笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~

虹湖🌈

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陽だまりのアトリエと、小さな麦の穂 〜守り神と育む、家族のレシピ〜

第85話 生命の融合と、王宮への小さな包み

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 夜明け前の青い静寂が、ヒビの入った石畳に降り注いでいた。
 昨夜の激しい攻防戦の名残は、マルセルとルーカスによって既に片付けられていたが、工房の空気はまだ、極度の緊張と、そして圧倒的な生命の香りに満ちていた。

 フィオナは、中央の作業台に置かれた木の鉢を、祈るような眼差しで見つめていた。
 鉢の中には、ホズネの最後の生命力と、ソルティスの力強い「白塩」と「岩塩」、そしてマルセルが用意した浄化のハーブが、全て融合した生地が横たわっている。
 それは、まるで太陽の光を閉じ込めたかのように、異様な速さで力強く膨らみ始めていた。

「これが……『陽だまりブレッド』の生地」

 フィオナの指先が、その温かい表面に触れる。
 生地は、以前のどのパンとも違っていた。
 彼女の旅の経験の全てと、家族の命懸けの献身が、このひとつの塊に集約されているのが分かった。

「きゅう……」

 フィオナの足元では、ホズネが新しい寝床(ルーカスが夜通し修繕したものだ)で丸くなり、まだ休んでいる。
 その毛並みは艶を取り戻しつつあるが、疲労は隠せない。
 しかし、その呼吸は、以前よりもずっと穏やかで安らかだった。

「よかったわね、ホズネ。あなたと、アルトの未来を守るためのパンよ」

 フィオナは、師匠レオンから教わった言葉を反芻した。
「力で支配せず、寄り添って育む」。
 アカデミーが目指す制御と支配とは真逆の、愛情による導きこそが、この規格外の生地を最高のパンへと昇華させる鍵だった。

 ---

「フィオナ」

 マルセルが、分厚い手帳を片手に現れた。
 その顔には、一睡もしていないであろう疲労の色が濃い。

「窯の修理は応急処置が完了しました。最高の熱効率は望めませんが、どうにか焼き上げることは可能です。それよりも、最終確認です」

 マルセルは、眼鏡の奥の目を光らせた。

「敵であるアカデミー強硬派の主張は、『アルト様の力は、飢餓を救うための資源であり、人類の生存のためには、合理的な管理下(隔離)に置かれるべきだ』という一点に絞られます。
 彼らは、アルト君の能力を最大限に引き出す『管理された完璧な人工酵母パン』を披露してくるでしょう」

「パンを、道具として証明するのね」

 フィオナは、静かに頷いた。
 その光景は、公爵令嬢時代、政治的価値のために婚約破棄を言い渡された、あの屈辱の瞬間を思い出させた。

「では、我々はどう反証するのか?」

 マルセルの問いに、フィオナは胸を張った。

「私のパンは、彼らの言う『管理』という名の『独占』を否定します。
 このパンは、私一人では焼けませんでした。
 ルーカスの力、エリィの笑顔、マルセルの知恵、そしてホズネの命。
 命とは、管理する資源ではなく、分け合い、慈しむことで力を発揮するものだと、パンの味で証明します」

「その通りだ、フィオナ!」

 扉の奥から、ルーカスが飛び出してきた。
 彼の両手には、美しく磨き上げられたフィオナのロゴ入りの木箱が握られている。

「俺は、お前のパンが勝つと信じている。
 だが、もしあいつらが汚え真似をしたら、俺が王宮の大広間をひっくり返してやる!
 だから、お前はパンを焼くことにだけ集中しろ!」

「ルーカス……」

「大丈夫、フィオナ様!」
 エリィが、フィオナの背中に、手作りの小さなパンの形のお守りをそっと結びつける。
「フィオナ様のパンは、どんな悩みも吹き飛ばす魔法のパンなんですから!」

 フィオナは、三人の最高の仲間たちを見て、心からの笑顔を浮かべた。
 その笑顔は、かつての完璧な微笑みではなく、鉄の仮面を剥がした、温かい陽だまりのような真実の輝きだった。

 ---

 フィオナは、焼きたての「陽だまりブレッド(仮称)」を、ルーカスが用意した特製の木箱に丁寧に収めた。
 そのパンは、樫の実の粉やハーブ、そして旅で得た全ての記憶が融合し、素朴でありながら、生命力に満ちた、力強い丸いパンだった。

 店の外に、王宮の紋章をつけた馬車が到着した。
 査察官が送ってきた「王宮公開実験/討論会への参加召喚状」に従う時が来たのだ。

 王宮のシャンデリアの光のようにきらびやかで、それでいて体を締め付けるコルセットのように息苦しい空間へ。
 フィオナは、逃げずに、自分の足で向かうことを選んだ。

 ルーカスが、フィオナの背中を、そっと押した。

「行ってこい、フィオナ。お前のパンは……どんな相手にも、負けねえよ」

 フィオナは、木箱を抱きしめ、小さく頷くと、路地裏の陽だまりを後にした。
 彼女の抱える木箱の中には、世界を救う鍵ではなく、家族の愛と絆の証が、一つだけ、大切に収められていた。
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