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婚約破棄
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秋の夜風が、宮廷の大広間の窓から静かに流れ込んでいた。燭台の炎が揺れるたび、壁に飾られた豪華な絨毯が金色に輝く。今宵は年に一度の秋の舞踏会。王族、貴族たちが華やかな衣装に身を包み、優雅に舞い踊っている。
広間の一角に設けられた楽師たちの席で、リディア・フォン・ハルモニアは小さなヴィオラを膝に抱えていた。二十歳になったばかりの彼女は、宮廷音楽家の娘として生まれ、幼い頃からこの場所で音を奏でてきた。
栗色の髪を後ろで一つに結い、質素だが清潔な濃紺のドレスを着ている。貴族たちの絢爛な衣装と比べれば地味だが、その整った顔立ちと、音楽を奏でる時の真摯な眼差しは、多くの者の目を引いた。
父であり楽団長でもあるハインリヒが、指揮棒を振り下ろす。リディアは弓を弦に当て、流れるような旋律を紡ぎ始めた。
舞踏曲は単調だ。何年も、何十年も演奏されてきた同じ曲。だがリディアは決して手を抜かない。一音一音に魂を込める。それが音楽家としての誇りだった。
曲が終わり、短い休憩時間が告げられる。楽師たちは楽器を置き、用意された水や葡萄酒に手を伸ばした。リディアも立ち上がろうとした時、広間の入口近くに立つ騎士の姿が目に入った。
エドゥアルト・フォン・リヒター。男爵家の三男で、近衛騎士団に所属する青年騎士だ。金色の髪と整った顔立ち、引き締まった体躯。多くの令嬢たちが憧れる存在だった。
彼はリディアを見つけると、目で合図を送った。庭園へ、と。
リディアの胸に嫌な予感が走る。だが彼の真剣な表情を見て、頷くしかなかった。
「父様、少し外の空気を」
「ああ、行っておいで。次の演奏まで十五分ある」
ハインリヒは娘の様子に気づかない様子で、優しく微笑んだ。
リディアは楽器を置き、広間を抜けて中庭へと向かった。秋の夜は冷たく、吐く息が白く染まる。噴水の音だけが静かに響いていた。
エドゥアルトは石造りのベンチの傍に立っていた。月明かりが彼の横顔を照らしている。リディアが近づくと、彼は振り返った。
「来てくれたんだね、リディア」
「エドゥアルト様。お話とは」
リディアの声は平静を装っていたが、心臓は激しく鳴っていた。彼の表情が、いつもと違う。どこか決意を秘めたような、そして申し訳なさそうな——。
「単刀直入に言うよ」
エドゥアルトは深く息を吸った。
「僕は、アデーレ・フォン・ブラウンシュタイン嬢と婚約することになった」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。アデーレ・フォン・ブラウンシュタイン。子爵家の令嬢で、社交界の華と呼ばれる美女だ。
「君との約束は……無かったことにしてほしい」
リディアは何も言えなかった。約束。そう、二人の間には確かに約束があった。正式な婚約ではない。ただ、愛を誓い合い、いつか結ばれようと語り合った、二人だけの密やかな約束。
「どうして」
ようやく絞り出した声は、驚くほど冷静だった。
「僕の家のことは知っているだろう。男爵家の三男だ。兄たちに比べて、僕には何もない。騎士としての地位だけだ」
「それは最初からわかっていたことです」
「わかっている。でも、現実は厳しいんだ。アデーレ嬢の家は子爵家で、持参金も莫大だ。彼女の父君は、僕の出世を約束してくれた。騎士団の要職に就けると」
エドゥアルトの声には、言い訳めいた響きがあった。
「君は素晴らしい人だ。優しくて、聡明で、音楽の才能にも恵まれている。でも……」
「でも、平民ですから」
リディアが静かに続けた。エドゥアルトは目を逸らした。
「身分の違いは、どうしても乗り越えられない壁なんだ。騎士として、家名を背負う者として、君との結婚は……できない」
「家名に傷がつく、と」
「リディア……」
「わかりました」
リディアは深呼吸をした。涙は流さない。ここで泣いてしまえば、彼に同情されるだけだ。それは何より耐えられない。
「エドゥアルト様の幸せを、心からお祈りしています」
「リディア、僕は——」
「もう戻らなければ。次の演奏が始まります」
リディアは踵を返した。エドゥアルトが何か言いかけたが、もう聞こえなかった。足早に歩き、中庭を後にする。
廊下に入ると、誰もいないことを確認して、壁に手をついた。膝が震えている。胸が苦しい。でも、涙は出なかった。
「私には……音楽がある」
小さく呟く。何度も何度も、自分に言い聞かせるように。
「音楽だけは、誰にも奪えない」
深呼吸を繰り返し、顔を上げる。鏡に映った自分の顔は、驚くほど平静だった。
楽師の席に戻ると、父が心配そうに声をかけてきた。
「リディア、顔色が悪いぞ。大丈夫か」
「大丈夫です、父様。少し夜風に当たっただけです」
「そうか。ならいいんだが……」
ハインリヒは娘の様子を窺ったが、リディアは微笑んで見せた。
演奏が再開される。リディアは再びヴィオラを手に取った。弓を構え、弦に当てる。
音が響く。いつもと変わらぬ、美しい旋律。だが今夜、その音には今までにない何かが込められていた。悲しみ。怒り。そして、強い決意。
貴族たちが優雅に踊る。その中に、エドゥアルトとアデーレの姿があった。金色の髪の騎士と、薔薇色のドレスを纏った美しい令嬢。誰が見ても似合いの二人だった。
リディアは目を逸らし、楽譜に視線を落とした。
音楽だけを見る。音楽だけを信じる。それが今の私にできる、唯一のことだから——。
演奏が終わり、舞踏会も終わりに近づいた頃。リディアは一人、宮廷の屋上に上がっていた。そこは楽師たちだけが知る、隠れた場所だった。
星空が広がっている。秋の夜空は澄んでいて、無数の星が瞬いていた。
リディアは手すりに寄りかかり、夜空を見上げた。ようやく、一筋の涙が頬を伝った。
「悔しい……」
声が震える。
「悔しいです……」
でも、涙はすぐに拭った。泣いている時間はない。自分を憐れむ暇もない。
「私は、誰にも見下されない存在になる」
リディアは拳を握りしめた。
「音楽の道で、必ず成功してみせる。身分も、家柄も関係ない。才能と努力だけで、頂点に立ってみせる」
夜風が、リディアの髪を撫でていった。まるで励ますように、優しく。
彼女は深く息を吸い込み、夜空に向かって静かに誓った。
これは終わりではない。これは、始まりだ。
本当の私の物語は、ここから始まる——。
広間の一角に設けられた楽師たちの席で、リディア・フォン・ハルモニアは小さなヴィオラを膝に抱えていた。二十歳になったばかりの彼女は、宮廷音楽家の娘として生まれ、幼い頃からこの場所で音を奏でてきた。
栗色の髪を後ろで一つに結い、質素だが清潔な濃紺のドレスを着ている。貴族たちの絢爛な衣装と比べれば地味だが、その整った顔立ちと、音楽を奏でる時の真摯な眼差しは、多くの者の目を引いた。
父であり楽団長でもあるハインリヒが、指揮棒を振り下ろす。リディアは弓を弦に当て、流れるような旋律を紡ぎ始めた。
舞踏曲は単調だ。何年も、何十年も演奏されてきた同じ曲。だがリディアは決して手を抜かない。一音一音に魂を込める。それが音楽家としての誇りだった。
曲が終わり、短い休憩時間が告げられる。楽師たちは楽器を置き、用意された水や葡萄酒に手を伸ばした。リディアも立ち上がろうとした時、広間の入口近くに立つ騎士の姿が目に入った。
エドゥアルト・フォン・リヒター。男爵家の三男で、近衛騎士団に所属する青年騎士だ。金色の髪と整った顔立ち、引き締まった体躯。多くの令嬢たちが憧れる存在だった。
彼はリディアを見つけると、目で合図を送った。庭園へ、と。
リディアの胸に嫌な予感が走る。だが彼の真剣な表情を見て、頷くしかなかった。
「父様、少し外の空気を」
「ああ、行っておいで。次の演奏まで十五分ある」
ハインリヒは娘の様子に気づかない様子で、優しく微笑んだ。
リディアは楽器を置き、広間を抜けて中庭へと向かった。秋の夜は冷たく、吐く息が白く染まる。噴水の音だけが静かに響いていた。
エドゥアルトは石造りのベンチの傍に立っていた。月明かりが彼の横顔を照らしている。リディアが近づくと、彼は振り返った。
「来てくれたんだね、リディア」
「エドゥアルト様。お話とは」
リディアの声は平静を装っていたが、心臓は激しく鳴っていた。彼の表情が、いつもと違う。どこか決意を秘めたような、そして申し訳なさそうな——。
「単刀直入に言うよ」
エドゥアルトは深く息を吸った。
「僕は、アデーレ・フォン・ブラウンシュタイン嬢と婚約することになった」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。アデーレ・フォン・ブラウンシュタイン。子爵家の令嬢で、社交界の華と呼ばれる美女だ。
「君との約束は……無かったことにしてほしい」
リディアは何も言えなかった。約束。そう、二人の間には確かに約束があった。正式な婚約ではない。ただ、愛を誓い合い、いつか結ばれようと語り合った、二人だけの密やかな約束。
「どうして」
ようやく絞り出した声は、驚くほど冷静だった。
「僕の家のことは知っているだろう。男爵家の三男だ。兄たちに比べて、僕には何もない。騎士としての地位だけだ」
「それは最初からわかっていたことです」
「わかっている。でも、現実は厳しいんだ。アデーレ嬢の家は子爵家で、持参金も莫大だ。彼女の父君は、僕の出世を約束してくれた。騎士団の要職に就けると」
エドゥアルトの声には、言い訳めいた響きがあった。
「君は素晴らしい人だ。優しくて、聡明で、音楽の才能にも恵まれている。でも……」
「でも、平民ですから」
リディアが静かに続けた。エドゥアルトは目を逸らした。
「身分の違いは、どうしても乗り越えられない壁なんだ。騎士として、家名を背負う者として、君との結婚は……できない」
「家名に傷がつく、と」
「リディア……」
「わかりました」
リディアは深呼吸をした。涙は流さない。ここで泣いてしまえば、彼に同情されるだけだ。それは何より耐えられない。
「エドゥアルト様の幸せを、心からお祈りしています」
「リディア、僕は——」
「もう戻らなければ。次の演奏が始まります」
リディアは踵を返した。エドゥアルトが何か言いかけたが、もう聞こえなかった。足早に歩き、中庭を後にする。
廊下に入ると、誰もいないことを確認して、壁に手をついた。膝が震えている。胸が苦しい。でも、涙は出なかった。
「私には……音楽がある」
小さく呟く。何度も何度も、自分に言い聞かせるように。
「音楽だけは、誰にも奪えない」
深呼吸を繰り返し、顔を上げる。鏡に映った自分の顔は、驚くほど平静だった。
楽師の席に戻ると、父が心配そうに声をかけてきた。
「リディア、顔色が悪いぞ。大丈夫か」
「大丈夫です、父様。少し夜風に当たっただけです」
「そうか。ならいいんだが……」
ハインリヒは娘の様子を窺ったが、リディアは微笑んで見せた。
演奏が再開される。リディアは再びヴィオラを手に取った。弓を構え、弦に当てる。
音が響く。いつもと変わらぬ、美しい旋律。だが今夜、その音には今までにない何かが込められていた。悲しみ。怒り。そして、強い決意。
貴族たちが優雅に踊る。その中に、エドゥアルトとアデーレの姿があった。金色の髪の騎士と、薔薇色のドレスを纏った美しい令嬢。誰が見ても似合いの二人だった。
リディアは目を逸らし、楽譜に視線を落とした。
音楽だけを見る。音楽だけを信じる。それが今の私にできる、唯一のことだから——。
演奏が終わり、舞踏会も終わりに近づいた頃。リディアは一人、宮廷の屋上に上がっていた。そこは楽師たちだけが知る、隠れた場所だった。
星空が広がっている。秋の夜空は澄んでいて、無数の星が瞬いていた。
リディアは手すりに寄りかかり、夜空を見上げた。ようやく、一筋の涙が頬を伝った。
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声が震える。
「悔しいです……」
でも、涙はすぐに拭った。泣いている時間はない。自分を憐れむ暇もない。
「私は、誰にも見下されない存在になる」
リディアは拳を握りしめた。
「音楽の道で、必ず成功してみせる。身分も、家柄も関係ない。才能と努力だけで、頂点に立ってみせる」
夜風が、リディアの髪を撫でていった。まるで励ますように、優しく。
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