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幸せそうな笑み
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「うーん。お返事の締め切り、いつなんだろう?」
久しぶりの自宅でのびのびと自分の時間を楽しみながら、菜乃花はふと考え込む。
色々あったにせよ、プロポーズされたのはもう2ヶ月も前のことだ。
(長い間お待たせしちゃってるものね。次に会う時にはお返事したいなあ。けど、なんて?)
三浦に対して不満がある訳ではない。
いつも優しくしてくれるし、あんなにも真剣に自分を想ってくれている。
結婚しても、きっとその言葉通り、ずっと優しく守ってくれるだろう。
(理想的な旦那さんって感じ。女の子なら誰もが憧れるような男性よね)
では、彼と結婚したい?
そう自分に問いかけてみると、どうしても頷けない。
(なぜだろう?私なんかにはもったいないくらい、素敵な人なのに…。彼のプロポーズを断るなんて、そんな偉そうなこと出来ない)
ぐるぐると頭の中で色々な思いが駆け巡る。
答えは簡単に出せそうになく、一旦考えるのは止めて、菜乃花は荷物の片付けを始めた。
バッグから服を取り出して洗濯機を回す。
続いて化粧品や細々した身の回りの物を取り出していると、颯真から借りている本が出てきた。
(あ、これ返さなきゃ。でももう一度読み返そう)
3冊とも興味深く、既に何度も読み返していたが、返す前にもう一度読みたくなる。
気がつくと、またしても2時間経っていた。
「やだ!洗濯物!」
慌てて干しながら苦笑いする。
(もうこの本、買っちゃおう!)
洗濯物を干し終えると、早速通販サイトで3冊とも注文した。
これで心置きなく返せると、菜乃花は颯真にメッセージを送った。
『こんばんは。鈴原です。今日、無事に自宅のマンションに戻って来ました。入院中は大変お世話になりました。それからお借りしていた本、どれもとても面白かったです。ありがとうございました。お返ししますね。宮瀬さんのご都合が良い時に、病院までお返しに伺いたいと思っています』
すると、思いの外早く返信がきた。
『こんばんは。元気そうで何よりです。ひとり暮らしに戻って大丈夫?何かあったらいつでも病院に連絡ください。本も、そんなに気に入ってもらえたのなら差し上げます』
颯真の返事に、ふふっと菜乃花は笑みをもらす。
『お気遣いありがとうございます。実は、3冊とも面白くて手元に置いておきたくて、先程ネットで注文しました。だから心置きなくお返しします』
『そうだったんだ。ごめん、もっと早く伝えれば良かったね』
『いいえ。宮瀬さんだって、読み返したくなるかもしれないでしょう?』
『うん。でもその時は君に借りればいいし』
『それだと、誰の本だか分からなくなります』
『じゃあ、サインして渡そうか?サイン本みたいに』
あはは!と菜乃花は声を上げて笑う。
『それは欲しいかも!』
『著者でもないのにサインするって、笑えるね。お前、誰だよ?!って』
『ふふ。でも本当に欲しいです。私が注文した新品をお渡しするので、宮瀬さんのサイン本、頂いてもいいですか?』
『ええ?!本気で言ってる?』
『はい。本気で書いてます』
『あはは!そうか。書いてるね、確かに』
『じゃあ、来週の火曜日に病院に伺ってもいいですか?お昼休みとかでお渡し出来れば』
『分かった。急患がいなければ時間は取れるから。着いたらメッセージくれる?』
『はい。よろしくお願いします』
『こちらこそ。じゃあ、お休み』
『お休みなさい』
やり取りを終えたあと、菜乃花は思わずふふっと微笑む。
なぜだか心が温かくなっているのを感じながら。
◇
「こんにちは!」
「こんにちは。元気そうだね」
「はい、お陰様で」
約束した火曜日。
菜乃花は真っさらな本と颯真から借りている本の両方を持って、みなと医療センターを訪れていた。
到着したとメッセージを送ると、すぐに行くと返事が来て、二人はカフェで落ち合った。
「宮瀬さん、お昼ご飯食べますか?」
「うん、そうだな。パスタでも食べようかな」
「じゃあ私も何か。うーんと、ホットサンドにします」
オーダーすると、颯真が素早く支払いを済ませてくれる。
「すみません、私の分まで」
「いいって」
「ありがとうございます」
二人はテーブル席に向かい合って座った。
「体調はどう?変わりない?」
「はい、大丈夫です」
「良かった。腕は?ちょっと見せてくれる?」
フォークを置いて、颯真が菜乃花の腕を取る。
そっと傷跡に触れながら真剣な顔でじっと見つめると、小さく頷いて顔を上げた。
「だいぶ目立たなくなってきてるね。このまま綺麗に治るといいんだけど。もし気になるようなら、皮膚科で診てもらうといいよ」
「はい、ありがとうございます」
食事を終えると、菜乃花はバッグの中から新品の本を取り出して颯真に差し出した。
「え、こんなに綺麗にラッピングまでしてくれて。本当にいいの?新品の方をもらっても」
「はい。宮瀬さんのサイン本がもらえるなら、こちらをお渡しします」
「はは!本気なんだね」
「ええ。それに、読み込んである本の方が好きなんです。手に馴染んで読みやすいから」
本当は、颯真の部屋の匂いがしてなんとなく気持ちが落ち着くのも理由の一つだったが、それを言ったら気味悪がられそうで止めておく。
「そうなんだ。そこまで言われたら仕方ない。じゃあ、名前を書いてプレゼントするよ」
颯真は、菜乃花に貸していた方の本を手に、1ページめくった。
菜乃花が用意していたサインペンを渡すと、神妙な顔で名前を書こうとする。
「え、ちょっと待って!普通に名前書かないでくださいよ?」
慌てて菜乃花が声をかける。
「ええ?じゃあ、なんて書けばいいの?」
「サインなんですから、シュシュッて、かっこ良く書いてください」
「ええー!無理だよ、そんなの」
「雰囲気でいいですから。ね?シュシュシュッて」
「そ、そんなこと言われても…」
「ちゃんと読めなくてもいいですから。ほら、早く」
颯真は眉間にしわを寄せながら、なんとなく自分の名前を軽く書く。
「ええー?これだと読めちゃう。もっとこう、なんだかよく分からない感じで書いてください」
「は?そんなの無理だって」
「いいから、はい。2冊目」
颯真は更に眉根を寄せて、少し雑に崩して名前を書いた。
「うーん、新人作家の初めてのサインみたい」
菜乃花は真面目に講評する。
「もうちょっとこう、こなれた感じが欲しいですね。既に何万回も書いて、書き慣れちゃってます、みたいな」
「えー?!無茶言わないでよ。サインなんて、今まで一度も書いたことないんだから」
「深く考えないでいいですから。名前を書くと思わないで。ほら『考えるな、感じろ』ってやつですよ」
「それはちょっと意味合い違うでしょ?」
「いいから!じゃあ、これが最後ですからね?」
「う、うん」
颯真は3冊目の本を前に、ゴクリと唾を飲み込む。
「行きます」
「お願いします」
二人で息を整える。
颯真がスッと手を本に添え、菜乃花はじっと固唾を呑んで見守る。
サラサラとペンを流れるように動かし、颯真は最後にゆっくりと手を離した。
「おおー、素晴らしい!これぞまさに売れっ子作家!」
「本当に?」
「ええ。サインだけ見ると、ベストセラー作家に見えます」
「嘘、そんなに?やった!」
二人は興奮して盛り上がる。
が、しばらくしてそんな自分達に苦笑いした。
「何やってるんでしょうね、私達」
「ほんとだよ。著者でもないのにサインして盛り上がって。著作権侵害に当たらないかな?」
「あはは、それは大丈夫だと思いますけど」
「ね、お願いだから誰にも見せないでよ?恥ずかしいったらありゃしない」
「ふふふ、分かりました。我が家の本棚に飾っておきます」
「飾るのもダメ!ちゃんと隠して」
「はーい」
にこにこしながら、菜乃花は満足そうにサインを眺める。
「あ、それじゃあ俺はそろそろ行くね」
腕時計に目を落として颯真が立ち上がる。
「はい。お時間頂いてありがとうございました。それに、サイン本も」
「ははは…。こちらこそ、新しい本をありがとう!身体、お大事にね」
「はい。ありがとうございます」
菜乃花が立ち上がって頭を下げると、颯真は優しく笑ってからカフェを出て行った。
◇
「あ、三浦先生!」
菜乃花と別れてエレベーターに向かうと、ちょうど三浦が立っているのが見えて颯真は駆け寄った。
「宮瀬先生、お疲れ様です」
「お疲れ様です。鈴原さん、そこのカフェにいますよ」
「え?そうなの?」
「はい。今行けば会えると思います」
「そうなんだ。じゃあ、ちょっと行ってみようかな。ありがとう!」
「いえ」
どうして菜乃花がカフェにいるのだろう?
それにどうしてそのことを自分に知らせてくれないのだろう?
そう思いつつ、三浦は菜乃花にひと目会いたくてカフェに急ぐ。
(あ、いた!)
奥のテーブル席に一人で座っている菜乃花を見つけて、三浦は足を進める。
こちら向きに座っている菜乃花は、何かの本を手にしてじっと見つめていた。
「菜乃花ちゃ…」
声をかけようとした三浦の声は小さくなり、挙げかけた手は中途半端に下ろされる。
手にしていた本を胸にぎゅっと抱え、見たこともない程幸せそうな笑みを浮かべる菜乃花に、三浦はなんとも言えない寂しさが込み上げてくるのを感じていた。
◇
数日後。
三浦は菜乃花に会いたいと連絡をして、互いの休みの日に出かける約束をした。
マンションまで迎えに行くと、菜乃花は涼しげな水色のワンピース姿で現れた。
顔色も良く、体調も問題なさそうで安心する。
「こんにちは、信司さん」
「こんにちは、菜乃花ちゃん」
菜乃花の明るい笑顔に思わずドキッとしながらも、どこか胸が切なく痛む。
「今日はどこに行こうか?」
「んー、海が見たいです」
「いいね、そうしよう」
三浦は早速車を走らせる。
ドライブしながらも、菜乃花は楽しそうに職場の話をした。
「それで、みなと医療センターのボランティアも、そろそろ再開したいなと思ってるんです」
「え、本当に?身体は平気なの?」
「はい。以前みたいに頻繁にではなく、少しずつ様子を見ながら戻していこうかなと。まずは、本の整理から始めますね」
「ありがとう。でも、くれぐれも無理しないでね」
「はい、分かりました」
海沿いのパーキングに車を停めると、二人で砂浜を散歩する。
「わー、気持ちいい!」
菜乃花は両手を広げて胸いっぱいに深呼吸すると、にっこりと可愛らしい笑みを向けてくれる。
その姿に思わず頬を緩めつつ、三浦はやるせなさを感じていた。
自動販売機で缶コーヒーを買うと、ベンチに並んで座って海を眺める。
ザッと打ち寄せる波の音に、二人は心穏やかに耳を傾けていた。
「ねえ、菜乃花ちゃん」
「はい」
「プロポーズの返事なんだけど…」
そう切り出した瞬間、菜乃花がうつむいて身を固くするのが分かった。
そしてそれが、菜乃花の率直な答えなのだと三浦は悟った。
「ごめん。プロポーズは取り下げさせて欲しい」
え…、と菜乃花が目を見開く。
三浦は海を見ながら静かに話し始めた。
「俺は菜乃花ちゃんの飾らない笑顔が好きだった。子ども達にも明るく本を読んでくれる、菜乃花ちゃんの優しい声が大好きだった。大切に、ずっとそばで君を守っていきたいと思っていた。だけど、俺じゃ無理なんだって気づいたんだ」
菜乃花は何も言えずに三浦の横顔を見つめる。
「君の本当の笑顔を引き出せるのも、一番大事な時にそばにいてあげられるのも、君が素直に自分らしくいられるのも、全部相手は俺じゃない。どんなに俺が君を幸せにしたいと思っても、君は俺のそばでは幸せになれないんだ」
「そんなこと…」
思わず菜乃花が首を振ると、三浦はふっと微笑んだ。
「君は俺との結婚も真剣に考えてくれたよね。長い間ずっと悩みながらも、こうやって一緒に出かければ、いつも楽しそうに笑いかけてくれる。今も、俺の言葉を否定してくれた。でもそれは、君が優しいからだよ。俺のことを好きな訳ではないんだ」
菜乃花は思わず言葉を失う。
なんと答えていいのか分からない。
自分の本心も、三浦の言葉も、どれが本当なのか分からずただ呆然としていた。
「菜乃花ちゃん」
優しい声で三浦が呼びかける。
「君は本当に純粋な人だよ。心が綺麗で思いやりに溢れた人だ。俺は君と出逢えて幸せだった。君には誰よりも幸せになって欲しい」
思わず菜乃花の目から涙がこぼれ落ちる。
「信司さん、私…」
「菜乃花ちゃん。焦らなくていいから、自分の気持ちに素直になってみて。今まで俺に縛られて、どこか抑え込んでいた気持ちがあるはずだよ」
「そんな、私…、そんなこと」
「ほーら、泣かないの!でないと俺の決心が揺らぐでしょ?思わず抱きしめたくなるのを、今も必死に我慢してるんだからね」
明るく笑う三浦に、菜乃花はなんとか涙を堪らえようと唇を噛みしめる。
「幸せになるんだよ?菜乃花ちゃん」
そう言うと三浦は、ポンと菜乃花の頭に手を置く。
菜乃花は涙で潤んだ瞳で三浦を見上げ、小さく頷いてみせた。
久しぶりの自宅でのびのびと自分の時間を楽しみながら、菜乃花はふと考え込む。
色々あったにせよ、プロポーズされたのはもう2ヶ月も前のことだ。
(長い間お待たせしちゃってるものね。次に会う時にはお返事したいなあ。けど、なんて?)
三浦に対して不満がある訳ではない。
いつも優しくしてくれるし、あんなにも真剣に自分を想ってくれている。
結婚しても、きっとその言葉通り、ずっと優しく守ってくれるだろう。
(理想的な旦那さんって感じ。女の子なら誰もが憧れるような男性よね)
では、彼と結婚したい?
そう自分に問いかけてみると、どうしても頷けない。
(なぜだろう?私なんかにはもったいないくらい、素敵な人なのに…。彼のプロポーズを断るなんて、そんな偉そうなこと出来ない)
ぐるぐると頭の中で色々な思いが駆け巡る。
答えは簡単に出せそうになく、一旦考えるのは止めて、菜乃花は荷物の片付けを始めた。
バッグから服を取り出して洗濯機を回す。
続いて化粧品や細々した身の回りの物を取り出していると、颯真から借りている本が出てきた。
(あ、これ返さなきゃ。でももう一度読み返そう)
3冊とも興味深く、既に何度も読み返していたが、返す前にもう一度読みたくなる。
気がつくと、またしても2時間経っていた。
「やだ!洗濯物!」
慌てて干しながら苦笑いする。
(もうこの本、買っちゃおう!)
洗濯物を干し終えると、早速通販サイトで3冊とも注文した。
これで心置きなく返せると、菜乃花は颯真にメッセージを送った。
『こんばんは。鈴原です。今日、無事に自宅のマンションに戻って来ました。入院中は大変お世話になりました。それからお借りしていた本、どれもとても面白かったです。ありがとうございました。お返ししますね。宮瀬さんのご都合が良い時に、病院までお返しに伺いたいと思っています』
すると、思いの外早く返信がきた。
『こんばんは。元気そうで何よりです。ひとり暮らしに戻って大丈夫?何かあったらいつでも病院に連絡ください。本も、そんなに気に入ってもらえたのなら差し上げます』
颯真の返事に、ふふっと菜乃花は笑みをもらす。
『お気遣いありがとうございます。実は、3冊とも面白くて手元に置いておきたくて、先程ネットで注文しました。だから心置きなくお返しします』
『そうだったんだ。ごめん、もっと早く伝えれば良かったね』
『いいえ。宮瀬さんだって、読み返したくなるかもしれないでしょう?』
『うん。でもその時は君に借りればいいし』
『それだと、誰の本だか分からなくなります』
『じゃあ、サインして渡そうか?サイン本みたいに』
あはは!と菜乃花は声を上げて笑う。
『それは欲しいかも!』
『著者でもないのにサインするって、笑えるね。お前、誰だよ?!って』
『ふふ。でも本当に欲しいです。私が注文した新品をお渡しするので、宮瀬さんのサイン本、頂いてもいいですか?』
『ええ?!本気で言ってる?』
『はい。本気で書いてます』
『あはは!そうか。書いてるね、確かに』
『じゃあ、来週の火曜日に病院に伺ってもいいですか?お昼休みとかでお渡し出来れば』
『分かった。急患がいなければ時間は取れるから。着いたらメッセージくれる?』
『はい。よろしくお願いします』
『こちらこそ。じゃあ、お休み』
『お休みなさい』
やり取りを終えたあと、菜乃花は思わずふふっと微笑む。
なぜだか心が温かくなっているのを感じながら。
◇
「こんにちは!」
「こんにちは。元気そうだね」
「はい、お陰様で」
約束した火曜日。
菜乃花は真っさらな本と颯真から借りている本の両方を持って、みなと医療センターを訪れていた。
到着したとメッセージを送ると、すぐに行くと返事が来て、二人はカフェで落ち合った。
「宮瀬さん、お昼ご飯食べますか?」
「うん、そうだな。パスタでも食べようかな」
「じゃあ私も何か。うーんと、ホットサンドにします」
オーダーすると、颯真が素早く支払いを済ませてくれる。
「すみません、私の分まで」
「いいって」
「ありがとうございます」
二人はテーブル席に向かい合って座った。
「体調はどう?変わりない?」
「はい、大丈夫です」
「良かった。腕は?ちょっと見せてくれる?」
フォークを置いて、颯真が菜乃花の腕を取る。
そっと傷跡に触れながら真剣な顔でじっと見つめると、小さく頷いて顔を上げた。
「だいぶ目立たなくなってきてるね。このまま綺麗に治るといいんだけど。もし気になるようなら、皮膚科で診てもらうといいよ」
「はい、ありがとうございます」
食事を終えると、菜乃花はバッグの中から新品の本を取り出して颯真に差し出した。
「え、こんなに綺麗にラッピングまでしてくれて。本当にいいの?新品の方をもらっても」
「はい。宮瀬さんのサイン本がもらえるなら、こちらをお渡しします」
「はは!本気なんだね」
「ええ。それに、読み込んである本の方が好きなんです。手に馴染んで読みやすいから」
本当は、颯真の部屋の匂いがしてなんとなく気持ちが落ち着くのも理由の一つだったが、それを言ったら気味悪がられそうで止めておく。
「そうなんだ。そこまで言われたら仕方ない。じゃあ、名前を書いてプレゼントするよ」
颯真は、菜乃花に貸していた方の本を手に、1ページめくった。
菜乃花が用意していたサインペンを渡すと、神妙な顔で名前を書こうとする。
「え、ちょっと待って!普通に名前書かないでくださいよ?」
慌てて菜乃花が声をかける。
「ええ?じゃあ、なんて書けばいいの?」
「サインなんですから、シュシュッて、かっこ良く書いてください」
「ええー!無理だよ、そんなの」
「雰囲気でいいですから。ね?シュシュシュッて」
「そ、そんなこと言われても…」
「ちゃんと読めなくてもいいですから。ほら、早く」
颯真は眉間にしわを寄せながら、なんとなく自分の名前を軽く書く。
「ええー?これだと読めちゃう。もっとこう、なんだかよく分からない感じで書いてください」
「は?そんなの無理だって」
「いいから、はい。2冊目」
颯真は更に眉根を寄せて、少し雑に崩して名前を書いた。
「うーん、新人作家の初めてのサインみたい」
菜乃花は真面目に講評する。
「もうちょっとこう、こなれた感じが欲しいですね。既に何万回も書いて、書き慣れちゃってます、みたいな」
「えー?!無茶言わないでよ。サインなんて、今まで一度も書いたことないんだから」
「深く考えないでいいですから。名前を書くと思わないで。ほら『考えるな、感じろ』ってやつですよ」
「それはちょっと意味合い違うでしょ?」
「いいから!じゃあ、これが最後ですからね?」
「う、うん」
颯真は3冊目の本を前に、ゴクリと唾を飲み込む。
「行きます」
「お願いします」
二人で息を整える。
颯真がスッと手を本に添え、菜乃花はじっと固唾を呑んで見守る。
サラサラとペンを流れるように動かし、颯真は最後にゆっくりと手を離した。
「おおー、素晴らしい!これぞまさに売れっ子作家!」
「本当に?」
「ええ。サインだけ見ると、ベストセラー作家に見えます」
「嘘、そんなに?やった!」
二人は興奮して盛り上がる。
が、しばらくしてそんな自分達に苦笑いした。
「何やってるんでしょうね、私達」
「ほんとだよ。著者でもないのにサインして盛り上がって。著作権侵害に当たらないかな?」
「あはは、それは大丈夫だと思いますけど」
「ね、お願いだから誰にも見せないでよ?恥ずかしいったらありゃしない」
「ふふふ、分かりました。我が家の本棚に飾っておきます」
「飾るのもダメ!ちゃんと隠して」
「はーい」
にこにこしながら、菜乃花は満足そうにサインを眺める。
「あ、それじゃあ俺はそろそろ行くね」
腕時計に目を落として颯真が立ち上がる。
「はい。お時間頂いてありがとうございました。それに、サイン本も」
「ははは…。こちらこそ、新しい本をありがとう!身体、お大事にね」
「はい。ありがとうございます」
菜乃花が立ち上がって頭を下げると、颯真は優しく笑ってからカフェを出て行った。
◇
「あ、三浦先生!」
菜乃花と別れてエレベーターに向かうと、ちょうど三浦が立っているのが見えて颯真は駆け寄った。
「宮瀬先生、お疲れ様です」
「お疲れ様です。鈴原さん、そこのカフェにいますよ」
「え?そうなの?」
「はい。今行けば会えると思います」
「そうなんだ。じゃあ、ちょっと行ってみようかな。ありがとう!」
「いえ」
どうして菜乃花がカフェにいるのだろう?
それにどうしてそのことを自分に知らせてくれないのだろう?
そう思いつつ、三浦は菜乃花にひと目会いたくてカフェに急ぐ。
(あ、いた!)
奥のテーブル席に一人で座っている菜乃花を見つけて、三浦は足を進める。
こちら向きに座っている菜乃花は、何かの本を手にしてじっと見つめていた。
「菜乃花ちゃ…」
声をかけようとした三浦の声は小さくなり、挙げかけた手は中途半端に下ろされる。
手にしていた本を胸にぎゅっと抱え、見たこともない程幸せそうな笑みを浮かべる菜乃花に、三浦はなんとも言えない寂しさが込み上げてくるのを感じていた。
◇
数日後。
三浦は菜乃花に会いたいと連絡をして、互いの休みの日に出かける約束をした。
マンションまで迎えに行くと、菜乃花は涼しげな水色のワンピース姿で現れた。
顔色も良く、体調も問題なさそうで安心する。
「こんにちは、信司さん」
「こんにちは、菜乃花ちゃん」
菜乃花の明るい笑顔に思わずドキッとしながらも、どこか胸が切なく痛む。
「今日はどこに行こうか?」
「んー、海が見たいです」
「いいね、そうしよう」
三浦は早速車を走らせる。
ドライブしながらも、菜乃花は楽しそうに職場の話をした。
「それで、みなと医療センターのボランティアも、そろそろ再開したいなと思ってるんです」
「え、本当に?身体は平気なの?」
「はい。以前みたいに頻繁にではなく、少しずつ様子を見ながら戻していこうかなと。まずは、本の整理から始めますね」
「ありがとう。でも、くれぐれも無理しないでね」
「はい、分かりました」
海沿いのパーキングに車を停めると、二人で砂浜を散歩する。
「わー、気持ちいい!」
菜乃花は両手を広げて胸いっぱいに深呼吸すると、にっこりと可愛らしい笑みを向けてくれる。
その姿に思わず頬を緩めつつ、三浦はやるせなさを感じていた。
自動販売機で缶コーヒーを買うと、ベンチに並んで座って海を眺める。
ザッと打ち寄せる波の音に、二人は心穏やかに耳を傾けていた。
「ねえ、菜乃花ちゃん」
「はい」
「プロポーズの返事なんだけど…」
そう切り出した瞬間、菜乃花がうつむいて身を固くするのが分かった。
そしてそれが、菜乃花の率直な答えなのだと三浦は悟った。
「ごめん。プロポーズは取り下げさせて欲しい」
え…、と菜乃花が目を見開く。
三浦は海を見ながら静かに話し始めた。
「俺は菜乃花ちゃんの飾らない笑顔が好きだった。子ども達にも明るく本を読んでくれる、菜乃花ちゃんの優しい声が大好きだった。大切に、ずっとそばで君を守っていきたいと思っていた。だけど、俺じゃ無理なんだって気づいたんだ」
菜乃花は何も言えずに三浦の横顔を見つめる。
「君の本当の笑顔を引き出せるのも、一番大事な時にそばにいてあげられるのも、君が素直に自分らしくいられるのも、全部相手は俺じゃない。どんなに俺が君を幸せにしたいと思っても、君は俺のそばでは幸せになれないんだ」
「そんなこと…」
思わず菜乃花が首を振ると、三浦はふっと微笑んだ。
「君は俺との結婚も真剣に考えてくれたよね。長い間ずっと悩みながらも、こうやって一緒に出かければ、いつも楽しそうに笑いかけてくれる。今も、俺の言葉を否定してくれた。でもそれは、君が優しいからだよ。俺のことを好きな訳ではないんだ」
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なんと答えていいのか分からない。
自分の本心も、三浦の言葉も、どれが本当なのか分からずただ呆然としていた。
「菜乃花ちゃん」
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「君は本当に純粋な人だよ。心が綺麗で思いやりに溢れた人だ。俺は君と出逢えて幸せだった。君には誰よりも幸せになって欲しい」
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「そんな、私…、そんなこと」
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明るく笑う三浦に、菜乃花はなんとか涙を堪らえようと唇を噛みしめる。
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