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3章 映画の世界
2 役者泣かせ
しおりを挟む体力の温存方法を学んだ昂世は、撮影の中でそれが少しずつ身になっている感覚があった。
初日は寮に帰って倒れるように寝ていた自分だったが、数日経った今、台本を読み直して演技プランを確認するまで余裕が出来ていた。
すべてあの人のおかげだ、そう思いながらも、撮影中はまだまだ余裕のない状態が続いていた。
今日はこの映画撮影の中でも役者泣かせと言われているあるシーンの撮影だった。
昂世と水上、加納の三人のメインキャストに加え、サブキャストの学生役が一同に集まったのは、研究室と同じ階にある会議室だった。
この部屋は通称ゼミ室と呼ばれているらしく、学生が自身の研究テーマについて同じゼミ生に発表する演習の場だった。
照明が落とされ、奥のスクリーンにプレゼンスライドの光が煌々と輝く。
発表する学生役のひとりがその脇に立ち、昂世を含めたほかのゼミ生がそれを座って眺める構図だ。
こうしてゼミシーンの撮影は始まった。
このシーンでは、主人公中谷優人の研究進捗発表を、室島や博士課程の先輩が適当にあしらう様子が描かれる。
その同期に対する指導とはまったく違うやる気のない対応に、優人は疎外感を感じてしまう。そんな彼に救いの手を差し伸べるのが、水上扮する須藤静河だ。
優人が初めて須藤を気にする印象的なシーンということで、それに至る緊迫した発表シーンは非常に重要だった。だからこそ内容も専門家の監修が付いたリアルな脚本で、役者が頭に入れるのに苦労するという訳だ。
実際台詞は専門的な言葉ばかりで、何より耳慣れない横文字も多かった。高卒で受験勉強もしなかった昂世にとって初めて聞く言葉も多く、噛むわ言い間違うわですでに何回もリテイクを出してしまっていた。
「――っ、すみません。もう一度お願いします!」
「オーケー。うーん、まだまだ時間あるし、ちょっと休憩挟もっか。……電気点けて。はいはい、よろしくー」
監督の声が響き、暗かった部屋がぱっと明るくなった。同時に皆のざわめきが聞こえ始め、昂世も現実の中へと戻る。
「皆さん、何度もリテイクだして本当にすみません……」
席に着いたままのキャストたちにそう謝ると、一人が苦笑いを浮かべて口を開いた。
「いや……宮城くんの前に俺も何回もやってるし、みんなわかってるから安心してよ」
そう言ってくれたのは、今回ゼミの同期役の三隅として参加している藤波はじめだった。
彼は子役からこの世界にいる大先輩だが、年も近くあっけらかんとした性格だ。そのため向こうからぐいぐい来て話しかけてくれる、共演者としてはありがたい存在だった。藤波は笑顔で続ける。
「――それにさ、先陣切ったのは誰でもなく加納先輩だったじゃん!先輩、皆の緊張を吹き飛ばすためですよね。お気遣いありがとうございます!」
「なに?俺のせいかよ。確かに俺もしくったけどよー、完全に空気がガタついたのはお前だろう藤波?」
「いやー……まあ、そうなんですけどね。そもそも専門用語が難しすぎだし、中々こういう専門作品にありつけないからなあ。セリフで覚えようとすると、中々上手くいかないんだなこれが」
藤波の言葉は、まるで自分の心のうちを代弁するようだった。
きっとこちらを気遣ってくれているのだ、そう昂世は心の中で感謝した。実際、大先輩の藤波が軽い口調で言ってくれたことで、心が軽くなった気がした。
後ろから冷ややかな声が響いたのはそんなときだった。
「……それは確かに僕も認める」
そうぼそりと言ったのは水上だった。そのいつもとは異なる、どこかぴりりとした雰囲気に昂世は思わず聞く。
「…………水上さん?」
その問いに返答はなかった。水上はなぜか藤波に向かってこう言った。
「――ただ、今回の撮影は今後もこういうシーンが多いし、集中して取り組んだほうがいいと思うけど。ねえ、三隅くん」
「は、はいっ!」
「避けていてもいいことはないと思うよ」
そのさらりとした発言は、一瞬で空気を重たくした。そんな沈黙の中で水上はひとり部屋から去っていく。
「うっわー……水上さんピリピリしてたじゃん。まずいって。再開したら宮城くんぼこぼこにされるって!」
「……すみません、俺のせいで」
若手ふたりがそう青い顔をしていると、それを吹き飛ばすように加納が笑った。
「ははは、安心しろ。あれは役に入り込んでいる証みたいなもんだ。無意識でやってんだよ」
「え……そうなんですか?」
すると加納は手でゼミ室の扉を示しながら言った。
「ああ。心配なら声かけてきてみろ。怒ってないから」
言われた昂世はすぐに部屋から出て行った。その後姿を見つめながら藤波は言う。
「うわ……宮城くんも怖いもの知らずだなあ」
「ははは。あそこはああ見えて仲いいんだよな。仲いいっていうか……互いに空気感を読み取ってるような感じか?……若い時からこの世界に入った似たもの同士、互いに理解できるところがあるんだろうよ」
加納の言葉に藤波は感心する。
「はー、会って間もないのに夫婦みたいなこと出来てんすね。それはすごい」
「だろう?この作品の主演らしくていいじゃねえか」
※※※※
ゼミ室を出ると、廊下の窓から夕焼けの鮮やかな光が眩しく感じられた。
よく考えればあの部屋はフロアの中央にあり、窓がなかったことに気付く。
――そういえば、時間の感覚がなくなってたけどこんなにぶっ通しで撮影していたのか。
昂世がそう思いながら窓の方へ近づいていくと、柱の影からちらりと白衣の端が見えた。
そこには自販機とソファーベンチがあり、普段は学生用の休憩スペースになっていたはずだった。
静かに歩み寄り覗くと、ベンチに座り分厚い本を手にした水上の姿があった。
「……あれ、どうしたの?」
こちらから声をかけるはずが途端そう言われたので、昂世は戸惑うも水上に聞いてみる。
「……ええと、何をされてるのかなと思って」
「ああ、これを読んでたんだ」
そう言うと、手に持っていた鈍器のような本を差し出してくれた。
表紙に書いてあったのは、外国人の名前と遺伝子の生物学という堅苦しいタイトルで、内容はフルカラーで写真や図が多いものの完全に専門書だった。
「うわ……ガチなやつじゃないですか」
「ははは。この役をやるって聞いてから、生命工学入門みたいな簡単なものから読み始めたんだよね。……そうしたらだんだん面白くなってきて、これはさっき部屋の棚から拝借してみたところ」
「え、勝手に取ったんですか?」
すると水上はあっけらかんと言った。
「別にいいだろう?撮影が終わるまでに返せば問題ないよ。どうせ学生たちに読まれるために置いてあるんだから、助教授の俺が読んでも、『中谷優人』が読んでも構わないだろう?」
「……まあ、確かに。これ、面白かったですか?」
「ああ、なかなかね。これまであまり縁がない世界だったけど、小さい頃に読んだSFを思い出したよ。知ってる?今では直接ターゲットとなる遺伝子にアプローチして、弄れるようになったらしいじゃないか」
その言葉と水上の微笑みに、思い浮かんだ台詞があった。
中谷優人のプレゼンテーション冒頭に出てくる、研究概要の説明のところ――。
「それ…………まさか、クリスパーキャスナインのこと言ってます?」
「気づいたね。そう、君のセリフの中に出てくるだろう?」
その微笑みは、前に背中を叩いてくれたときと同じものだった。水上はどうやら以前のように気付かせようとしてくれたらしい。今回は専門用語の多い台詞の覚え方を。
「なるほど……確かに台詞に監修がついているからこそ、知識として身につけておいたほうが飛にくいかもしれません。文脈で覚えられるようになるかも」
「だろう?――はい、これ。僕からのプレゼント」
そうして差し出したのは、あの分厚い本だった。昂世は思わず言ってしまう。
「……何言ってるんですか、パクった本じゃないですか」
「ははは。バレたか」
その笑顔はこれまで見たどんなものよりもやんちゃで、くしゃっとした素の笑いに見えた。
昂世は一瞬どきりとした。まるで今まで見ていた微笑みのすべてが「須藤静河」のものだったのではと思うほど、自然なものだったから。
だからこのまどろっこしい指導も、実は「須藤静河」の延長なのかもと思い昂世は気を落とした。ただすぐにその考えを頭から振り払う。
ほかに仕事をかけもちしている売れっ子俳優が、わざわざ時間をかけて後輩の面倒をみたりするだろうか。
撮影が早く終わればいいのなら、直接言葉で指導するのが最も楽で速い。だからそうせずに気付かせようとしてくれたのは、水上周その人の優しさなのではと思えた。
「お、さてはやる気になった?」
「……はい。本気で学生の『中谷優人』やってみます」
「いいね。その調子だ」
窓の外の夕焼けは沈み始めていた。
薄暗くなりつつある大学の研究棟の一角で、本当に学生みたいだと思いながら、昂世はひとり静かに意気込んだ。
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