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第一章
1. 夕陽に縫いとめられて
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放課後の教室は、やけに広く感じた。
昼間は人で埋まっていた机の列も、今はがらんとしていて、木目の線や彫られた落書きまで妙にくっきり見える。黒板の粉はうっすら膜みたいに残って、指でなぞれば白くなるだろう。窓の外では陽が落ちかけて、斜めの光が天板の傷を朱に染めていた。空気は乾いて、チョークとワックスの匂いが薄く漂う。
静かだ。静かすぎて、時計の針の音がやけに耳に残る。カチ、カチと、空気を刺すみたいに。
「……煌」
背中から名前を呼ばれて、肩がわずかに跳ねた。振り返る。
リンがいた。窓際に立って、長い影を床へ落としている。夕陽を背負った輪郭が少し滲んで、顔立ちだけがくっきり浮いて見える。無駄に整っているせいで、こうして見上げると余計に気に障る。表情は薄いくせに、目だけがやたら濃い。真っ直ぐで、逸らない。
高二で転校してきてから、ずっとこんな調子だ。俺が呼ばなくても隣にいる。望んだ覚えもないのに、当然の顔をして。
それが、当たり前になってしまったのは、いつからだったか。
「なんだよ」
窓枠に肘を預けたまま、気怠く返す。
リンは一度だけ、深く息を吸った。胸の奥で押し殺していたものを吐き出す前の、あの呼吸だ。喉が、小さく鳴る。
瞳が、夕陽を拾って細く揺れた。けれど視線そのものは、微動だにしない。
「──好きだ」
耳に届いた瞬間、背筋がゾクリと震えた。
胸の中心が一拍遅れて跳ねる。けれどそれは、ときめきとかいう薄っぺらいものじゃない。
……なに言ってんだ、こいつ。
同性?
犬だと思ってたやつに、そういう目で?
しかも真顔で?
頭の中で疑問が雪崩みたいに押し寄せて、鼓動を無駄に煽る。舌の先が少し痺れて、口の中が乾く。唇を舐めたら、塩気がした。
冗談だろ。普段は無口で、無駄なことは一言も言わないくせに。
そういうやつでも、たまには変な冗談のひとつも言う──その程度の話だ。
そう思おうとする。そう思って片付けないと、さっき背中を走った寒気の居場所がなくなる。
「……は? 真顔で冗談とかやめろよ。気持ち悪ぃ」
喉から出た声は、自分で思うより少し掠れていた。
聞き取れたのは、リンもだろう。だが表情は動かない。
目だけが、まっすぐに此方を縫いとめ続ける。
「冗談じゃない。本気だ」
低い声。余計な飾りがなくて、やけに明瞭だ。
その目が──冗談に、見えなかった。
胸がまた、余計なタイミングで跳ねる。違う、それはただの驚きだ。
同性に告白されたから。犬だと思っていたやつに、変な顔を向けられたから。
……それだけだ。
「真面目にバカ言うなよ。男に惚れるとか、漫画のネタにしかなんねーだろ」
無理に笑って、肩をすくめてみせる。いつもの調子のフリをすれば、空気は軽くなる──はずだ。
けれど、空気は軽くならない。目だけが刺さったまま、皮膚の裏側がざわつく。
窓の外で、校庭の旗がひときわ強く鳴った。風が変わったのか、教室のカーテンがふわりと膨らんで、すぐに萎んだ。微かな埃の匂いが鼻にひっかかる。
「……お前さ、ただ懐いてるだけだろ。そういうの、勘違いって言うんだよ。それに、日本語まだ怪しいし。冗談と告白の区別、ついてねーんじゃね?」
吐き捨てるみたいに言って、鼻で笑う。
──まあ、留学生だし。言葉のニュアンスひとつで勘違いくらいするだろ。日本語なんて適当でいいんだよ。
心の中でもう一度、同じ理屈を反芻する。これでいい。これで片付く。いつもみたいに、冗談で流して、明日には忘れる。
「…………」
沈黙が、残った。
夕陽が雲に隠れて、赤は鈍くなる。影はさらに濃く、長く。
喉の奥に重いものがひっかかって、呼吸が浅い。掌にじんわり汗が滲んで、机の角に置いた指先が少し滑った。
きっかけが、欲しかった。
この空気を軽くできる、なにか、考えろ。
俺は、いつもこのやり方で切り抜けてきた。
「……ま、“犬”として立派になったら、考えてやってもいいかもな」
軽い調子で放る。笑いを薄く乗せる。
断り文句。嘘も方便。俺にとっては、これで終わるはずの合図だ。
声が裏返らないように、ほんの少しだけ息を足す。どうでもいい冗談だという形にして、場をごまかす。
「分かった」
短い一言が、真ん中に落ちる。
軽くならない。逆に、床板のどこかが軋んだみたいに胸の奥で音がした。ひゅ、と息が細くなる。
冗談を真に受けるやつが悪い。
そう言い聞かせる。言い切ることでしか、足場が作れない。
リンが、俺の鞄を持ち上げた。革の持ち手が指に擦れて、ざらついた音を立てる。ストラップを二センチ詰める、いつもの手際。
当たり前の顔。何ごともなかったみたいに。
「帰ろう」
「……ああ」
自然に立ち上がる。机の脚が床をこする音が短く響いた。
廊下に出ると、蛍光灯の白が夕陽の色を塗りつぶしている。掲示板の画鋲、掃除用具入れの金具、遠くの階段で跳ねる足音──細かい音だけがやけに鮮明だ。
二人分の靴音は、いつも通り揃っていた。
階段の踊り場で窓の鍵が風に鳴る。下駄箱の冷たい金属の匂い。昇降口のゴムマットが沈む感触。
外に出れば、風は乾いて、グラウンドの砂ぼこりが舌に薄く残る。鉄のフェンスがカラリと鳴って、遠くで誰かがボールを蹴った。
俺は何も言わない。リンも何も言わない。沈黙に困らないのは、昔からだ。
* * *
門前で立ち止まると、リンが当然のように俺の鞄を差し出してきた。受け取って肩に掛ける。
「じゃあな」
それだけ。余計な言葉もいらない。
リンは軽く顎を引き、背を向けた。背中は大きく、夕陽の影を長く落としたまま、角を曲がって消えていく。
俺はその姿を見送ることなく、鉄の門を押し開ける。
軋む音が低く長く伸び、門の装飾の唐草模様に夕陽がひっかかった。鉄の冷たさが掌に乗り、皮膚の温度を一瞬で奪っていく。
* * *
石畳の並木道を抜ければ、白亜の洋館が視界いっぱいに広がる。
大理石の外壁が夕陽を反射し、表面の細かな筋目まで金色に浮き上がる。正面玄関の上には彫刻がいくつも並び、神話じみた人物と草花が絡み合っている。車寄せには黒塗りの車が整然と並び、磨かれたボディに庭の緑が歪んで映っていた。
噴水は絶えず水を噴き上げ、落ちる水の粒がきらきら舞って、石畳に小さな点々を作る。剪定された生け垣から、刈りたての青い匂いがする。花壇の薔薇は濃く、香りは少し甘すぎるくらいだ。
玄関前ではドアマンが直立していて、俺が近づくと白手袋の手を腹の前で重ね、無言で一礼して扉を開けた。蝶番が鳴らないのは、毎日油が差されているからだ。
中に入れば、ホールの空気は外よりひんやりしていて、石の冷気が足首から上がってくる。赤い絨毯が足音を吸い、シャンデリアの光が大理石の床に柔らかく散った。壁には肖像画や風景画が等間隔で掛かっていて、額縁の金が光を縁取る。
メイドが二人、少し離れて控えていた。俺が制服の上着に指を掛けるより先に、一歩滑るように近づいてくる。
「お帰りなさいませ」
上着は肩線を崩さない角度で受け取られ、釦の位置を軽く確かめられてから、木製のハンガーへ。白手袋の指が一瞬だけ俺の手首に触れて、すぐ離れる。所作に無駄がない。
廊下の奥には執事が立っていた。背筋を伸ばし、目線だけでこちらを確認する。
「お食事のご用意が整っております」
落とし気味の声が、石の壁で柔らかく返る。
俺は頷きもしない。いつも通りの方向へ、いつも通りの歩幅で進んだ。
ドアの脇に控えていたフットマンが手早く取っ手を引き、俺が通り過ぎるタイミングで開け閉めを合わせる。扉が背後で音も立てずに閉じる。
ダイニングの天井は高く、梁の装飾に金箔が薄く貼られている。長いテーブルの上にはキャンドルスタンドと花が規則正しく置かれ、白いクロスには皺ひとつない。
銀器は鏡みたいに磨かれ、フォークとナイフの並びは指一本分の間隔が保たれている。ナプキンは鳥の形に折られ、皿の中央に立っていた。
料理の匂いが微かに漂ってくる。コンソメの澄んだ香りと、焼いた肉の脂が熱で柔らかくなった匂い。ハーブの青さがそれを引き締める。
椅子の背に手が添えられ、自然に引かれる。俺は視線も向けずに腰を下ろす。座面の柔らかさは変わらない。
「水を」
執事の短い合図で、グラスに静かに水が満たされる。氷はない。グラスの縁が光を受けて一瞬細く光る。
そこへ、明るい金髪を揺らして、朗らかな男が勢いよく入ってきた。
「おかえり!」
声がやたら明るい。次の瞬間、片腕でがっちり抱き寄せられる。
一ノ瀬仁──俺の二番目の兄。仁兄。
「学校どうだった? 課題、終わってんの? 腹は?」
矢継ぎ早に問われ、頭をくしゃくしゃに撫でられる。手のひらが熱い。
「やめろって、髪崩れる!」
唇が自然に尖る。舌打ちしながら腕を払うが、仁兄は笑って離れない。頬を指で突いてくる。
「はいはい、強がってるの可愛い。ほら、顔、ちょっと赤い」
「赤くねぇよ」
テーブルの向こう側では、もう一人の兄が既に席に着いていた。眼差しだけこちらを一度だけ掠め、視線を皿に戻す。
食卓は使用人によって整えられている。銀の蓋が静かに外され、白い蒸気が一瞬立つ。香りがふうっと広がった。
一ノ瀬隆臣──一番目の兄、臣兄は、黙って自分の前の皿を手に取り、当然のように俺の分を取り分ける。ナイフの刃が肉に入る音がかすかに触れ、崩したソースを端に寄せる。取り分けた皿が俺の前に置かれ、銀器が規定の角度に戻る。
「……食え」
短い声。命令でも叱責でもない。ただそこに置かれた事実のような声だ。
反射的にフォークを取る。肉はやわらかく、噛むと塩と脂が舌に広がる。
仁兄がすかさず覗き込む。
「うん、いい顔。で、学校は?」
「別に。いつも通り」
「ふーん、卒業の準備、増えてきただろ。待って、髪、ここ跳ねてる」
そう言って指で前髪を直してくる。
「触るなって」
「はいはい、じっとして。……よし」
満足そうに頷いたかと思うと、今度はパンをちぎって俺の口に運ぶ。
「あ、これ旨い。はい、食べな。あーん」
「ん、……やめろって」
反射的に口を開けてしまい、咀嚼。癖は抜けない。
「いい加減やめろって、いくつだよ」
「えー、昔はしたのに」
「昔の話すんな」
臣兄はナイフを置き、グラスに水が満たされるタイミングを一度だけ目線で合図する。使用人の動きはそれにわずかに遅れて、しかし乱れない。
「野菜」
一言だけ追加され、俺の皿の端に色の濃い葉が増えた。フォークで刺す。噛むと苦味が立って、肉の脂が少し引いた。
仁兄が横から頬を指でつつく。
「ちゃんと寝てる?」
「寝てる」
「ほんとに?」
「しつけぇ」
そう返しながら、俺は目の前の食卓の整い方を当たり前として受け取る。白手袋の角度、皿の向き、湯気が立ち上る速度、兄たちの声音──どれも既知の配置。俺のために最初からこうであるべきと思っているし、実際、ずっとこうだった。
スープ皿が下げられ、次の皿が音も立てずに置かれる。銀の蓋がまた静かに外され、ハーブの香りが少し強くなる。
仁兄は俺の肩に腕を回したまま、どうでもいい話を続ける。
「卒業式、ネクタイはこれでいいよな? 予備も作っとこうか」
「要らねぇ」
「ふーん。そういやさ、小さいころ──」
「昔の話すんなって言ってんだろ」
言いながら、俺の口角はわずかに上がっていたらしい。仁兄がそれを見逃すはずもなく、にやっと笑う。
臣兄は視線を上げずに、俺の皿の空きを見計らってまた少しだけ取り分ける。無言の庇護。注意は必要なときだけ、最低限。
「こぼすな」
「こぼしてねぇし」
食事が進むにつれて、昼間の出来事は薄くなっていく。
「好きだ」という文字列は、食器の触れ合う微かな音と一緒に、どこか遠くの棚に置かれていく。
リンの目が冗談に見えなかったことだけが、ほんの僅かに引っかかったまま、舌の奥に苦い種みたいになっている。噛んでも割れない、小さなやつ。
でも、そんなものはこの家の空気の中では簡単に薄まる。兄の声、食卓の温度、きっちり働く手。全部が、俺の輪郭をいつもの位置へ戻す。
デザートの皿が置かれるころには、仁兄はようやく腕を離し、椅子の背にもたれた。
「明日の朝、起きられる?」
「余裕」
「じゃ、起こしに行ってやる」
「余裕っつってんだろ、来んな」
「来いって意味だよな、それ」
「違う」
くだらないやり取り。しかし、この家ではそれが正解だ。
臣兄は最後の一口を飲み下ろし、ナプキンを静かに畳む。
「課題は、煌」
「ねーよ、卒業前だぞ」
短いやり取りで、食事は終わる。使用人が皿を下げ、グラスの水面が揺れて、すぐに静まる。
席を立つとき、椅子は自然に引かれた。俺は一歩分だけ遅れて立ち上がり、何も言わず廊下に出る。
赤い絨毯は足音を吸い、壁の絵は変わらずこちらを見ている。
廊下の突き当たり、窓の向こうには庭の灯り。噴水はまだ水を上げていて、その光が水面に散っていた。
俺は振り返らない。何ひとつ、特別扱いしてやる必要はない。ここは俺の家で、俺に相応しい整い方をしている。昔から、ずっと。
──こうして兄と家に囲まれていると、昼間の「好きだ」なんてくだらない二文字は、頭の隅に押しやれる。
俺は愛されて当然。ずっと昔からそうだった。
* * *
ベッドに倒れ込む前、机の上のハンカチが風でふわりとめくれた。窓を少しだけ開けたままにしていたのを思い出し、閉める。夜の匂いが入り込んでいて、アスファルトの冷めた匂いが薄く残った。
制服の釦を外すと、喉元に残っていた熱が抜ける。洗面台で顔だけ洗い、冷たい水がまぶたを叩くと、呼吸がやっと一定になった。
枕元に鞄が立てかけてある。ストラップは、いつもよりほんの少しだけ短い。
部屋はすぐに夜の形になって、静けさの底で鼓動だけが、ほんの少しだけ大きい。
やがてそれも、眠りに慣らされて、ゆっくり、ゆっくり遠のいていった。
昼間は人で埋まっていた机の列も、今はがらんとしていて、木目の線や彫られた落書きまで妙にくっきり見える。黒板の粉はうっすら膜みたいに残って、指でなぞれば白くなるだろう。窓の外では陽が落ちかけて、斜めの光が天板の傷を朱に染めていた。空気は乾いて、チョークとワックスの匂いが薄く漂う。
静かだ。静かすぎて、時計の針の音がやけに耳に残る。カチ、カチと、空気を刺すみたいに。
「……煌」
背中から名前を呼ばれて、肩がわずかに跳ねた。振り返る。
リンがいた。窓際に立って、長い影を床へ落としている。夕陽を背負った輪郭が少し滲んで、顔立ちだけがくっきり浮いて見える。無駄に整っているせいで、こうして見上げると余計に気に障る。表情は薄いくせに、目だけがやたら濃い。真っ直ぐで、逸らない。
高二で転校してきてから、ずっとこんな調子だ。俺が呼ばなくても隣にいる。望んだ覚えもないのに、当然の顔をして。
それが、当たり前になってしまったのは、いつからだったか。
「なんだよ」
窓枠に肘を預けたまま、気怠く返す。
リンは一度だけ、深く息を吸った。胸の奥で押し殺していたものを吐き出す前の、あの呼吸だ。喉が、小さく鳴る。
瞳が、夕陽を拾って細く揺れた。けれど視線そのものは、微動だにしない。
「──好きだ」
耳に届いた瞬間、背筋がゾクリと震えた。
胸の中心が一拍遅れて跳ねる。けれどそれは、ときめきとかいう薄っぺらいものじゃない。
……なに言ってんだ、こいつ。
同性?
犬だと思ってたやつに、そういう目で?
しかも真顔で?
頭の中で疑問が雪崩みたいに押し寄せて、鼓動を無駄に煽る。舌の先が少し痺れて、口の中が乾く。唇を舐めたら、塩気がした。
冗談だろ。普段は無口で、無駄なことは一言も言わないくせに。
そういうやつでも、たまには変な冗談のひとつも言う──その程度の話だ。
そう思おうとする。そう思って片付けないと、さっき背中を走った寒気の居場所がなくなる。
「……は? 真顔で冗談とかやめろよ。気持ち悪ぃ」
喉から出た声は、自分で思うより少し掠れていた。
聞き取れたのは、リンもだろう。だが表情は動かない。
目だけが、まっすぐに此方を縫いとめ続ける。
「冗談じゃない。本気だ」
低い声。余計な飾りがなくて、やけに明瞭だ。
その目が──冗談に、見えなかった。
胸がまた、余計なタイミングで跳ねる。違う、それはただの驚きだ。
同性に告白されたから。犬だと思っていたやつに、変な顔を向けられたから。
……それだけだ。
「真面目にバカ言うなよ。男に惚れるとか、漫画のネタにしかなんねーだろ」
無理に笑って、肩をすくめてみせる。いつもの調子のフリをすれば、空気は軽くなる──はずだ。
けれど、空気は軽くならない。目だけが刺さったまま、皮膚の裏側がざわつく。
窓の外で、校庭の旗がひときわ強く鳴った。風が変わったのか、教室のカーテンがふわりと膨らんで、すぐに萎んだ。微かな埃の匂いが鼻にひっかかる。
「……お前さ、ただ懐いてるだけだろ。そういうの、勘違いって言うんだよ。それに、日本語まだ怪しいし。冗談と告白の区別、ついてねーんじゃね?」
吐き捨てるみたいに言って、鼻で笑う。
──まあ、留学生だし。言葉のニュアンスひとつで勘違いくらいするだろ。日本語なんて適当でいいんだよ。
心の中でもう一度、同じ理屈を反芻する。これでいい。これで片付く。いつもみたいに、冗談で流して、明日には忘れる。
「…………」
沈黙が、残った。
夕陽が雲に隠れて、赤は鈍くなる。影はさらに濃く、長く。
喉の奥に重いものがひっかかって、呼吸が浅い。掌にじんわり汗が滲んで、机の角に置いた指先が少し滑った。
きっかけが、欲しかった。
この空気を軽くできる、なにか、考えろ。
俺は、いつもこのやり方で切り抜けてきた。
「……ま、“犬”として立派になったら、考えてやってもいいかもな」
軽い調子で放る。笑いを薄く乗せる。
断り文句。嘘も方便。俺にとっては、これで終わるはずの合図だ。
声が裏返らないように、ほんの少しだけ息を足す。どうでもいい冗談だという形にして、場をごまかす。
「分かった」
短い一言が、真ん中に落ちる。
軽くならない。逆に、床板のどこかが軋んだみたいに胸の奥で音がした。ひゅ、と息が細くなる。
冗談を真に受けるやつが悪い。
そう言い聞かせる。言い切ることでしか、足場が作れない。
リンが、俺の鞄を持ち上げた。革の持ち手が指に擦れて、ざらついた音を立てる。ストラップを二センチ詰める、いつもの手際。
当たり前の顔。何ごともなかったみたいに。
「帰ろう」
「……ああ」
自然に立ち上がる。机の脚が床をこする音が短く響いた。
廊下に出ると、蛍光灯の白が夕陽の色を塗りつぶしている。掲示板の画鋲、掃除用具入れの金具、遠くの階段で跳ねる足音──細かい音だけがやけに鮮明だ。
二人分の靴音は、いつも通り揃っていた。
階段の踊り場で窓の鍵が風に鳴る。下駄箱の冷たい金属の匂い。昇降口のゴムマットが沈む感触。
外に出れば、風は乾いて、グラウンドの砂ぼこりが舌に薄く残る。鉄のフェンスがカラリと鳴って、遠くで誰かがボールを蹴った。
俺は何も言わない。リンも何も言わない。沈黙に困らないのは、昔からだ。
* * *
門前で立ち止まると、リンが当然のように俺の鞄を差し出してきた。受け取って肩に掛ける。
「じゃあな」
それだけ。余計な言葉もいらない。
リンは軽く顎を引き、背を向けた。背中は大きく、夕陽の影を長く落としたまま、角を曲がって消えていく。
俺はその姿を見送ることなく、鉄の門を押し開ける。
軋む音が低く長く伸び、門の装飾の唐草模様に夕陽がひっかかった。鉄の冷たさが掌に乗り、皮膚の温度を一瞬で奪っていく。
* * *
石畳の並木道を抜ければ、白亜の洋館が視界いっぱいに広がる。
大理石の外壁が夕陽を反射し、表面の細かな筋目まで金色に浮き上がる。正面玄関の上には彫刻がいくつも並び、神話じみた人物と草花が絡み合っている。車寄せには黒塗りの車が整然と並び、磨かれたボディに庭の緑が歪んで映っていた。
噴水は絶えず水を噴き上げ、落ちる水の粒がきらきら舞って、石畳に小さな点々を作る。剪定された生け垣から、刈りたての青い匂いがする。花壇の薔薇は濃く、香りは少し甘すぎるくらいだ。
玄関前ではドアマンが直立していて、俺が近づくと白手袋の手を腹の前で重ね、無言で一礼して扉を開けた。蝶番が鳴らないのは、毎日油が差されているからだ。
中に入れば、ホールの空気は外よりひんやりしていて、石の冷気が足首から上がってくる。赤い絨毯が足音を吸い、シャンデリアの光が大理石の床に柔らかく散った。壁には肖像画や風景画が等間隔で掛かっていて、額縁の金が光を縁取る。
メイドが二人、少し離れて控えていた。俺が制服の上着に指を掛けるより先に、一歩滑るように近づいてくる。
「お帰りなさいませ」
上着は肩線を崩さない角度で受け取られ、釦の位置を軽く確かめられてから、木製のハンガーへ。白手袋の指が一瞬だけ俺の手首に触れて、すぐ離れる。所作に無駄がない。
廊下の奥には執事が立っていた。背筋を伸ばし、目線だけでこちらを確認する。
「お食事のご用意が整っております」
落とし気味の声が、石の壁で柔らかく返る。
俺は頷きもしない。いつも通りの方向へ、いつも通りの歩幅で進んだ。
ドアの脇に控えていたフットマンが手早く取っ手を引き、俺が通り過ぎるタイミングで開け閉めを合わせる。扉が背後で音も立てずに閉じる。
ダイニングの天井は高く、梁の装飾に金箔が薄く貼られている。長いテーブルの上にはキャンドルスタンドと花が規則正しく置かれ、白いクロスには皺ひとつない。
銀器は鏡みたいに磨かれ、フォークとナイフの並びは指一本分の間隔が保たれている。ナプキンは鳥の形に折られ、皿の中央に立っていた。
料理の匂いが微かに漂ってくる。コンソメの澄んだ香りと、焼いた肉の脂が熱で柔らかくなった匂い。ハーブの青さがそれを引き締める。
椅子の背に手が添えられ、自然に引かれる。俺は視線も向けずに腰を下ろす。座面の柔らかさは変わらない。
「水を」
執事の短い合図で、グラスに静かに水が満たされる。氷はない。グラスの縁が光を受けて一瞬細く光る。
そこへ、明るい金髪を揺らして、朗らかな男が勢いよく入ってきた。
「おかえり!」
声がやたら明るい。次の瞬間、片腕でがっちり抱き寄せられる。
一ノ瀬仁──俺の二番目の兄。仁兄。
「学校どうだった? 課題、終わってんの? 腹は?」
矢継ぎ早に問われ、頭をくしゃくしゃに撫でられる。手のひらが熱い。
「やめろって、髪崩れる!」
唇が自然に尖る。舌打ちしながら腕を払うが、仁兄は笑って離れない。頬を指で突いてくる。
「はいはい、強がってるの可愛い。ほら、顔、ちょっと赤い」
「赤くねぇよ」
テーブルの向こう側では、もう一人の兄が既に席に着いていた。眼差しだけこちらを一度だけ掠め、視線を皿に戻す。
食卓は使用人によって整えられている。銀の蓋が静かに外され、白い蒸気が一瞬立つ。香りがふうっと広がった。
一ノ瀬隆臣──一番目の兄、臣兄は、黙って自分の前の皿を手に取り、当然のように俺の分を取り分ける。ナイフの刃が肉に入る音がかすかに触れ、崩したソースを端に寄せる。取り分けた皿が俺の前に置かれ、銀器が規定の角度に戻る。
「……食え」
短い声。命令でも叱責でもない。ただそこに置かれた事実のような声だ。
反射的にフォークを取る。肉はやわらかく、噛むと塩と脂が舌に広がる。
仁兄がすかさず覗き込む。
「うん、いい顔。で、学校は?」
「別に。いつも通り」
「ふーん、卒業の準備、増えてきただろ。待って、髪、ここ跳ねてる」
そう言って指で前髪を直してくる。
「触るなって」
「はいはい、じっとして。……よし」
満足そうに頷いたかと思うと、今度はパンをちぎって俺の口に運ぶ。
「あ、これ旨い。はい、食べな。あーん」
「ん、……やめろって」
反射的に口を開けてしまい、咀嚼。癖は抜けない。
「いい加減やめろって、いくつだよ」
「えー、昔はしたのに」
「昔の話すんな」
臣兄はナイフを置き、グラスに水が満たされるタイミングを一度だけ目線で合図する。使用人の動きはそれにわずかに遅れて、しかし乱れない。
「野菜」
一言だけ追加され、俺の皿の端に色の濃い葉が増えた。フォークで刺す。噛むと苦味が立って、肉の脂が少し引いた。
仁兄が横から頬を指でつつく。
「ちゃんと寝てる?」
「寝てる」
「ほんとに?」
「しつけぇ」
そう返しながら、俺は目の前の食卓の整い方を当たり前として受け取る。白手袋の角度、皿の向き、湯気が立ち上る速度、兄たちの声音──どれも既知の配置。俺のために最初からこうであるべきと思っているし、実際、ずっとこうだった。
スープ皿が下げられ、次の皿が音も立てずに置かれる。銀の蓋がまた静かに外され、ハーブの香りが少し強くなる。
仁兄は俺の肩に腕を回したまま、どうでもいい話を続ける。
「卒業式、ネクタイはこれでいいよな? 予備も作っとこうか」
「要らねぇ」
「ふーん。そういやさ、小さいころ──」
「昔の話すんなって言ってんだろ」
言いながら、俺の口角はわずかに上がっていたらしい。仁兄がそれを見逃すはずもなく、にやっと笑う。
臣兄は視線を上げずに、俺の皿の空きを見計らってまた少しだけ取り分ける。無言の庇護。注意は必要なときだけ、最低限。
「こぼすな」
「こぼしてねぇし」
食事が進むにつれて、昼間の出来事は薄くなっていく。
「好きだ」という文字列は、食器の触れ合う微かな音と一緒に、どこか遠くの棚に置かれていく。
リンの目が冗談に見えなかったことだけが、ほんの僅かに引っかかったまま、舌の奥に苦い種みたいになっている。噛んでも割れない、小さなやつ。
でも、そんなものはこの家の空気の中では簡単に薄まる。兄の声、食卓の温度、きっちり働く手。全部が、俺の輪郭をいつもの位置へ戻す。
デザートの皿が置かれるころには、仁兄はようやく腕を離し、椅子の背にもたれた。
「明日の朝、起きられる?」
「余裕」
「じゃ、起こしに行ってやる」
「余裕っつってんだろ、来んな」
「来いって意味だよな、それ」
「違う」
くだらないやり取り。しかし、この家ではそれが正解だ。
臣兄は最後の一口を飲み下ろし、ナプキンを静かに畳む。
「課題は、煌」
「ねーよ、卒業前だぞ」
短いやり取りで、食事は終わる。使用人が皿を下げ、グラスの水面が揺れて、すぐに静まる。
席を立つとき、椅子は自然に引かれた。俺は一歩分だけ遅れて立ち上がり、何も言わず廊下に出る。
赤い絨毯は足音を吸い、壁の絵は変わらずこちらを見ている。
廊下の突き当たり、窓の向こうには庭の灯り。噴水はまだ水を上げていて、その光が水面に散っていた。
俺は振り返らない。何ひとつ、特別扱いしてやる必要はない。ここは俺の家で、俺に相応しい整い方をしている。昔から、ずっと。
──こうして兄と家に囲まれていると、昼間の「好きだ」なんてくだらない二文字は、頭の隅に押しやれる。
俺は愛されて当然。ずっと昔からそうだった。
* * *
ベッドに倒れ込む前、机の上のハンカチが風でふわりとめくれた。窓を少しだけ開けたままにしていたのを思い出し、閉める。夜の匂いが入り込んでいて、アスファルトの冷めた匂いが薄く残った。
制服の釦を外すと、喉元に残っていた熱が抜ける。洗面台で顔だけ洗い、冷たい水がまぶたを叩くと、呼吸がやっと一定になった。
枕元に鞄が立てかけてある。ストラップは、いつもよりほんの少しだけ短い。
部屋はすぐに夜の形になって、静けさの底で鼓動だけが、ほんの少しだけ大きい。
やがてそれも、眠りに慣らされて、ゆっくり、ゆっくり遠のいていった。
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モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕
宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている
飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話
アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。
無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。
ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。
朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。
連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。
※6/20追記。
少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。
今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。
1話目はちょっと暗めですが………。
宜しかったらお付き合い下さいませ。
多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。
ストックが切れるまで、毎日更新予定です。
牛獣人の僕のお乳で育った子達が僕のお乳が忘れられないと迫ってきます!!
ほじにほじほじ
BL
牛獣人のモノアの一族は代々牛乳売りの仕事を生業としてきた。
牛乳には2種類ある、家畜の牛から出る牛乳と牛獣人から出る牛乳だ。
牛獣人の女性は一定の年齢になると自らの意思てお乳を出すことが出来る。
そして、僕たち家族普段は家畜の牛の牛乳を売っているが母と姉達の牛乳は濃厚で喉越しや舌触りが良いお貴族様に高値で売っていた。
ある日僕たち一家を呼んだお貴族様のご子息様がお乳を呑まないと相談を受けたのが全ての始まりー
母や姉達の牛乳を詰めた哺乳瓶を与えてみても、母や姉達のお乳を直接与えてみても飲んでくれない赤子。
そんな時ふと赤子と目が合うと僕を見て何かを訴えてくるー
「え?僕のお乳が飲みたいの?」
「僕はまだ子供でしかも男だからでないよ。」
「え?何言ってるの姉さん達!僕のお乳に牛乳を垂らして飲ませてみろだなんて!そんなの上手くいくわけ…え、飲んでるよ?え?」
そんなこんなで、お乳を呑まない赤子が飲んだ噂は広がり他のお貴族様達にもうちの子がお乳を飲んでくれないの!と言う相談を受けて、他のほとんどの子は母や姉達のお乳で飲んでくれる子だったけど何故か数人には僕のお乳がお気に召したようでー
昔お乳をあたえた子達が僕のお乳が忘れられないと迫ってきます!!
「僕はお乳を貸しただけで牛乳は母さんと姉さん達のなのに!どうしてこうなった!?」
*
総受けで、固定カプを決めるかはまだまだ不明です。
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誤字脱字、言葉使いが変な所がありましたら脳内変換して頂けますと幸いです。
こわがりオメガは溺愛アルファ様と毎日おいかけっこ♡
なお
BL
政略結婚(?)したアルファの旦那様をこわがってるオメガ。
あまり近付かないようにしようと逃げ回っている。発情期も結婚してから来ないし、番になってない。このままじゃ離婚になるかもしれない…。
♡♡♡
恐いけど、きっと旦那様のことは好いてるのかな?なオメガ受けちゃん。ちゃんとアルファ旦那攻め様に甘々どろどろに溺愛されて、たまに垣間見えるアルファの執着も楽しめるように書きたいところだけ書くみたいになるかもしれないのでストーリーは面白くないかもです!!!ごめんなさい!!!
悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放
大の字だい
BL
王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。
嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。
だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。
嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
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