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一月十一日
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「美桜様!お待ちしておりましたわ」
馬車から降りたとたん、両手を広げたクレアにハグで熱烈な歓迎を受ける。
「あ、ありがとう、クレア」
そう言いつつ、美桜は体をのけ反らせる。
(うぐ、ちょっと苦しい)
今朝朝食を取った後、絵梨が起きるまで何をしようかと考えているところにメアリーがやって来た。
ちょっと戸惑いながら口を開く。
「美桜様、今日パレスにお越し頂けないかと旦那様が」
「え?アレンのお父様が?何の用かしら」
「さあ、そこまでは伺っていないのですが。いかがいたしましょう?」
「それはもちろん、お伺いします。でも何の用かしらね」
今回は十時にお迎えが来るとのことで、準備に時間がかけられるメアリーはほっとしたようだった。
丁寧にメイクをしてくれ、髪は少し低めのポニーテールに、ドレスは薄いグリーンでパフスリーブの可愛らしいデザインを選んでくれた。
メイソンが時間通りに馬車で迎えに来てくれ、美桜は一人乗り込んでパレスにやって来た。
まだ二度目なのに、どこか懐かしいような、ほっとする気がした。
「今日の美桜様も、また格別に素敵ですわ」
ようやく離れたクレアが言い、そんな大げさな、と美桜は照れくさくなった。
「さあ、中へ入りましょう」
クレアは嬉々として美桜を促す。
(なんだろう、クレアちょっと若返った?こんなに元気だったっけ?)
おととい初めて会った時のクレアを思い出してそう考えながら、美桜はパレスの階段を上がる。
前と同じ部屋に案内されると、既にテーブルの上には数々のケーキやクッキーが用意されていた。
相変わらずのニコニコ顔で、クレアは紅茶を淹れてくれる。
「さあどうぞ。今日はロイヤルミルクティにしてみました」
「わあ!私、これ大好きなの。ありがとう」
一口飲んで、おいしい!と言うと、クレアは嬉しそうに頷いた。
「ケーキもどうぞ召し上がれ。あ、ランチももうすぐですから、ほどほどに、ですけど」
「こんなにたくさん並べられたら、ほどほどに出来ないわよ」
まあ、そうですわね、と他人事のようにクレアは笑った。
「ところでクレア。今日は何の用で呼ばれたのかしら?私」
カップをテーブルに置きながら聞くと、クレアは、ああと思い出したように手を合わせた。
「今朝、旦那様が坊ちゃまに尋ねたんです。美桜様はいつ帰国なさるのかと。明後日の夜の便だと聞くと、そんなにすぐに?とそれはそれは驚かれて。まだ夕食にもご招待していないではないかと。それで慌てて、今日にでもお越し頂けないかとご連絡差し上げたのですわ」
「そうだったのね」
何か重大なお話でもされるのでは、と身構えていた美桜は、どうやらそうではないらしいと分かってほっとした。
「でもそんなにお気遣い頂かなくてもいいのに。私、お客様ではなくて単なるアレンの友人ってだけだから、逆に恐縮しちゃう」
するとクレアは、なぜか含み笑いのような表情を浮かべた。
「美桜様が気にされることはないですわ。旦那様が、お客様をおもてなししなくては、と仰るのは、今回ばかりは建前でしょうから」
え?どういうこと?と美桜が怪訝そうにすると、さあ!夕食までは私がお相手致しますわね、とはぐらかされた。
「時間はたっぷりありますわ。今日はパレスのあちこちまでご案内致します」
◇
「んー、やっぱりここは癒されるわ」
ローズガーデンを歩きながら、美桜は大きく深呼吸する。
みずみずしく新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んで、美桜は空を見上げた。
キラキラした光が降り注いで、まるで祝福されているかのようだ。
前回よりもじっくりと時間をかけて、クレアの説明を聞きながら見て回る。
「あちらの池には睡蓮、その先は南国をテーマにガジュマルやハイビスカス、もっと奥に蘭も育てていますわ」
「本当だ、バラばかりではないのね。この南国のエリアには、プルメリアも合いそう」
所々に可愛らしい陶器の置物や、タイルで描いた模様があったりして、雰囲気も味わえる。
椰子の木の下にベンチがあり、よく見るとブランコになっていて、美桜はクレアと一緒に乗って揺らしてみた。
二人で笑い合う。
そこから少し進んだ、ガーデンの右奥に当たる所はまだ土のままで、これから何を植えようかと相談中らしい。
「そして中央のエリアは、もちろんバラですわ」
ゆるやかな坂になっている小道をバラを見ながら進み、ガーデンの真ん中に位置する小高い丘が見えてくると、美桜は人影に気付いた。
テーブルに、なにやら食器を並べている。
「あれ?あの人確かシェフの…、フレディじゃない?」
前回、美桜にデザートをサーブしてくれたのを思い出す。
物静かでダンディなイメージだ。
「ええ。今日は美桜様に、このガーデンでランチを召し上がって頂こうと思いまして」
えっ?と大きな声で驚く美桜に気付き、フレディはにこやかに笑って頭を下げる。
「美桜様、ようこそ。さあどうぞこちらへ」
低めの渋い声でフレディに促され、美桜は戸惑いつつもテーブルに近づく。
前回は、確か屋外用の白い丸テーブルと椅子だったが、今は真っ白なクロスを掛けた大きなテーブル、そしてグリーンのソファが置かれている。
「わざわざ運んでくれたの?」
恐縮しながら美桜が聞くと、
「ええ、皆であれこれ相談しながら準備するのは、とても楽しかったですわ」
クレアがそう言い、フレディと顔を見合わせて微笑む。
美桜は胸が熱くなった。
「ありがとう」
ガーデンの中で頂くフレディのランチは、今まで食べたどんなランチよりもおいしかった。
クレアとフレディの気遣いを感じ、自分はなんて幸せ者なんだろうと美桜は思った。
◇
「では美桜様、これより私クレアが、パレス一周の旅へとお連れしますわ」
「はい!よろしくお願いします!」
気取ったクレアの調子に合わせて美桜が敬礼すると、クレアはたまらないといったように笑い始めた。
二人はパレスのメインエントランスから外に出て、まずは右側に回る。
「パレスのエントランスは東側にありますの。そして南側が庭園、西側には、あまり手を付けていない自然なままの森林や湖があります」
「え、湖?」
「そうなんです。坊ちゃまが小さい頃は、毎日森の中を駆け回って木登りしたり、湖を眺めてお過ごしでしたわ」
「へえ、アレンにもそんな時があったのね」
話しながら角を曲がると、前回見て回ったフランス式庭園に出た。
こうして端から見ると、とても広い。
建物から庭園の入り口までが、まず遠いのだ。
「ここでは、五月に各国からお客様をお招きして式典が行われます」
「え、式典?何かのセレモニーってこと?」
「ええ。代々ウォーリング家は、二年に一度この式典を行っているのです。懇意にしているお客様をおもてなしして感謝をお伝えする場でもありますし、ウォーリング家の変わらぬ繁栄を見て頂く意味もあります。とても大事な儀式ですわ。今、その準備で旦那様も坊ちゃまもお忙しくしておいでです」
(それであんなに寝る間も惜しんで仕事してるのね、アレンは)
どうか式典が成功しますように、と心の中で美桜は願う。
今回は庭園の中に入らず、建物に沿ったまま西側へと角を曲がった。
広々とした芝生と、奥には背の高い木々が見え、豊かな自然そのままの姿が見てとれる。
「気持ちいいわねえ、裸足で走り回りたい気分」
両手を広げて息をたくさん吸い込んでから、美桜は本当に走り出した。
「え、ちょっと、美桜様!」
クレアが慌てて追いかけてくる。
「クレア、無理しちゃダメよ。ゆっくりね」
振り返りながらそう言って、美桜は嬉しそうに走っていく。
やがて湖のほとりに出た。
「うわー、綺麗」
水面は陽の光を反射して輝き、覗き込むと底まで見えそうなほど透き通っている。
背景の森と合わせてとても絵になるその湖は、何だかどこかで見たことがあるような気がして、美桜は考え込んだ。
「どうかしましたか?美桜様」
ようやく追いついたクレアが、肩で息を整えながら聞く。
「あ、うん。ちょっと不思議な感覚がして。どこかでこんなイメージの風景を見たような…」
「ああ、ゆりえ様もそう仰っていましたわ。それでこの湖をスワンレイクと…」
「あ!それだ!白鳥の湖」
バレエの白鳥の湖を観た時、舞台上に広がった世界観がこれに似ている。
「夜になったら月の光に照らされて、ますます綺麗でしょうね。そうだ、この芝生に観客を呼んで、月明かりのコンサートを開いたらどう?サン=サーンスの白鳥を演奏したら素敵だわあ。ピアノでベートーヴェンの月光もいいし、いっそのこと湖を背景に白鳥の湖を踊るのもいいわね」
まあ!と言ってクレアは笑い出す。
「美桜様って、本当に次から次へとアイデアが浮かぶのですね」
「そう?」
(まあ、いつもショーのことを考えているから、ある意味職業病なのかも)
「でもやっぱりここは、もったいないほど素敵なところね」
そう言って美桜はもう一度遠くに目をやった。
「西側の次は北側ね。何があるの?」
湖を背に建物に向かいながら美桜が聞くと、特に何もないのですよ、とクレアは答えた。
「ですから、南の庭園のバルコニーから中に戻りましょうか」
と、その時、美桜の耳にかすかに何かが聞こえてきて立ち止まる。
(なんだろう、掛け声と、手拍子?)
自然と音のする方へと足を向ける。
「あ、美桜様?そちらは…」
クレアが呼び止めたが、美桜はもう北側に出る角を曲がっていた。
「わあ、すごい!兵隊さん?」
アスファルトの広場に、十数人ほどの若い男性が衛兵のような格好をして綺麗に整列している。
その向かい側に一人立っているリーダーらしき人が、手を叩きながら何かを叫んだ。
すると一斉に列が動き出し、一糸乱れぬ動きで隊列を組んだまま行進していく。
手拍子でテンポを指示していたリーダーが、もう一度何かを叫ぶと、隊員はぴたりと足を止める。
と同時にザッと音を立てて手にしていたライフルを下ろし、右手を前に伸ばしてから肘を曲げて敬礼をした。
顔をやや上げた角度も、皆きっちり揃っている。
「わー、すごいすごい!」
思わず美桜は手を叩いていた。
ぎょっとしたように一同がこちらを振り返る。
「みおさま?」
リーダーらしき人は、よく見るとメイソンだった。
驚きで固まっている。
「あ、ごめんなさい。どうぞ続けて」
そう言われても、と言いたげな困惑は隠せない。
「美桜様?あの、特にご覧いただくようなものでは。護衛隊の訓練ですわ」
追いついてきたクレアが言う。
「そうなんだ。でもとってもかっこいい。やっぱり私達とは違って本物は迫力が違うわね」
え?と首を傾げるクレアに、ああごめんなさい、思わず…と美桜は謝る。
「あのね、日本では学生のマーチングが盛んなの。部活の吹奏楽が根底にあると思うんだけど。全国規模のコンテストもあって、レベルもとても高いの」
「そうなんですか。マーチング?と言うのですね」
「そう。隊列を組んで演奏しながら、色々な技というか、隊形を変えたりして演技するの。楽器を持たないで、フラッグを使って踊るカラーガードもいてね」
へえと聞き入るクレアの横に、いつの間にかメイソンも来ていた。
「学生時代は私もマーチングをやっていたんだけど、今働いているテーマパークでは、それをもとにアレンジしたショーをやっているの。だから今見て、とても刺激を受けちゃった」
「まあ、そうなんですね。でもお聞きしていると、美桜様の方がすごいことをなさっているようですわ。ただ行進するだけでなく隊形を変えたり、演技とか。ねえ、メイソン」
クレアが隣のメイソンを見上げると、メイソンは頷きながら前のめりになって、美桜に聞いてきた。
「みおさま。あの、その、わざというのは?」
「あ、えっとね。たとえばトリックターンとか…」
「トリック…?」
「うーん、言葉では説明しにくいな。ちょっとやってもらってもいい?」
そう言うと美桜は、こちらの様子をじっと見守っていた護衛隊に近づいた。
「誰でもいいのだけど、四人協力してくれる?」
すぐさまクレアが通訳してくれた。
手を挙げてくれた四人に、横一列に並んでもらう。
「いい?まずはみんなで歩くの。ワンツースリーフォーの四歩ね。その後は一人ずつ一拍で右に向きを変えてね。タイミングは、あなたがファイブ、次のあなたはセブン、その次がナイン、最後にイレブンね。ターンした後は普通に歩いて」
他の人の動きに惑わされないで、自分のタイミングに集中してねと言ってから、美桜は少し離れて手拍子を始めた。
「このテンポね。いい?Ready, go!」
一斉に歩き始めた列に、美桜は大きな声でカウントする。
「ワンツースリーフォー、ファイブ!セブン!ナイン!イレブン!エン、ストップ!」
ぴたっと列が止まった後、皆一斉におおーとどよめいた。
「まあ、美桜様、不思議ですわ。最初は横向きに歩いていたのが、気付いたらこちらに向かっていて…。いつの間に?」
「そうなの。これがトリックターン。ポイントは、一番観客に近い側の人が最後にターンすること。そうすると、ずっと目の前を横切っていると思っていた隊列が、いきなりこちらに向かってくるような迫力を、見ている人に感じさせられるの」
「ええ、ええ。まさにそんな感じでしたわ」
「みおさま。あの、このわざ、ほかにも?」
メイソンが興奮気味に聞いてくる。
「あ、他はねえ。ピンフィールとか…」
「ピン…?」
美桜は苦笑すると、ドレスのポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
勤務先のパークのHPに載せている動画の中から一つを選んで、メイソンに見せる。
「これは、私が実際に出演しているショーなんだけどね。もう少し先…、これ!これがピンフィール。内側の人を軸に列が回転するの」
ほう…と食い入るように小さな画面を見ているメイソンに、顔をくっつける勢いでクレアが横から覗いてくる。
途中で止めるに止められなくなって、結局ショーの最後まで流した。
「素晴らしいですわ!これぞまさしく観る者皆を魅了するショーですわね」
パチパチと拍手しながら称賛するクレアに、美桜は照れくさそうにぺこりとお辞儀する。
ふと顔を上げると、隊員達が動画を見ようと、我も我もと手を挙げている。
美桜はまた苦笑いしてメイソンに言った。
「この動画、メイソンに送るわね。送信先教えて?」
メイソンの連絡先を登録してから、美桜はいくつかの動画を送った。
「私達ショーチームが定期的に更新しているブログがあるんだけど、そこから本番のショーをいくつかと、あとは練習風景を撮影したものも載せてあるから送るわね。技やターンを色々組み合わせてショーを作るの。何かの参考になれば」
そう言って美桜が微笑むと、メイソンは、ありがとうございます!と言って敬礼した。
他の隊員達も一斉に敬礼する。
美桜はまた照れくさそうに頭を下げた。
◇
「ふわー楽しかった!でもさすがにちょっと疲れちゃったかな」
三階の広間に戻ってソファにもたれると、お疲れ様でした、とクレアが紅茶を出してくれる。
「ありがとう。はあ、おいしい」
「美桜様、何か軽く召し上がります?」
「ううん、夕食が入らなくなっちゃうから」
そうですか、と言ったあと、あっ!と何かを思い出したように、クレアはいそいそと離れていく。
どうしたのかと美桜が目で追っていると、やがて何かを手に戻ってきた。
「美桜様、こちらをご覧いただけますか?」
そう言ってクレアが差し出したのは、おとといピアノの横の棚で見かけた楽器ケースだった。
「え、これってフルートよね?触っていいの?だってこれは…」
アレンのお母様の大事な…、そう思ってためらっていると、クレアは優しく笑った。
「先日の美桜様とのお話を坊ちゃまに伝えましたの。そしたら坊ちゃまがリペアマンに連絡して、調整させたんですわ。美桜様に見ていただけるようにと」
「ええ?そうなの」
美桜はもう一度楽器ケースに目をやると、おそるおそる受け取った。
クレアは美桜を促すようにゆっくりと頷く。
慎重に膝の上に載せてから、美桜はそっとケースを開けた。
「わあ、綺麗…」
一目で高級なものだと分かる。
楽器に刻まれたメーカーのマークとモデル名を見ると、やはり美桜には手が届かないほどの高価な楽器だった。
「美桜様、吹いてみてくださいな」
「ええ?そんなことだめよ。さすがにそれは」
「その為に坊ちゃまはリペアマンに頼んだのですわ。ね?音が出るか確かめてみてください」
うーん、でも、と美桜はフルートを見つめる。
「アレンに聞いてみてからね」
そう言うと、ゆっくりケースを閉じてクレアに手渡す。
そうですか…、と少し残念そうにしながら、クレアは棚にケースをしまった。
その時、部屋の端のドアが開く音がして、アレンが入ってくるのが見えた。
「アレン!」
「え、坊ちゃま?」
アレンは片手を軽く挙げながら、二人のいるソファへと近付いてくる。
(あれ?何かアレン、おかしい?)
美桜は立ち上がり、アレンのもとへ行くと、
「アレン、どうかした?」
と、見上げるようにアレンの顔を覗き込んだ。
「ん?何が?」
「なんだか、ちょっと様子が変な気がする」
「え?そんなことないよ」
「そう?ならいいんだけど」
美桜がそう言った次の瞬間、アレンはふっと目を閉じたかと思うと、そのまま体の力が抜けたように、一気に床に崩れ落ちた。
「アレン!」
とっさに手を伸ばして抱きとめたまでは良かったが、アレンの体重を一人で支えきれるはずもなく、美桜はアレンを抱えたまま床に座り込んだ。
「美桜様!」
悲鳴のようなクレアの声が響く。
「アレン、アレン?聞こえる?」
美桜は片腕でアレンの頭を支えながら、額に手を当ててみた。
驚くほど熱い。
「クレア、すぐに氷水とタオルを!あとお医者様にも連絡して」
そう言いながら振り向くと、クレアは両手を口元に当てたまま呆然と立ち尽くしている。
「クレア、しっかり!」
美桜の声にハッと正気を取り戻すと、はい、ただいま!と言って、クレアは急いで部屋を出て行った。
「美桜様、何事ですか?…坊ちゃま!」
物音を聞いたのか、グレッグが部屋に駆け込んできた。
メイソンも続いて入ってくる。
「すごい熱なの。ベッドに寝かせないと」
「はい、直ちに。メイソン、隣の部屋へ」
メイソンは美桜の横にひざまづくと、アレンを一気に抱き上げた。
グレッグが隣の部屋に続くドアを開け、メイソンはアレンを窓際のベッドへと寝かせた。
美桜はすぐさま、アレンの様子をうかがう。
さっきとは違い、息遣いも荒くぐったりしている。
美桜は、アレンのシャツのボタンをいくつか外して首元を緩めながら、グレッグに言う。
「カーテンを閉めてくれる?」
「はい」
遮光カーテンなのだろう、閉めると部屋が一気に暗くなった。
グレッグはサイドテーブルのランプを弱めにつけてくれる。
「ありがとう」
美桜はもう一度、アレンの額と首筋に手を当てる。
だんだんと汗もかき始めているようだった。
「だいぶ熱が高いわ。いつからかしら」
「さあ…。書斎で仕事中も、全くいつもとお変わりありませんでした」
その時クレアがワゴンを押して戻ってきた。
「美桜様、お待たせいたしました」
氷や水やタオルなど、どれも多めに載せている。
「ありがとう、クレア」
氷水に浸したタオルを固く絞って、そっとアレンの額に乗せる。
一瞬、体を固くしたアレンは、そのあとホッとしたように力を抜く。
美桜はもう一枚タオルを冷やすと、アレンの頭を少し持ち上げて、首の後ろに当てた。
「アレン、一体どうしたのだ?」
ジョージの声がしてドアを見ると、ドクターらしき人と一緒に足早に入ってくる。
美桜はベッドから離れて壁際に移動した。
心配そうに見守るジョージの横で、鞄から聴診器や体温計などを取り出しながら、ドクターが診察する。
やがて頷いて立ち上がると、ジョージに手短に説明し始めた。
美桜の横でクレアが通訳してくれる。
「疲れが溜まっているのと、寝不足による過労でしょう、と。しっかり眠れば明日には少し良くなるそうですわ」
「そう」
美桜は短く答えた。
何かの病気ではない事は良かったけれど、やはりこんなにもぐったりしているアレンのことが心配だ。
ジョージがドクターを見送りながら部屋から出ていくと、美桜はまたアレンのそばに戻った。
額に載せたタオルは、すでにぬるく温まっている。
もう一度氷水に浸してから、載せ直した。
アレンは、肩で苦しそうに息をしながら、たくさん汗をかいている。
新しいタオルを氷水で冷やしてから、美桜はアレンの顔や首周りの汗を拭き始めた。
「美桜様、私が…」
「ううん、やらせて」
クレアが代わろうとするが、美桜は譲らなかった。
その様子を見て、グレッグがそっと椅子を持って来てくれる。
「ありがとう」
グレッグは頷いて、クレアと何やら話したあと、メイソンと一緒に部屋を出て行った。
美桜は改めて部屋を見渡す。
ダブルサイズのベッドが二つ、あとは壁際にソファとテーブルがある、ホテルのようなシンプルな部屋だった。
「ここは誰かの寝室なの?」
美桜の質問にクレアが答えてくれる。
「寝室というよりは、休憩するためのお部屋ですわ。少し横になったり、シャワーを浴びたり。ですから、いつも使っている訳ではないんです」
「そう」
「それより美桜様はそろそろフォレストガーデンへお戻りください。グレッグがメイソンに送らせると言っていました。せっかく夕食にお招きしましたのに、申し訳ありません」
でも…、と美桜がアレンに目を向けると、坊ちゃまの看病はお任せくださいとクレアが言う。
美桜はしばらく考えてから首を振った。
「やっぱりこのままここにいさせて。辛そうなアレンを置いて帰るなんて出来ないわ」
「そう仰られても…。お客様にそんな」
「私、お客様じゃないわ。アレンの友人よ。私にとってもアレンは、とても大事な友人なの。お願い!クレア」
顔の前で両手を合わせた美桜が、目をつぶって必死に頼むと、やがてクレアは諦めたように息を吐いた。
「分かりましたわ。ですが、決して無理はなさらないでくださいね。美桜様のサポートは私がやります。だって美桜様は大事なお客様なのですからね」
「あら、クレアったら結構強情なのね」
「まあ!美桜様こそ」
そう言うと二人は顔を見合わせて笑った。
◇
何時間経ったのだろう。
カーテンを閉めていることもあって、今が一体何時なのか見当がつかない。
あれから美桜は、ひたすらアレンのタオルを取り換え、汗を拭き続けた。
クレアも氷やタオルを補充してくれる。
アレンの呼吸は相変わらず荒く、表情も辛そうだ。
けれど、これだけ汗をかいてぐっすり眠れば、明日には熱も下がるような気がする。
「美桜様、フレディが美桜様にと」
何度目かのタオルの補充とともに、ワゴンに美味しそうなサンドイッチとスープを載せてきたクレアが言う。
「ありがとう!いただきます」
食べやすいようにカットされた小ぶりのサンドイッチはとてもおいしく、温かいスープはホッと美桜を安心させる。
添えられたヨーグルトやサラダ、フルーツの見た目も美しく、フレディの優しさを感じた。
やがて夜が更けるにつれて、部屋が一気に寒くなってきた。
クレアは美桜のために暖房を強めてくれたが、アレンのことを思って少し控えめにしてもらう。
アレンはもはや汗びっしょりという具合だった。
「クレア、アレンの着替えを持って来てくれる?汗を良く吸う素材で、そうねえ、ナイトガウンみたいなのがあれば」
「ええ、ありますわ」
クレアは部屋のチェストから、肌触りの良いガウンを出して美桜に渡す。
「ありがとう。クレアも手伝ってくれる?」
「ええ?まさか美桜様、坊ちゃまを着替えさせるのですか?」
「もちろん。だってこんなに汗をかいた服のままだと良くないでしょ?」
「それでしたら、メイソンかグレッグに…」
「わざわざ呼ばなくても大丈夫よ」
そう言って美桜は掛け布団をめくると、手早くアレンのシャツのボタンを外していく。
全部外すと、急に空気に触れてびっくりさせないようにバスタオルをアレンの体に載せてから、シャツの前を開いた。
「腕を抜くのが大変なのよね。クレア、アレンの体をゆっくり横に傾けるわよ」
「は、はい!」
さっさと作業を進める美桜に、もはやクレアは従うしかなかった。
せーの!と声を合わせて、まずはアレンを右向きにさせる。
そうして左腕をゆっくりシャツから抜いた。
「ふう、なんとか片腕抜けたわね」
そう言って美桜は、左腕が抜けたシャツを、アレンの体の下へとぐいぐい押し込む。
「じゃあ今度は左側に傾けるわよ」
一旦仰向けにしてから、せーの!と再び声をかけ合い、アレンの体を左側に向かせた。
「このままにしててね」
美桜は、アレンの体の下に残ったシャツを引っ張り出すと、そのまま右腕からシャツを全て抜き去った。
するとクレアが、もう終わっただろうと力を抜いてアレンを横たえようとし、美桜は慌てて止める。
「あー、まだダメよ!そのままそのまま」
そう言いながら美桜は、ガウンの右腕をアレンに通す。
あとは同じように、またアレンの体の下にガウンの残りをぐいぐい押しやり、反対向きにさせてから左腕を通した。
「はあ、なんとか出来たわね」
思ったよりも重労働で、クレアと二人がかりでどうにかこなせたといった感じだ。
「ありがとう、クレア」
そう言ってから、ガウンの前を合わせようと目を落として、美桜はアレンの体にドキリとした。
服を着ている時は気付かなかったが、かなり筋肉質だ。
細身だと思っていたのは、背が高くスタイルが良いためだったのか。
(うわ、なんだか男の人って感じ)
いや、実際男の人だけど…と、どぎまぎしながらガウンの腰ひもを結んだ。
と、下はどうしようかと迷う。
(ズボンも出来れば脱がせた方がいいのだろうけど)
そこまで考えて、いや、やめよう、と美桜は顔を赤くする。
ベルトを緩めるだけにしておいた。
クレアが、汗で冷たくなったアレンのシャツを持って部屋を出て行くと、美桜はベッドの横の椅子に座ってふうと一息ついた。
アレンは、どうやら幾分落ち着いてきたようだ。
穏やかな寝息を立てて、熟睡している。
アレンの額にそっと手を載せてみると、さきほどよりは熱も下がっている気がする。
(うん、このまま朝まで眠れば平熱になりそうね)
ほっと安心した途端に、手のひらに触れているアレンを意識してドキッとする。
(なんだろう。なんだか急に、アレンが知らない人になったみたい)
「美桜様、お茶をお持ちしましたわ。少し休憩を…」
戻ってきたクレアが美桜の様子を見て言葉を止める。
「美桜様、どうかされました?お顔が赤いような。もしかして、美桜様も風邪を?」
「ああ、ううん。これは違うの。ほら、ちょっとアレンの着替えで動いたから」
「そうですか?でも心配ですわ。こちらのベッドで休んでくださいな」
「うん、あとでね。それよりクレアも、お部屋に戻って少し眠ったら?」
「私は大丈夫です。こう見えても体力には自信があるんですの」
そう言って、ソファテーブルに紅茶を用意する。
「さあ、どうぞこちらへ。フレディがスコーンも焼いてくれたんですよ」
「うわー、やった!」
美桜はいそいそとソファへ移動する。
「焼き立てね。いい匂い」
さっそく、添えられたホイップクリームをたっぷりつけて、スコーンを口に運ぶ。
「おいしい!」
美桜が満面の笑みを浮かべるのを見て、クレアは安心したように頷いた。
「それにしても、びっくりしましたわ。坊ちゃまが倒れるなんて」
美桜は、アレンが倒れた時のクレアの様子を思い出していた。
(いつも冷静なクレアが、あの時はただ驚いて動けなかったものね)
「アレンが熱を出すのって、珍しいの?」
美桜が聞くと、クレアは紅茶のカップを手にしながら頷く。
「ええ。昔からお元気で、時々少し体調が悪かったり微熱があっても、一晩眠ればすぐに治りました。小さい時に一度だけ寝込んだことがあるくらいですわ」
あの時は、確かゆりえ様が付きっきりで看病されてました、とクレアは遠くを見るように続ける。
そう、と美桜はその光景を想像しながらベッドのアレンに目をやった。
(子どもの頃に熱を出すと、しんどくて辛いけど、隣にお母さんがいてくれると安心するのよね。眠ってても、うっすらそれを覚えていたりして)
アレンの記憶に、その時のお母様のぬくもりが残っているといいな、と願いながら美桜は紅茶を一口飲んだ。
◇
なんだかやけに部屋が静まり返っている気がしてふと横を見ると、クレアがソファにもたれてうつらうつらとしていた。
美桜はゆっくり立ち上がって、空いているベッドからブランケットを持ってくると、そっとクレアに掛けた。
夜中の二時を過ぎた頃だろうか。
アレンの額のタオルを交換しながら、美桜はあれ?と手を止めた。
(熱が上がってる?)
額や首筋に手をやると、やはり少し前よりも熱く感じる。
アレンの呼吸も荒い。
体温計で測ってみると、一旦下がっていた熱が、再び三十八度を超えていた。
(どうしよう、大丈夫かしら)
不安になって、クレアを起こそうかと迷う。
だが、疲れているであろうクレアを起こすのもはばかられる。
(夜中だから熱がぶり返したのかな)
自分の経験を思い出しながら、美桜はその可能性を考えた。
(きっとそうかも。とにかく冷やしながら、もう少し様子を見よう)
己を励ましながら、ひたすらタオルを絞っては交換、また絞っては汗を拭くのを繰り返す。
二時間くらい経った頃、アレンの様子が落ち着いてきたことに気付く。
息苦しさもなくなったようで、穏やかに眠っている。
美桜はもう一度体温計で測ってみた。
(三十六度五分!やったー、すっかり平熱ね)
嬉しさのあまり声を出しそうになり、慌てて口を押える。
(良かった!もうこれでひと安心ね)
そう思った途端、急に眠気が襲ってきた。
(やっぱりちょっと疲れたのかな)
そして美桜は一気に眠りに落ちていった。
馬車から降りたとたん、両手を広げたクレアにハグで熱烈な歓迎を受ける。
「あ、ありがとう、クレア」
そう言いつつ、美桜は体をのけ反らせる。
(うぐ、ちょっと苦しい)
今朝朝食を取った後、絵梨が起きるまで何をしようかと考えているところにメアリーがやって来た。
ちょっと戸惑いながら口を開く。
「美桜様、今日パレスにお越し頂けないかと旦那様が」
「え?アレンのお父様が?何の用かしら」
「さあ、そこまでは伺っていないのですが。いかがいたしましょう?」
「それはもちろん、お伺いします。でも何の用かしらね」
今回は十時にお迎えが来るとのことで、準備に時間がかけられるメアリーはほっとしたようだった。
丁寧にメイクをしてくれ、髪は少し低めのポニーテールに、ドレスは薄いグリーンでパフスリーブの可愛らしいデザインを選んでくれた。
メイソンが時間通りに馬車で迎えに来てくれ、美桜は一人乗り込んでパレスにやって来た。
まだ二度目なのに、どこか懐かしいような、ほっとする気がした。
「今日の美桜様も、また格別に素敵ですわ」
ようやく離れたクレアが言い、そんな大げさな、と美桜は照れくさくなった。
「さあ、中へ入りましょう」
クレアは嬉々として美桜を促す。
(なんだろう、クレアちょっと若返った?こんなに元気だったっけ?)
おととい初めて会った時のクレアを思い出してそう考えながら、美桜はパレスの階段を上がる。
前と同じ部屋に案内されると、既にテーブルの上には数々のケーキやクッキーが用意されていた。
相変わらずのニコニコ顔で、クレアは紅茶を淹れてくれる。
「さあどうぞ。今日はロイヤルミルクティにしてみました」
「わあ!私、これ大好きなの。ありがとう」
一口飲んで、おいしい!と言うと、クレアは嬉しそうに頷いた。
「ケーキもどうぞ召し上がれ。あ、ランチももうすぐですから、ほどほどに、ですけど」
「こんなにたくさん並べられたら、ほどほどに出来ないわよ」
まあ、そうですわね、と他人事のようにクレアは笑った。
「ところでクレア。今日は何の用で呼ばれたのかしら?私」
カップをテーブルに置きながら聞くと、クレアは、ああと思い出したように手を合わせた。
「今朝、旦那様が坊ちゃまに尋ねたんです。美桜様はいつ帰国なさるのかと。明後日の夜の便だと聞くと、そんなにすぐに?とそれはそれは驚かれて。まだ夕食にもご招待していないではないかと。それで慌てて、今日にでもお越し頂けないかとご連絡差し上げたのですわ」
「そうだったのね」
何か重大なお話でもされるのでは、と身構えていた美桜は、どうやらそうではないらしいと分かってほっとした。
「でもそんなにお気遣い頂かなくてもいいのに。私、お客様ではなくて単なるアレンの友人ってだけだから、逆に恐縮しちゃう」
するとクレアは、なぜか含み笑いのような表情を浮かべた。
「美桜様が気にされることはないですわ。旦那様が、お客様をおもてなししなくては、と仰るのは、今回ばかりは建前でしょうから」
え?どういうこと?と美桜が怪訝そうにすると、さあ!夕食までは私がお相手致しますわね、とはぐらかされた。
「時間はたっぷりありますわ。今日はパレスのあちこちまでご案内致します」
◇
「んー、やっぱりここは癒されるわ」
ローズガーデンを歩きながら、美桜は大きく深呼吸する。
みずみずしく新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んで、美桜は空を見上げた。
キラキラした光が降り注いで、まるで祝福されているかのようだ。
前回よりもじっくりと時間をかけて、クレアの説明を聞きながら見て回る。
「あちらの池には睡蓮、その先は南国をテーマにガジュマルやハイビスカス、もっと奥に蘭も育てていますわ」
「本当だ、バラばかりではないのね。この南国のエリアには、プルメリアも合いそう」
所々に可愛らしい陶器の置物や、タイルで描いた模様があったりして、雰囲気も味わえる。
椰子の木の下にベンチがあり、よく見るとブランコになっていて、美桜はクレアと一緒に乗って揺らしてみた。
二人で笑い合う。
そこから少し進んだ、ガーデンの右奥に当たる所はまだ土のままで、これから何を植えようかと相談中らしい。
「そして中央のエリアは、もちろんバラですわ」
ゆるやかな坂になっている小道をバラを見ながら進み、ガーデンの真ん中に位置する小高い丘が見えてくると、美桜は人影に気付いた。
テーブルに、なにやら食器を並べている。
「あれ?あの人確かシェフの…、フレディじゃない?」
前回、美桜にデザートをサーブしてくれたのを思い出す。
物静かでダンディなイメージだ。
「ええ。今日は美桜様に、このガーデンでランチを召し上がって頂こうと思いまして」
えっ?と大きな声で驚く美桜に気付き、フレディはにこやかに笑って頭を下げる。
「美桜様、ようこそ。さあどうぞこちらへ」
低めの渋い声でフレディに促され、美桜は戸惑いつつもテーブルに近づく。
前回は、確か屋外用の白い丸テーブルと椅子だったが、今は真っ白なクロスを掛けた大きなテーブル、そしてグリーンのソファが置かれている。
「わざわざ運んでくれたの?」
恐縮しながら美桜が聞くと、
「ええ、皆であれこれ相談しながら準備するのは、とても楽しかったですわ」
クレアがそう言い、フレディと顔を見合わせて微笑む。
美桜は胸が熱くなった。
「ありがとう」
ガーデンの中で頂くフレディのランチは、今まで食べたどんなランチよりもおいしかった。
クレアとフレディの気遣いを感じ、自分はなんて幸せ者なんだろうと美桜は思った。
◇
「では美桜様、これより私クレアが、パレス一周の旅へとお連れしますわ」
「はい!よろしくお願いします!」
気取ったクレアの調子に合わせて美桜が敬礼すると、クレアはたまらないといったように笑い始めた。
二人はパレスのメインエントランスから外に出て、まずは右側に回る。
「パレスのエントランスは東側にありますの。そして南側が庭園、西側には、あまり手を付けていない自然なままの森林や湖があります」
「え、湖?」
「そうなんです。坊ちゃまが小さい頃は、毎日森の中を駆け回って木登りしたり、湖を眺めてお過ごしでしたわ」
「へえ、アレンにもそんな時があったのね」
話しながら角を曲がると、前回見て回ったフランス式庭園に出た。
こうして端から見ると、とても広い。
建物から庭園の入り口までが、まず遠いのだ。
「ここでは、五月に各国からお客様をお招きして式典が行われます」
「え、式典?何かのセレモニーってこと?」
「ええ。代々ウォーリング家は、二年に一度この式典を行っているのです。懇意にしているお客様をおもてなしして感謝をお伝えする場でもありますし、ウォーリング家の変わらぬ繁栄を見て頂く意味もあります。とても大事な儀式ですわ。今、その準備で旦那様も坊ちゃまもお忙しくしておいでです」
(それであんなに寝る間も惜しんで仕事してるのね、アレンは)
どうか式典が成功しますように、と心の中で美桜は願う。
今回は庭園の中に入らず、建物に沿ったまま西側へと角を曲がった。
広々とした芝生と、奥には背の高い木々が見え、豊かな自然そのままの姿が見てとれる。
「気持ちいいわねえ、裸足で走り回りたい気分」
両手を広げて息をたくさん吸い込んでから、美桜は本当に走り出した。
「え、ちょっと、美桜様!」
クレアが慌てて追いかけてくる。
「クレア、無理しちゃダメよ。ゆっくりね」
振り返りながらそう言って、美桜は嬉しそうに走っていく。
やがて湖のほとりに出た。
「うわー、綺麗」
水面は陽の光を反射して輝き、覗き込むと底まで見えそうなほど透き通っている。
背景の森と合わせてとても絵になるその湖は、何だかどこかで見たことがあるような気がして、美桜は考え込んだ。
「どうかしましたか?美桜様」
ようやく追いついたクレアが、肩で息を整えながら聞く。
「あ、うん。ちょっと不思議な感覚がして。どこかでこんなイメージの風景を見たような…」
「ああ、ゆりえ様もそう仰っていましたわ。それでこの湖をスワンレイクと…」
「あ!それだ!白鳥の湖」
バレエの白鳥の湖を観た時、舞台上に広がった世界観がこれに似ている。
「夜になったら月の光に照らされて、ますます綺麗でしょうね。そうだ、この芝生に観客を呼んで、月明かりのコンサートを開いたらどう?サン=サーンスの白鳥を演奏したら素敵だわあ。ピアノでベートーヴェンの月光もいいし、いっそのこと湖を背景に白鳥の湖を踊るのもいいわね」
まあ!と言ってクレアは笑い出す。
「美桜様って、本当に次から次へとアイデアが浮かぶのですね」
「そう?」
(まあ、いつもショーのことを考えているから、ある意味職業病なのかも)
「でもやっぱりここは、もったいないほど素敵なところね」
そう言って美桜はもう一度遠くに目をやった。
「西側の次は北側ね。何があるの?」
湖を背に建物に向かいながら美桜が聞くと、特に何もないのですよ、とクレアは答えた。
「ですから、南の庭園のバルコニーから中に戻りましょうか」
と、その時、美桜の耳にかすかに何かが聞こえてきて立ち止まる。
(なんだろう、掛け声と、手拍子?)
自然と音のする方へと足を向ける。
「あ、美桜様?そちらは…」
クレアが呼び止めたが、美桜はもう北側に出る角を曲がっていた。
「わあ、すごい!兵隊さん?」
アスファルトの広場に、十数人ほどの若い男性が衛兵のような格好をして綺麗に整列している。
その向かい側に一人立っているリーダーらしき人が、手を叩きながら何かを叫んだ。
すると一斉に列が動き出し、一糸乱れぬ動きで隊列を組んだまま行進していく。
手拍子でテンポを指示していたリーダーが、もう一度何かを叫ぶと、隊員はぴたりと足を止める。
と同時にザッと音を立てて手にしていたライフルを下ろし、右手を前に伸ばしてから肘を曲げて敬礼をした。
顔をやや上げた角度も、皆きっちり揃っている。
「わー、すごいすごい!」
思わず美桜は手を叩いていた。
ぎょっとしたように一同がこちらを振り返る。
「みおさま?」
リーダーらしき人は、よく見るとメイソンだった。
驚きで固まっている。
「あ、ごめんなさい。どうぞ続けて」
そう言われても、と言いたげな困惑は隠せない。
「美桜様?あの、特にご覧いただくようなものでは。護衛隊の訓練ですわ」
追いついてきたクレアが言う。
「そうなんだ。でもとってもかっこいい。やっぱり私達とは違って本物は迫力が違うわね」
え?と首を傾げるクレアに、ああごめんなさい、思わず…と美桜は謝る。
「あのね、日本では学生のマーチングが盛んなの。部活の吹奏楽が根底にあると思うんだけど。全国規模のコンテストもあって、レベルもとても高いの」
「そうなんですか。マーチング?と言うのですね」
「そう。隊列を組んで演奏しながら、色々な技というか、隊形を変えたりして演技するの。楽器を持たないで、フラッグを使って踊るカラーガードもいてね」
へえと聞き入るクレアの横に、いつの間にかメイソンも来ていた。
「学生時代は私もマーチングをやっていたんだけど、今働いているテーマパークでは、それをもとにアレンジしたショーをやっているの。だから今見て、とても刺激を受けちゃった」
「まあ、そうなんですね。でもお聞きしていると、美桜様の方がすごいことをなさっているようですわ。ただ行進するだけでなく隊形を変えたり、演技とか。ねえ、メイソン」
クレアが隣のメイソンを見上げると、メイソンは頷きながら前のめりになって、美桜に聞いてきた。
「みおさま。あの、その、わざというのは?」
「あ、えっとね。たとえばトリックターンとか…」
「トリック…?」
「うーん、言葉では説明しにくいな。ちょっとやってもらってもいい?」
そう言うと美桜は、こちらの様子をじっと見守っていた護衛隊に近づいた。
「誰でもいいのだけど、四人協力してくれる?」
すぐさまクレアが通訳してくれた。
手を挙げてくれた四人に、横一列に並んでもらう。
「いい?まずはみんなで歩くの。ワンツースリーフォーの四歩ね。その後は一人ずつ一拍で右に向きを変えてね。タイミングは、あなたがファイブ、次のあなたはセブン、その次がナイン、最後にイレブンね。ターンした後は普通に歩いて」
他の人の動きに惑わされないで、自分のタイミングに集中してねと言ってから、美桜は少し離れて手拍子を始めた。
「このテンポね。いい?Ready, go!」
一斉に歩き始めた列に、美桜は大きな声でカウントする。
「ワンツースリーフォー、ファイブ!セブン!ナイン!イレブン!エン、ストップ!」
ぴたっと列が止まった後、皆一斉におおーとどよめいた。
「まあ、美桜様、不思議ですわ。最初は横向きに歩いていたのが、気付いたらこちらに向かっていて…。いつの間に?」
「そうなの。これがトリックターン。ポイントは、一番観客に近い側の人が最後にターンすること。そうすると、ずっと目の前を横切っていると思っていた隊列が、いきなりこちらに向かってくるような迫力を、見ている人に感じさせられるの」
「ええ、ええ。まさにそんな感じでしたわ」
「みおさま。あの、このわざ、ほかにも?」
メイソンが興奮気味に聞いてくる。
「あ、他はねえ。ピンフィールとか…」
「ピン…?」
美桜は苦笑すると、ドレスのポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
勤務先のパークのHPに載せている動画の中から一つを選んで、メイソンに見せる。
「これは、私が実際に出演しているショーなんだけどね。もう少し先…、これ!これがピンフィール。内側の人を軸に列が回転するの」
ほう…と食い入るように小さな画面を見ているメイソンに、顔をくっつける勢いでクレアが横から覗いてくる。
途中で止めるに止められなくなって、結局ショーの最後まで流した。
「素晴らしいですわ!これぞまさしく観る者皆を魅了するショーですわね」
パチパチと拍手しながら称賛するクレアに、美桜は照れくさそうにぺこりとお辞儀する。
ふと顔を上げると、隊員達が動画を見ようと、我も我もと手を挙げている。
美桜はまた苦笑いしてメイソンに言った。
「この動画、メイソンに送るわね。送信先教えて?」
メイソンの連絡先を登録してから、美桜はいくつかの動画を送った。
「私達ショーチームが定期的に更新しているブログがあるんだけど、そこから本番のショーをいくつかと、あとは練習風景を撮影したものも載せてあるから送るわね。技やターンを色々組み合わせてショーを作るの。何かの参考になれば」
そう言って美桜が微笑むと、メイソンは、ありがとうございます!と言って敬礼した。
他の隊員達も一斉に敬礼する。
美桜はまた照れくさそうに頭を下げた。
◇
「ふわー楽しかった!でもさすがにちょっと疲れちゃったかな」
三階の広間に戻ってソファにもたれると、お疲れ様でした、とクレアが紅茶を出してくれる。
「ありがとう。はあ、おいしい」
「美桜様、何か軽く召し上がります?」
「ううん、夕食が入らなくなっちゃうから」
そうですか、と言ったあと、あっ!と何かを思い出したように、クレアはいそいそと離れていく。
どうしたのかと美桜が目で追っていると、やがて何かを手に戻ってきた。
「美桜様、こちらをご覧いただけますか?」
そう言ってクレアが差し出したのは、おとといピアノの横の棚で見かけた楽器ケースだった。
「え、これってフルートよね?触っていいの?だってこれは…」
アレンのお母様の大事な…、そう思ってためらっていると、クレアは優しく笑った。
「先日の美桜様とのお話を坊ちゃまに伝えましたの。そしたら坊ちゃまがリペアマンに連絡して、調整させたんですわ。美桜様に見ていただけるようにと」
「ええ?そうなの」
美桜はもう一度楽器ケースに目をやると、おそるおそる受け取った。
クレアは美桜を促すようにゆっくりと頷く。
慎重に膝の上に載せてから、美桜はそっとケースを開けた。
「わあ、綺麗…」
一目で高級なものだと分かる。
楽器に刻まれたメーカーのマークとモデル名を見ると、やはり美桜には手が届かないほどの高価な楽器だった。
「美桜様、吹いてみてくださいな」
「ええ?そんなことだめよ。さすがにそれは」
「その為に坊ちゃまはリペアマンに頼んだのですわ。ね?音が出るか確かめてみてください」
うーん、でも、と美桜はフルートを見つめる。
「アレンに聞いてみてからね」
そう言うと、ゆっくりケースを閉じてクレアに手渡す。
そうですか…、と少し残念そうにしながら、クレアは棚にケースをしまった。
その時、部屋の端のドアが開く音がして、アレンが入ってくるのが見えた。
「アレン!」
「え、坊ちゃま?」
アレンは片手を軽く挙げながら、二人のいるソファへと近付いてくる。
(あれ?何かアレン、おかしい?)
美桜は立ち上がり、アレンのもとへ行くと、
「アレン、どうかした?」
と、見上げるようにアレンの顔を覗き込んだ。
「ん?何が?」
「なんだか、ちょっと様子が変な気がする」
「え?そんなことないよ」
「そう?ならいいんだけど」
美桜がそう言った次の瞬間、アレンはふっと目を閉じたかと思うと、そのまま体の力が抜けたように、一気に床に崩れ落ちた。
「アレン!」
とっさに手を伸ばして抱きとめたまでは良かったが、アレンの体重を一人で支えきれるはずもなく、美桜はアレンを抱えたまま床に座り込んだ。
「美桜様!」
悲鳴のようなクレアの声が響く。
「アレン、アレン?聞こえる?」
美桜は片腕でアレンの頭を支えながら、額に手を当ててみた。
驚くほど熱い。
「クレア、すぐに氷水とタオルを!あとお医者様にも連絡して」
そう言いながら振り向くと、クレアは両手を口元に当てたまま呆然と立ち尽くしている。
「クレア、しっかり!」
美桜の声にハッと正気を取り戻すと、はい、ただいま!と言って、クレアは急いで部屋を出て行った。
「美桜様、何事ですか?…坊ちゃま!」
物音を聞いたのか、グレッグが部屋に駆け込んできた。
メイソンも続いて入ってくる。
「すごい熱なの。ベッドに寝かせないと」
「はい、直ちに。メイソン、隣の部屋へ」
メイソンは美桜の横にひざまづくと、アレンを一気に抱き上げた。
グレッグが隣の部屋に続くドアを開け、メイソンはアレンを窓際のベッドへと寝かせた。
美桜はすぐさま、アレンの様子をうかがう。
さっきとは違い、息遣いも荒くぐったりしている。
美桜は、アレンのシャツのボタンをいくつか外して首元を緩めながら、グレッグに言う。
「カーテンを閉めてくれる?」
「はい」
遮光カーテンなのだろう、閉めると部屋が一気に暗くなった。
グレッグはサイドテーブルのランプを弱めにつけてくれる。
「ありがとう」
美桜はもう一度、アレンの額と首筋に手を当てる。
だんだんと汗もかき始めているようだった。
「だいぶ熱が高いわ。いつからかしら」
「さあ…。書斎で仕事中も、全くいつもとお変わりありませんでした」
その時クレアがワゴンを押して戻ってきた。
「美桜様、お待たせいたしました」
氷や水やタオルなど、どれも多めに載せている。
「ありがとう、クレア」
氷水に浸したタオルを固く絞って、そっとアレンの額に乗せる。
一瞬、体を固くしたアレンは、そのあとホッとしたように力を抜く。
美桜はもう一枚タオルを冷やすと、アレンの頭を少し持ち上げて、首の後ろに当てた。
「アレン、一体どうしたのだ?」
ジョージの声がしてドアを見ると、ドクターらしき人と一緒に足早に入ってくる。
美桜はベッドから離れて壁際に移動した。
心配そうに見守るジョージの横で、鞄から聴診器や体温計などを取り出しながら、ドクターが診察する。
やがて頷いて立ち上がると、ジョージに手短に説明し始めた。
美桜の横でクレアが通訳してくれる。
「疲れが溜まっているのと、寝不足による過労でしょう、と。しっかり眠れば明日には少し良くなるそうですわ」
「そう」
美桜は短く答えた。
何かの病気ではない事は良かったけれど、やはりこんなにもぐったりしているアレンのことが心配だ。
ジョージがドクターを見送りながら部屋から出ていくと、美桜はまたアレンのそばに戻った。
額に載せたタオルは、すでにぬるく温まっている。
もう一度氷水に浸してから、載せ直した。
アレンは、肩で苦しそうに息をしながら、たくさん汗をかいている。
新しいタオルを氷水で冷やしてから、美桜はアレンの顔や首周りの汗を拭き始めた。
「美桜様、私が…」
「ううん、やらせて」
クレアが代わろうとするが、美桜は譲らなかった。
その様子を見て、グレッグがそっと椅子を持って来てくれる。
「ありがとう」
グレッグは頷いて、クレアと何やら話したあと、メイソンと一緒に部屋を出て行った。
美桜は改めて部屋を見渡す。
ダブルサイズのベッドが二つ、あとは壁際にソファとテーブルがある、ホテルのようなシンプルな部屋だった。
「ここは誰かの寝室なの?」
美桜の質問にクレアが答えてくれる。
「寝室というよりは、休憩するためのお部屋ですわ。少し横になったり、シャワーを浴びたり。ですから、いつも使っている訳ではないんです」
「そう」
「それより美桜様はそろそろフォレストガーデンへお戻りください。グレッグがメイソンに送らせると言っていました。せっかく夕食にお招きしましたのに、申し訳ありません」
でも…、と美桜がアレンに目を向けると、坊ちゃまの看病はお任せくださいとクレアが言う。
美桜はしばらく考えてから首を振った。
「やっぱりこのままここにいさせて。辛そうなアレンを置いて帰るなんて出来ないわ」
「そう仰られても…。お客様にそんな」
「私、お客様じゃないわ。アレンの友人よ。私にとってもアレンは、とても大事な友人なの。お願い!クレア」
顔の前で両手を合わせた美桜が、目をつぶって必死に頼むと、やがてクレアは諦めたように息を吐いた。
「分かりましたわ。ですが、決して無理はなさらないでくださいね。美桜様のサポートは私がやります。だって美桜様は大事なお客様なのですからね」
「あら、クレアったら結構強情なのね」
「まあ!美桜様こそ」
そう言うと二人は顔を見合わせて笑った。
◇
何時間経ったのだろう。
カーテンを閉めていることもあって、今が一体何時なのか見当がつかない。
あれから美桜は、ひたすらアレンのタオルを取り換え、汗を拭き続けた。
クレアも氷やタオルを補充してくれる。
アレンの呼吸は相変わらず荒く、表情も辛そうだ。
けれど、これだけ汗をかいてぐっすり眠れば、明日には熱も下がるような気がする。
「美桜様、フレディが美桜様にと」
何度目かのタオルの補充とともに、ワゴンに美味しそうなサンドイッチとスープを載せてきたクレアが言う。
「ありがとう!いただきます」
食べやすいようにカットされた小ぶりのサンドイッチはとてもおいしく、温かいスープはホッと美桜を安心させる。
添えられたヨーグルトやサラダ、フルーツの見た目も美しく、フレディの優しさを感じた。
やがて夜が更けるにつれて、部屋が一気に寒くなってきた。
クレアは美桜のために暖房を強めてくれたが、アレンのことを思って少し控えめにしてもらう。
アレンはもはや汗びっしょりという具合だった。
「クレア、アレンの着替えを持って来てくれる?汗を良く吸う素材で、そうねえ、ナイトガウンみたいなのがあれば」
「ええ、ありますわ」
クレアは部屋のチェストから、肌触りの良いガウンを出して美桜に渡す。
「ありがとう。クレアも手伝ってくれる?」
「ええ?まさか美桜様、坊ちゃまを着替えさせるのですか?」
「もちろん。だってこんなに汗をかいた服のままだと良くないでしょ?」
「それでしたら、メイソンかグレッグに…」
「わざわざ呼ばなくても大丈夫よ」
そう言って美桜は掛け布団をめくると、手早くアレンのシャツのボタンを外していく。
全部外すと、急に空気に触れてびっくりさせないようにバスタオルをアレンの体に載せてから、シャツの前を開いた。
「腕を抜くのが大変なのよね。クレア、アレンの体をゆっくり横に傾けるわよ」
「は、はい!」
さっさと作業を進める美桜に、もはやクレアは従うしかなかった。
せーの!と声を合わせて、まずはアレンを右向きにさせる。
そうして左腕をゆっくりシャツから抜いた。
「ふう、なんとか片腕抜けたわね」
そう言って美桜は、左腕が抜けたシャツを、アレンの体の下へとぐいぐい押し込む。
「じゃあ今度は左側に傾けるわよ」
一旦仰向けにしてから、せーの!と再び声をかけ合い、アレンの体を左側に向かせた。
「このままにしててね」
美桜は、アレンの体の下に残ったシャツを引っ張り出すと、そのまま右腕からシャツを全て抜き去った。
するとクレアが、もう終わっただろうと力を抜いてアレンを横たえようとし、美桜は慌てて止める。
「あー、まだダメよ!そのままそのまま」
そう言いながら美桜は、ガウンの右腕をアレンに通す。
あとは同じように、またアレンの体の下にガウンの残りをぐいぐい押しやり、反対向きにさせてから左腕を通した。
「はあ、なんとか出来たわね」
思ったよりも重労働で、クレアと二人がかりでどうにかこなせたといった感じだ。
「ありがとう、クレア」
そう言ってから、ガウンの前を合わせようと目を落として、美桜はアレンの体にドキリとした。
服を着ている時は気付かなかったが、かなり筋肉質だ。
細身だと思っていたのは、背が高くスタイルが良いためだったのか。
(うわ、なんだか男の人って感じ)
いや、実際男の人だけど…と、どぎまぎしながらガウンの腰ひもを結んだ。
と、下はどうしようかと迷う。
(ズボンも出来れば脱がせた方がいいのだろうけど)
そこまで考えて、いや、やめよう、と美桜は顔を赤くする。
ベルトを緩めるだけにしておいた。
クレアが、汗で冷たくなったアレンのシャツを持って部屋を出て行くと、美桜はベッドの横の椅子に座ってふうと一息ついた。
アレンは、どうやら幾分落ち着いてきたようだ。
穏やかな寝息を立てて、熟睡している。
アレンの額にそっと手を載せてみると、さきほどよりは熱も下がっている気がする。
(うん、このまま朝まで眠れば平熱になりそうね)
ほっと安心した途端に、手のひらに触れているアレンを意識してドキッとする。
(なんだろう。なんだか急に、アレンが知らない人になったみたい)
「美桜様、お茶をお持ちしましたわ。少し休憩を…」
戻ってきたクレアが美桜の様子を見て言葉を止める。
「美桜様、どうかされました?お顔が赤いような。もしかして、美桜様も風邪を?」
「ああ、ううん。これは違うの。ほら、ちょっとアレンの着替えで動いたから」
「そうですか?でも心配ですわ。こちらのベッドで休んでくださいな」
「うん、あとでね。それよりクレアも、お部屋に戻って少し眠ったら?」
「私は大丈夫です。こう見えても体力には自信があるんですの」
そう言って、ソファテーブルに紅茶を用意する。
「さあ、どうぞこちらへ。フレディがスコーンも焼いてくれたんですよ」
「うわー、やった!」
美桜はいそいそとソファへ移動する。
「焼き立てね。いい匂い」
さっそく、添えられたホイップクリームをたっぷりつけて、スコーンを口に運ぶ。
「おいしい!」
美桜が満面の笑みを浮かべるのを見て、クレアは安心したように頷いた。
「それにしても、びっくりしましたわ。坊ちゃまが倒れるなんて」
美桜は、アレンが倒れた時のクレアの様子を思い出していた。
(いつも冷静なクレアが、あの時はただ驚いて動けなかったものね)
「アレンが熱を出すのって、珍しいの?」
美桜が聞くと、クレアは紅茶のカップを手にしながら頷く。
「ええ。昔からお元気で、時々少し体調が悪かったり微熱があっても、一晩眠ればすぐに治りました。小さい時に一度だけ寝込んだことがあるくらいですわ」
あの時は、確かゆりえ様が付きっきりで看病されてました、とクレアは遠くを見るように続ける。
そう、と美桜はその光景を想像しながらベッドのアレンに目をやった。
(子どもの頃に熱を出すと、しんどくて辛いけど、隣にお母さんがいてくれると安心するのよね。眠ってても、うっすらそれを覚えていたりして)
アレンの記憶に、その時のお母様のぬくもりが残っているといいな、と願いながら美桜は紅茶を一口飲んだ。
◇
なんだかやけに部屋が静まり返っている気がしてふと横を見ると、クレアがソファにもたれてうつらうつらとしていた。
美桜はゆっくり立ち上がって、空いているベッドからブランケットを持ってくると、そっとクレアに掛けた。
夜中の二時を過ぎた頃だろうか。
アレンの額のタオルを交換しながら、美桜はあれ?と手を止めた。
(熱が上がってる?)
額や首筋に手をやると、やはり少し前よりも熱く感じる。
アレンの呼吸も荒い。
体温計で測ってみると、一旦下がっていた熱が、再び三十八度を超えていた。
(どうしよう、大丈夫かしら)
不安になって、クレアを起こそうかと迷う。
だが、疲れているであろうクレアを起こすのもはばかられる。
(夜中だから熱がぶり返したのかな)
自分の経験を思い出しながら、美桜はその可能性を考えた。
(きっとそうかも。とにかく冷やしながら、もう少し様子を見よう)
己を励ましながら、ひたすらタオルを絞っては交換、また絞っては汗を拭くのを繰り返す。
二時間くらい経った頃、アレンの様子が落ち着いてきたことに気付く。
息苦しさもなくなったようで、穏やかに眠っている。
美桜はもう一度体温計で測ってみた。
(三十六度五分!やったー、すっかり平熱ね)
嬉しさのあまり声を出しそうになり、慌てて口を押える。
(良かった!もうこれでひと安心ね)
そう思った途端、急に眠気が襲ってきた。
(やっぱりちょっと疲れたのかな)
そして美桜は一気に眠りに落ちていった。
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身内はおろか取引先からまで家庭を持って一人前と諭され見合いを持ち込まれ、辟易する日々をおくる波瑠に、名案とばかりに昔馴染みの飲み友達である浅野俊輔《あさのしゅんすけ》が「俺と本気で恋愛すればいいだろ?」と、囁いた。
幼かった遠い昔、自然消滅したとはいえ、一度はお互いに気持ちを通じ合わせた相手ではあるが、いまではすっかり男女を超越している。その上、お互いの面倒な異性関係の防波堤——といえば聞こえはいいが、つまるところ俊輔の女性関係の後始末係をさせられている間柄。
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初回公開日*2017.09.13(他サイト)
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*表紙イラストは、イラストAC(もちまる様)のイラスト素材を使わせていただいてます。
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