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第17話 王家の茶会と、パンが繋ぐ小さな奇跡
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茶会当日の朝。フィオナは、夜明けの薄明かりが工房に差し込む前から、一心不乱にパンを焼き上げていた。焼き慣れたはずの「心の庭園ブレッド」と「希望のプチ・コローヌ」。しかし、今日ばかりは窯に入れる手のひらに、じっとりと汗が滲む。
「フィオナ様、これ、お守りです! 私の村で一番効き目があるって評判なんですよ!」
エリィが、手作りの小さな布袋をフィオナに握らせる。中には、乾燥したハーブの良い香りがした。
「お嬢様、万が一の事態に備え、会場の周囲には我がヴィルヘルム家の者を数名、配置しておりますのでご安心を。…いえ、決してリリアンヌ様を疑っているわけではございませんが、念のため」
マルセルは、いつもの冷静な口調で物騒なことを言いながら、フィオナの肩にそっとショールをかける。そのショールも、彼がどこからか調達してきた一級品だ。
「もし何かあったら、この俺が…えーと、とりあえず大声で騒いで撹乱くらいはしてやる! だから、胸張って行ってこい!」
ルーカスは、頼りになるようなならないようなエールを送りつつ、フィオナの背中を力強く(しかし加減して)叩いた。
三人の温かい励ましに送られ、フィオナはマルセルが手配した目立たないながらも品の良い馬車に乗り込み、久しぶりの王城へと向かった。
高くそびえる城門をくぐり、磨き上げられた回廊を進む。その空気の冷たさと重圧感に、フィオナは思わず息をのんだ。婚約破棄を告げられた、あの悪夢のような夜会が脳裏をよぎる。
茶会の会場である中庭に面したサンルームには、既に数名の貴婦人や令嬢たちが集い、優雅におしゃべりに興じていた。その中には、かつてフィオナに冷ややかな視線を向け、陰口を叩いていた者たちの顔もちらほら見える。彼女たちはフィオナの姿を認めると、一瞬驚いたように目を見張り、そして扇の陰で何かを囁き始めた。
(……平常心、平常心よ、フィオナ。私はパン屋。今日はパンをお届けに来ただけ)
フィオナが自分に言い聞かせていると、リリアンヌ嬢が緊張した面持ちで駆け寄ってきた。
「フィオナ様!お待ちしておりましたわ!パンは…」
「はい、こちらに。最高の出来でございます」
フィオナは、リリアンヌに微笑みかけ、持参したバスケットをそっと差し出した。
やがて、ライアス王太子が姿を現すと、会場の空気がピリッと引き締まる。彼は、相変わらず美しいがどこか影のある表情で、リリアンヌの隣の席に着いた。
そして、いよいよフィオナのパンがお披露目される時が来た。
銀のトレイに乗せられた「心の庭園ブレッド」と「希望のプチ・コローヌ」が、貴族たちのテーブルへと運ばれていく。その素朴ながらも洗練された佇まいと、ふわりと漂うハーブの香りに、会場が微かにざわめいた。
「まあ、これが例の…街の片隅のパンですって?」
「おハーブの使い方が、なかなかに大胆ですわね」
最初は訝しげな視線を向けていた貴婦人たちも、一口パンを口に運ぶなり、その表情を変えていく。
「あら…このライ麦パン、複雑で奥深い味わいだこと!」
「この小さな王冠のパン、中に入っているのはオレンジかしら?なんて爽やかな…!」
あちこちから、小さな感嘆の声が漏れ始めた。中には、あまりの美味しさに言葉を失い、ただうっとりとパンを見つめている令嬢もいる。
そして、注目のライアス王太子。彼は、目の前に置かれた「心の庭園ブレッド」を、無表情のまま手に取った。隣では、リリアンヌが祈るような目で見守っている。
ゆっくりとパンを口に運ぶライアス。その眉が、ほんの僅かに動いた。そして、もう一口。彼の硬直していた表情が、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ和らいだように見えたのは、フィオナの気のせいだろうか。
「殿下…そのパンは、フィオナ様が…わたくし達のために、特別に焼いてくださったものでございますの」
リリアンヌが、勇気を振り絞って声をかける。
ライアスは、ゆっくりと顔を上げ、フィオナを一瞥した。その視線は、かつての冷酷なものではなく、どこか探るような、複雑な色を帯びている。
フィオナは、緊張で心臓が早鐘を打つのを感じながらも、背筋を伸ばし、控えめに言った。
「このパンが、ほんの少しでも皆様の心に安らぎをもたらせますようにと…心を込めてお作りいたしました」
その言葉に嘘はなかった。
茶会は、その後、フィオナのパンの話題で持ちきりとなった。最初は遠巻きに見ていた貴族たちも、次々とフィオナのパンに手を伸ばし、その斬新な味わいに驚きと称賛の声を上げる。中には、「私の屋敷のパーティーでも、ぜひこのパンを!」と早速リリアンヌに打診する者まで現れる始末だ。
リリアンヌは、涙ぐみながらフィオナに何度も感謝の言葉を述べた。彼女の顔には、久しぶりに心からの笑顔が戻っていた。
そして、茶会がお開きになろうという時だった。
ライアス王太子が、ふとフィオナのそばに立ち止まり、低い声で一言だけ告げた。
「……悪くないパンだった。特に、あのハーブのパンは…心が落ち着くような、不思議な味がした」
そして、彼は微かに口元を緩めると、こう付け加えたのだ。
「また、食べる機会は…あるのだろうか?」
その言葉は、問いかけのようでいて、どこか期待を滲ませているようにも聞こえた。
王城からの帰り道。フィオナは、夕焼けに染まる空を馬車の窓から見上げながら、ライアスの最後の言葉を胸の中で何度も繰り返していた。
それは、大きな達成感と共に、これから何かが変わっていくかもしれないという、新たな未来への予感を運んできていた。
アトリエ・フィオナの小さな灯りが、王都の片隅で、さらに明るく、そして確かな輝きを放ち始めた瞬間だった。
もちろん、店に戻れば、ルーカスとマルセル、そしてエリィからの質問攻めと、手放しの(そして少しズレた)称賛が待っていることも、フィオナはちゃんと予感していたのだが。
「フィオナ様、これ、お守りです! 私の村で一番効き目があるって評判なんですよ!」
エリィが、手作りの小さな布袋をフィオナに握らせる。中には、乾燥したハーブの良い香りがした。
「お嬢様、万が一の事態に備え、会場の周囲には我がヴィルヘルム家の者を数名、配置しておりますのでご安心を。…いえ、決してリリアンヌ様を疑っているわけではございませんが、念のため」
マルセルは、いつもの冷静な口調で物騒なことを言いながら、フィオナの肩にそっとショールをかける。そのショールも、彼がどこからか調達してきた一級品だ。
「もし何かあったら、この俺が…えーと、とりあえず大声で騒いで撹乱くらいはしてやる! だから、胸張って行ってこい!」
ルーカスは、頼りになるようなならないようなエールを送りつつ、フィオナの背中を力強く(しかし加減して)叩いた。
三人の温かい励ましに送られ、フィオナはマルセルが手配した目立たないながらも品の良い馬車に乗り込み、久しぶりの王城へと向かった。
高くそびえる城門をくぐり、磨き上げられた回廊を進む。その空気の冷たさと重圧感に、フィオナは思わず息をのんだ。婚約破棄を告げられた、あの悪夢のような夜会が脳裏をよぎる。
茶会の会場である中庭に面したサンルームには、既に数名の貴婦人や令嬢たちが集い、優雅におしゃべりに興じていた。その中には、かつてフィオナに冷ややかな視線を向け、陰口を叩いていた者たちの顔もちらほら見える。彼女たちはフィオナの姿を認めると、一瞬驚いたように目を見張り、そして扇の陰で何かを囁き始めた。
(……平常心、平常心よ、フィオナ。私はパン屋。今日はパンをお届けに来ただけ)
フィオナが自分に言い聞かせていると、リリアンヌ嬢が緊張した面持ちで駆け寄ってきた。
「フィオナ様!お待ちしておりましたわ!パンは…」
「はい、こちらに。最高の出来でございます」
フィオナは、リリアンヌに微笑みかけ、持参したバスケットをそっと差し出した。
やがて、ライアス王太子が姿を現すと、会場の空気がピリッと引き締まる。彼は、相変わらず美しいがどこか影のある表情で、リリアンヌの隣の席に着いた。
そして、いよいよフィオナのパンがお披露目される時が来た。
銀のトレイに乗せられた「心の庭園ブレッド」と「希望のプチ・コローヌ」が、貴族たちのテーブルへと運ばれていく。その素朴ながらも洗練された佇まいと、ふわりと漂うハーブの香りに、会場が微かにざわめいた。
「まあ、これが例の…街の片隅のパンですって?」
「おハーブの使い方が、なかなかに大胆ですわね」
最初は訝しげな視線を向けていた貴婦人たちも、一口パンを口に運ぶなり、その表情を変えていく。
「あら…このライ麦パン、複雑で奥深い味わいだこと!」
「この小さな王冠のパン、中に入っているのはオレンジかしら?なんて爽やかな…!」
あちこちから、小さな感嘆の声が漏れ始めた。中には、あまりの美味しさに言葉を失い、ただうっとりとパンを見つめている令嬢もいる。
そして、注目のライアス王太子。彼は、目の前に置かれた「心の庭園ブレッド」を、無表情のまま手に取った。隣では、リリアンヌが祈るような目で見守っている。
ゆっくりとパンを口に運ぶライアス。その眉が、ほんの僅かに動いた。そして、もう一口。彼の硬直していた表情が、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ和らいだように見えたのは、フィオナの気のせいだろうか。
「殿下…そのパンは、フィオナ様が…わたくし達のために、特別に焼いてくださったものでございますの」
リリアンヌが、勇気を振り絞って声をかける。
ライアスは、ゆっくりと顔を上げ、フィオナを一瞥した。その視線は、かつての冷酷なものではなく、どこか探るような、複雑な色を帯びている。
フィオナは、緊張で心臓が早鐘を打つのを感じながらも、背筋を伸ばし、控えめに言った。
「このパンが、ほんの少しでも皆様の心に安らぎをもたらせますようにと…心を込めてお作りいたしました」
その言葉に嘘はなかった。
茶会は、その後、フィオナのパンの話題で持ちきりとなった。最初は遠巻きに見ていた貴族たちも、次々とフィオナのパンに手を伸ばし、その斬新な味わいに驚きと称賛の声を上げる。中には、「私の屋敷のパーティーでも、ぜひこのパンを!」と早速リリアンヌに打診する者まで現れる始末だ。
リリアンヌは、涙ぐみながらフィオナに何度も感謝の言葉を述べた。彼女の顔には、久しぶりに心からの笑顔が戻っていた。
そして、茶会がお開きになろうという時だった。
ライアス王太子が、ふとフィオナのそばに立ち止まり、低い声で一言だけ告げた。
「……悪くないパンだった。特に、あのハーブのパンは…心が落ち着くような、不思議な味がした」
そして、彼は微かに口元を緩めると、こう付け加えたのだ。
「また、食べる機会は…あるのだろうか?」
その言葉は、問いかけのようでいて、どこか期待を滲ませているようにも聞こえた。
王城からの帰り道。フィオナは、夕焼けに染まる空を馬車の窓から見上げながら、ライアスの最後の言葉を胸の中で何度も繰り返していた。
それは、大きな達成感と共に、これから何かが変わっていくかもしれないという、新たな未来への予感を運んできていた。
アトリエ・フィオナの小さな灯りが、王都の片隅で、さらに明るく、そして確かな輝きを放ち始めた瞬間だった。
もちろん、店に戻れば、ルーカスとマルセル、そしてエリィからの質問攻めと、手放しの(そして少しズレた)称賛が待っていることも、フィオナはちゃんと予感していたのだが。
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