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第二章
5. はじまりの不協和音
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食堂の自動ドアが背中で閉じた。
ざわめきは膜の向こうに押し込められ、廊下の空調だけが耳を撫でる。
昼の光が長い直線を描いて床を滑り、ガラス越しの中庭では笑い声が氷みたいに弾け、すぐに溶けた。油の匂い、紙コップの甘い残り香、磨かれた床のわずかなワックス臭——昼の名残が薄く漂っている。
「俺、体育館寄ってくる」
佐伯が肩を回して、ジャージ姿の一団に片手を上げた。背中には相変わらず祭りの中心みたいな吸引力がある。
「わたしは待ち合わせ」
水野はスマホを胸元に押さえ、軽く息を吐く。巻いた毛先が肩で跳ね、リップの色が昼の光を反射した。
「調べ物がある」
鳴海はそれだけ置いて、図書館の方角へ。足音は一定で、風に対して角度を選ぶみたいに流れから外れない。
三人がほどけるように離れていき、残ったのは俺とリン。
半歩後ろに長い影を連れて歩くのは、呼吸と同じくらい当たり前の気配。
靴底と床が触れる小さな摩擦音が二つ、ほとんど同じ間隔で続く。数えようともしないが、揃っているのは知っている。
* * *
出席が甘いと評判の講義。
教室に入ると、席は半分ほど埋まっていた。机に突っ伏すやつ、ノートを広げるやつ、壁際のコンセントに群がって延長コードを奪い合うやつ。
窓側の席は眩しすぎる。俺は真ん中の列に腰を下ろした。前すぎず後ろすぎず、出口に近い位置。いつもの選択。
リンが黙って隣に座る。鞄の置き場所、ペンの置き方、背もたれの倒し具合、その全部が俺の枠にぴったり収まる。合わせるのではなく、最初からそうあったみたいに。
「──隣、いい?」
不意に声が落ちた。
顔を向けた瞬間、空気が一段濃くなる。
自然とつむじから足先まで視線を巡らせてしまう。初対面の相手を値踏みしてしまう、癖みたいなもの。
第一印象は……『掴めない男』。
黒に近いダークブラウンの髪が無造作に落ち、束が影を作る。切れ長の目は笑っていない。笑みの形だけ浮かべていても、線の鋭さは崩れない。
両耳に並んだピアス。小さなフープ、短いチェーン、クロス、無地のスタッズ。光が当たるたび、音のない金属音みたいな反射が視界の端を刺す。
痩せているのに肩幅があり、黒のフーディの上に擦れた古着のジャケット。袖口が緩く、骨ばった手首の内側に黒いインクが一瞬覗いた。文字とも記号ともつかない細い線。見つけた瞬間には布が戻り、何もなかったみたいに隠れる。
靴は黒のレザー。厚いソールのくせに、床に音の尾を残さない。
普通なら、避ける。
なのに、出てきた声はやけに軽かった。
「この授業、楽だよな。出席ゆるいし」
返事はしない。
隣のリンが、ほんの一瞬だけ視線を寄こす。空気がぴんと張る。
ここで退くのが常識ってやつだ。
こいつは退かない。笑ったまま、俺の隣に腰を下ろした。椅子の脚が床を擦る音は、ほとんどしなかった。
足を組み、机へ肘をつく。流れるような──かといって丸過ぎない、シナモンのような甘味を残す動き。
「自己紹介、いる?」
「いらない」
「冷たいな。じゃ、仲良くなったってことで」
「はっ、勝手に盛り上がってろ」
そこまで言えば、普通は終わる。
* * *
教授が入ってきて、ざわめきは角のほうへ押し流された。
白い壁にスライドが映る。プロジェクターの音が低く震え、ペン先が紙に触れるさらさらした音が、あちこちで薄く重なる。
「一ノ瀬、だよな」
「……あぁ?」
「さっき食堂で見た。五人で並んでて、あれ、ポスター映えするぜ」
視界の端で、ピアスが揺れる。
細かい光が、言葉のリズムに合わせて点滅するみたいだ。
「お前の目が安っぽいだけだ」
「でも真ん中にいた君だけ、光の当たり方が違った」
「そりゃどーも」
「あ、流された。俺の持ち場だよ、光とか観客とか」
「……勝手に見てろ」
そこで切る。切ったつもりで、呼吸を整える。
だが、隙間は与えないつもりらしい。
「学部は? サークルは? 昼はいつも真ん中?」
「うるせぇ」
切り捨てた言葉の間を、別の問いで埋められる。
息を吐く拍に、次の音が滑り込んでくる。
耳に落ちる音の粒が一定で、妙に拾いやすいテンポだ。拾いたくないのに、拾ってしまう。
拾えば、向こうはさらに早く返す。
皮肉を投げれば、角を丸めて比喩にして返される。
即興の歌詞みたいに、言葉がその場で形を変える。
気づけば、言葉の足場がそいつの間合いに沿って動いている──そんな感覚が喉の奥に引っかかった。
「君、紙の端、折らないだろ」
「は?」
「今、無意識に指を離した。折り目つけたくない癖。ノートも黒一色。インクの滲み、ゼロ。行間も変わらない。息止めて書くタイプだ」
「観察、気持ち悪ぃ」
「見るだけはタダじゃん。几帳面──って決めつけるのは安いか。几帳面“に見えるように”整えるタイプ、だな」
「当てずっぽうで喋るな」
「当てずっぽうは当てるためにある」
「口が減らねえな」
指先がじんわり湿ってくる。
息が浅くなる。
呼吸の拍に、また言葉が入り込む。
間を与えないのではなく、間そのものを奪う喋り方。
「君、歩くとき道が割れるよな」
「は?」
「人の流れが自然に避ける。君はただ歩くだけ。——王の歩き方だ」
笑っているのに、目が笑ってない。
細い線でまっすぐ刺してくる視線。皮膚を裂くみたいな鋭さがある。
袖口がふと緩んで、また黒いインクが一瞬のぞく。
隠す素振りはない。見せるつもりもない。
偶然のふりで、目を引っかけていく。
その時、隣から低い声が落ちた。
「……黙れ」
リンだ。
視線は前を向いたまま、声だけで床を叩くような圧を加える。
眉間の皮膚がわずかに寄って、薄い影が一本、きっぱり線を引く。
肩の線が硬くなる。呼吸が深く、静かに落ちる。
一瞬、呼吸のリズムが戻った気がした。
だが、隣のそいつは眉を上げて、口の端だけで笑う。
「わー怖い。警備員より睨み効いてる。けど嫌いじゃない、この圧」
「いちいち気持ち悪ぃんだよ」
「じゃ言い換えようか。照明。真上から落ちて、逃げ場なくする光」
「余計に気持ち悪い」
「褒め言葉」
テンポは崩れない。
押し返した分だけ、逆に引き込まれるみたいだ。
舌の奥が熱い。喉の内側がむず痒い。
ピアスの小さな光が、また視界に散る。
笑みの形の奥にある目の直線が、舌打ちの衝動を軽く越えてくる。
「彼、怖いね。お付きの者だったりする?」
「っち、うぜぇ」
そいつの視線がリンへ泳いだ気配が、皮膚の上を小さく撫でた。
「…………」
リンの眉間の線が、一本から二本へ薄く重なる。
睫毛の影が短く揺れ、頬骨の下に刃みたいな陰影ができる。
声は出さない。
視線も動かさない。
それでも、そこに壁が立つ。
冷たいというより、透きとおって鋭い圧。ガラスの角で空気を切るみたいな質感。
こいつは怯えない。
それどころか、圧を手で撫でて素材を確かめるみたいに、平然と比喩を上塗りしてくる。
「照明の話、気に入ってない顔だ」
「当たり前だ」
「じゃ、音にする? 無音で中心にいる音」
「音じゃねぇ」
「君を説明できる語彙、増やしとくよ」
「俺を説明すんな」
「うん、じゃあ歌詞にする」
「……はぁ、好きにしろ」
袖口からわずかに覗いたタトゥーの線が、階段の影みたいに見える。
見えた瞬間には隠れ、残像だけが視神経に残る。
喉の奥に、乾いた砂粒みたいな違和感が貼りついた。
教授の声は遠く、スライドの文字が白い壁で揺れている。
空調の送風が天井の角で渦を作り、細かい埃が光に引っかかっては消えた。
こいつの言葉だけが、一定の拍で落ち続ける。
呼吸の穴に、その拍がはまり込む。
浅い息が、拍に合わせられていく。
合わせているつもりはないのに、合ってしまう。
鼻で笑う。
笑った瞬間、その形すら拾われて、別の角度の言葉で返される。
反射神経で切り返すと、今度は切り返しを素材にされる。
喉の内側の温度が上がる。
掌の中でペンがわずかに滑り、親指の腹に汗の気配が張り付いた。
「──今日はここまで」
教授の声が落ち、椅子の脚がいっせいに鳴る。
は、と世界に雑音が戻る。
金属の短いぶつかり、ジッパーの音、紙の束がまとめられる音。
そいつは通路に滑り出し、振り返ってひらりと手を上げた。
「じゃ、また同じ授業で」
「来んな」
「やだ」
笑い声が、背中へ軽く投げられる。
歩き去る靴は相変わらず音を残さない。
鬱陶しい。
なのに、耳の奥でさっきのリズムだけが薄く続いている。
呼吸を整えるつもりで一度深く吸っても、一拍一拍の輪郭は消えない。
喉の砂粒は、まだ貼りついたままだ。
* * *
廊下は明るい。窓の列が光を流し、床に長い格子の影を落としている。
突き当たりで佐伯が手を振った。
「終わった?」
水野は通話を切ってポケットにスマホを滑り込ませ、鳴海は壁にもたれたまま腕を組んで視線だけこちらに寄越す。
「ねえ煌。さっきの人、御堂聖でしょ」
水野が目を細め、先程の胡散臭い男がいた位置を視界に捉えている。
「……あぁ?」
「知ってる。有名人だよ、軽音の人。……なんで一年の授業に?」
「……知らねぇ。勝手に座ってきた」
「…………ふーん」
水野は少し間を開けて鼻を鳴らした。
人のペースに飲まれるのは久しぶりだ。高二の、あの時以来。
……ムカつく。
「──いけ好かねえやつだった」
そう言うと、「だろうな」と佐伯は肩を竦めた。
放課後の流れは軽い。
「ゲーセン行くー?」
「プリも撮ろ!」
「……時間はある」
「気分転換だ、いくぞ」
講義棟を出る。
人の流れがいくつも重なって、廊下の幅いっぱいに波の層を作っている。
いつもなら、リンが自分のほうでわずかに角度を変え、俺にだけ道ができる。俺はただ歩けばいい。壁が自然に立つ。
今日は、違った。
正面から来た集団がこちらに寄ってくる。肩の線が少し高い。集団の真ん中の笑い声が近づく。
その瞬間、腰骨のあたりに掌が触れた。
一瞬。
けれど、はっきり。
押すというより、力の線を描いて、俺の身体を左へ寄せる。とん、とリンの肩に額が当たった。目の前を覆う影に瞬く。
微かに香る柔軟剤、ぬるい肌。微かに持ち上げた視界に入るのは、沈むような黒。俺の背後を見ている。長い睫毛が下瞼に影を落としている。
一瞬、音が消えた気がした。
さっきの男が強烈だったせいか。離れたことによる反動か。ただの犬に、当たり前のこいつに、吸い込まれる。
あれ、こいつ、こんなデカかったっけ。
なんか分厚いな、鍛えてんのか。
生意気だな、犬のくせに。
あ、血管、浮いてんだな。
さっきのやつとは違う、感情の読めない顔。
──あ。目が。
すう、と俺を見る。
逆光に縁取られた黒が、さらに沈んで濃くなる。
至近距離。上から。俺の知らない角度。
視線が交わった瞬間、背筋を氷の刃でなぞられたみたいにぞくりと震えた。
冷たいのに、内側で熱が膨らむ。
首の後ろの産毛が一斉に逆立つ感覚。
息が一拍、遅れる。
そういえば。
こいつの目を、まっすぐ見たのはいつだ?
こうやって向かい合ったのは、いったい、いつ──。
「──煌」
「は、」
低い声、聞き覚えのある声。俺の右肩の前を、他人の肩がかすめて通り過ぎる。世界に色が戻った。喧騒が再び耳を包む。遠くで笑う学生の声が流れ込んできた。
足は止まらない。歩幅はそのまま。
掌の圧はすぐに熱から離れて、空気に戻る。
前を行く三人が、同時に瞬いた気がした。
佐伯は振り向きかけの横顔で「……珍しい、リンが」と小さく言い、水野は「リード引っ張られたね」とだけ声を落として前髪を整える。鳴海は目線をわずかに下げて、何かを確認するみたいに俺とリンの影を見た。
* * *
屋外へ出ると、光が強い。ビルのガラスに俺たちの列が映り、長い影が足元で二つに割れて、また重なる。
リンの眉間の線は、外の光で薄く見えにくくなっている。
それでも、肩の張り方や、半歩の距離の詰め方は僅かに強気だ。
ここ数歩だけ、壁の角が鋭い。
「カフェ、寄れる?」
水野が横から滑り込んでくる。
「新しいとこ見つけた。甘いの、ちゃんとある」
「あるなら行く」
佐伯が即答し、鳴海は「甘すぎるのは嫌だ」と渋い顔で譲歩する。
「ティラミス」
「渋い」
「優勝」
くだらないやりとりが、靴音のリズムに合わせて転がっていく。
耳の奥では、まださっきの拍が薄く続いている。
腰のあたりに残った掌の記憶は、もう温度を失って色だけになった。
軽口のテンポと、掌の圧の線。
今日は、その二つが思ったよりも同じ濃さで残っていた。
ざわめきは膜の向こうに押し込められ、廊下の空調だけが耳を撫でる。
昼の光が長い直線を描いて床を滑り、ガラス越しの中庭では笑い声が氷みたいに弾け、すぐに溶けた。油の匂い、紙コップの甘い残り香、磨かれた床のわずかなワックス臭——昼の名残が薄く漂っている。
「俺、体育館寄ってくる」
佐伯が肩を回して、ジャージ姿の一団に片手を上げた。背中には相変わらず祭りの中心みたいな吸引力がある。
「わたしは待ち合わせ」
水野はスマホを胸元に押さえ、軽く息を吐く。巻いた毛先が肩で跳ね、リップの色が昼の光を反射した。
「調べ物がある」
鳴海はそれだけ置いて、図書館の方角へ。足音は一定で、風に対して角度を選ぶみたいに流れから外れない。
三人がほどけるように離れていき、残ったのは俺とリン。
半歩後ろに長い影を連れて歩くのは、呼吸と同じくらい当たり前の気配。
靴底と床が触れる小さな摩擦音が二つ、ほとんど同じ間隔で続く。数えようともしないが、揃っているのは知っている。
* * *
出席が甘いと評判の講義。
教室に入ると、席は半分ほど埋まっていた。机に突っ伏すやつ、ノートを広げるやつ、壁際のコンセントに群がって延長コードを奪い合うやつ。
窓側の席は眩しすぎる。俺は真ん中の列に腰を下ろした。前すぎず後ろすぎず、出口に近い位置。いつもの選択。
リンが黙って隣に座る。鞄の置き場所、ペンの置き方、背もたれの倒し具合、その全部が俺の枠にぴったり収まる。合わせるのではなく、最初からそうあったみたいに。
「──隣、いい?」
不意に声が落ちた。
顔を向けた瞬間、空気が一段濃くなる。
自然とつむじから足先まで視線を巡らせてしまう。初対面の相手を値踏みしてしまう、癖みたいなもの。
第一印象は……『掴めない男』。
黒に近いダークブラウンの髪が無造作に落ち、束が影を作る。切れ長の目は笑っていない。笑みの形だけ浮かべていても、線の鋭さは崩れない。
両耳に並んだピアス。小さなフープ、短いチェーン、クロス、無地のスタッズ。光が当たるたび、音のない金属音みたいな反射が視界の端を刺す。
痩せているのに肩幅があり、黒のフーディの上に擦れた古着のジャケット。袖口が緩く、骨ばった手首の内側に黒いインクが一瞬覗いた。文字とも記号ともつかない細い線。見つけた瞬間には布が戻り、何もなかったみたいに隠れる。
靴は黒のレザー。厚いソールのくせに、床に音の尾を残さない。
普通なら、避ける。
なのに、出てきた声はやけに軽かった。
「この授業、楽だよな。出席ゆるいし」
返事はしない。
隣のリンが、ほんの一瞬だけ視線を寄こす。空気がぴんと張る。
ここで退くのが常識ってやつだ。
こいつは退かない。笑ったまま、俺の隣に腰を下ろした。椅子の脚が床を擦る音は、ほとんどしなかった。
足を組み、机へ肘をつく。流れるような──かといって丸過ぎない、シナモンのような甘味を残す動き。
「自己紹介、いる?」
「いらない」
「冷たいな。じゃ、仲良くなったってことで」
「はっ、勝手に盛り上がってろ」
そこまで言えば、普通は終わる。
* * *
教授が入ってきて、ざわめきは角のほうへ押し流された。
白い壁にスライドが映る。プロジェクターの音が低く震え、ペン先が紙に触れるさらさらした音が、あちこちで薄く重なる。
「一ノ瀬、だよな」
「……あぁ?」
「さっき食堂で見た。五人で並んでて、あれ、ポスター映えするぜ」
視界の端で、ピアスが揺れる。
細かい光が、言葉のリズムに合わせて点滅するみたいだ。
「お前の目が安っぽいだけだ」
「でも真ん中にいた君だけ、光の当たり方が違った」
「そりゃどーも」
「あ、流された。俺の持ち場だよ、光とか観客とか」
「……勝手に見てろ」
そこで切る。切ったつもりで、呼吸を整える。
だが、隙間は与えないつもりらしい。
「学部は? サークルは? 昼はいつも真ん中?」
「うるせぇ」
切り捨てた言葉の間を、別の問いで埋められる。
息を吐く拍に、次の音が滑り込んでくる。
耳に落ちる音の粒が一定で、妙に拾いやすいテンポだ。拾いたくないのに、拾ってしまう。
拾えば、向こうはさらに早く返す。
皮肉を投げれば、角を丸めて比喩にして返される。
即興の歌詞みたいに、言葉がその場で形を変える。
気づけば、言葉の足場がそいつの間合いに沿って動いている──そんな感覚が喉の奥に引っかかった。
「君、紙の端、折らないだろ」
「は?」
「今、無意識に指を離した。折り目つけたくない癖。ノートも黒一色。インクの滲み、ゼロ。行間も変わらない。息止めて書くタイプだ」
「観察、気持ち悪ぃ」
「見るだけはタダじゃん。几帳面──って決めつけるのは安いか。几帳面“に見えるように”整えるタイプ、だな」
「当てずっぽうで喋るな」
「当てずっぽうは当てるためにある」
「口が減らねえな」
指先がじんわり湿ってくる。
息が浅くなる。
呼吸の拍に、また言葉が入り込む。
間を与えないのではなく、間そのものを奪う喋り方。
「君、歩くとき道が割れるよな」
「は?」
「人の流れが自然に避ける。君はただ歩くだけ。——王の歩き方だ」
笑っているのに、目が笑ってない。
細い線でまっすぐ刺してくる視線。皮膚を裂くみたいな鋭さがある。
袖口がふと緩んで、また黒いインクが一瞬のぞく。
隠す素振りはない。見せるつもりもない。
偶然のふりで、目を引っかけていく。
その時、隣から低い声が落ちた。
「……黙れ」
リンだ。
視線は前を向いたまま、声だけで床を叩くような圧を加える。
眉間の皮膚がわずかに寄って、薄い影が一本、きっぱり線を引く。
肩の線が硬くなる。呼吸が深く、静かに落ちる。
一瞬、呼吸のリズムが戻った気がした。
だが、隣のそいつは眉を上げて、口の端だけで笑う。
「わー怖い。警備員より睨み効いてる。けど嫌いじゃない、この圧」
「いちいち気持ち悪ぃんだよ」
「じゃ言い換えようか。照明。真上から落ちて、逃げ場なくする光」
「余計に気持ち悪い」
「褒め言葉」
テンポは崩れない。
押し返した分だけ、逆に引き込まれるみたいだ。
舌の奥が熱い。喉の内側がむず痒い。
ピアスの小さな光が、また視界に散る。
笑みの形の奥にある目の直線が、舌打ちの衝動を軽く越えてくる。
「彼、怖いね。お付きの者だったりする?」
「っち、うぜぇ」
そいつの視線がリンへ泳いだ気配が、皮膚の上を小さく撫でた。
「…………」
リンの眉間の線が、一本から二本へ薄く重なる。
睫毛の影が短く揺れ、頬骨の下に刃みたいな陰影ができる。
声は出さない。
視線も動かさない。
それでも、そこに壁が立つ。
冷たいというより、透きとおって鋭い圧。ガラスの角で空気を切るみたいな質感。
こいつは怯えない。
それどころか、圧を手で撫でて素材を確かめるみたいに、平然と比喩を上塗りしてくる。
「照明の話、気に入ってない顔だ」
「当たり前だ」
「じゃ、音にする? 無音で中心にいる音」
「音じゃねぇ」
「君を説明できる語彙、増やしとくよ」
「俺を説明すんな」
「うん、じゃあ歌詞にする」
「……はぁ、好きにしろ」
袖口からわずかに覗いたタトゥーの線が、階段の影みたいに見える。
見えた瞬間には隠れ、残像だけが視神経に残る。
喉の奥に、乾いた砂粒みたいな違和感が貼りついた。
教授の声は遠く、スライドの文字が白い壁で揺れている。
空調の送風が天井の角で渦を作り、細かい埃が光に引っかかっては消えた。
こいつの言葉だけが、一定の拍で落ち続ける。
呼吸の穴に、その拍がはまり込む。
浅い息が、拍に合わせられていく。
合わせているつもりはないのに、合ってしまう。
鼻で笑う。
笑った瞬間、その形すら拾われて、別の角度の言葉で返される。
反射神経で切り返すと、今度は切り返しを素材にされる。
喉の内側の温度が上がる。
掌の中でペンがわずかに滑り、親指の腹に汗の気配が張り付いた。
「──今日はここまで」
教授の声が落ち、椅子の脚がいっせいに鳴る。
は、と世界に雑音が戻る。
金属の短いぶつかり、ジッパーの音、紙の束がまとめられる音。
そいつは通路に滑り出し、振り返ってひらりと手を上げた。
「じゃ、また同じ授業で」
「来んな」
「やだ」
笑い声が、背中へ軽く投げられる。
歩き去る靴は相変わらず音を残さない。
鬱陶しい。
なのに、耳の奥でさっきのリズムだけが薄く続いている。
呼吸を整えるつもりで一度深く吸っても、一拍一拍の輪郭は消えない。
喉の砂粒は、まだ貼りついたままだ。
* * *
廊下は明るい。窓の列が光を流し、床に長い格子の影を落としている。
突き当たりで佐伯が手を振った。
「終わった?」
水野は通話を切ってポケットにスマホを滑り込ませ、鳴海は壁にもたれたまま腕を組んで視線だけこちらに寄越す。
「ねえ煌。さっきの人、御堂聖でしょ」
水野が目を細め、先程の胡散臭い男がいた位置を視界に捉えている。
「……あぁ?」
「知ってる。有名人だよ、軽音の人。……なんで一年の授業に?」
「……知らねぇ。勝手に座ってきた」
「…………ふーん」
水野は少し間を開けて鼻を鳴らした。
人のペースに飲まれるのは久しぶりだ。高二の、あの時以来。
……ムカつく。
「──いけ好かねえやつだった」
そう言うと、「だろうな」と佐伯は肩を竦めた。
放課後の流れは軽い。
「ゲーセン行くー?」
「プリも撮ろ!」
「……時間はある」
「気分転換だ、いくぞ」
講義棟を出る。
人の流れがいくつも重なって、廊下の幅いっぱいに波の層を作っている。
いつもなら、リンが自分のほうでわずかに角度を変え、俺にだけ道ができる。俺はただ歩けばいい。壁が自然に立つ。
今日は、違った。
正面から来た集団がこちらに寄ってくる。肩の線が少し高い。集団の真ん中の笑い声が近づく。
その瞬間、腰骨のあたりに掌が触れた。
一瞬。
けれど、はっきり。
押すというより、力の線を描いて、俺の身体を左へ寄せる。とん、とリンの肩に額が当たった。目の前を覆う影に瞬く。
微かに香る柔軟剤、ぬるい肌。微かに持ち上げた視界に入るのは、沈むような黒。俺の背後を見ている。長い睫毛が下瞼に影を落としている。
一瞬、音が消えた気がした。
さっきの男が強烈だったせいか。離れたことによる反動か。ただの犬に、当たり前のこいつに、吸い込まれる。
あれ、こいつ、こんなデカかったっけ。
なんか分厚いな、鍛えてんのか。
生意気だな、犬のくせに。
あ、血管、浮いてんだな。
さっきのやつとは違う、感情の読めない顔。
──あ。目が。
すう、と俺を見る。
逆光に縁取られた黒が、さらに沈んで濃くなる。
至近距離。上から。俺の知らない角度。
視線が交わった瞬間、背筋を氷の刃でなぞられたみたいにぞくりと震えた。
冷たいのに、内側で熱が膨らむ。
首の後ろの産毛が一斉に逆立つ感覚。
息が一拍、遅れる。
そういえば。
こいつの目を、まっすぐ見たのはいつだ?
こうやって向かい合ったのは、いったい、いつ──。
「──煌」
「は、」
低い声、聞き覚えのある声。俺の右肩の前を、他人の肩がかすめて通り過ぎる。世界に色が戻った。喧騒が再び耳を包む。遠くで笑う学生の声が流れ込んできた。
足は止まらない。歩幅はそのまま。
掌の圧はすぐに熱から離れて、空気に戻る。
前を行く三人が、同時に瞬いた気がした。
佐伯は振り向きかけの横顔で「……珍しい、リンが」と小さく言い、水野は「リード引っ張られたね」とだけ声を落として前髪を整える。鳴海は目線をわずかに下げて、何かを確認するみたいに俺とリンの影を見た。
* * *
屋外へ出ると、光が強い。ビルのガラスに俺たちの列が映り、長い影が足元で二つに割れて、また重なる。
リンの眉間の線は、外の光で薄く見えにくくなっている。
それでも、肩の張り方や、半歩の距離の詰め方は僅かに強気だ。
ここ数歩だけ、壁の角が鋭い。
「カフェ、寄れる?」
水野が横から滑り込んでくる。
「新しいとこ見つけた。甘いの、ちゃんとある」
「あるなら行く」
佐伯が即答し、鳴海は「甘すぎるのは嫌だ」と渋い顔で譲歩する。
「ティラミス」
「渋い」
「優勝」
くだらないやりとりが、靴音のリズムに合わせて転がっていく。
耳の奥では、まださっきの拍が薄く続いている。
腰のあたりに残った掌の記憶は、もう温度を失って色だけになった。
軽口のテンポと、掌の圧の線。
今日は、その二つが思ったよりも同じ濃さで残っていた。
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牛乳には2種類ある、家畜の牛から出る牛乳と牛獣人から出る牛乳だ。
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そして、僕たち家族普段は家畜の牛の牛乳を売っているが母と姉達の牛乳は濃厚で喉越しや舌触りが良いお貴族様に高値で売っていた。
ある日僕たち一家を呼んだお貴族様のご子息様がお乳を呑まないと相談を受けたのが全ての始まりー
母や姉達の牛乳を詰めた哺乳瓶を与えてみても、母や姉達のお乳を直接与えてみても飲んでくれない赤子。
そんな時ふと赤子と目が合うと僕を見て何かを訴えてくるー
「え?僕のお乳が飲みたいの?」
「僕はまだ子供でしかも男だからでないよ。」
「え?何言ってるの姉さん達!僕のお乳に牛乳を垂らして飲ませてみろだなんて!そんなの上手くいくわけ…え、飲んでるよ?え?」
そんなこんなで、お乳を呑まない赤子が飲んだ噂は広がり他のお貴族様達にもうちの子がお乳を飲んでくれないの!と言う相談を受けて、他のほとんどの子は母や姉達のお乳で飲んでくれる子だったけど何故か数人には僕のお乳がお気に召したようでー
昔お乳をあたえた子達が僕のお乳が忘れられないと迫ってきます!!
「僕はお乳を貸しただけで牛乳は母さんと姉さん達のなのに!どうしてこうなった!?」
*
総受けで、固定カプを決めるかはまだまだ不明です。
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誤字脱字、言葉使いが変な所がありましたら脳内変換して頂けますと幸いです。
こわがりオメガは溺愛アルファ様と毎日おいかけっこ♡
なお
BL
政略結婚(?)したアルファの旦那様をこわがってるオメガ。
あまり近付かないようにしようと逃げ回っている。発情期も結婚してから来ないし、番になってない。このままじゃ離婚になるかもしれない…。
♡♡♡
恐いけど、きっと旦那様のことは好いてるのかな?なオメガ受けちゃん。ちゃんとアルファ旦那攻め様に甘々どろどろに溺愛されて、たまに垣間見えるアルファの執着も楽しめるように書きたいところだけ書くみたいになるかもしれないのでストーリーは面白くないかもです!!!ごめんなさい!!!
悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放
大の字だい
BL
王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。
嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。
だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。
嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
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知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
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