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3章 映画の世界
1 初日
しおりを挟むついに撮影当日を迎えた。
新しい髪型に野暮ったさの残る服をまとった昂世は、すっかり中谷優人になっていた。
朝の人通りの少ない大学構内で、後ろに控える波多野とともに、たくさんのスタッフが集まる中へと向かっていく。
「中谷優人役、宮城昂世さん入ります!」
「お願いします!」
今回の撮影は、監督のよりリアルな心理描写を撮影したいという方針に従い、ストーリーに沿った撮影計画が練られていた。
それは映画が初めてとなる昂世にとって、大変ありがたいものだった。しかし同時に、これまでのどんな現場より大変になる事を、覚悟しなければならなかった。
ストーリーに沿うということは、季節に沿って撮影をしていくということだ。すなわち、絶対に遅れは許されない。
それがどれだけ難しいことか、昂世はこの初日に身をもって知ったのだった。
※※※※
「おう、座長。大丈夫か?」
そう休憩中に声をかけてくれたのは、教授姿に扮した加納だった。みるからに権威のありそうなひげを生やした色黒の男を前に、昂世は思わず言ってしまう。
「加納さん、正直……やばいです」
「ははは。まあそうだろうな」
午前の外での撮影を終え、先日視察した研究室内に移動し、撮影を始めてすぐのことだった。
そこは以前よりも試薬や機械が増え、学生の息遣いが感じられるような、よりリアルな「室島研究室」になっていた。しかしその完璧な美術の中で始まった序盤から、昂世は早々に打ちのめされていた。
そもそも先ほどの屋外の撮影も、中々にハードなものだった。時間によるライティングの制約がある中で、リテイクをしないよう集中して演技に取り組んだ昂世はすでにへろへろだった。
そして無事に撮り終え室内での撮影が始まったものの、さくさく進むだろうという予想は簡単に破られた。
理由は分かりきっていた。
今回の作品は、心理描写を映像で豊かに表現したいという監督の意思が強く反映されている。
それを実現するべく、撮影中に細かな照明プランの切り替えと、多様なカットの撮影が行われていた。
実際にそれは朝から続いており、室内に入り自然光の制約がなくなった今、より時間をかけて行われているという訳だ。
「皆さん……なんでそんなにぴんぴんしてるんですか」
すると笑みを浮かべながら加納は答えた。
「それが経験ってもんさ。ははは!お前の相方もまだまだ元気みたいだぞ」
「本当に……すごいと思います」
ふたりの視線の先には、制作陣と真剣な顔で話し合う水上の姿があった。監督と演出家とともに、演者視点から製作に関わっているらしい。
その姿を見ていた昂世は、すっかり恥ずかしくなった。
周りをみれば、スタッフもいまだ忙しそうに周囲を駆け回っている。この現場で座っているのは自分だけだった。
――俺だけ、この場所から浮いているみたいだ。
そう思っていると、隣で加納がぽつりと言った。
「……あいつは昔からそうなんだよ。作品作りというか、映像の中の世界そのものを作ることが好きなんだろうな」
「……世界?」
「知っていると思うが、あいつはアイドル上がりだろう?それで相当苦労したらしいんだ。……だから初めは、現実逃避のように演技の世界へ行って、ひとつの作品の中で別の誰かになる楽しさを知ったんだろうな。それで気付けば、そういう世界を作ることそのものに関心が出たんじゃないか?」
加納の言葉は昂世の中ですとんと腑に落ちた。
変えらない世界に生き続ける中で、別の誰かになって新しい世界を生きることは、役者にしかできない与えられた特権のようなものだ。
実際に「αの宮城昂世」を忘れ、誰かになる時間がどれだけ気持ちいいか。それは昂世にもよく理解できた。
「……確かに、わかります」
「そうか、お前にはわかるのか。俺には、よくわからないんだよな」
その表情は、少しだけ寂しそうに見えた。
「――ま、詳しくは本人に聞け。あと、ほかにも悩みがあれば先人に聞くのが一番だ。あいつは心を開いて口も開くようになるまで時間がかかるだろうが、こちらから聞けば教えてくれるだろうよ」
――そんなことはないと思うけど。
昂世はそう思いながら、手を振り去っていく加納にお辞儀を返した。
――加納さんは、やっぱり面倒見のいい優しい人だ。
きっと作品終盤に向けて水上と自分の仲を少しでも近づけるべく、ああ言ってくれたのだろう。
実際、世間での水上周の印象は、クールで職人気質のイメージが強い。ただ、視察の際に付き合ってもらったばかりだったので、昂世の中では少し印象が違っていた。
不意にこちらを向いた水上と視線が合った。昂世が会釈をすると、なぜかこちらに気付いて近寄ってきた。
「……お疲れさま。もう少しでスタートするみたいだけど、それまでしっかり休んでくれって監督が」
「はい、でも……俺頑張るんで」
すると何故か水上は呆れるような視線を向けて言った。
「…………ちょっとこっちに来て」
「は、はいっ」
急いでベンチから立ち上がり、水上に言われるがまま後ろをついて行く。研究室を出た廊下の柱の陰で、そこに立ってと言われそのとおりにすると――突然、背中をばしっと叩かれた。
「……うわっ!何するんですか!」
「そうだな。少し身体に力が入りすぎのように見えたから。どう、少しはほぐれた?」
「…………はい、確かにそう言われれば」
さっきまでがちがちだった身体は少しだけ緩んでいる気がした。まるで自分を縛っていた何かが吹き飛んでいったように。
「俺……今日そんなに硬かったですか?」
「うん。演技は悪くないけど、今朝からずっと力が入っているように見えるんだよね。……確かに初めての主演で映画撮影となれば、そうなる気持ちもわかる。けどそれじゃドラマの撮影はよくても、こういう長期間の撮影では身体が保たなくなってくる。特に江口監督の撮影はカットを多用するから、意識して力を抜いたほうがいい」
その饒舌なアドバイスに昂世が呆気に取られていると、ぎらりとした強い眼差しが向けられた。
「……わかってると思うけど、手を抜けってことではないからね」
「は、はい!タイミングを見てカメラが回ってないときは、積極的に脱力しろっていうニュアンスで合ってますか?」
すると水上は一瞬ぽかんとしてから笑って言った。
「……さすが座長、理解が早い。その通りだ。今後の俳優人生のためにも、君はその切り替えを意識するのに慣れた方がいい」
「はい。……水上さん、ありがとうございます」
そんな精一杯の感謝の言葉に、水上はふっと微笑んで告げた。
「……君のためじゃない。この作品のためだから」
なんて彼らしい言葉だろう、昂世がそう思ったちょうどそのとき、撮影の始まりを告げる声がふたりを呼んだのだった。
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