笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~

虹湖🌈

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陽だまりのアトリエと、小さな麦の穂 〜守り神と育む、家族のレシピ〜

第86話 王宮の圧力と、四人の決意

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 王都大博覧会で使われたものよりも遥かに豪華な馬車が、フィオナとルーカス、そしてマルセルとエリィの四人を乗せ、王城の堅牢な門をくぐり抜けた。
 マルセルが用意した簡素だが品のいい仕立ての外出着を身に纏いながらも、フィオナの心臓は、王宮の空気に触れるたびに、まるでコルセットで締め上げられるかのようにきつく締め付けられた。

 きらびやかなシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に無数の星屑を散らしている。
 その完璧に計算された華やかさが、フィオナの過去の記憶を呼び覚ました。
 公爵令嬢として感情を殺し、「冷酷で傲慢な女」と断じられた日々。婚約破棄を告げられた、あの息苦しい檻のような空間。

「……お嬢様。表情が硬い。深呼吸を」
 フィオナの横に寄り添うマルセルが、囁くように言った。
 彼の表情はいつもと変わらず冷静沈着だが、その手には、もしもの時に備えた「王宮における緊急脱出ルート案」が記されたメモが握られているかもしれない。

「大丈夫です、マルセル。ただ、この空気に、少し慣れなくて……」
 フィオナは、自身の「鉄の仮面」を剥がされた今、無理に完璧な微笑みを作ることはしなかった。
 ただ、パン職人として、まっすぐに前を見つめた。

「ケッ、相変わらず胸糞が悪くなる場所だ」
 ルーカスは、王宮の回廊を睨みつけ、忌々しげに吐き捨てた。
 彼は、フィオナの木箱(「陽だまりブレッド」が入っている)を、まるで王家の宝のように両手で抱え、周囲の貴族の視線などまるで気にせず、仁王立ちのまま周囲を警戒している。

「あの髭面ども、俺の目の前でフィオナに指一本でも触れてみやがれ。たとえ公開討論会だろうと、全員まとめて大広間の外に叩き出してやる」
 その言葉は物騒だが、フィオナを絶対に守り抜くという、彼の不器用で揺るぎない決意の表れだった。

 ---

 討論会を前に、一行が案内された控室は、豪奢ながらも窓のない、閉鎖的な空間だった。

「フィオナ様、温かいハーブティーをどうぞ! 私、これ、この前リリナちゃんがくれた森のハーブを少し入れたんです。心を落ち着かせる魔法があるんですよ!」
 エリィが、淹れたてのハーブティーをフィオナに差し出す。
 彼女の屈託のない笑顔と、純粋な信頼こそが、フィオナにとって何よりの鎮静剤だった。

「ありがとう、エリィ。本当に助かるわ」
 フィオナは、温かいカップを両手で包み込んだ。

「しかし、フィオナ様。今回の対戦相手、アカデミーが送り込んできたのは、当代随一の理論パン職人、ドクター・ヴァーノンです。
 彼のパンは、『科学的合理性の結晶』と評されており、感情や感傷といった要素を完全に排除した、完璧な再現性を持つものです」
 マルセルは、用意した対戦相手の経歴書を広げた。

「敵の主張は明確でしょう。『アルト様の力は自然の奇跡ではなく、再現可能なエネルギーである。それを無秩序に路地裏で独占するのではなく、アカデミーが管理し、人類全体の福祉に供すべきだ』と」。

「科学的合理性、ね……」
 フィオナは、窯を破損させ、水に毒を仕込んだ、彼らの卑劣な手段を思い浮かべた。

「管理された秩序(科学)と、分け合う温もり(愛)の対立ね」。

「フィオナ様、我々は昨夜のパンの再確認を。ホズネ殿から託された陽光の酵母の力は、最大限に引き出されていますか?」

「ええ。ホズネの命と、みんなの愛が詰まっているわ。窯も水も最悪だったけど、あの生地は、戸惑いと飢えを乗り越え、力強く膨らんでくれた。あとは、私がこのパンに、魂を宿すだけよ」

 ---

 その時、控室の扉が、乱暴に開かれた。

「ほほう、これが『路地裏のパン職人』の控室ですか。いやはや、煤と小麦粉の香りが満ちていて、実に興味深い」
 入ってきたのは、王立アカデミーの査察官と、その隣に立つ、ドクター・ヴァーノンだった。
 ヴァーノンは、完璧に糊付けされた白いコックコートを着用し、その手には、フィオナの木箱と同じくらいのサイズの、銀色の密閉容器が握られている。

 査察官は、フィオナを侮蔑的に見下ろした。
「フィオナ殿。随分と余裕がおありのようだが、貴殿が焼いてきたパンは、我々が用意した『人工知能が導き出した、人類最高の栄養効率を持つパン』に、果たして対抗できるかな?」

 ヴァーノンは、冷たい理知の瞳で、フィオナのパンが入った木箱を一瞥した。
「生命力などという非科学的な感傷は、我々の議論においては無意味です。
 パンとは、飢餓を救い、病を癒やす資源。その資源を、個人の感情論で無秩序に消費する行為は、断罪されるべきです」

 彼は、言葉を選ばずフィオナのパン職人としての信念そのものを否定した。

 ルーカスが、剣の柄に手をかける。
「てめえ、今すぐその薄汚い口を閉じろ。さもなくば、この大広間で血の雨が降るぞ」

 ルーカスの全身から放たれる殺気に、査察官とヴァーノンは一瞬怯んだが、すぐに高慢な笑みを浮かべた。
「野蛮な。さすがは元傭兵。貴殿らは、常に暴力と感傷に頼る。我々アカデミーの秩序とは、永遠に交わることはないな」

 ---

「いいえ、交わりますわ」
フィオナは、静かに、しかし鋼のように強い声で言い放った。
 彼女は、ルーカスの腕をそっと掴んで落ち着かせた。

「私は、貴方たちの『合理的』なパンを否定はしません。ただ……私のパンが、貴方たちのパンより尊い理由を、今から証明してみせます」

 フィオナは、ルーカスから木箱を受け取り、しっかりと抱きしめた。

「私の師匠は、言いました。パン職人なら、パンで語れと」。

「貴族社会のシャンデリアの光の中で、誰かの顔色を窺って生きていた頃の私ではありません。私は今、路地裏のパン屋の主人です」

 彼女は、ヴァーノンと査察官の冷たい瞳を、まっすぐに見つめ返した。

「貴方たちの『管理された秩序』が、私のパンの『分け合う温もり』に勝てるかどうか。言葉ではなく、このパンの味で、ご判断ください」

 フィオナの顔に、もう過去の恐怖の色はなかった。
 そこにあるのは、母として、パン職人としての、揺るぎない覚悟だけだった。

「さあ、行きましょう。王都一のパン職人の誇りをかけて、この戦いに挑みます」

 フィオナは、王宮の大広間へと続く重い扉に、まっすぐに向き合った。
 その背中を、ルーカスの守護の熱、マルセルの知恵の光、そしてエリィの純粋な信頼が、温かく包んでいた。
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