【完結】若手アルファ俳優の運命は大嫌いなオメガ俳優でした ~インテグラル・スター ~

上杉

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1章 きらめく世界

5 特別な香り

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 扉を叩く音に返事をすると、波多野が部屋に戻ってこう言った。

「発情期を控えたΩはこのスタジオにはいなかったよ。もしかすると、隣りのスタジオかもしれないな」

 そういえばと昂世は思い出す。
 隣の大きい方のスタジオでは、日曜八時に放映される、いわゆるゴールデン帯ドラマ枠の撮影が行われていた。
 予算も規模もこちらとは桁違いの作品なので、出演者も製作の人数もかなりの人数だと思われた。だからその中に発情期を隠したΩが紛れ込んでいる可能性は十分あった。
 ただ、それにしては濃い匂いだったと昂世は思う。

 ――気づかなかったけれど、自分の体調不良だろうか。

 そんな昂世を前に、波多野は抑制剤と水のペットボトルを差し出して言った。

「飲んでおく?」

「……一応そうしておきます」

 ごくりと飲むと、水の冷たさと同時に身体の奥底が鎮められた気がした。ふうっと一息ついたあとで、波多野が腕時計をちらりと見て言う。

「よし、そろそろ時間だ。あとワンシーンだから、集中していこう」

「心配しなくても、大丈夫ですよ」

 そう言って楽屋からスタジオに戻ろうと廊下に出た――そのときだった。
 不意に強い香りが鼻から入ったと同時に、脳内にもうひとりの自分の声が響いた。

〈来る〉

 その言葉に昂世が驚いた直後。廊下の奥、柱の角から現れたのは、遠目でもわかるほどオーラのあるタレントだった。
 男は若くはなかった。ただきっちりと整えられた長めの黒髪が、見る者にクールな印象と清潔感を与えた。
 その下の涼やかな目とはりのある肌、そして洗練された佇まいに、色気を感じさせる目元の皺が、妙なアンバランスさを醸し出していた。
 近づいてくるその小柄な男を前に昂世が気を取られていると、隣りの波多野がぼそりと呟いた。

「うわ……アドプロの水上周みずかみあまねだ」

 その瞬間――。

〈こいつだ〉

 確信めいた内なる声が響くも、それを絶対にあらわにする訳にはいかなかった。
 声を必死に無視し、近づいてくる男と後ろのマネージャーのふたりに会釈をする。
 視線は交錯することはなかった。
 彼らは軽やかに目の前を通り過ぎると、案の定隣りのスタジオへと歩いていった。

 姿が見えなくなった瞬間、波多野はまるで素人のように嬉しそうに言った。

「いやー、まさか水上周にお目にかかれるとは。アドプロはアイドル御用達だけど、いい俳優に育てるのも得意なんだよなー。……昂世も見ただろう?アカデミー賞取った主演の戦争もの」

「……まあ、一応」

 水上周はカメレオン俳優と呼ばれ、映像作品を主に活躍する中堅俳優だ。
 アドプロ――正式名称アドラープロモーション所属でアイドル出身俳優であるものの、今ではすっかり事務所の看板俳優となっている。
 そんなあの男から漏れ出る強い匂いは、Ωそのものだった。
 昂世はいまだ脳を刺激するように漂う強烈な残り香に、心拍数が上がるのを感じていた。
 ただそれが水上周ならば、ある意味納得できた。
 彼は十年前はアイドルとして、みなに希望を与えていた存在だ。
 Ωを公表している人も多い中で、水上もそれに当てはまることは十分考えられた。
 そんな考えなど知らない波多野は、興奮した口調で続ける。

「あのハードな演技もそうだけど、ほかの作品も名演多いんだよなあ。片岡みづきとのスパイものも痺れたし、流浪人シリーズもひやりとした演技が良かったよな。いやあ、そのどれも別人のように見えるから、凄いんだよな」

 ――その通り、演技は格別だ。

 昂世はそう思いながら頷き返した。
 ただ、同時に勘弁してくれと思った。
 今も立ち込めるむせ返るような強い香りは、αである彼にとって凶器のようなものだった。
 再び声が内で響く。
 
〈連れ戻して、犯せ〉

 ――くそ、俺の頭は突然どうしたんだ。

〈早く捕まえてものにしろ〉

 ――黙れ。

「悪い悪い!昂世もきっと水上周みたいに――どうした?大丈夫か?」
 
 波多野の心配する言葉に、昂世は必死に答える。

「……すみません。次のシーンに向けて……少し感情移入を」

「そうだな。次はラストの緊迫したシーンだもんな。よし、気合い入れていこうか!」

 波多野に促されながら、スタジオへと重い足を進める。その途中でも、身体があの愛しい匂いを感じて騒ぎ立て続けた。

〈あいつを自分のものにしろ〉 

〈早く犯せ〉

〈俺のΩだ〉

 内なるもう一人の自分がそう何度も告げるのだ。正直、こんなことは始めてだった。
 必死に振り払おうとするも無駄で、声は何度も響き続ける。

 ――みな抑制剤を飲んでいるはずなのに、なぜこんなにも強く匂うのだろうか。

 さっき一瞬匂いにあてられてしまったからだろうか、そう思いながらも、昂世はスタジオに戻り必死で顔を作った。
 差し出された水を一杯飲み、顔を叩く。

 ――いまの俺はαでもなんでもない、塚本光輝だ。

 監督の声が響き、眩いあの光の元へと戻る。

 このときは、まさかあの水上周がのちに自分の運命を変える存在になるとは、思ってもいなかった。
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