈夫?」 カウンターから顔を覗かせたエリィが、心配そうに声をかける。 「……ええ。少し、生地がご機嫌斜めなだけよ」 フィオナは無理に笑みを作ったが、その指先は、生命の気配がしない生地の冷たさに、小さく震えていた。

 その日の午後は、嵐になった。 空が鉛色の蓋をしたかのように低く垂れこめ、生ぬるい風が、病んだ小麦の匂いを街中に撒き散らす。店を閉め、雨戸を打ち付ける木の音が、まるで誰かの咳き込む声のように、陰鬱に響いた。

「ひどい雨……」 店の明かりを落とし、厨房で一人、明日の仕込みをためらっていた時だった。

 ヒュッ、と。 風の音とは違う、何かが空気を裂く、鋭い音が聞こえた。 そして、ガシャン!と、店の裏路地で何かが倒れる、金属質な音。

「ルーカス?」 用心棒の彼が戻ったのかと思ったが、違う。この嵐の中、彼ならもっと豪快にドアを蹴破るはずだ。 (……空き巣? それとも、怪我人?) フィオナは、護身用に置いていた麺棒をそっと握りしめ、雨が叩きつける裏口のドアを、ゆっくりと開いた。

 そこに、それはいた。

 ずぶ濡れのゴミ箱の陰で、小さな塊が、かろうじて息をしていた。 一見、金色の毛並みを持つ、小さなキツネのように見えた。だが、違う。 その毛並みは、本来あるべき絹のような艶を失い、まるで長雨に打たれて腐りかけた、しおれた麦の穂のように、カサカサに乾ききっていた。 そして、尻尾。あるべきはずのふさふさとした毛ではなく、それは、明らかに一本の「麦の穂」そのものの形をしていた。それも、実る前に枯れ果て、黒く変色した、哀れな穂だ。

 その生物は、フィオナの気配に気づき、ゆっくりと顔を上げた。 開かれた瞳は、琥珀色。だが、その奥に宿る光は、何百年も生き続けた存在が、初めて「絶望」を知ったかのような、あまりに古く、深い悲しみに満ちていた。

「……っ、ひどい怪我……!」 フィオナは麺棒を放り出し、駆け寄った。獣は威嚇する元気もなく、ただ、浅く、苦しそうな息を繰り返す。 抱き上げると、信じられないほど軽い。まるで、中身のない麦わらの束を抱いているかのようだ。

 店に運び込み、急いで清潔な布で包み、温かい湯を差し出す。だが、獣は首を振る。薬師であるリリナに昔教わった、滋養強壮のハーブを煎じてみせる。それも、受け付けない。 その目は、ただ虚ろに、厨房の片隅を見つめている。 死にかけていた。それも、怪我や病気ではない。もっと根源的な、生命そのものの「核」が、内側から枯渇していくような、緩やかで、しかし残酷な死に方だった。

(どうしよう。このままでは……) フィオナは、自分が“伝説のパン職人”などと呼ばれることに、常々、強い違和感を抱いていた。 (私は聖獣に選ばれるような人間じゃない。奇跡なんて起こせない。ただのパン職人なのに……!) 何もできない無力感に、唇を噛みしめる。 その時、彼女の視線が、昼間、発酵に失敗した、あの「死んだパン」の残骸に止まった。

 それは、パン職人としての「失敗作」だった。 だが――。

 フィオナは、まるで何かに導かれるように、そのパンを手に取った。そして、小さくちぎると、水に浸し、指先が震えるのをこらえながら、そっと獣の口元へと運んだ。 それは、薬でも、魔法でもない。ただ、フィオナが、今日の不作を嘆き、明日の恵みを祈る、その「感謝」だけを込めて捏ねた、いつものパンだった。

 獣の鼻が、かすかにひくついた。 その虚ろだった琥珀色の瞳が、初めて、フィオナの指先にあるパンの欠片に焦点を結んだ。 獣は、最後の力を振り絞るように、かろうじて口を開き、その水に浸ったパンを、舌先で受け入れた。

 ゆっくりと、咀嚼する。 すると、奇跡が起きた。 獣の、しおれていた麦の穂のような毛先に、ほんの、ほんの一瞬だけ、淡い金色の光が灯り、そして消えた。 瞳の奥に宿っていた深い絶望が、ほんの少しだけ和らぎ、代わりに「驚き」の色が浮かぶ。

「……食べた……」

 フィオナが、安堵の息を漏らした、その時だった。 獣は、まだほとんど動けないはずの体を引きずり、温かい毛布の上から這い出た。 そして、フィオナの足元まですり寄ると、その冷たい額を、彼女の靴に、そっと押し当てた。

 それは、本能的な「救いを求める」仕草ではなかった。 それは、何百年という孤独の果てに、ようやく探し当てた、たった一つの「居場所」に対する、明確な「選択」の意思表示だった。

 フィオ... ナは、息をのんだ。 (私を選んだ……? この、小さな神様が……私を?)

 彼女は、震える手で、その金色の、しかし今はまだ哀れなほどにしおれた頭を、そっと撫でた。 「……大丈夫」 彼女の声は、まだ戸惑いに満ちていたが、その奥には、嵐の夜に灯った、小さな炎が宿っていた。

「あなたが、何者なのかは分からない。私に何ができるかも分からない」 フィオナは、その小さな命を、壊れ物を抱くように、そっと抱き上げた。 「でも。あなたが私を選んだのなら……私が、必ず、あなたを守るから」

 外では、まだ嵐が吹き荒れている。 だが、路地裏の小さなパン屋の中では、傷ついた守り神と、ただのパン職人を結ぶ、世界で最も温かい約束が、静かに、しかし確かに、交わされたのだった。
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