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7章 終わりの足音
2 ふたり
しおりを挟む「水上……さん」
突然現れた水上の姿に、昂世の頭は止まったように動かなくなった。
久しぶりにまじまじと見た姿は、儚げに微笑みながらも艶やかに見えた。まるで月光に輝く百合のよう、そうぼんやりと思いながら、何も考えられずに吸い寄せられるように近寄ってしまう。
一歩、二歩――そして三歩目を踏み出したところで、昂世はようやく正気に戻り思わず後ずさった。
それを見ていた水上は苦々しげに口を開いた。
「宮城くん……久しぶりっていうのもおかしいよね。一応現場で顔を合わせていたけど、ずっと避けられてるみたいだったから。加納さんの計らいで、こうしてもらったんだ」
そしてあちらから距離を詰めようとするので、昂世は思わず顔をそらして言う。
「待って下さい!」
「……なんで?」
「こ、心の準備ができてないので、それ以上近寄らないでください!」
「心の準備って……」
どうせ撮影で顔を合わせるのに――水上はそう言おうとしているようだった。確かにその通りだ。ただ昂世にとってはまるで状況が違った。
強い薬を飲んで自分を制して臨む撮影と、こんな不意打ちのような想像もしていなかった対面。αである自分に対する不安に天と地ほども差があった。
だから必死に距離を取っているのに、水上は何故かもう目の前に近寄っていた。そして昂世の手を取ろうとするので、それを必死に振り払って叫ぶ。
「駄目なんです!水上さん!聞いてください!俺は…………俺はあなたのことが…………好きなんです」
振り絞るように出た言葉を、水上は息を潜めるように静かに聞いていた。
「――もちろん役者としてもあなたのこと尊敬してます。あなたは俺の大好きな憧れの人。だからこれからもこうやって、一緒の舞台に立ちたいって思ってます」
口から出たのは昂世の本心だった。しかしそれに対して身体は今も少しも言うことを聞かなかった。すでにかすかに漂い始めた水上の甘い香りに、鳥肌が立ち始めていた。
「そう思っているのに……俺の身体は駄目なんです。今もあなたを傷つけようとしている。あなたを手に入れたくてたまらないんです。だから俺に近寄らないでください……!」
昂世は水上から逃げるように、休憩スペースの隅で身体を縮こませた。足を抱えるように体育座りになれば、自分の身体が勝手に手出しすることを防げると思ったのだ。
その様子を見た水上は、ふふっと笑って言った。
「……君は、本当に優しいね」
「そ、そういう訳じゃ――」
「いや、優しいよ。君はそうしていつも僕のこと考えてくれていたんだね」
そう言って水上は小さくなった昂世のすぐ側に腰かけた。人一人分空けてふたりは横並びとなり、視界には窓一面に広がる薄紫色の空があった。
すでに夕日は立ち並ぶビルの彼方へ沈んでいた。その名残りを見送りながら、水上は口を開く。
「君も、もう知ってるだろう?僕たちは運命で結ばれた魂の番だって」
「…………はい」
「初めて聞いたとき、君みたいな素晴らしい人が自分の運命だなんて、僕はなんて幸せ者だろうって思った。僕は……ずっと駄目だったから。Ωなのに機能不全でどうしようもなくて。それを忘れられる芸能界の世界が楽しくてのめり込んでいったんだ」
自分ではない誰かになりたい。そう願ったのは自分だけでなく、水上もそうだったのか。
昂世がそう思う中、水上は続ける。
「……それでも心のどこかで、俺は自分のすべてを受け入れて欲しかったんだろうね。だから始めて発情したとき、僕はようやく認められたようで嬉しくなった。あの『全て捨ててもいいからあれをものにしろ』って身体が語りかけてくる感覚――それが全身を駆け巡ったとき、ぼくはようやく本当の水上周に戻れた気がしたんだ。だからありがとう……きみは、ああいうものとずっと戦っていたんだね」
「水上さん……」
水上と目が合った。
優しく、引き込まれるような眼差しは、これまで何度も合わせていた須藤静河のものとはまるで違った。
ずっと見ていたい――そう心奪われていたときだった。
「僕も、君が好きだよ」
あまりにも突然の告白だった。
昂世は驚きのあまり、咄嗟に反射的に言ってしまう。
「……え……それは俺がαだから?」
すると水上は笑った。あの、少年のような笑顔で目元をくしゃっとさせて。
「違うよ。αだからじゃない。もちろん運命だからでもない。きみと共演して一緒に仕事して、気付いてたら心惹かれてたんだ。君との仕事はさ、想像以上に楽しかったんだ。君は素直で溌剌としていて、水のように覚えがよくて……なのに謙虚で一生懸命で」
淀みなく続く褒め言葉に昂世は恥ずかしくなった。思わず目を逸らすも、それは止まることはなかった。
「――それにいつも必死で、なのに意外と言葉少なくて静かなところもあって。……それにまだあるよ。俺がΩだって初めから気付いてたのに、少しも気にしないし動じなかっただろう?」
「……それは、今回の映画のおかげだと思いますけど」
思わずそう口を挟むも、水上は微笑んで続けた。
「それはもちろんあると思うよ。だけど君がそうしてくれたから、俺は思い出せたんだ。……昔さ、一時アイドルをさせられてたときがあって。あのときは、俺は本当にΩである自分が嫌だった。だけど初めて大きなコンサートをやったとき、ファンの視線はΩの水上周じゃなくて「Lucifer」の水上周に向けられていた。そのとき、自分を出来損ないのΩだと決めつけてるのは自分だってことに気付いた。なのに、俺は今の今までそれをすっかり忘れてたんだ」
水上の言葉に、昂世はつい先日監督に言われた言葉を思い出した。
君が君自身を縛っている――その通りだった。また俺は自分で自分を縛ろうとしていた、昂世がそう思っていると、再び水上と視線が合った。それはさっきよりも鋭く、眼差しに力が込められていた。
「君も……αの宮城昂世でなくて、君はただひとりの役者の宮城昂世だ。そんな君には才能があって、それに努力する力も兼ね備えている。だからこんなところで立ち止まってはいけない」
そう言って水上は昂世の手の甲にそっと触れた。柔らかな手のひらからはほんのりと温もりを感じるだけで、もう鳥肌は立っていなかった。
そして恐れていたあの声も、少しも聞こえてこなかった。
「きみがαであっても僕がΩであっても、役者であることに関係あるか?」
「ない……です」
「だろう?第二性はすこしも関係がない。だから堂々としてればいい。君は宮城昂世で、僕は水上周。仕事で共演して互いに惹かれ合った――それだけだ」
「…………はい」
身体ではなく、心で惹かれた。ただそれだけ。
水上がそう言ってくれただけで、昂世は今までの人生すべてを肯定されたような気がした。
同時に、そんなことを言ってくれる人はもうこれから先の人生に現れないと思えた。
「まあ、ちょうどよく運命のαとΩなんだからいいところを搔っ攫わせてもらおうよ。僕らは番うととんでもないメリットがあるんだろう?一石二鳥じゃないか。これからも一緒に切磋琢磨していこう」
「ちょうどよくって……水上さん、それは軽すぎなんじゃないですか?」
昂世がそうツッコむと、水上はにやりと笑みを浮かべて言った。
「そうかい?本当に幸せな偶然――僕たちの関係はそれだけでいいんじゃないかい?」
そうしてふたりは夜の始まりを見守りながら笑い合った。そして最終シーンの打ち合わせを軽く済ませると、それぞれの仕事場へ戻っていった。
残されたあのシーンが終わるまで――それが言葉に出さなくとも通じる、ふたりの約束のようなものだった。
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