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第三話 幸せの在処
第三話 一八
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「私ではなく日向様本人にお訊きになってください」
黎夜は改まった口調でそう言うと後ろを振り返った。
「日向様、どうぞ」
「え……⁉」
まさか、と天音が身構えるよりも早く黎夜の後ろから日向が現れた。
「天音」
「……日向、兄様……」
どんなときでも日向に会うことは楽しみだった。けれどこのとき初めて逃げ出したい衝動に駆られた。
突然の再会に動揺し、目を見開き固まった天音だったが、すぐに日向の顔を直視できずにさっと顔を俯けた。日向と目を合わせることも、日向にどんな顔で見られているか知ることも怖い。冷えと震えを誤魔化すように、天音は拳を強く握りしめた。
わたしのせいで日向兄様の負担を増やしてごめんなさい、わたしが言えたことじゃないけど体調は大丈夫なの、……わたしのことを嫌いにならないで。
言いたいことはいくつもあるのに、そのひとつとして声にならない。
俯き黙りこむ天音に、日向は常と変わらない声で天音に呼びかけた。
「天音」
怒りや恨み、呆れや叱責などは一切なく、柔らかであたたかく、労りに満ちた優しい声だった。
「生きていてくれて良かった、本当に」
「……!」
真白ノ国を統治する者として、思うことも口にすることも許されないと聡い日向ならわかっているはずだ。この局面で天音が生きているということは贄ノ儀式が失敗したということで、それを良かったと喜ぶことは罪深い。
日向の優しさを疑った罪悪感と自分に向けられる兄としての愛情に、天音が堪らなくなって顔を上げると、日向は「やっとこちらを見てくれたね」と小さく微笑んだ。
天音ほどではないが日向も色白だ。それを差し引いても日向の顔色は優れないようだった。病み上がりの上、心身ともに多忙を極めているのだから当然といえば当然だ。
それらの原因は全て自分にあると、謝らずにはいられなかった。
「ごめんなさい、兄様……っ」
天音の吐き出す苦しみの正体を、日向は正確に理解したようだった。心苦しそうに日向は首を横に振った。
「そもそも天音だけに全てを押し付けた僕たちの方が間違っていたんだよ。謝るのはこちらなんだ。ごめん、ごめんね、天音……っ」
日向の言う『僕たち』は、真白ノ国の中枢にいた人物たちを指している。父王や妃、家臣の仕打ちには幾度となく傷ついたが、天音の味方であり続けた日向だけは別だった。だから天音は強く頭を振った。
「兄様こそ、わたしに謝らないで。兄様は贄ノ儀式に反対してくれたんでしょ」
「けれど、結果的に止めることは叶わなかった。僕も彼らと同罪なんだ」
両者の間に微妙な沈黙が降りる。天音も日向も、苦しいくせに譲れないでいた。似ているからこそ厄介で、相手の苦しさもわかってしまうから、結局は二人ともに折れることになるのだ。
「……わたしにも兄様にも罪があるなら、お互い様、なんだと思うの。だから……」
「……うん、そうだね。謝るのはこれきりにしよう」
話に一区切りついたところで、ここまで黙ってことの成り行きを見守っていた黎夜が口を開いた。
「日向様。これからのことですが」
「うん」
黎夜の目配せに気がついた天音はこくりと頷くと、話を引き取った。
「きっとここにわたしの居場所はなくなるから、邸を出て外の世界で生きていこうと思うの。黎夜も、一緒に」
日向はそれほど驚くことなく、ただ寂しげに微笑んだ。現実を正しく理解しているのだろう、こうなることは予想できていたのかもしれない。
「そうだね。今ならまだ天音の生死は誤魔化せる。守り人の役目がないとしたら黎夜がこの邸を出ていっても不自然ではない。天音が安全に生きていくなら最善の選択肢なんだろう」
日向はまぶたを軽く伏せる。揺れる睫毛は影をつくり、寂しさを色濃くした。
「許されるのなら、僕もともにいたかったな……」
何にも縛られず、妹と親友と広い世界で生きていくことができたならどれだけ幸せなことだったろう。引き留めはしないが、夢想くらいはしてしまう。
けれど、それもほんの僅かな時間だった。兄として、真白ノ国を預かる者として、日向は覚悟を決める。伏せていた目を上げたとき、もう寂しさを窺い知ることはできなくなっていた。
「天音」
「……はい」
日向の思いに向き合わなければならないと、天音もまた真剣に相対する。
「僕は、君を、もうこの世にいないものとする。こんな形でしか妹の幸せを応援できない兄だけれど、どうか天音らしく生きてほしいと心から願っているよ」
天音が深く頷くのを見届けて、日向は黎夜に向き直った。
「黎夜」
「はい、日向様」
「君のことは信頼しているから、天音をきっと守ってくれると思っているよ。ただ、忘れないでほしい。僕は黎夜の幸せも願っていると」
「はい、お約束いたします。私も日向様の幸いを祈っております」
別れの寂しさに、玄を亡くしたときと似たような痛みが天音の胸を刺した。日向は生きているが、天音は死んだことになる。今までもまわりの目があり会うのは簡単ではなかったが、基本的に邸から出られない日向に死んだはずの天音が会いに行くことはほぼ不可能に近い。今生の別れになるかもしれないと思うと涙が溢れてきたが、だからこそ泣き顔を最後にしたくないと思った。日向が少しでも安心して送り出せるように、天音は悲しみを飲みこんで明るく笑ってみせた。
「日向兄様が幸せにと願ってくれたように、わたしも兄様の幸せを願ってるよ」
『またいつか』とも『さようなら』とも告げられない代わりに、互いの幸せを願った。
そしてその日の夜、誰に見送られることもなく天音は黎夜とともに広い世界への一歩を踏み出した。
黎夜は改まった口調でそう言うと後ろを振り返った。
「日向様、どうぞ」
「え……⁉」
まさか、と天音が身構えるよりも早く黎夜の後ろから日向が現れた。
「天音」
「……日向、兄様……」
どんなときでも日向に会うことは楽しみだった。けれどこのとき初めて逃げ出したい衝動に駆られた。
突然の再会に動揺し、目を見開き固まった天音だったが、すぐに日向の顔を直視できずにさっと顔を俯けた。日向と目を合わせることも、日向にどんな顔で見られているか知ることも怖い。冷えと震えを誤魔化すように、天音は拳を強く握りしめた。
わたしのせいで日向兄様の負担を増やしてごめんなさい、わたしが言えたことじゃないけど体調は大丈夫なの、……わたしのことを嫌いにならないで。
言いたいことはいくつもあるのに、そのひとつとして声にならない。
俯き黙りこむ天音に、日向は常と変わらない声で天音に呼びかけた。
「天音」
怒りや恨み、呆れや叱責などは一切なく、柔らかであたたかく、労りに満ちた優しい声だった。
「生きていてくれて良かった、本当に」
「……!」
真白ノ国を統治する者として、思うことも口にすることも許されないと聡い日向ならわかっているはずだ。この局面で天音が生きているということは贄ノ儀式が失敗したということで、それを良かったと喜ぶことは罪深い。
日向の優しさを疑った罪悪感と自分に向けられる兄としての愛情に、天音が堪らなくなって顔を上げると、日向は「やっとこちらを見てくれたね」と小さく微笑んだ。
天音ほどではないが日向も色白だ。それを差し引いても日向の顔色は優れないようだった。病み上がりの上、心身ともに多忙を極めているのだから当然といえば当然だ。
それらの原因は全て自分にあると、謝らずにはいられなかった。
「ごめんなさい、兄様……っ」
天音の吐き出す苦しみの正体を、日向は正確に理解したようだった。心苦しそうに日向は首を横に振った。
「そもそも天音だけに全てを押し付けた僕たちの方が間違っていたんだよ。謝るのはこちらなんだ。ごめん、ごめんね、天音……っ」
日向の言う『僕たち』は、真白ノ国の中枢にいた人物たちを指している。父王や妃、家臣の仕打ちには幾度となく傷ついたが、天音の味方であり続けた日向だけは別だった。だから天音は強く頭を振った。
「兄様こそ、わたしに謝らないで。兄様は贄ノ儀式に反対してくれたんでしょ」
「けれど、結果的に止めることは叶わなかった。僕も彼らと同罪なんだ」
両者の間に微妙な沈黙が降りる。天音も日向も、苦しいくせに譲れないでいた。似ているからこそ厄介で、相手の苦しさもわかってしまうから、結局は二人ともに折れることになるのだ。
「……わたしにも兄様にも罪があるなら、お互い様、なんだと思うの。だから……」
「……うん、そうだね。謝るのはこれきりにしよう」
話に一区切りついたところで、ここまで黙ってことの成り行きを見守っていた黎夜が口を開いた。
「日向様。これからのことですが」
「うん」
黎夜の目配せに気がついた天音はこくりと頷くと、話を引き取った。
「きっとここにわたしの居場所はなくなるから、邸を出て外の世界で生きていこうと思うの。黎夜も、一緒に」
日向はそれほど驚くことなく、ただ寂しげに微笑んだ。現実を正しく理解しているのだろう、こうなることは予想できていたのかもしれない。
「そうだね。今ならまだ天音の生死は誤魔化せる。守り人の役目がないとしたら黎夜がこの邸を出ていっても不自然ではない。天音が安全に生きていくなら最善の選択肢なんだろう」
日向はまぶたを軽く伏せる。揺れる睫毛は影をつくり、寂しさを色濃くした。
「許されるのなら、僕もともにいたかったな……」
何にも縛られず、妹と親友と広い世界で生きていくことができたならどれだけ幸せなことだったろう。引き留めはしないが、夢想くらいはしてしまう。
けれど、それもほんの僅かな時間だった。兄として、真白ノ国を預かる者として、日向は覚悟を決める。伏せていた目を上げたとき、もう寂しさを窺い知ることはできなくなっていた。
「天音」
「……はい」
日向の思いに向き合わなければならないと、天音もまた真剣に相対する。
「僕は、君を、もうこの世にいないものとする。こんな形でしか妹の幸せを応援できない兄だけれど、どうか天音らしく生きてほしいと心から願っているよ」
天音が深く頷くのを見届けて、日向は黎夜に向き直った。
「黎夜」
「はい、日向様」
「君のことは信頼しているから、天音をきっと守ってくれると思っているよ。ただ、忘れないでほしい。僕は黎夜の幸せも願っていると」
「はい、お約束いたします。私も日向様の幸いを祈っております」
別れの寂しさに、玄を亡くしたときと似たような痛みが天音の胸を刺した。日向は生きているが、天音は死んだことになる。今までもまわりの目があり会うのは簡単ではなかったが、基本的に邸から出られない日向に死んだはずの天音が会いに行くことはほぼ不可能に近い。今生の別れになるかもしれないと思うと涙が溢れてきたが、だからこそ泣き顔を最後にしたくないと思った。日向が少しでも安心して送り出せるように、天音は悲しみを飲みこんで明るく笑ってみせた。
「日向兄様が幸せにと願ってくれたように、わたしも兄様の幸せを願ってるよ」
『またいつか』とも『さようなら』とも告げられない代わりに、互いの幸せを願った。
そしてその日の夜、誰に見送られることもなく天音は黎夜とともに広い世界への一歩を踏み出した。
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