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4 謎の男と武家屋敷
しおりを挟む「掴まりな」
そう言われたものの、伸ばされた手を躊躇なくとることは、おりんには難しかった。
いまだ恐怖で足に力が入らず、ぺたりと座り込んだまま、動けなかったのである。
男はそれを察したらしい。すまんな――そう小さな声で言うと、おりんの腕をひょいと掴んで持ち上げた。そして何が起きたかわからず動揺する彼女を尻目に、自分の背に抱えて歩き出したのである。
だから驚く間もなく、おりんを優しく包み込んだのは男のぬくもりだった。
広い背にからだを預けて、木綿の柔らかな手触りを頬に感じた。同時にこみ上げたのは懐かしさだった。
こうして誰かに背負われたのは、いつ以来だろう。
からだにかすかに残っている感覚は、きっと幼い頃死んでしまった父との記憶なのだと思えた。
――おとっつぁんの背中は、きっとこんな感じだったんだ。
そう思いながら、おりんは気を失うように眠ってしまった。
初めて会った見知らぬ人のはずなのに、全身を包む穏やかな温もりがあまりにも心地よく、安心して身を預けてしまったのである。
「――おい、着いたぞ」
そう耳元で声をかけられたとき、おりんははっと我に返った。
「あ、あたしっ、まさか眠って……」
飛び起きると目の前には、自分を助けてくれた男の姿があった。
提灯の灯りで照らされた背中は、大きくがっしりとしていた。背丈は有島と同じくらいだろうか。振り返ると黒ぐろとした大きなふたつの瞳と、その下の無精髭が見えた。
身につけた紺の着流しは清潔で品もよく、それを踏まえれば、親切そうな壮年の男だろう。
ただ髪は伸ばして結い上げただけで、浪人同然のように見えた。そのちぐはぐな印象がおりんを混乱させたのである。
「あなた様は……」
すると男は上がり框に腰掛けたまま、穏やかな顔で答えた。
「俺は……この屋敷の居候みたいなもんだ。おぬし、何やら物騒なことに巻き込まれたみたいじゃないか。あのあとすぐに家を聞いて送っていこうと思ったんだが、背ですやすやと寝息が聞こえたもんだろう?だからとりあえずとここに連れてきた訳だ。少し、驚かせてしまったな」
そう言われてから、おりんはぱっと当たりを見回した。男の背に揺られ連れてこられたのは、武家屋敷のように見えた。
今まで、提灯の小さな灯りだけで気付かなかったが、おりんが背から下ろされたのは玄関だった。そこは幾人も出入りできそうな広さがあり、男が腰掛けていたのは、まぎれもない式台――これは武家屋敷の証であった。
どうやら、この男は花街からやってきた人さらいではないらしい。
おりんはほっと胸を撫でおろした。姿は怪しそに見えるものの、自分を助けてくれた、ただの親切なひとらしい。
――とりあえず、よかった。
ようやく普通に息ができる――おりんがそう安堵した時だった。
玄関の扉の奥から、かつんかつんと近づく物音があった。
「……戻ったみたいだな」
「え?」
男がぼそりと言ったあとで、ぎい、と音を立てて木の扉は開いた。そしてひとりの男が現れた。
「……戻ったぞ」
おりんはその人物の姿に驚きを隠せなかった。 闇のなかから姿を現したのは、なんと数刻前に出会い、今晩の部屋を貸そうと力になってくれた見廻り同心、有島惣次郎その人であった。
「……有島さま!?」
おりんがそう声を上げると、彼もこちらに気付いたらしい。向けられた不思議そうな視線が、瞬時に驚きの色に変わる。
「これは……驚いたな。何故そなたがここに……」
そんなふたりの間に割って入ったのが、あの謎の男だった。
「……俺が連れてきたんだ」
そのことばに、有島はぴくりと反応した。
「……どういうことだ?」
「実は……」
男に促され、今に至った経緯をおりんはつぶさに説明した。
有島から紹介状を貰い、別れたあと。人通りが少なくなるにつれてあとを付けているものがいることに気付いたこと。そして結局、暗くなる前に店に辿り着けず、途中で追っ手に殺されかけたところを、この男に助けられたこと。
話し終えると、途端に有島は頭を下げて謝った。
「それはすまなかった。私が送っていかなかったばかりに、そなたに怖い思いをさせてしまった」
「いえ、あたしがまぬけで足が遅いから。せっかく有島さまに紹介状を書いていただいたのに……」
「何を言う。危険な目に合わせたのは私なのだ。本当に気が回らず、申し訳なかった」
有島がそう申し訳なさそうに言い、再び頭を下げたときだった。男は再びふたりの間に入るように口を挟んだ。
「……で、どうするんだ?」
そう言われておりんはようやく気付いた。
もう夜である。今日これから、自分はどうしたらいいのだろう。また同時に、闇夜の中で自分を付け狙ってきた浪人の姿を思い出した。
あの得体のしれない男は、あの場を逃げただけで、今もそこら辺をうろついているかもしれない。
――……怖い。
また襲われるかもしれないという恐怖に、おりんの身体は強張った。ただ、これ以上有島に世話になるわけにもいかなかった。
おりんは何も考えず、勢いのままに言う。
「だ、大丈夫です!このまま戻って――」
「駄目だ。付けられたんだろう?なら戻らないほうがいい」
「でも――」
反射的にそう返したとき。有島の手が、まるで落ち着けと言うように肩にぽんと触れた。
「そなたが、自分で頑張らなければならないと思うのも十分に理解できる。ただ、いまはそういうときではないだろう。……そなたの身の安全が第一だ」
有島のまなざしはまっすぐこちらに向けられていた。
おりんは射止められるようなその圧のこもった視線に、思わず口ごもる。
「……は、はい」
するとそれを見計らったかのように、男はよく響く大きな声で突然笑った。
「ははは。なら話は早いな。よろしく頼む」
「……え?」
おりんは訳がわからなかった。
有島のほうをちらりと見れば、腕を組み、やれやれと言うようにため息を付いている。
「まあ、確かにそうなるのだが……」
「……どういうことですか?」
おりんが聞くと、それに答えたのは有島ではなく、もうひとりの男だった。
「簡単に言えば、おぬしが落ち着くまでここに住めということだ」
「…………え?」
ぱっと有島を見上げれば、彼は何やら諦めたような表情を浮かべていた。
その新鮮さすら感じる横顔に見惚れていると、有島はひとつため息をこぼした。
「はあ……まあ構わぬさ。部屋はいくらでも空いているのだからな」
ということは――。
おりんの中でまったく新しい希望が輝き始めたときだった。ふと気になったのは、隣りで嬉しそうに笑みを浮かべる男の存在であった。
「ええと、あなた様は……」
男はそれに対し、にこりと笑っただけだった。
こちらに向けられた髭面は、どこか少年のように、澄んだ印象を与えた。
不思議な人――そうおりんが感じていた中で、彼女の問いに答えたのは、なぜか隣りの有島だった。
「私の……兄だ」
「え?」
兄――そう言われ、おりんは再びまじまじと男を見た。
背の高さと髪の色、そして黒目がちな瞳以外に共通点は見当たらなかった。
ぱちりと視線が合って、男は微笑んだ。そしてごつごつとした手を差し出しながら口を開いた。
「ははは。俺は有島清之進だ。以後よろしく頼む」
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