6 / 51
1章 きらめく世界
5 特別な香り
しおりを挟む
扉を叩く音に返事をすると、波多野が部屋に戻ってこう言った。
「発情期を控えたΩはこのスタジオにはいなかったよ。もしかすると、隣りのスタジオかもしれないな」
そういえばと昂世は思い出す。
隣の大きい方のスタジオでは、日曜八時に放映される、いわゆるゴールデン帯ドラマ枠の撮影が行われていた。
予算も規模もこちらとは桁違いの作品なので、出演者も製作の人数もかなりの人数だと思われた。だからその中に発情期を隠したΩが紛れ込んでいる可能性は十分あった。
ただ、それにしては濃い匂いだったと昂世は思う。
――気づかなかったけれど、自分の体調不良だろうか。
そんな昂世を前に、波多野は抑制剤と水のペットボトルを差し出して言った。
「飲んでおく?」
「……一応そうしておきます」
ごくりと飲むと、水の冷たさと同時に身体の奥底が鎮められた気がした。ふうっと一息ついたあとで、波多野が腕時計をちらりと見て言う。
「よし、そろそろ時間だ。あとワンシーンだから、集中していこう」
「心配しなくても、大丈夫ですよ」
そう言って楽屋からスタジオに戻ろうと廊下に出た――そのときだった。
不意に強い香りが鼻から入ったと同時に、脳内にもうひとりの自分の声が響いた。
〈来る〉
その言葉に昂世が驚いた直後。廊下の奥、柱の角から現れたのは、遠目でもわかるほどオーラのあるタレントだった。
男は若くはなかった。ただきっちりと整えられた長めの黒髪が、見る者にクールな印象と清潔感を与えた。
その下の涼やかな目とはりのある肌、そして洗練された佇まいに、色気を感じさせる目元の皺が、妙なアンバランスさを醸し出していた。
近づいてくるその小柄な男を前に昂世が気を取られていると、隣りの波多野がぼそりと呟いた。
「うわ……アドプロの水上周だ」
その瞬間――。
〈こいつだ〉
確信めいた内なる声が響くも、それを絶対にあらわにする訳にはいかなかった。
声を必死に無視し、近づいてくる男と後ろのマネージャーのふたりに会釈をする。
視線は交錯することはなかった。
彼らは軽やかに目の前を通り過ぎると、案の定隣りのスタジオへと歩いていった。
姿が見えなくなった瞬間、波多野はまるで素人のように嬉しそうに言った。
「いやー、まさか水上周にお目にかかれるとは。アドプロはアイドル御用達だけど、いい俳優に育てるのも得意なんだよなー。……昂世も見ただろう?アカデミー賞取った主演の戦争もの」
「……まあ、一応」
水上周はカメレオン俳優と呼ばれ、映像作品を主に活躍する中堅俳優だ。
アドプロ――正式名称アドラープロモーション所属でアイドル出身俳優であるものの、今ではすっかり事務所の看板俳優となっている。
そんなあの男から漏れ出る強い匂いは、Ωそのものだった。
昂世はいまだ脳を刺激するように漂う強烈な残り香に、心拍数が上がるのを感じていた。
ただそれが水上周ならば、ある意味納得できた。
彼は十年前はアイドルとして、みなに希望を与えていた存在だ。
Ωを公表している人も多い中で、水上もそれに当てはまることは十分考えられた。
そんな考えなど知らない波多野は、興奮した口調で続ける。
「あのハードな演技もそうだけど、ほかの作品も名演多いんだよなあ。片岡みづきとのスパイものも痺れたし、流浪人シリーズもひやりとした演技が良かったよな。いやあ、そのどれも別人のように見えるから、凄いんだよな」
――その通り、演技は格別だ。
昂世はそう思いながら頷き返した。
ただ、同時に勘弁してくれと思った。
今も立ち込めるむせ返るような強い香りは、αである彼にとって凶器のようなものだった。
再び声が内で響く。
〈連れ戻して、犯せ〉
――くそ、俺の頭は突然どうしたんだ。
〈早く捕まえてものにしろ〉
――黙れ。
「悪い悪い!昂世もきっと水上周みたいに――どうした?大丈夫か?」
波多野の心配する言葉に、昂世は必死に答える。
「……すみません。次のシーンに向けて……少し感情移入を」
「そうだな。次はラストの緊迫したシーンだもんな。よし、気合い入れていこうか!」
波多野に促されながら、スタジオへと重い足を進める。その途中でも、身体があの愛しい匂いを感じて騒ぎ立て続けた。
〈あいつを自分のものにしろ〉
〈早く犯せ〉
〈俺のΩだ〉
内なるもう一人の自分がそう何度も告げるのだ。正直、こんなことは始めてだった。
必死に振り払おうとするも無駄で、声は何度も響き続ける。
――みな抑制剤を飲んでいるはずなのに、なぜこんなにも強く匂うのだろうか。
さっき一瞬匂いにあてられてしまったからだろうか、そう思いながらも、昂世はスタジオに戻り必死で顔を作った。
差し出された水を一杯飲み、顔を叩く。
――いまの俺はαでもなんでもない、塚本光輝だ。
監督の声が響き、眩いあの光の元へと戻る。
このときは、まさかあの水上周がのちに自分の運命を変える存在になるとは、思ってもいなかった。
「発情期を控えたΩはこのスタジオにはいなかったよ。もしかすると、隣りのスタジオかもしれないな」
そういえばと昂世は思い出す。
隣の大きい方のスタジオでは、日曜八時に放映される、いわゆるゴールデン帯ドラマ枠の撮影が行われていた。
予算も規模もこちらとは桁違いの作品なので、出演者も製作の人数もかなりの人数だと思われた。だからその中に発情期を隠したΩが紛れ込んでいる可能性は十分あった。
ただ、それにしては濃い匂いだったと昂世は思う。
――気づかなかったけれど、自分の体調不良だろうか。
そんな昂世を前に、波多野は抑制剤と水のペットボトルを差し出して言った。
「飲んでおく?」
「……一応そうしておきます」
ごくりと飲むと、水の冷たさと同時に身体の奥底が鎮められた気がした。ふうっと一息ついたあとで、波多野が腕時計をちらりと見て言う。
「よし、そろそろ時間だ。あとワンシーンだから、集中していこう」
「心配しなくても、大丈夫ですよ」
そう言って楽屋からスタジオに戻ろうと廊下に出た――そのときだった。
不意に強い香りが鼻から入ったと同時に、脳内にもうひとりの自分の声が響いた。
〈来る〉
その言葉に昂世が驚いた直後。廊下の奥、柱の角から現れたのは、遠目でもわかるほどオーラのあるタレントだった。
男は若くはなかった。ただきっちりと整えられた長めの黒髪が、見る者にクールな印象と清潔感を与えた。
その下の涼やかな目とはりのある肌、そして洗練された佇まいに、色気を感じさせる目元の皺が、妙なアンバランスさを醸し出していた。
近づいてくるその小柄な男を前に昂世が気を取られていると、隣りの波多野がぼそりと呟いた。
「うわ……アドプロの水上周だ」
その瞬間――。
〈こいつだ〉
確信めいた内なる声が響くも、それを絶対にあらわにする訳にはいかなかった。
声を必死に無視し、近づいてくる男と後ろのマネージャーのふたりに会釈をする。
視線は交錯することはなかった。
彼らは軽やかに目の前を通り過ぎると、案の定隣りのスタジオへと歩いていった。
姿が見えなくなった瞬間、波多野はまるで素人のように嬉しそうに言った。
「いやー、まさか水上周にお目にかかれるとは。アドプロはアイドル御用達だけど、いい俳優に育てるのも得意なんだよなー。……昂世も見ただろう?アカデミー賞取った主演の戦争もの」
「……まあ、一応」
水上周はカメレオン俳優と呼ばれ、映像作品を主に活躍する中堅俳優だ。
アドプロ――正式名称アドラープロモーション所属でアイドル出身俳優であるものの、今ではすっかり事務所の看板俳優となっている。
そんなあの男から漏れ出る強い匂いは、Ωそのものだった。
昂世はいまだ脳を刺激するように漂う強烈な残り香に、心拍数が上がるのを感じていた。
ただそれが水上周ならば、ある意味納得できた。
彼は十年前はアイドルとして、みなに希望を与えていた存在だ。
Ωを公表している人も多い中で、水上もそれに当てはまることは十分考えられた。
そんな考えなど知らない波多野は、興奮した口調で続ける。
「あのハードな演技もそうだけど、ほかの作品も名演多いんだよなあ。片岡みづきとのスパイものも痺れたし、流浪人シリーズもひやりとした演技が良かったよな。いやあ、そのどれも別人のように見えるから、凄いんだよな」
――その通り、演技は格別だ。
昂世はそう思いながら頷き返した。
ただ、同時に勘弁してくれと思った。
今も立ち込めるむせ返るような強い香りは、αである彼にとって凶器のようなものだった。
再び声が内で響く。
〈連れ戻して、犯せ〉
――くそ、俺の頭は突然どうしたんだ。
〈早く捕まえてものにしろ〉
――黙れ。
「悪い悪い!昂世もきっと水上周みたいに――どうした?大丈夫か?」
波多野の心配する言葉に、昂世は必死に答える。
「……すみません。次のシーンに向けて……少し感情移入を」
「そうだな。次はラストの緊迫したシーンだもんな。よし、気合い入れていこうか!」
波多野に促されながら、スタジオへと重い足を進める。その途中でも、身体があの愛しい匂いを感じて騒ぎ立て続けた。
〈あいつを自分のものにしろ〉
〈早く犯せ〉
〈俺のΩだ〉
内なるもう一人の自分がそう何度も告げるのだ。正直、こんなことは始めてだった。
必死に振り払おうとするも無駄で、声は何度も響き続ける。
――みな抑制剤を飲んでいるはずなのに、なぜこんなにも強く匂うのだろうか。
さっき一瞬匂いにあてられてしまったからだろうか、そう思いながらも、昂世はスタジオに戻り必死で顔を作った。
差し出された水を一杯飲み、顔を叩く。
――いまの俺はαでもなんでもない、塚本光輝だ。
監督の声が響き、眩いあの光の元へと戻る。
このときは、まさかあの水上周がのちに自分の運命を変える存在になるとは、思ってもいなかった。
32
あなたにおすすめの小説
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
ジャスミン茶は、君のかおり
霧瀬 渓
BL
アルファとオメガにランクのあるオメガバース世界。
大学2年の高位アルファ高遠裕二は、新入生の三ツ橋鷹也を助けた。
裕二の部活後輩となった鷹也は、新歓の数日後、放火でアパートを焼け出されてしまう。
困った鷹也に、裕二が条件付きで同居を申し出てくれた。
その条件は、恋人のフリをして虫除けになることだった。
完結|好きから一番遠いはずだった
七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
箱入りオメガの受難
おもちDX
BL
社会人の瑠璃は突然の発情期を知らないアルファの男と過ごしてしまう。記憶にないが瑠璃は大学生の地味系男子、琥珀と致してしまったらしい。
元の生活に戻ろうとするも、琥珀はストーカーのように付きまといだし、なぜか瑠璃はだんだん絆されていってしまう。
ある日瑠璃は、発情期を見知らぬイケメンと過ごす夢を見て混乱に陥る。これはあの日の記憶?知らない相手は誰?
不器用なアルファとオメガのドタバタ勘違いラブストーリー。
現代オメガバース ※R要素は限りなく薄いです。
この作品は『KADOKAWA×pixiv ノベル大賞2024』の「BL部門」お題イラストから着想し、創作したものです。ありがたいことに、グローバルコミック賞をいただきました。
https://www.pixiv.net/novel/contest/kadokawapixivnovel24
αが離してくれない
雪兎
BL
運命の番じゃないのに、αの彼は僕を離さない――。
Ωとして生まれた僕は、発情期を抑える薬を使いながら、普通の生活を目指していた。
でもある日、隣の席の無口なαが、僕の香りに気づいてしまって……。
これは、番じゃないふたりの、近すぎる距離で始まる、運命から少しはずれた恋の話。
【完結】君を上手に振る方法
社菘
BL
「んー、じゃあ俺と付き合う?」
「………はいっ?」
ひょんなことから、入学して早々距離感バグな見知らぬ先輩にそう言われた。
スクールカーストの上位というより、もはや王座にいるような学園のアイドルは『告白を断る理由が面倒だから、付き合っている人がほしい』のだそう。
お互いに利害が一致していたので、付き合ってみたのだが――
「……だめだ。僕、先輩のことを本気で……」
偽物の恋人から始まった不思議な関係。
デートはしたことないのに、キスだけが上手くなる。
この関係って、一体なに?
「……宇佐美くん。俺のこと、上手に振ってね」
年下うさぎ顔純粋男子(高1)×精神的優位美人男子(高3)の甘酸っぱくじれったい、少しだけ切ない恋の話。
✧毎日2回更新中!ボーナスタイムに更新予定✧
✧お気に入り登録・各話♡・エール📣作者大歓喜します✧
あまく、とろけて、開くオメガ
藍沢真啓/庚あき
BL
オメガの市居憂璃は同じオメガの実母に売られた。
北関東圏を支配するアルファの男、玉之浦椿に。
ガリガリに痩せた子は売れないと、男の眼で商品として価値があがるように教育される。
出会ってから三年。その流れゆく時間の中で、男の態度が商品と管理する関係とは違うと感じるようになる憂璃。
優しく、大切に扱ってくれるのは、自分が商品だから。
勘違いしてはいけないと律する憂璃の前に、自分を売った母が現れ──
はぴまり~薄幸オメガは溺愛アルファ~等のオメガバースシリーズと同じ世界線。
秘密のあるスパダリ若頭アルファ×不憫アルビノオメガの両片想いラブ。
番じゃない僕らの恋~俺の唯一だった君~
伊織
BL
高校1年生の蓮(れん)は、成績優秀で運動神経も抜群なアルファ。
誰よりも大切に想っているのは、幼い頃からずっとそばにいた幼なじみのオメガ・陽(ひなた)だった。
初めての発情期(ヒート)──それは、蓮と陽の関係を静かに、でも確実に変えていく。
「陽が、知らない誰かに抱かれるのは嫌だ」
その言葉をきっかけに、陽は蓮だけに身体を預けるようになる。
まだ番にはなれない年齢のふたり。
触れ合えば触れ合うほど、高まる独占欲と焦燥、そして不安。
ただ一緒にいられる今を、大切に過ごしていた。
けれど、優しくあるはずのこの世界は、オメガである陽に静かな圧力を与えていく。
気づけば、陽が少しずつ遠ざかっていく。
守りたくても守りきれない。
アルファであるはずの自分の無力さに、蓮は打ちのめされていく。
番じゃない。
それでも本気で求め合った、たったひとつの恋。
これは、ひとりのアルファが、
大切なオメガを想い続ける、切なくて愛しい学園オメガバース・ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる