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第二章 不穏なカルテ
◾️八月二十五日月曜日Ⅲ
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***
なんだかずっと、夢を見ているような気分だった。
その日、始業式やホームルームなどを終えて、十七時ごろまで事務作業に没頭していたのだが、忙しくて大変だという思いはあるものの、それ以上にふわふわと身体ごと浮き上がるような心地に包まれていた。
「藤島先生、お疲れ様です」
隣で山吹先生がそう声をかけてくれた時も、ぼうっとしてすぐに反応ができなかった。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ、お疲れ様です」
彼は不思議そうに私を見つめた後、そそくさと帰り支度をして職員室から去っていった。私も、山吹先生の後を追うように席を立ち上がる。
「藤島ァ」
そこで、後ろから野太い声がしてぴくんと身体を揺らす。踏み出しかけていた足も止まってしまった。
「なんでしょう……?」
振り返った先にいた酒井先生の目は朝からの疲れを知らないようにギラついている。
「二学期も、気を抜かないように頼むぞ?」
上司が部下に喝を入れるセリフに過ぎないのに、酒井先生のその発言は、牽制以外のなにものでもない気がした。普段ならここですっかり萎縮してしまうのだが、下腹部の中で何かが鈍く動いたような感覚とともに、「大丈夫だ」という勇気が湧いた。
「はい、頑張ります。お先に失礼します」
どうしてか分からない。
いつもなら、彼の目を気にして「もう少し残業を」と席に戻っていただろう。だが今日ばかりは、酒井先生の目を怖がらないで済んでいる自分がいた。
酒井先生は、凛とした私の姿がおもしろくないのか、軽く舌を鳴らしたようだったが、他の先生たちからの視線が気になったのか、それ以上は声をかけてこなかった。
酒井先生に背を向けて、階段の方へと歩き出す。
お腹にそっと手を添えると、「大丈夫だよ」とそこにいる何かが私に話しかけてくれるようだった。
「あなたが助けてくれたんだね。ありがとう」
酒井先生の前でちょっとばかり勇気が出ただけだが、私にとっては大きな一歩だった。
ここに私と慎二の子どもがいる。
いるかもしれない、じゃなくて、いるのだ。
どうしてか分からないが、確信めいた気持ちが湧き上がる。
この子と一緒なら、酒井先生を前にしても全然怖くない。
灰色だった世界が鮮やかに色づいていくかのように、ぱーっと輝き出す。
こんな気持ちなんだ。世間のお母さんたちは、望んで子どもを手に入れたひとたちはみんな、こんなふうにひだまりのような気持ちを味わうんだ。知らなかった感情を手に入れて、自分が生まれ変わったような心地がした。
スキップしながら階段を降りる。誰かに見られでもしたら正気を疑われそうだな——とぼんやり考えながらも、見られても構わない。私とこの子だけの世界なのだから、と物語めいた妄想を繰り広げていると、すべてがどうでも良くなっていた。
家に帰り着くと、恍惚とした気分のまま夕飯の準備をした。ご飯を炊き、味噌汁と白身魚フライを作る。ちょっと手間のかかる料理をしようという気になったのはいつぶりだろうか。食事が出来上がると、冷蔵庫の中にちょこんと収まっていたビールを手にしようとして我に返る。
そうだ、お酒はだめだ。
基本中の基本に立ち返り、そっとその手を戻す。
しばらく飲めないから、明日山吹先生にあげよう。確か彼、お酒が大好物だったと思うし。驚かれるかもしれないが、禁酒することにしたと言えばいい。
るんるんと鼻歌を歌いながら、ビールの代わりにお茶をコップに注いだ。たぷたぷになったそれをテーブルまで運ぶと、手を合わせてご飯を食べ始める。久しぶりに充実した食事をとることができて、身も心も満足していた。
「そういえば……病院」
ふと頭の中で、「産婦人科」の四文字が頭を掠める。もし妊娠しているのだとしたら、病院に行かなければならないのだが——。
まあでも、当分は行かなくても大丈夫か。
確か前に、助産師の友達が早く病院に行きすぎても胎嚢が確認されなければ、また病院に行かなければならないと言っていたし。病院なんて、そう何度も行きたいところではない。
頭の中で早々と結論を出すと、入浴を済ませ、部屋の中でようやく落ち着いて動画を見返せることになった。
コメントは今朝からさらに増えていて、四十二件も届いている。やっぱりいつもより反響が大きい。内容はどれも、子どもの声とノイズが聞こえるという指摘ばかりだった。やらせだという声も上がっており、「短絡的だな」と、思わず毒づいた。視聴者に対して怒りのようなものを覚えたのは初めてだ。これまで多少アンチぽいコメントがついても、再生回数に貢献してくれるならどうでもいいと思っていたのに。ああ、そうか。これももしかして妊娠によってホルモンバランスが乱れているせいかな。妙にイライラしたり落ち込んだり。お腹にべつの生命がいるんだもん。そりゃ、気分も変わるよねと妙に納得している自分がいた。
ひとまず、自分の動画を一から再生してみる。
散策に行ったのは一昨日だから、その時の感覚もまだリアルに身体に染み付いている。病院の中に足を踏み入れた瞬間の冷えた空気感や、背筋を這うような寒気、こめかみを襲う疼痛——全身の感覚が普段に比べると200%研ぎ澄まされたかのようなあの感じ。すべて思い出して、部屋の中だというのに悪寒がした。
そして動画を見返していると……本当に、聞こえた。
44:22あたり——ちょうどコメント欄に指摘しているひとがいるが、「あ…ああ……」といううめき声のような声が聞こえるのだ。
確かこのとき……探索をしていた私は、子どもの声を聞いたのだ。
——ワタシ……ハ……ドコ……。
と。
でも、動画を見返すと、動画内ではそこまではっきりした言葉は聞き取れず、ただうめき声が入っているようにしか聞こえない。
それから、驚いた私が走って逃げている最中に、ジジジ、というノイズが発生していた。画像も昔のテレビの砂嵐のようにグチャッと乱れたり、真っ暗になったり。そもそも一心不乱に走っているので映像は大きく揺れてはいるのだが、それとはまた別に、電波が悪いかのような乱れ方をしていた。
「どういうこと……?」
探索をしたその日の夜に映像を確認したときも、昨日編集をしたときも、こんなうめき声やノイズは入っていなかったのに。動画をアップしたとたん、怪奇現象のように現れたということ? そんなこと、ありえるのだろうか。
ありえないとすれば——それはもう、本当に人ならざるものが引き起こした怪異でしかない。
頭の中で仮説を立てた瞬間、お腹がずくんとまた重くなるような微かな痛みを覚えた。
私の不安や恐れに呼応するように、下腹部が痛み出す。
まだ豆粒ほどの大きさもないだろう私の赤ちゃんが、母親の気持ちに反応しているとでもいうのだろうか。ばかばかしい妄想に過ぎないけれど、そう思うことで、自分はひとりじゃないと思うことができた。この鈍い痛みもきっと耐えられる。人生で一番愛していた慎二との間にできた子ども。もう二度と触れることができないひととの、愛の結晶。
考えるだけで、危ないクスリを飲んだかのように(実際は飲んだことがないから分からないが)、頭の中がほわほわとした幸福感に包まれた。下腹部に感じていた痛みも次第に和らいでいく。
この子がいれば、きっと大丈夫。
まだまだ小さな生命にすぎないこの子の存在が、落ち窪んでいた私の人生を変えてくれる気がしてならなかった。
ひとまずまた、清葉病院に調査に行く必要があると思う。
土曜日に行った時には二階まで探索をしていなかった。清葉病院のように、本当に何かが起こりそうな心霊スポットを訪れたのは、ヤミコとして活動を始めてから初めてのことだ。こんなに美味しいネタ、そうそうこない。
それからやはり、清葉病院が私の生まれ故郷にあった病院だということも、私の背中を後押しした。
私はあの場所の怪異について、解き明かさなくちゃいけない。
自分にしかできない使命のような気さえして、思わず笑みが溢れた。
なんだかずっと、夢を見ているような気分だった。
その日、始業式やホームルームなどを終えて、十七時ごろまで事務作業に没頭していたのだが、忙しくて大変だという思いはあるものの、それ以上にふわふわと身体ごと浮き上がるような心地に包まれていた。
「藤島先生、お疲れ様です」
隣で山吹先生がそう声をかけてくれた時も、ぼうっとしてすぐに反応ができなかった。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ、お疲れ様です」
彼は不思議そうに私を見つめた後、そそくさと帰り支度をして職員室から去っていった。私も、山吹先生の後を追うように席を立ち上がる。
「藤島ァ」
そこで、後ろから野太い声がしてぴくんと身体を揺らす。踏み出しかけていた足も止まってしまった。
「なんでしょう……?」
振り返った先にいた酒井先生の目は朝からの疲れを知らないようにギラついている。
「二学期も、気を抜かないように頼むぞ?」
上司が部下に喝を入れるセリフに過ぎないのに、酒井先生のその発言は、牽制以外のなにものでもない気がした。普段ならここですっかり萎縮してしまうのだが、下腹部の中で何かが鈍く動いたような感覚とともに、「大丈夫だ」という勇気が湧いた。
「はい、頑張ります。お先に失礼します」
どうしてか分からない。
いつもなら、彼の目を気にして「もう少し残業を」と席に戻っていただろう。だが今日ばかりは、酒井先生の目を怖がらないで済んでいる自分がいた。
酒井先生は、凛とした私の姿がおもしろくないのか、軽く舌を鳴らしたようだったが、他の先生たちからの視線が気になったのか、それ以上は声をかけてこなかった。
酒井先生に背を向けて、階段の方へと歩き出す。
お腹にそっと手を添えると、「大丈夫だよ」とそこにいる何かが私に話しかけてくれるようだった。
「あなたが助けてくれたんだね。ありがとう」
酒井先生の前でちょっとばかり勇気が出ただけだが、私にとっては大きな一歩だった。
ここに私と慎二の子どもがいる。
いるかもしれない、じゃなくて、いるのだ。
どうしてか分からないが、確信めいた気持ちが湧き上がる。
この子と一緒なら、酒井先生を前にしても全然怖くない。
灰色だった世界が鮮やかに色づいていくかのように、ぱーっと輝き出す。
こんな気持ちなんだ。世間のお母さんたちは、望んで子どもを手に入れたひとたちはみんな、こんなふうにひだまりのような気持ちを味わうんだ。知らなかった感情を手に入れて、自分が生まれ変わったような心地がした。
スキップしながら階段を降りる。誰かに見られでもしたら正気を疑われそうだな——とぼんやり考えながらも、見られても構わない。私とこの子だけの世界なのだから、と物語めいた妄想を繰り広げていると、すべてがどうでも良くなっていた。
家に帰り着くと、恍惚とした気分のまま夕飯の準備をした。ご飯を炊き、味噌汁と白身魚フライを作る。ちょっと手間のかかる料理をしようという気になったのはいつぶりだろうか。食事が出来上がると、冷蔵庫の中にちょこんと収まっていたビールを手にしようとして我に返る。
そうだ、お酒はだめだ。
基本中の基本に立ち返り、そっとその手を戻す。
しばらく飲めないから、明日山吹先生にあげよう。確か彼、お酒が大好物だったと思うし。驚かれるかもしれないが、禁酒することにしたと言えばいい。
るんるんと鼻歌を歌いながら、ビールの代わりにお茶をコップに注いだ。たぷたぷになったそれをテーブルまで運ぶと、手を合わせてご飯を食べ始める。久しぶりに充実した食事をとることができて、身も心も満足していた。
「そういえば……病院」
ふと頭の中で、「産婦人科」の四文字が頭を掠める。もし妊娠しているのだとしたら、病院に行かなければならないのだが——。
まあでも、当分は行かなくても大丈夫か。
確か前に、助産師の友達が早く病院に行きすぎても胎嚢が確認されなければ、また病院に行かなければならないと言っていたし。病院なんて、そう何度も行きたいところではない。
頭の中で早々と結論を出すと、入浴を済ませ、部屋の中でようやく落ち着いて動画を見返せることになった。
コメントは今朝からさらに増えていて、四十二件も届いている。やっぱりいつもより反響が大きい。内容はどれも、子どもの声とノイズが聞こえるという指摘ばかりだった。やらせだという声も上がっており、「短絡的だな」と、思わず毒づいた。視聴者に対して怒りのようなものを覚えたのは初めてだ。これまで多少アンチぽいコメントがついても、再生回数に貢献してくれるならどうでもいいと思っていたのに。ああ、そうか。これももしかして妊娠によってホルモンバランスが乱れているせいかな。妙にイライラしたり落ち込んだり。お腹にべつの生命がいるんだもん。そりゃ、気分も変わるよねと妙に納得している自分がいた。
ひとまず、自分の動画を一から再生してみる。
散策に行ったのは一昨日だから、その時の感覚もまだリアルに身体に染み付いている。病院の中に足を踏み入れた瞬間の冷えた空気感や、背筋を這うような寒気、こめかみを襲う疼痛——全身の感覚が普段に比べると200%研ぎ澄まされたかのようなあの感じ。すべて思い出して、部屋の中だというのに悪寒がした。
そして動画を見返していると……本当に、聞こえた。
44:22あたり——ちょうどコメント欄に指摘しているひとがいるが、「あ…ああ……」といううめき声のような声が聞こえるのだ。
確かこのとき……探索をしていた私は、子どもの声を聞いたのだ。
——ワタシ……ハ……ドコ……。
と。
でも、動画を見返すと、動画内ではそこまではっきりした言葉は聞き取れず、ただうめき声が入っているようにしか聞こえない。
それから、驚いた私が走って逃げている最中に、ジジジ、というノイズが発生していた。画像も昔のテレビの砂嵐のようにグチャッと乱れたり、真っ暗になったり。そもそも一心不乱に走っているので映像は大きく揺れてはいるのだが、それとはまた別に、電波が悪いかのような乱れ方をしていた。
「どういうこと……?」
探索をしたその日の夜に映像を確認したときも、昨日編集をしたときも、こんなうめき声やノイズは入っていなかったのに。動画をアップしたとたん、怪奇現象のように現れたということ? そんなこと、ありえるのだろうか。
ありえないとすれば——それはもう、本当に人ならざるものが引き起こした怪異でしかない。
頭の中で仮説を立てた瞬間、お腹がずくんとまた重くなるような微かな痛みを覚えた。
私の不安や恐れに呼応するように、下腹部が痛み出す。
まだ豆粒ほどの大きさもないだろう私の赤ちゃんが、母親の気持ちに反応しているとでもいうのだろうか。ばかばかしい妄想に過ぎないけれど、そう思うことで、自分はひとりじゃないと思うことができた。この鈍い痛みもきっと耐えられる。人生で一番愛していた慎二との間にできた子ども。もう二度と触れることができないひととの、愛の結晶。
考えるだけで、危ないクスリを飲んだかのように(実際は飲んだことがないから分からないが)、頭の中がほわほわとした幸福感に包まれた。下腹部に感じていた痛みも次第に和らいでいく。
この子がいれば、きっと大丈夫。
まだまだ小さな生命にすぎないこの子の存在が、落ち窪んでいた私の人生を変えてくれる気がしてならなかった。
ひとまずまた、清葉病院に調査に行く必要があると思う。
土曜日に行った時には二階まで探索をしていなかった。清葉病院のように、本当に何かが起こりそうな心霊スポットを訪れたのは、ヤミコとして活動を始めてから初めてのことだ。こんなに美味しいネタ、そうそうこない。
それからやはり、清葉病院が私の生まれ故郷にあった病院だということも、私の背中を後押しした。
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