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第五章 かわいい我が子です
◾️九月九日火曜日
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「藤島、今日の会議で使う資料はどこだ? 見当たらねえけど?」
目の前の景色にもやがかかったように、視界が不明瞭だ。右から聞こえてくる酒井先生の怒声さえ、霞んでいるように感じられる。私を取り巻く世界全体がなんだか嘘っぱちのようで、ふわふわとした感覚から抜け出すことができない。
「藤島、おい、聞いてんのか!?」
酒井先生の鼻息がすぐそばまで迫る。それでも私は石像のように身体が動かない。反応ができない。
「酒井先生、資料なら僕が作ります」
「はあ? なんだ山吹。会議はもうすぐだぞ。作れんのか?」
「はい、大丈夫です。すぐに作りますので、それ以上大声を出さないでください」
「くそ、どいつもこいつも仕事ができねえやつばかりだな」
酒井先生と山吹先生のやりとりが、自分には関係ないことのように思えて仕方がない。
「藤島先生、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
機嫌を損ねた酒井先生が職員室から出て行ったあと、山吹先生からトントンと軽く肩を叩かれた。
「……すみません。ちょっと、考え事をしていて……」
あまり何も考えることなく、反射的にそう答えてしまう。正直今日は、誰に何を言われても言葉が心まで入ってこないという感じがしていた。みんなの声が胸の前で跳ね返されて、受け入れるのを拒否してしまう。そんな調子だ。
それでも、何かの気配がついてくるのはずっと感じていた。もう慣れてしまって、いちいち反応することもないが、あの白い顔にじっと見つめられているのだ。職員室の窓の外から、トイレの便器の中から、ふと視線を合わせると今にも取り込まれそうな気がして、気づいても気づかないふりをしている……。
「藤島先生、どうされたんですか。ちょっと普通じゃない感じで疲れてますよ。一週間ほど休んでみたらどうでしょうか」
「休む……」
彼に言われてはっと気づく。
仕事を休むという選択肢が自分の中に存在しなかった。
「そうですね……今日はどうも、何もやる気が起きなくて……」
そう言いながら、自分の両目の端から涙がこぼれ落ちていることに気づく。隣の山吹先生がぎょっとして、私の腕を掴んで職員室の外へと連れ出した。他の先生たちの視線を感じつつ、それでもみんなの前から私を離してくれたことに感謝する。
「どうしたんです? 何があったんですか。例の件ですか?」
廊下の隅で、山吹先生が心配そうな顔で私を覗き込む。その優しい声に、自分の中に巣食う恐怖心ややるせなさを閉じ込めておくことができなかった。
「石川さんが……亡くなったって、昨日、ニュースで……」
「石川さん? そのひとって、藤島さんのお母さんの同僚だったって言ってたひと?」
「はい……。日曜日に電話をしていたんです。そしたら、石川さんの様子がどんどんおかしくなって……。血を吐くような音が聞こえて、慌てて救急車を呼んだんですけど、そのまま亡くなってしまったそうです」
「そんなことが……」
そう。今朝、朝食をとりながらテレビを見ていると、なんとそこに「石川久江さん」という名前ともに、岩手の彼女の自宅が映し出されていた。よくある木造の古い戸建ての家で、母の実家に似ていた。石川さんは病院に運ばれたそうだが、その後すぐに亡くなったそうだ。
そのニュースを目にした私は、食べていた朝食をすべて吐き出してしまった。
自分のせいだ……。
私が、石川さんに会ってしまったせい。
科学的な根拠などどこにもないが、そうとしか考えられなかった。私は、初めて清葉病院を訪ねた時からすでにあの場所に棲まう怪異に冒されていて、清葉病院にゆかりがあった石川さんと接触したことで、彼女にも呪いが降りかかってしまったのだ。ニュースでは、石川さんには既往歴など特になく、現在もいたって健康だったと説明されていた。そのため、突如として彼女が吐血し、亡くなってしまった原因が分からないとのことだ。これが怪異ではなく、なんだと言うのだろうか。
「私のせいなんです。私が、石川さんに会わなければ……!」
「落ち着いて、藤島さん。藤島さんのせいじゃないですよ」
「で、でも……っ。私がいなければ今頃石川さんは普通に健康に暮らしていたはずなんです。私が、私がっ……!」
身体の震えが止まらない。考えれば考えるほど自責の念が湧いてくる。山吹先生が、「藤島さん!」と必死に私に呼びかける。彼の左手の薬指で光る指輪が、余計に輝いて見えてまた嘔吐しそうになった。
「藤島さん……やっぱりしばらく休まれたらどうですか?」
「でも……」
「自分でも気づかないうちに、かなり消耗していると思いますよ。上には僕のほうから伝えておくので、明日からでも」
山吹先生に、休むという選択肢を強く推してもらうと、不思議なことに少しだけ気持ちが落ち着いていくような気がした。
「……ありがとうございます。そうします。自分で伝えます」
そう答えると、山吹先生がほっとした様子で胸を撫で下ろした。
「藤島さん、僕は何があってもあなたの味方です。休みの間でも困ったらいつでも連絡してきてください」
「はい……。本当に、ありがとうございます」
彼には感謝してもしきれない。優しい言葉が私の胸に溶けていく。ずっと孤独だと感じていたが、山吹先生のように気にかけてくれる存在がいるというだけでありがたかった。
目の前の景色にもやがかかったように、視界が不明瞭だ。右から聞こえてくる酒井先生の怒声さえ、霞んでいるように感じられる。私を取り巻く世界全体がなんだか嘘っぱちのようで、ふわふわとした感覚から抜け出すことができない。
「藤島、おい、聞いてんのか!?」
酒井先生の鼻息がすぐそばまで迫る。それでも私は石像のように身体が動かない。反応ができない。
「酒井先生、資料なら僕が作ります」
「はあ? なんだ山吹。会議はもうすぐだぞ。作れんのか?」
「はい、大丈夫です。すぐに作りますので、それ以上大声を出さないでください」
「くそ、どいつもこいつも仕事ができねえやつばかりだな」
酒井先生と山吹先生のやりとりが、自分には関係ないことのように思えて仕方がない。
「藤島先生、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
機嫌を損ねた酒井先生が職員室から出て行ったあと、山吹先生からトントンと軽く肩を叩かれた。
「……すみません。ちょっと、考え事をしていて……」
あまり何も考えることなく、反射的にそう答えてしまう。正直今日は、誰に何を言われても言葉が心まで入ってこないという感じがしていた。みんなの声が胸の前で跳ね返されて、受け入れるのを拒否してしまう。そんな調子だ。
それでも、何かの気配がついてくるのはずっと感じていた。もう慣れてしまって、いちいち反応することもないが、あの白い顔にじっと見つめられているのだ。職員室の窓の外から、トイレの便器の中から、ふと視線を合わせると今にも取り込まれそうな気がして、気づいても気づかないふりをしている……。
「藤島先生、どうされたんですか。ちょっと普通じゃない感じで疲れてますよ。一週間ほど休んでみたらどうでしょうか」
「休む……」
彼に言われてはっと気づく。
仕事を休むという選択肢が自分の中に存在しなかった。
「そうですね……今日はどうも、何もやる気が起きなくて……」
そう言いながら、自分の両目の端から涙がこぼれ落ちていることに気づく。隣の山吹先生がぎょっとして、私の腕を掴んで職員室の外へと連れ出した。他の先生たちの視線を感じつつ、それでもみんなの前から私を離してくれたことに感謝する。
「どうしたんです? 何があったんですか。例の件ですか?」
廊下の隅で、山吹先生が心配そうな顔で私を覗き込む。その優しい声に、自分の中に巣食う恐怖心ややるせなさを閉じ込めておくことができなかった。
「石川さんが……亡くなったって、昨日、ニュースで……」
「石川さん? そのひとって、藤島さんのお母さんの同僚だったって言ってたひと?」
「はい……。日曜日に電話をしていたんです。そしたら、石川さんの様子がどんどんおかしくなって……。血を吐くような音が聞こえて、慌てて救急車を呼んだんですけど、そのまま亡くなってしまったそうです」
「そんなことが……」
そう。今朝、朝食をとりながらテレビを見ていると、なんとそこに「石川久江さん」という名前ともに、岩手の彼女の自宅が映し出されていた。よくある木造の古い戸建ての家で、母の実家に似ていた。石川さんは病院に運ばれたそうだが、その後すぐに亡くなったそうだ。
そのニュースを目にした私は、食べていた朝食をすべて吐き出してしまった。
自分のせいだ……。
私が、石川さんに会ってしまったせい。
科学的な根拠などどこにもないが、そうとしか考えられなかった。私は、初めて清葉病院を訪ねた時からすでにあの場所に棲まう怪異に冒されていて、清葉病院にゆかりがあった石川さんと接触したことで、彼女にも呪いが降りかかってしまったのだ。ニュースでは、石川さんには既往歴など特になく、現在もいたって健康だったと説明されていた。そのため、突如として彼女が吐血し、亡くなってしまった原因が分からないとのことだ。これが怪異ではなく、なんだと言うのだろうか。
「私のせいなんです。私が、石川さんに会わなければ……!」
「落ち着いて、藤島さん。藤島さんのせいじゃないですよ」
「で、でも……っ。私がいなければ今頃石川さんは普通に健康に暮らしていたはずなんです。私が、私がっ……!」
身体の震えが止まらない。考えれば考えるほど自責の念が湧いてくる。山吹先生が、「藤島さん!」と必死に私に呼びかける。彼の左手の薬指で光る指輪が、余計に輝いて見えてまた嘔吐しそうになった。
「藤島さん……やっぱりしばらく休まれたらどうですか?」
「でも……」
「自分でも気づかないうちに、かなり消耗していると思いますよ。上には僕のほうから伝えておくので、明日からでも」
山吹先生に、休むという選択肢を強く推してもらうと、不思議なことに少しだけ気持ちが落ち着いていくような気がした。
「……ありがとうございます。そうします。自分で伝えます」
そう答えると、山吹先生がほっとした様子で胸を撫で下ろした。
「藤島さん、僕は何があってもあなたの味方です。休みの間でも困ったらいつでも連絡してきてください」
「はい……。本当に、ありがとうございます」
彼には感謝してもしきれない。優しい言葉が私の胸に溶けていく。ずっと孤独だと感じていたが、山吹先生のように気にかけてくれる存在がいるというだけでありがたかった。
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