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2章 始動
3 顔合わせ
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いよいよ顔合わせ当日だった。
指定されたスタジオへ向かうと、まず初めに小さな部屋に通された。
椅子がふたつと長テーブルだけが置かれたその場所で待っていると、現れたのは一人の女性だった。
黒髪のショートカットで、首に近いところは刈り上げているのだろう。さっぱりとアクティブな印象は、きりっとした眉と大きな目と相まって男性的なイメージを受けた。
「お待たせしました。初めまして。監督の江口みちるです」
――この人が噂されている監督なんだ。
そう思いながら、昂世も挨拶に丁重に返した。すると彼女はすぐに今回の作品について話し始めた。
「ずばり宮城くんをオファーしたのは、あなたの初々しさが画に欲しかったからなの」
そんなずばずばとした物言いに、昂世は内心驚いた。それはすでに読み込んでいた映画の脚本のイメージとは、まるで逆の印象を受けたからだった。
――まさか……この人はαなのだろうか?
人生を本能に縛られた第二性では、絶対にあの作品は書けない――いや書かないはずだ。なのに目の前に佇むどこか中性的な雰囲気の女性は、同族そのものに見えた。
ただ、昂世は考えていることを顔に出さないよう努力した。どんなものをどんな性の人が作ろうがまったく関係がない。こちらはいい作品を作るだけなのだ。
実際、監督の話す内容も、今回の映画に対する意気込みや映画に求めることばかりだった。少し前に現場で絡んできたあのΩとはまるで違う意識の高さに、昂世は嬉しさを感じていた。
「――だから宮城くんは初々しい感じで頼んだからね。頑張りすぎず、あなたの自然体で。ほかは大先輩たちがきっと引っ張っていってくれるから」
そうして今回の映画で自分に求められていることも告げられ、監督との短い打ち合わせは終わったのだった。
その後も休む暇なく別室で衣装合わせが行われた。
ひときわ大きな楽屋の中に、監督や美術担当、撮影スタッフなどたくさんの制作陣とキャスト陣が入り乱れていた。
ただそこに水上周の姿はなかった。どうやらほかのメインキャストは、別件撮影の都合で遅れるらしい。
「宮城さん、お願いします」
「はい!」
声をかけられ、鏡の前の椅子に座らせられる。
脇にはイメージボードを持った美術スタッフがさっと現れ、メイク担当とともに準備を始めた。
今回は大学生ということで、これまでなかった爽やかな雰囲気の短髪に、短めの前髪のウイッグが当てられることになった。
続いてその次は衣装という流れで、みるみるハンガーラックにかけられた大量の服が運ばれてきた。
この作品では、大学三年の秋から四年で卒業する春まで、一年強に渡る季節の移り変わりが描かれる。そのため衣装も多様で、ラフであるものの素材のいいパーカーや、綺麗めのシャツなど、自分では選ばないアイテムが並び新鮮だった。
衣装が決まっていくたび、少しずつ自分が作品の中谷優人に近づいていくように思えた。どんな作品であれ、昂世はこの瞬間が好きだった。
衣装合わせが終わると、いよいよ次は読み合わせだった。
会議室に用意された四角く並べられたテーブルに付き、昂世は愕然とする。水上周に気を取られていたものの、席には名脇役と名高い加能隆平や女優の大西真千子など、大物俳優の姿がちらほら見えた。
――そういえば、監督が大先輩たちに任せろって言ってたっけ。
同時に、徐々に衣装合わせを終えた監督や、ディレクター、演出、照明などスタッフ陣も続々と現れ、席に着き始めた。
一体この作品にどれだけの人が関わっているのだろう。今回の顔合わせで、その力の入り具合がわかった気がした。
――この人たちの期待に応えなければ。
周りを囲う大勢を前に、昂世が胸の高鳴りを感じていたときだった。
「……大丈夫?」
その声は自然と耳に流れ込んでくる、穏やかな響きだった。
波多野かと思い反射的に顔を上げると、そこには垢抜けない男の姿があった。
スタッフの一人だろうか、昂世はそう思いながら気遣いに感謝する。
「あ、ありがとうございます」
その言葉に男がふっと微笑んだ瞬間だった。
――この笑い方……見覚えがある。
すると男はそのまま隣りの席に座ったではないか。
――まさか……水上周?
その見た目の変わり具合に、昂世は驚きを隠せなかった。
先日スタジオの廊下ですれ違ったときの、あの洗練された感じはどこへいったのか。
男の背中はどこか自信なさげに丸められていて、少し太った感じに見えた。髪も伸ばしてセットもせずに適当で、ずぼらで不潔な印象だ。またせっかくの白い肌も不健康そうに見え、かけた眼鏡もおしゃれなものではなく、融通の効かなそうな学者そのものだった。
ただ彼のすっとした眼差しと、微かに漂い始めた匂いが、確かに水上周であることを証明していた。
――この人は……やっぱり水上周だ。
そう思いながら、今日はまとう匂いが弱いことに気付き昂世はほっとする。
あのときは体調が悪かったか、今日は多めに飲んだ抑制剤が効いているからなのか。匂いはしたものの、あの声が聞こえるほどではなかった。
昂世が安堵していると、その隣りで何故か水上が口を開いた。
「いいね。その調子」
それが何に対して言ったものなのか、よくわからなかった。ただ彼のまとう雰囲気によって、自分の緊張が和らいだのは事実だった。
その後読み合わせがはじまり、監督から演技指示が与えられる中で昂世は徐々に気づいた。
水上の今日のずぼらな見た目は、彼の与えられた役――疲れた大学助教授、須藤静河そのものであることに。それは事前打ち合わせ段階で、台本を読み込みもう標準を合わせてきていることを意味した。
――この人と比べて、俺はなにも考えずにここに来てしまった。
昂世の背にひやりとしたものが流れた。
自分はこの人の隣りに立って、この人と比べられながら演技をするのだ。失敗は許されない。
だからこのときには、水上がΩであることはすっかり頭から消えていた。
昂世は、この作品の出来に自分の俳優人生がかかっていることに、ようやく気づいたのだった。
指定されたスタジオへ向かうと、まず初めに小さな部屋に通された。
椅子がふたつと長テーブルだけが置かれたその場所で待っていると、現れたのは一人の女性だった。
黒髪のショートカットで、首に近いところは刈り上げているのだろう。さっぱりとアクティブな印象は、きりっとした眉と大きな目と相まって男性的なイメージを受けた。
「お待たせしました。初めまして。監督の江口みちるです」
――この人が噂されている監督なんだ。
そう思いながら、昂世も挨拶に丁重に返した。すると彼女はすぐに今回の作品について話し始めた。
「ずばり宮城くんをオファーしたのは、あなたの初々しさが画に欲しかったからなの」
そんなずばずばとした物言いに、昂世は内心驚いた。それはすでに読み込んでいた映画の脚本のイメージとは、まるで逆の印象を受けたからだった。
――まさか……この人はαなのだろうか?
人生を本能に縛られた第二性では、絶対にあの作品は書けない――いや書かないはずだ。なのに目の前に佇むどこか中性的な雰囲気の女性は、同族そのものに見えた。
ただ、昂世は考えていることを顔に出さないよう努力した。どんなものをどんな性の人が作ろうがまったく関係がない。こちらはいい作品を作るだけなのだ。
実際、監督の話す内容も、今回の映画に対する意気込みや映画に求めることばかりだった。少し前に現場で絡んできたあのΩとはまるで違う意識の高さに、昂世は嬉しさを感じていた。
「――だから宮城くんは初々しい感じで頼んだからね。頑張りすぎず、あなたの自然体で。ほかは大先輩たちがきっと引っ張っていってくれるから」
そうして今回の映画で自分に求められていることも告げられ、監督との短い打ち合わせは終わったのだった。
その後も休む暇なく別室で衣装合わせが行われた。
ひときわ大きな楽屋の中に、監督や美術担当、撮影スタッフなどたくさんの制作陣とキャスト陣が入り乱れていた。
ただそこに水上周の姿はなかった。どうやらほかのメインキャストは、別件撮影の都合で遅れるらしい。
「宮城さん、お願いします」
「はい!」
声をかけられ、鏡の前の椅子に座らせられる。
脇にはイメージボードを持った美術スタッフがさっと現れ、メイク担当とともに準備を始めた。
今回は大学生ということで、これまでなかった爽やかな雰囲気の短髪に、短めの前髪のウイッグが当てられることになった。
続いてその次は衣装という流れで、みるみるハンガーラックにかけられた大量の服が運ばれてきた。
この作品では、大学三年の秋から四年で卒業する春まで、一年強に渡る季節の移り変わりが描かれる。そのため衣装も多様で、ラフであるものの素材のいいパーカーや、綺麗めのシャツなど、自分では選ばないアイテムが並び新鮮だった。
衣装が決まっていくたび、少しずつ自分が作品の中谷優人に近づいていくように思えた。どんな作品であれ、昂世はこの瞬間が好きだった。
衣装合わせが終わると、いよいよ次は読み合わせだった。
会議室に用意された四角く並べられたテーブルに付き、昂世は愕然とする。水上周に気を取られていたものの、席には名脇役と名高い加能隆平や女優の大西真千子など、大物俳優の姿がちらほら見えた。
――そういえば、監督が大先輩たちに任せろって言ってたっけ。
同時に、徐々に衣装合わせを終えた監督や、ディレクター、演出、照明などスタッフ陣も続々と現れ、席に着き始めた。
一体この作品にどれだけの人が関わっているのだろう。今回の顔合わせで、その力の入り具合がわかった気がした。
――この人たちの期待に応えなければ。
周りを囲う大勢を前に、昂世が胸の高鳴りを感じていたときだった。
「……大丈夫?」
その声は自然と耳に流れ込んでくる、穏やかな響きだった。
波多野かと思い反射的に顔を上げると、そこには垢抜けない男の姿があった。
スタッフの一人だろうか、昂世はそう思いながら気遣いに感謝する。
「あ、ありがとうございます」
その言葉に男がふっと微笑んだ瞬間だった。
――この笑い方……見覚えがある。
すると男はそのまま隣りの席に座ったではないか。
――まさか……水上周?
その見た目の変わり具合に、昂世は驚きを隠せなかった。
先日スタジオの廊下ですれ違ったときの、あの洗練された感じはどこへいったのか。
男の背中はどこか自信なさげに丸められていて、少し太った感じに見えた。髪も伸ばしてセットもせずに適当で、ずぼらで不潔な印象だ。またせっかくの白い肌も不健康そうに見え、かけた眼鏡もおしゃれなものではなく、融通の効かなそうな学者そのものだった。
ただ彼のすっとした眼差しと、微かに漂い始めた匂いが、確かに水上周であることを証明していた。
――この人は……やっぱり水上周だ。
そう思いながら、今日はまとう匂いが弱いことに気付き昂世はほっとする。
あのときは体調が悪かったか、今日は多めに飲んだ抑制剤が効いているからなのか。匂いはしたものの、あの声が聞こえるほどではなかった。
昂世が安堵していると、その隣りで何故か水上が口を開いた。
「いいね。その調子」
それが何に対して言ったものなのか、よくわからなかった。ただ彼のまとう雰囲気によって、自分の緊張が和らいだのは事実だった。
その後読み合わせがはじまり、監督から演技指示が与えられる中で昂世は徐々に気づいた。
水上の今日のずぼらな見た目は、彼の与えられた役――疲れた大学助教授、須藤静河そのものであることに。それは事前打ち合わせ段階で、台本を読み込みもう標準を合わせてきていることを意味した。
――この人と比べて、俺はなにも考えずにここに来てしまった。
昂世の背にひやりとしたものが流れた。
自分はこの人の隣りに立って、この人と比べられながら演技をするのだ。失敗は許されない。
だからこのときには、水上がΩであることはすっかり頭から消えていた。
昂世は、この作品の出来に自分の俳優人生がかかっていることに、ようやく気づいたのだった。
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