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3章 映画の世界
5 これは、恋?
しおりを挟む確かに、水上からの連絡はなかなか来なかった。また返事が来たとしてもそれはとんでもなく遅かった。
一番初めのなんてこともない挨拶を、昂世は意外と時間を費やして送った。しかし返事はいくら待って来ず、ようやく来たのは連絡先が本当に合っているのか心配になった頃だった。
ただそれは水上周が忙しいからで、彼が俳優として確固たる地位を築いている証だと昂世には思えた。
実際、どんなに長文の感想を送りつけても、内容をきちんと読んでくれていることは確かだった。
『打つのが苦手なんだよ。だから次会ったときでいいかな、なんて思っちゃって』
撮影のふとした合間や休憩中に、そう言って返信しようとしていた内容を話してくれた。昂世にとってそれだけでもう十分すぎるほどだった。
次の撮影は、ダーツバーでの一幕だった。
室島と喧嘩した中谷優人が須藤静河から指導を受ける約束を取り付けたあと。同じ研究室で学ぶ学生から須藤はまずいという噂を聞き、自分の中の彼との違いに混乱してしまう。そんなとき、別の研究室の友人に付き添って向かったダーツバーで、ふたりがふと出会うシーンだった。
セットは薄暗く、煙草風の白い煙がたちこめて、どこか大人の雰囲気が漂っていた。
昂世はその薄紫色に照らされた非現実的な空間を前に、鼓動が早くなるのを感じていた。
――早く……撮影したい。
自分がなぜそう思っている理由はよくわからなかった。
しかしそれに水を差すように、現場から水上の到着が遅れていると連絡があった。そこで代役を立て、まずリハーサルをすることになった。
奥にダーツの的の白い光が煌々と輝く中。広々としたソファに腰掛けているのは中谷優人役の昂世と友人役の男性ふたり、そして彼らが連れてきたという設定の同年代の女性だった。
監督の合図があり、リハーサルが始まった。
『えー、ダーツあるじゃん。ダーツやってる時の男の人ってかっこいいよね!』
『だってよ、優人。よしやるか!』
そう言って友人と女の子のふたりが立ち上がる。
声をかけられた優人だが、ここに連れて来られたのは飲んでいた流れで、ダーツにはまったく興味がない。
もちろんやったこともないしルールも知らないので、気だるそうに言う。
『なんで俺もなんだよ……』
ただ、友人に誘われたので渋々立ち上がり向かおうとする。
ダーツのある方へ視線を向けると、不意にその脇のバーカウンターが目に入る。
なぜか気になりじっと目を凝らすと、カウンターにひとりで座る男の後ろ姿がある。
そこにいるのは須藤静河だ。
だから本番は水上であり、今は遅れているから代役のはず――そう思い昂世は驚く。
――……あれ?
その後ろ姿は、あの人の姿によく似ていた。
どこか悲しげな雰囲気をたたえた安物のスーツをまとった背中に、ぼさぼさの髪の男。
あの人は遅れているはず。いまそこにいるはずない。
そう思うも、しかし昂世の目は確かに本人であると告げていた。
次に見えたのは、見間違えることのない横顔だった。
あたりに漂う白い靄の奥、うす紫色の光のなかで。白い頬が目に焼き付いたように離れない。
すっとした鼻筋と、きらりと光を反射する銀縁の眼鏡が輝いて。
その奥の黒い瞳がこちらに向けられた。
『中谷……くん?』
眼鏡の奥で大きく見開かれた目。そして視線は交錯した。
それは時間にして一体どのくらいだったのだろうか。
一瞬とも、永遠とも思えるその間に。ざわめく音も、あたりに立ち込める人の気配も。
からだで感じていたものすべてがどこかへ消えてしまった。
視線の先の水上周だけがそこにいたのだ。
不意に水上の息を飲む音が聞こえ、昂世はようやく正気に戻る。
『須藤さん、ですか?まさか、こんなところで会うなんて……』
『それはこっちの台詞なんだが……』
そう驚くふたりの間に、友人が割って入る。
『優人!こっちこっち』
『……いま行くから』
そう言う優人を前に、須藤がおもむろに言う。
『君の友達がするみたいだけど、中谷くんもやるの?』
『いや、俺は全然やったことなくて。まさか須藤さん……できるんですか?』
すると須藤は笑う。
『ふふっ。君はなんのためにここにいるんだよ』
ここはこの映画の中で初めて須藤が笑うシーンだ。
水上周とは違う、優人を馬鹿にするような鼻で笑うかすかな笑い。
ただ笑ったというその事実が、優人にとって意味のあるものだ。
――こんな須藤さんのこと、きっと誰も知らないはず。
そう静かに喜びながら、優人は口を開く。
『俺はただ連れて来られただけで、知らなかったんですよ。そうだ!なら俺の代わりにやってくれません?』
『僕に混ざれって?……しょうがないな』
『ありがとうございます!』
やはりこの人は優しくて、面倒見がいい人なのだ。
そう優人が思っていると、須藤は微笑みながらさらりと言う。
『この貸しは高くつくかもしれないよ』
『えっ、そんな……』
動揺する優人。しかし――。
『冗談だ』
須藤がそう言って振り返り、そして。
「カット!」
その言葉に昂世は現実に戻された。
同時に遅れてあとから参加するはずの水上が目の前にいることに気付き、混乱する。
――やっぱり、あれは水上さんだよな?
どういうことだろう――そう思っていた矢先に、監督が駆け寄ってきて言う。
「ふたりとも、よかったです!意図したとおりになりました!このまま映像を使わせて頂きます!」
興奮する江口を前に、昂世は思わず聞いてしまう。
「え、どういうことですか?」
それに答えたのは後ろから近づいてきていた水上だった。
「僕から監督に言ってみたんだ。遅刻するっていうことにして、本当に驚く瞬間を撮ったらいい画が撮れるんじゃないかって。そうしてら案の定うまくいったみたいだね」
「はい!まさに息を呑んだはっとする感じが伝わってきました!気になっている人が不意にそこに現れて、互いに見つめ合って時間が止まる感じ。あー、よかった。本当にリアルでしたよ!」
そう言われ、昂世は恥ずかしくなった。
――まさかみんなの手のひらの上で転がされていたなんて。
しかし確かに、監督が言った通りだと自分でも思った。
あの人に気付いて、本人かと思いじっと息をひそめ見つめる感覚も。あの人だとわかって、一瞬なにが起きたのかわからなくなって、時の流れが止まったようなあの時間も。
ここにいないと思っていたから出た、リアルな感情だった。
不意に昂世は須藤の――水上の顔を思い出した。
ぼんやりと非現実的な光の中に、いるはずのないと思っていたあの人。その眼鏡の奥の優しい瞳が自分だけを捉えた、あの瞬間。誰もが憧れる名俳優が自分だけを見ていたのだ。
あの瞬間、水上周の目の中にいたのは、確かに自分だけだった。
不意に水上の方をみると、彼はにやりと笑った。
それはまるで「どう、うまくいったでしょ」と言わんばかりの得意げな表情だった。
昂世も笑顔を返し、監督に言われるがまま脇で控える波多野のもとへ向かう。
差し出された水を受け取り飲んでいると、波多野は言った。
「昂世、お前もうすっかり『優人』だな」
「え?」
「いや、もう視線がさ。なんていうか、本当に恋してるみたいだからさ」
その言葉に、思わず水を飲む手が止まる。
「……昂世?」
「は、はい」
すると波多野は腕にかけていたタオルを差し出しながら続けた。
「俺はさ、仕事以外のときお前がちゃんと休めてるか心配なだけだよ。集中して仕事ができてるっていうならまったく問題ないんだ」
昂世はそう言われ、少し動揺している自分がいることに気付いた。そして考える。
――自分が水上に対して抱いているこの気持ちはなんだろう。
尊敬、敬愛、嬉しさ、そのどれも胸が温かくなる幸せな感じだ。
ついさっきまで――カットの声がかけられる直前までそれは確かにこの胸に合った。
そしてそれが突然中断された瞬間、思ったのはこの人との時間を邪魔されたくないという衝動だった。
では、この気持ちの名前は一体なんだろうか?
「……波多野さん、今日のシーンって簡単に言うとどんなシーンですか?」
そう聞くと、波多野は困ったように笑って答えた。
「?お前が一番知ってるだろ?優人が須藤の笑顔をはじめて知って、抱いている気持ちが恋かもしれないと自覚するシーンだよ」
そう、そのとおり。そのとおりだった。
ならば今の自分はあの水上周に、恋をし始めているのだろうか。
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