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初夏の陽光が薬草園を優しく照らしている。色とりどりの薬草が風に揺れ、甘い香りが漂う。かつて荒れ果てていたこの場所は、今や王国で最も美しく、最も価値のある薬草園として知られるようになっていた。
十年という歳月は、多くのものを変えた。
セラフィーナは薬草園の小径を歩きながら、笑い声に耳を傾けていた。双子の子供たち——八歳になるリオンとエリア——が、小さな手で薬草を摘んでいる。
「お母様、この花は何に使うの?」
エリアが紫色の小さな花を掲げた。セラフィーナは優しく微笑んで、娘の隣にしゃがみ込む。
「それはラベンダーよ。心を落ち着かせて、よく眠れるようにしてくれるの」
「僕も知ってる! お父様が本で教えてくれた」
リオンが得意げに言う。エドウィンは息子の頭を撫でながら、セラフィーナと目を合わせて微笑んだ。
かつて病弱だったセラフィーナの面影は、もうどこにもない。健康的な血色の頬、生き生きとした瞳、確かな足取り。彼女は完全に生まれ変わっていた。
エドウィンもまた、研究者として大きな成功を収めていた。セラフィーナとの共同研究は数々の画期的な発見をもたらし、二人の名は医学史に刻まれることとなった。だが、彼らにとって最も大切なのは、この静かで穏やかな日常だった。
「セラフィーナ様」
老執事のセバスチャン——彼は、もう七十を超えていた——が、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「お客様が正門の外におられます」
「お客様? 予定はなかったはずだけれど」
セラフィーナは首を傾げた。エドウィンが子供たちを見守るよう合図し、彼女は執事と共に正門へと向かった。
正門の外に立っていたのは、一人の男だった。
かつては端正だった顔立ちは、深い皺に刻まれている。栗色の髪には白いものが混じり、背中は少し丸まっていた。だが、セラフィーナはすぐにその人物が誰なのか理解した。
アレクシス・ヴァンフリート。かつての婚約者。元公爵。
彼は門の外に立ち、薬草園を眺めていた。その目には複雑な感情が浮かんでいる——後悔、哀しみ、そして諦念。
セラフィーナは静かに彼を見つめた。声をかけるべきか、一瞬迷う。だが、彼女は何も言わなかった。
アレクシスもまた、彼女の存在に気づいているようだった。視線が一瞬だけ交差する。そこには言葉にならない何かがあった。
謝罪? 後悔? それとも、ただの郷愁?
セラフィーナには分からなかった。そして、知る必要もなかった。
彼女は穏やかに微笑んだ。許すとか許さないとか、そういう次元の話ではない。ただ、過去は過去として、今は今として存在している。それだけのことだった。
アレクシスは深く頭を下げた。そして、何も言わずに踵を返し、ゆっくりと歩き去っていく。その背中は、かつての傲慢な公爵嫡男の面影をまったく留めていなかった。
セラフィーナは彼が見えなくなるまで、静かに見送った。
「セラフィーナ様」
執事が心配そうに声をかける。彼女は首を横に振った。
「大丈夫よ、セバスチャン。ただの通りすがりの訪問者」
薬草園に戻ると、子供たちがエドウィンと一緒に花の種を植えていた。エリアが嬉しそうに手を振る。
「お母様! 来年の春に咲く花の種を植えたの!」
「素敵ね。どんな色の花が咲くのかしら」
セラフィーナは娘を抱き上げ、優しく抱きしめた。エドウィンが心配そうに彼女を見つめる。彼女は首を横に振って微笑んだ。
大丈夫。本当に、大丈夫。
過去は過去。今は今。そして未来は、これから自分たちの手で作っていくもの。
「ねえ、お父様、お母様」
リオンが真剣な顔で尋ねる。
「僕たちも大きくなったら、薬草の研究をするの?」
「それはあなたたちが決めることよ」
セラフィーナは優しく答えた。
「お母様とお父様は、あなたたちがどんな道を選んでも応援するわ。大切なのは、自分が本当にやりたいことを見つけることなの」
「私はお花屋さんになりたい!」
エリアが元気よく宣言する。
「僕は……まだ分からないけど、お母様みたいに人を助ける仕事がいいな」
リオンの言葉に、セラフィーナの目が潤んだ。エドウィンが彼女の肩を優しく抱く。
侯爵家の事業は、今や王国最大の医薬品メーカーへと成長していた。セラフィーナが開発した薬は、数え切れない命を救い、多くの人々の苦痛を和らげていた。
貧しい人々のための診療所は、王都だけでなく各地に広がり、誰もが適切な医療を受けられる社会の実現に貢献していた。
父ロデリック侯爵は、三年前に穏やかに息を引き取った。最期まで孫たちの成長を見守り、娘の幸せを確信しながら。
一方、かつて栄華を誇った公爵家は、もはや往時の輝きを失っていた。
アレクシスは二十代で公爵位を従弟に譲り、隠遁生活を送っていた。エリーゼとの離縁後、彼は二度と結婚することはなく、静かに一人で暮らしていた。
エリーゼ自身は、実家に戻された後も問題を起こし続け、最終的には遠い修道院に送られたと聞く。社交界から完全に姿を消し、もはや誰も彼女のことを話題にすることはなかった。
復讐など、必要なかった。
セラフィーナは改めてそう思う。
彼女が求めたのは復讐ではなく、ただ自分らしく生きることだった。健康な身体を取り戻し、自分の能力を発揮し、愛する人と共に歩み、社会に貢献する。それだけのことだった。
そして、それこそが最高の幸福だった。
アレクシスが何を失い、何を後悔しているのか、セラフィーナには分からない。だが、それは彼自身の問題だった。彼女の人生とは、もはや何の関係もない。
「ねえ、今日の夕食は何?」
エリアが無邪気に尋ねる。
「薬草園で採れた野菜を使った料理よ。あなたたちも手伝ってくれる?」
「うん!」
子供たちが元気よく返事をする。エドウィンが笑いながら、二人の手を取った。
「じゃあ、収穫の時間だ。一番大きなトマトを見つけた人には、特別なデザートがあるぞ」
「やった! 僕が見つける!」
「私の方が早いもん!」
子供たちが笑いながら駆けていく。エドウィンとセラフィーナは、手を繋いでゆっくりとその後を追った。
夕暮れ時の薬草園は、黄金色に染まっている。
かつて病弱だった令嬢は、もういない。かつて傲慢だった公爵嫡男も、遠い過去の人だ。
今ここにあるのは、ただ一つの幸福な家族。
薬草の香りに包まれながら、セラフィーナは深く息を吸い込んだ。生きていることの喜びを、身体の隅々で感じながら。
「エドウィン」
「何だい?」
「幸せよ」
ただそれだけを伝える。エドウィンは優しく微笑んで、彼女の手を握り返した。
「私もだよ、セラフィーナ。これからもずっと、一緒に」
二人の前を、子供たちが笑いながら走っていく。その声が、薬草園に響き渡る。
遠く、正門の外の道を、一人の男が歩いていた。
振り返ることなく、ただ前を向いて。
彼の背中は、夕陽の中に溶けていき、やがて見えなくなった。
それぞれの人生は、それぞれの道を進んでいく。
交わることのない、けれど確かに存在する、それぞれの道を。
薬草園の空には、最初の星が瞬き始めていた。
新しい季節が、すぐそこまで来ている。
そして、セラフィーナの物語は、これからも続いていく。
静かに、穏やかに、幸福に。
十年という歳月は、多くのものを変えた。
セラフィーナは薬草園の小径を歩きながら、笑い声に耳を傾けていた。双子の子供たち——八歳になるリオンとエリア——が、小さな手で薬草を摘んでいる。
「お母様、この花は何に使うの?」
エリアが紫色の小さな花を掲げた。セラフィーナは優しく微笑んで、娘の隣にしゃがみ込む。
「それはラベンダーよ。心を落ち着かせて、よく眠れるようにしてくれるの」
「僕も知ってる! お父様が本で教えてくれた」
リオンが得意げに言う。エドウィンは息子の頭を撫でながら、セラフィーナと目を合わせて微笑んだ。
かつて病弱だったセラフィーナの面影は、もうどこにもない。健康的な血色の頬、生き生きとした瞳、確かな足取り。彼女は完全に生まれ変わっていた。
エドウィンもまた、研究者として大きな成功を収めていた。セラフィーナとの共同研究は数々の画期的な発見をもたらし、二人の名は医学史に刻まれることとなった。だが、彼らにとって最も大切なのは、この静かで穏やかな日常だった。
「セラフィーナ様」
老執事のセバスチャン——彼は、もう七十を超えていた——が、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「お客様が正門の外におられます」
「お客様? 予定はなかったはずだけれど」
セラフィーナは首を傾げた。エドウィンが子供たちを見守るよう合図し、彼女は執事と共に正門へと向かった。
正門の外に立っていたのは、一人の男だった。
かつては端正だった顔立ちは、深い皺に刻まれている。栗色の髪には白いものが混じり、背中は少し丸まっていた。だが、セラフィーナはすぐにその人物が誰なのか理解した。
アレクシス・ヴァンフリート。かつての婚約者。元公爵。
彼は門の外に立ち、薬草園を眺めていた。その目には複雑な感情が浮かんでいる——後悔、哀しみ、そして諦念。
セラフィーナは静かに彼を見つめた。声をかけるべきか、一瞬迷う。だが、彼女は何も言わなかった。
アレクシスもまた、彼女の存在に気づいているようだった。視線が一瞬だけ交差する。そこには言葉にならない何かがあった。
謝罪? 後悔? それとも、ただの郷愁?
セラフィーナには分からなかった。そして、知る必要もなかった。
彼女は穏やかに微笑んだ。許すとか許さないとか、そういう次元の話ではない。ただ、過去は過去として、今は今として存在している。それだけのことだった。
アレクシスは深く頭を下げた。そして、何も言わずに踵を返し、ゆっくりと歩き去っていく。その背中は、かつての傲慢な公爵嫡男の面影をまったく留めていなかった。
セラフィーナは彼が見えなくなるまで、静かに見送った。
「セラフィーナ様」
執事が心配そうに声をかける。彼女は首を横に振った。
「大丈夫よ、セバスチャン。ただの通りすがりの訪問者」
薬草園に戻ると、子供たちがエドウィンと一緒に花の種を植えていた。エリアが嬉しそうに手を振る。
「お母様! 来年の春に咲く花の種を植えたの!」
「素敵ね。どんな色の花が咲くのかしら」
セラフィーナは娘を抱き上げ、優しく抱きしめた。エドウィンが心配そうに彼女を見つめる。彼女は首を横に振って微笑んだ。
大丈夫。本当に、大丈夫。
過去は過去。今は今。そして未来は、これから自分たちの手で作っていくもの。
「ねえ、お父様、お母様」
リオンが真剣な顔で尋ねる。
「僕たちも大きくなったら、薬草の研究をするの?」
「それはあなたたちが決めることよ」
セラフィーナは優しく答えた。
「お母様とお父様は、あなたたちがどんな道を選んでも応援するわ。大切なのは、自分が本当にやりたいことを見つけることなの」
「私はお花屋さんになりたい!」
エリアが元気よく宣言する。
「僕は……まだ分からないけど、お母様みたいに人を助ける仕事がいいな」
リオンの言葉に、セラフィーナの目が潤んだ。エドウィンが彼女の肩を優しく抱く。
侯爵家の事業は、今や王国最大の医薬品メーカーへと成長していた。セラフィーナが開発した薬は、数え切れない命を救い、多くの人々の苦痛を和らげていた。
貧しい人々のための診療所は、王都だけでなく各地に広がり、誰もが適切な医療を受けられる社会の実現に貢献していた。
父ロデリック侯爵は、三年前に穏やかに息を引き取った。最期まで孫たちの成長を見守り、娘の幸せを確信しながら。
一方、かつて栄華を誇った公爵家は、もはや往時の輝きを失っていた。
アレクシスは二十代で公爵位を従弟に譲り、隠遁生活を送っていた。エリーゼとの離縁後、彼は二度と結婚することはなく、静かに一人で暮らしていた。
エリーゼ自身は、実家に戻された後も問題を起こし続け、最終的には遠い修道院に送られたと聞く。社交界から完全に姿を消し、もはや誰も彼女のことを話題にすることはなかった。
復讐など、必要なかった。
セラフィーナは改めてそう思う。
彼女が求めたのは復讐ではなく、ただ自分らしく生きることだった。健康な身体を取り戻し、自分の能力を発揮し、愛する人と共に歩み、社会に貢献する。それだけのことだった。
そして、それこそが最高の幸福だった。
アレクシスが何を失い、何を後悔しているのか、セラフィーナには分からない。だが、それは彼自身の問題だった。彼女の人生とは、もはや何の関係もない。
「ねえ、今日の夕食は何?」
エリアが無邪気に尋ねる。
「薬草園で採れた野菜を使った料理よ。あなたたちも手伝ってくれる?」
「うん!」
子供たちが元気よく返事をする。エドウィンが笑いながら、二人の手を取った。
「じゃあ、収穫の時間だ。一番大きなトマトを見つけた人には、特別なデザートがあるぞ」
「やった! 僕が見つける!」
「私の方が早いもん!」
子供たちが笑いながら駆けていく。エドウィンとセラフィーナは、手を繋いでゆっくりとその後を追った。
夕暮れ時の薬草園は、黄金色に染まっている。
かつて病弱だった令嬢は、もういない。かつて傲慢だった公爵嫡男も、遠い過去の人だ。
今ここにあるのは、ただ一つの幸福な家族。
薬草の香りに包まれながら、セラフィーナは深く息を吸い込んだ。生きていることの喜びを、身体の隅々で感じながら。
「エドウィン」
「何だい?」
「幸せよ」
ただそれだけを伝える。エドウィンは優しく微笑んで、彼女の手を握り返した。
「私もだよ、セラフィーナ。これからもずっと、一緒に」
二人の前を、子供たちが笑いながら走っていく。その声が、薬草園に響き渡る。
遠く、正門の外の道を、一人の男が歩いていた。
振り返ることなく、ただ前を向いて。
彼の背中は、夕陽の中に溶けていき、やがて見えなくなった。
それぞれの人生は、それぞれの道を進んでいく。
交わることのない、けれど確かに存在する、それぞれの道を。
薬草園の空には、最初の星が瞬き始めていた。
新しい季節が、すぐそこまで来ている。
そして、セラフィーナの物語は、これからも続いていく。
静かに、穏やかに、幸福に。
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