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4章 近づく心
2 新たな心配
しおりを挟む夏休み期間後とあって、人はまばらだった。
大きな湖はまだ暑さの残る強い日差しを映し、きらきらと輝いていた。その周囲を囲う宿場町の古い町並みには、土産物屋や小さな飲食店が立ち並んでいた。
まずここで旅行を満喫する短いカットの撮影を行うとのことで、キャスト達はカメラを連れて散策したり、お店で買い食いを始めた。
ただ閑散期とはいえ、これだけの規模で撮影をしていると聴衆が現れるのもすぐだった。それはひとり、またひとりと芋づる式に増えていき、徐々に辺りに黄色い歓声が広がり始めた。
観衆対策専門のスタッフがいるものの、キャストにこれだけのメンツが揃えば仕方がないのだろう。
普段からイケおじと話題の加納は、今回インテリ度が加わって中々の迫力であるし、藤波も水上ほどではないが可愛い顔立ちで知名度は抜群だ。
中でも一際大きな声が向けられているのが、意外にも自分――宮城昂世だった。
前よりもギラッギラ具合は抑えられているはずだったのに。対照的に水上は全く気付かれておらず、さすがだなと感心した。
そんな中で、昂世はこの撮影自体を満喫していた。まるで本当に大学生としてゼミ合宿を楽しんでいるように思えた。
これから本格的に売れてしまったら、仕事以外でどこへも行けなくなってしまう。そう思うと、楽しまずにはいられなかった。
不意に昂世は、水上扮する須藤の方をちらりと見た。彼は自分の数歩隣りを歩きながら、なぜかたい焼きを口にしていた。その姿を見て昂世は思う。
――この人なんてきっと時間もないし、この姿は共演したときしか見れない貴重なものなんだろうな。
誰もが顔を知っている名俳優――水上周。彼はほんのわずかな休日に、どんなことをしているのだろう。
するとまず思い浮かんだのは映画鑑賞で、次に出てきたのが最近はまっているというSF小説だった。
それ以外に知っていることはというと連絡が遅いことで、他には意外と甘いものが好きかもしれないということだった。
確か、須藤に甘い物好きなんて設定はなかったはず。そうぼんやりと考えていると、水上と視線が合った。
「宮城くん、食べてる?」
「……はい?」
「いや、せっかくの機会だしこういう時間は楽しんだ方がいいっていう、僕からの勝手なアドバイスなんだけど」
その言葉に昂世はぽかんとする。
どうやら水上周の中では、旅行を楽しむことイコール食べ歩くことらしい。
「ふふっ。水上さんの中で、食べることは楽しむことなんですね」
「え、それ以外にあるの?」
真顔で言った姿があまりにも以外で面白くて、昂世は笑いをこらえながら答える。
「そりゃあほかにもありますって。ほら、湖ならきっとスワンボートとかサイクリングとか……ここらへんだとほかに登山とか」
「……宮城くんは意外とアクティブだな」
そんな和やかな空気がふたりの間には流れていた。だから昂世の頭からは、あのシーンのことが完全に抜け落ちていた。
ついに現実を突き付けられたのは、撮影終了後のことだった。
監督から明日の日程を告げられ、その後直々に期待していると言われ、途端に焦り始めた。
――やばい、やばい、やばい。
自分でもよくわからなくなっていた昂世は、宿泊先の宿に着いた途端波多野に泣きついた。
「波多野さん、助けて下さい!」
「昂世、どうした?お前がそんなこと言うなんて珍しいな。俺にできることなら何でも言ってくれ!」
「はい……実は――」
そうして悩みをぶちまけたものの、波多野もこれまでの皆と同じような反応だった。
童貞だからというと、そんなことないだろうと笑って相手にしてくれない。
次に本当なんですと訴えても、きっとあの監督は初々しいのを求めているんだ、と勝手に頷いてひとりで納得してしまった。
そして最後に彼はなんと言ったかというと――。
「――それより不用意に出歩くなよ。早く寝て、明日のシーンに備えてくれ」
それだけ言い残して部屋から去ってしまった。
昂世は、用意された豪華な部屋食を食べながらため息を付いた。
――濡れ場シーンも初めてなうえ、性行為も未経験で臨む俳優がこの世にいるのだろうか。
明日本番を迎える、宿で優人と須藤が初めて身体を重ねるシーンは、それまでふつふつと静かに燃えていた愛が激しく炎を上げる、そんなこの映画の最初の見せ場だ。
だから丁寧に演じたい、そう思っていたのに、それどころではなくなっていた。
不意に、水上の白い横顔と首筋を思い出し、昂世は慌ててテレビを付ける。
――なんか……胸がざわざわする。
それは尊敬する偉大な先輩に欲情する恐れ多さと、背徳感に近いものだろう。ただ、明日は実際にそういう演技をしなければならない。
互いに生まれたままの姿になって、皮膚と皮膚で触れ合い、そして身体の柔らかい所を繋げ合う。
そして気付いた。よく考えてみれば、まだ水上の裸すら見たことがないことに。
――本当に……大丈夫だろうか。
ぼんやりと眺める視線の先には、他愛もないバラエティ番組が流れていた。ただそれは次第にエンディングとなり、夜のニュースが始まった。そのオープニングが流れたその直後だった。
目に飛び込んできたのは、αとΩによる淫行のニュースだった。
『二十代α男性、三十代Ω女性に対する暴行により現行犯逮捕。違法抑制剤の使用による突発的発情が原因か』
昂世は背筋にひやりとしたものを感じた。
同時に、胸のざわざわとした不快感は、それと同じかもしれないということに気付き動揺する。
――やばい……忘れてた。
そう昂世が改めて思ったのは、今の今まで自分と水上がαとΩであることを完全に忘れていた、その事実に気付いたからだった。
なぜ、こんなに大事なことを忘れていたのだろう。
自分はαで、あの人はΩ。変えられない、どうしようもない自分たちの性。
それを一時でも忘れられることが出来ていたのは、この現場に集まったみんなの意識の高さであり、何よりも水上との時間が充実していたからだと思えた。
――なんて自分は恵まれていたのだろう。
この素晴らしい仕事に巡り会えた運に感謝しながらも、同時に訪れたピンチに昂世は頭を悩ませた。
明日。いよいよ明日に迫っていた。
――こんな旅館のとある一室で。浴衣姿のあの人と身体を求め合うのだ。
そう思ったときには、もういてもたってもいられなくなっていた。
そして気付く。こんな感じでいたら、今晩は眠れるわけがない。
昂世は台本を手にひとり部屋の外へと向かった。波多野によると、今日泊まるこの部屋のある離れは、貸切になっているそうだ。
――とりあえず、外で台詞でも確認しに行こう。
廊下へ出て、人のいないはずのホールへ足を踏み入れた、そのときだった。
「え……宮城、昂世?」
それは若い女性の声だった。
一瞬目が合うも、昂世の身体はすぐさまその場から離れようと駆け出していた。
――まずい……!
「え、待って待ってまじで本物?え、やばい背ぇ高すぎ!イケメンすぎるんだけど!やば!」
その叫びを背後に、昂世は駆けた。後ろからは女性の甲高い声が聞こえ続けている。
――ここで見つかって大騒ぎになって、みんなに迷惑をかける訳にはいかない。早く部屋へ戻らないと。
昂世がそう焦ったときだった。
突然左腕を掴まれたと思えば、ぐいと腕をひかれていた。
「――こっち」
その落ち着き払った声と共に身体は引っ張られ、とある客室の中へとひきずりこまれていった――。
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