従僕に溺愛されて逃げられない

大の字だい

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第二章

5. はじまりの不協和音

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 食堂の自動ドアが背中で閉じた。
 ざわめきは膜の向こうに押し込められ、廊下の空調だけが耳を撫でる。
 昼の光が長い直線を描いて床を滑り、ガラス越しの中庭では笑い声が氷みたいに弾け、すぐに溶けた。油の匂い、紙コップの甘い残り香、磨かれた床のわずかなワックス臭——昼の名残が薄く漂っている。

「俺、体育館寄ってくる」

 佐伯が肩を回して、ジャージ姿の一団に片手を上げた。背中には相変わらず祭りの中心みたいな吸引力がある。

「わたしは待ち合わせ」

 水野はスマホを胸元に押さえ、軽く息を吐く。巻いた毛先が肩で跳ね、リップの色が昼の光を反射した。

「調べ物がある」

 鳴海はそれだけ置いて、図書館の方角へ。足音は一定で、風に対して角度を選ぶみたいに流れから外れない。

 三人がほどけるように離れていき、残ったのは俺とリン。
 半歩後ろに長い影を連れて歩くのは、呼吸と同じくらい当たり前の気配。
 靴底と床が触れる小さな摩擦音が二つ、ほとんど同じ間隔で続く。数えようともしないが、揃っているのは知っている。


 * * *


 出席が甘いと評判の講義。
 教室に入ると、席は半分ほど埋まっていた。机に突っ伏すやつ、ノートを広げるやつ、壁際のコンセントに群がって延長コードを奪い合うやつ。
 窓側の席は眩しすぎる。俺は真ん中の列に腰を下ろした。前すぎず後ろすぎず、出口に近い位置。いつもの選択。
 リンが黙って隣に座る。鞄の置き場所、ペンの置き方、背もたれの倒し具合、その全部が俺の枠にぴったり収まる。合わせるのではなく、最初からそうあったみたいに。


「──隣、いい?」

 不意に声が落ちた。
 顔を向けた瞬間、空気が一段濃くなる。
 自然とつむじから足先まで視線を巡らせてしまう。初対面の相手を値踏みしてしまう、癖みたいなもの。

 第一印象は……『掴めない男』。
 黒に近いダークブラウンの髪が無造作に落ち、束が影を作る。切れ長の目は笑っていない。笑みの形だけ浮かべていても、線の鋭さは崩れない。
 両耳に並んだピアス。小さなフープ、短いチェーン、クロス、無地のスタッズ。光が当たるたび、音のない金属音みたいな反射が視界の端を刺す。
 痩せているのに肩幅があり、黒のフーディの上に擦れた古着のジャケット。袖口が緩く、骨ばった手首の内側に黒いインクが一瞬覗いた。文字とも記号ともつかない細い線。見つけた瞬間には布が戻り、何もなかったみたいに隠れる。
 靴は黒のレザー。厚いソールのくせに、床に音の尾を残さない。

 普通なら、避ける。
 なのに、出てきた声はやけに軽かった。
「この授業、楽だよな。出席ゆるいし」

 返事はしない。
 隣のリンが、ほんの一瞬だけ視線を寄こす。空気がぴんと張る。
 ここで退くのが常識ってやつだ。
 こいつは退かない。笑ったまま、俺の隣に腰を下ろした。椅子の脚が床を擦る音は、ほとんどしなかった。
 足を組み、机へ肘をつく。流れるような──かといって丸過ぎない、シナモンのような甘味を残す動き。

「自己紹介、いる?」
「いらない」
「冷たいな。じゃ、仲良くなったってことで」
「はっ、勝手に盛り上がってろ」

 そこまで言えば、普通は終わる。


 * * *


 教授が入ってきて、ざわめきは角のほうへ押し流された。
 白い壁にスライドが映る。プロジェクターの音が低く震え、ペン先が紙に触れるさらさらした音が、あちこちで薄く重なる。

「一ノ瀬、だよな」
「……あぁ?」
「さっき食堂で見た。五人で並んでて、あれ、ポスター映えするぜ」

 視界の端で、ピアスが揺れる。
 細かい光が、言葉のリズムに合わせて点滅するみたいだ。

「お前の目が安っぽいだけだ」
「でも真ん中にいた君だけ、光の当たり方が違った」
「そりゃどーも」
「あ、流された。俺の持ち場だよ、光とか観客とか」
「……勝手に見てろ」

 そこで切る。切ったつもりで、呼吸を整える。
 だが、隙間は与えないつもりらしい。

「学部は? サークルは? 昼はいつも真ん中?」
「うるせぇ」

 切り捨てた言葉の間を、別の問いで埋められる。
 息を吐く拍に、次の音が滑り込んでくる。
 耳に落ちる音の粒が一定で、妙に拾いやすいテンポだ。拾いたくないのに、拾ってしまう。
 拾えば、向こうはさらに早く返す。
 皮肉を投げれば、角を丸めて比喩にして返される。
 即興の歌詞みたいに、言葉がその場で形を変える。
 気づけば、言葉の足場がそいつの間合いに沿って動いている──そんな感覚が喉の奥に引っかかった。

「君、紙の端、折らないだろ」
「は?」
「今、無意識に指を離した。折り目つけたくない癖。ノートも黒一色。インクの滲み、ゼロ。行間も変わらない。息止めて書くタイプだ」
「観察、気持ち悪ぃ」
「見るだけはタダじゃん。几帳面──って決めつけるのは安いか。几帳面“に見えるように”整えるタイプ、だな」
「当てずっぽうで喋るな」
「当てずっぽうは当てるためにある」
「口が減らねえな」

 指先がじんわり湿ってくる。
 息が浅くなる。
 呼吸の拍に、また言葉が入り込む。
 間を与えないのではなく、間そのものを奪う喋り方。

「君、歩くとき道が割れるよな」
「は?」
「人の流れが自然に避ける。君はただ歩くだけ。——王の歩き方だ」

 笑っているのに、目が笑ってない。
 細い線でまっすぐ刺してくる視線。皮膚を裂くみたいな鋭さがある。
 袖口がふと緩んで、また黒いインクが一瞬のぞく。
 隠す素振りはない。見せるつもりもない。
 偶然のふりで、目を引っかけていく。

 その時、隣から低い声が落ちた。

「……黙れ」

 リンだ。
 視線は前を向いたまま、声だけで床を叩くような圧を加える。
 眉間の皮膚がわずかに寄って、薄い影が一本、きっぱり線を引く。
 肩の線が硬くなる。呼吸が深く、静かに落ちる。

 一瞬、呼吸のリズムが戻った気がした。
 だが、隣のそいつは眉を上げて、口の端だけで笑う。

「わー怖い。警備員より睨み効いてる。けど嫌いじゃない、この圧」
「いちいち気持ち悪ぃんだよ」
「じゃ言い換えようか。照明。真上から落ちて、逃げ場なくする光」
「余計に気持ち悪い」
「褒め言葉」

 テンポは崩れない。
 押し返した分だけ、逆に引き込まれるみたいだ。
 舌の奥が熱い。喉の内側がむず痒い。
 ピアスの小さな光が、また視界に散る。
 笑みの形の奥にある目の直線が、舌打ちの衝動を軽く越えてくる。

「彼、怖いね。お付きの者だったりする?」
「っち、うぜぇ」

 そいつの視線がリンへ泳いだ気配が、皮膚の上を小さく撫でた。

「…………」

 リンの眉間の線が、一本から二本へ薄く重なる。
 睫毛の影が短く揺れ、頬骨の下に刃みたいな陰影ができる。
 声は出さない。
 視線も動かさない。
 それでも、そこに壁が立つ。
 冷たいというより、透きとおって鋭い圧。ガラスの角で空気を切るみたいな質感。

 こいつは怯えない。
 それどころか、圧を手で撫でて素材を確かめるみたいに、平然と比喩を上塗りしてくる。

「照明の話、気に入ってない顔だ」
「当たり前だ」
「じゃ、音にする? 無音で中心にいる音」
「音じゃねぇ」
「君を説明できる語彙、増やしとくよ」
「俺を説明すんな」
「うん、じゃあ歌詞にする」
「……はぁ、好きにしろ」

 袖口からわずかに覗いたタトゥーの線が、階段の影みたいに見える。
 見えた瞬間には隠れ、残像だけが視神経に残る。
 喉の奥に、乾いた砂粒みたいな違和感が貼りついた。

 教授の声は遠く、スライドの文字が白い壁で揺れている。
 空調の送風が天井の角で渦を作り、細かい埃が光に引っかかっては消えた。
 こいつの言葉だけが、一定の拍で落ち続ける。
 呼吸の穴に、その拍がはまり込む。
 浅い息が、拍に合わせられていく。
 合わせているつもりはないのに、合ってしまう。

 鼻で笑う。
 笑った瞬間、その形すら拾われて、別の角度の言葉で返される。
 反射神経で切り返すと、今度は切り返しを素材にされる。
 喉の内側の温度が上がる。
 掌の中でペンがわずかに滑り、親指の腹に汗の気配が張り付いた。

「──今日はここまで」

 教授の声が落ち、椅子の脚がいっせいに鳴る。
 は、と世界に雑音が戻る。
 金属の短いぶつかり、ジッパーの音、紙の束がまとめられる音。
 そいつは通路に滑り出し、振り返ってひらりと手を上げた。

「じゃ、また同じ授業で」
「来んな」
「やだ」

 笑い声が、背中へ軽く投げられる。
 歩き去る靴は相変わらず音を残さない。

 鬱陶しい。
 なのに、耳の奥でさっきのリズムだけが薄く続いている。
 呼吸を整えるつもりで一度深く吸っても、一拍一拍の輪郭は消えない。
 喉の砂粒は、まだ貼りついたままだ。


 * * *


 廊下は明るい。窓の列が光を流し、床に長い格子の影を落としている。
 突き当たりで佐伯が手を振った。

「終わった?」

 水野は通話を切ってポケットにスマホを滑り込ませ、鳴海は壁にもたれたまま腕を組んで視線だけこちらに寄越す。

「ねえ煌。さっきの人、御堂みどうひじりでしょ」

 水野が目を細め、先程の胡散臭い男がいた位置を視界に捉えている。

「……あぁ?」
「知ってる。有名人だよ、軽音の人。……なんで一年の授業に?」
「……知らねぇ。勝手に座ってきた」
「…………ふーん」

 水野は少し間を開けて鼻を鳴らした。
 人のペースに飲まれるのは久しぶりだ。高二の、あの時以来。
 ……ムカつく。

「──いけ好かねえやつだった」

 そう言うと、「だろうな」と佐伯は肩を竦めた。
 放課後の流れは軽い。

「ゲーセン行くー?」
「プリも撮ろ!」
「……時間はある」
「気分転換だ、いくぞ」

 講義棟を出る。
 人の流れがいくつも重なって、廊下の幅いっぱいに波の層を作っている。
 いつもなら、リンが自分のほうでわずかに角度を変え、俺にだけ道ができる。俺はただ歩けばいい。壁が自然に立つ。
 今日は、違った。

 正面から来た集団がこちらに寄ってくる。肩の線が少し高い。集団の真ん中の笑い声が近づく。
 その瞬間、腰骨のあたりに掌が触れた。
 一瞬。
 けれど、はっきり。
 押すというより、力の線を描いて、俺の身体を左へ寄せる。とん、とリンの肩に額が当たった。目の前を覆う影に瞬く。
 微かに香る柔軟剤、ぬるい肌。微かに持ち上げた視界に入るのは、沈むような黒。俺の背後を見ている。長い睫毛が下瞼に影を落としている。

 一瞬、音が消えた気がした。
 さっきの男が強烈だったせいか。離れたことによる反動か。ただの犬に、当たり前のこいつに、吸い込まれる。



 あれ、こいつ、こんなデカかったっけ。
 なんか分厚いな、鍛えてんのか。
 生意気だな、犬のくせに。
 あ、血管、浮いてんだな。

 さっきのやつとは違う、感情の読めない顔。

 ──あ。目が。
 すう、と俺を見る。
 逆光に縁取られた黒が、さらに沈んで濃くなる。
 至近距離。上から。俺の知らない角度。

 視線が交わった瞬間、背筋を氷の刃でなぞられたみたいにぞくりと震えた。
 冷たいのに、内側で熱が膨らむ。
 首の後ろの産毛が一斉に逆立つ感覚。
 息が一拍、遅れる。

 そういえば。
 こいつの目を、まっすぐ見たのはいつだ?
 こうやって向かい合ったのは、いったい、いつ──。



「──煌」
「は、」

 低い声、聞き覚えのある声。俺の右肩の前を、他人の肩がかすめて通り過ぎる。世界に色が戻った。喧騒が再び耳を包む。遠くで笑う学生の声が流れ込んできた。
 足は止まらない。歩幅はそのまま。
 掌の圧はすぐに熱から離れて、空気に戻る。

 前を行く三人が、同時に瞬いた気がした。
 佐伯は振り向きかけの横顔で「……珍しい、リンが」と小さく言い、水野は「リード引っ張られたね」とだけ声を落として前髪を整える。鳴海は目線をわずかに下げて、何かを確認するみたいに俺とリンの影を見た。


 * * *


 屋外へ出ると、光が強い。ビルのガラスに俺たちの列が映り、長い影が足元で二つに割れて、また重なる。
 リンの眉間の線は、外の光で薄く見えにくくなっている。
 それでも、肩の張り方や、半歩の距離の詰め方は僅かに強気だ。
 ここ数歩だけ、壁の角が鋭い。

「カフェ、寄れる?」

 水野が横から滑り込んでくる。

「新しいとこ見つけた。甘いの、ちゃんとある」
「あるなら行く」

 佐伯が即答し、鳴海は「甘すぎるのは嫌だ」と渋い顔で譲歩する。

「ティラミス」
「渋い」
「優勝」

 くだらないやりとりが、靴音のリズムに合わせて転がっていく。

 耳の奥では、まださっきの拍が薄く続いている。
 腰のあたりに残った掌の記憶は、もう温度を失って色だけになった。
 軽口のテンポと、掌の圧の線。
 今日は、その二つが思ったよりも同じ濃さで残っていた。
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