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一月十三日
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「ああ、いよいよ最後の朝か。さらば、我が心のオアシス、フォレストガーデンよ」
まるで演劇のように、手を伸ばして見上げながら絵梨が声を張る。
「あはは。絵梨ちゃん、上手ね」
陶酔している絵梨に、美桜が笑う。
「さ、せっかくおいしいクロワッサンとコーヒーが冷めちゃうよ」
「そうね」
促されて絵梨は再び食べ始めた。
翌朝。
最後の朝食だからと、三人は一階のオープンスペースにあるカフェで朝食を取ることにした。
美味しいオムレツにフレッシュなオレンジジュース。
ゆったりと時間をかけながら、贅沢な気分を堪能する。
「それにしても、絵梨ちゃん元気ね。夕べ遅くまで起きてたんでしょ?」
「そ!仁と二人でバーで散々飲み明かしてたの」
「眠くない?もう一回寝る?」
「ううん、飛行機で寝たいから大丈夫」
それもそうね、と美桜は納得する。
「私は逆に、すごくたっぷり寝ちゃったのよね。いつの間に寝たのか記憶にないんだけど。飛行機で寝られるかなあ」
そう言って美桜は、さっきからずっと黙っている仁に向き直る。
「夕べ、仁くんが部屋まで運んでくれたんでしょ?ごめんね、重かったよね。ありがとう」
美桜に急に顔を覗き込まれて、仁はどぎまぎする。
「いや、違うんだよ、あの…」
運んだのはアレンで、と続けたかったが、ん?と小首を傾げる美桜に見つめられて、慌てて下を向く。
「いや、なんでもない」
「そう?仁くん、何か様子が変じゃない?あ!もしかして私、そんなに重かった?」
やだー、やっぱり太ったのかな、と美桜は見当違いな思い込みをする。
「ここに来てから、おいしいものたくさん食べたもんねー、仕方ないよ」
パンケーキを食べながら絵梨が言うと、ますます美桜は焦った顔をする。
「やっぱりそうかな。あーどうしよう、衣裳が入らなくなってたら」
「踊ってる最中に、ビリッ!とか?」
「絵梨ちゃん、怖い事言わないで」
両手で頬を押さえて真剣な表情の美桜を見ながら、仁はまたもや声をかけそびれた。
(言わなきゃ。美桜ちゃんを部屋まで運んだのは俺じゃなくてアレンだって。でも…)
それを言ったら、夕べアレンがここに来た事も言わなければいけない。
そしてなぜすぐ帰って行ったのかも。
アレンは美桜を部屋に運ぶと、すぐさまパレスに帰ったらしい事を、仁はメアリーから聞いていた。
だが美桜や絵梨達には話していないらしく、きっとメアリーもアレンの様子が何かおかしいと感じたのだろう。
(はあ、これからどんな顔でアレンと会えばいいんだろう。今までのような関係には戻れないのか?)
思わず頭を抱える仁に、美桜が心配そうに声をかける。
「仁くん、今朝はずっと様子が変だけど、具合悪い?大丈夫?」
「あ、いや、うん。ちょっと二日酔いかな」
「えー、珍しいね。仁が二日酔いなんて」
絵梨が驚いたように声を上げる。
「疲れたのもあるんじゃない?夕方の出発まで部屋で休んだ方がいいよ」
「うん、そうだね。そうする」
心配してくれる美桜に罪悪感を感じながら、仁はうなだれて返事をする。
「うわ、本当に珍しい。ちゃんと寝てなよ」
絵梨は仁にそう言ったあと、美桜は夕方までどうするの?と聞く。
「私はね、パレスにご挨拶に行こうかなって」
「そっか、色々あったんだもんね」
「うん。とてもお世話になったから。絵梨ちゃんは?」
「私はね、エステにスパに、最後までここを満喫させてもらうわ」
そう言うと絵梨は、再び演劇モードに入る。
「ああ、我が心のふるさと、フォレストガーデン。いつの日かまた会える日まで」
「あはは、上手上手!」
美桜は手を叩いて笑った。
◇
「美桜様のお支度を整えるのも、これが最後ですわね」
「え、やだメアリー。そんなにしんみりしないで。涙が出て来ちゃう」
「そうですわね。失礼しました。いつものように笑顔で、心を込めてお手伝いいたしますわ」
そう言って鏡越しに微笑んでから、メアリーは慣れた手つきで美桜のヘアメイクに取りかかった。
今日はどんなスタイルにするか、メアリーは美桜に尋ねることもなく進めていく。
(きっと今日はおまかせコースなのね。楽しみ)
やがて鏡の中の美桜は、髪をアップに、前髪も横に流して整えたフォーマルなスタイルに仕上げてもらった。
(なんだか、かしこまった雰囲気ね。でも最後に皆さんにきちんとお礼を言いたいから、合ってるかも)
鏡を覗き込みながら美桜がそう考えていると、後ろでメアリーがドレスを広げてくれた。
「こちらをどうぞ」
「わあ、綺麗な色ね」
薄い紫で裾が波打つように広がるドレスは、ウエストから左右に広がるように、薄いピンクがかったシルクオーガンジーが重ねてある。
同じような胸元のデザインも、幾重にか重なった花びらのようだ。
「とても良くお似合いですわ」
そう言って微笑むメアリーに、美桜はありがとうとお礼を言うと、たまらずメアリーに抱き付いた。
「まあ、美桜様。しんみりしてしまいますわ」
「そうね。ごめん」
お互い涙目になりながら笑う。
「ありがとう、メアリー。行ってきます!」
パレスに向かう道のりも、すっかりお馴染みになっていた。
ウォーリング家の巨大な門をくぐる時は、門番に手を振る。
到着すると、エントランスにはいつもと変わらない笑顔のクレアが出迎えてくれた。
いつもは馬車をストンと飛び降りる美桜だったが、今日はメイソンの肩を借りる。
メイソンも美桜のウエストを支えて床にトンと降ろしてくれた。
「ありがとう」
振り返って言うと、メイソンは胸に手を当ててお辞儀をした。
「美桜様、ようこそ」
「クレア」
エントランスに入ってすぐ、二人はハグをした。
お互いの気持ちが通じ合うのを感じる。
最後のパレスでのひと時、しっかり心に刻もうと美桜は思った。
◇
「すごいすごい!」
思わず美桜は手を叩いて歓声を上げた。
こちらに向かって敬礼をしている隊員とメイソンの顔を一人一人見ながら、頷いてみせる。
やがてメイソンの号令で敬礼を解くと、隊員達は皆一斉にほっとしたように美桜を見た。
「とっても良かったわ。短期間によくこんな完成度まで持ってこられたわね。トリックターンもピンフィールもばっちりよ。これなら式典でもきっと喜んでもらえると思う。まだ時間もあるし、もっと進化出来ると思うわ」
クレアが通訳すると、嬉しそうに笑顔を浮かべながら、隊員同士顔を見合わせている。
メイソンに、一度様子を見に来てもらえないかと頼まれて、美桜はパレスの北側広場に来ていた。
前回メイソンに送った動画を見ながら、隊員で話し合い、いくつか技を組み込んで練習したのだという。
出来れば式典で披露したいのだが、どうだろうかと相談されたのだった。
「式典では、いつもどんなふうにしていたの?」
美桜が聞くと、クレアが答えてくれた。
「お客様が待つ南側の庭園に向かって、ドラム隊の太鼓に合わせて隊列が入場してきます。そこで少し斜めの列になったり、交差したりと隊形を変えながら行進を披露します。最後にパレスに向かって皆で敬礼をして、ファンファーレの後に旦那様や坊ちゃまがバルコニーにお出ましになるのですわ」
「なるほど…」
美桜は少し考えると、庭園前のスペースを思い出していた。
マーチングの大会では、三十メートル四方の会場を使い、歩く歩幅は五メートルを八歩で、と統一されている。
庭園前のスペースも、三十メートル四方は優にあった気がする。
「三十メートル歩きながらフォーメーションを変えるとなると、かなり色んな事が出来ると思うわ。まずは、どんなことをやるかを紙に書き起こしてみるの。コンテと言うんだけどね。それでショーの全体を作ってみてから練習するの。あとは、ドラム隊やファンファーレ隊も、何か技とか見せ場があるといいんじゃないかしら?」
メイソンも隊員も、クレアの通訳に耳を傾けながら、美桜の話を真剣に聞いている。
「もし私に手伝えることがあったら、いつでも連絡してね。みんなで力を合わせて、式典で素敵な演技を披露出来るよう、私も祈ってます」
隊員達は皆、やる気に満ちた顔で美桜に頷いてみせた。
◇
「うん、おいしい!」
美桜は、よく味のしみ込んだかぶを一口味見したあと、フレディに笑顔を向ける。
「しっかりだしの味もするし、この配分がいいと思うわ」
「ありがとうございます。美桜様に相談出来て良かったです。今までいつも、煮物の味付けが濃くなってしまって納得出来なくて」
「きっと、だしが少なかったんだと思うわ。だから味付けの時に醤油が多くなってしまっていたのかも。基本、だしがおいしければ、あとの味付けは軽くてもいいと思うわよ」
そう言うと、もう一口食べようと箸を口に運ぶ。
と、ふと遠くから、美桜様ー?と自分を呼ぶクレアの声が聞こえてきて、美桜はがっくりうなだれながら箸を置いた。
隣でフレディが苦笑する。
「ここにいるのが見つかったらまた怒られるわね。じゃあね、フレディ」
ドレスのスカートを持ちながら、急いで厨房を出て行こうとした美桜は、最後にもう一度フレディを振り返った。
「その煮物、本当においしかったわ」
はい、と頷く前に出て行った美桜に、フレディはもう一度苦笑いしてから、自分も味見してみる。
(うん、おいしい。これだ)
ようやく納得のいく味付けが出来て、フレディはほっと息をついた。
◇
「まあ、美桜様。どちらにいらっしゃったのですか?」
「あ、ちょっとぶらぶらしてただけよ」
廊下の角を曲がったところでクレアとぶつかりそうになり、美桜は慌てて取り繕った。
クレアは首をひねって疑いの目を向けてくる。
メイソン達と別れて広間でお茶を飲んでいた時に、ケーキをサーブしてくれたフレディが、料亭で習った和食の味付けがどうも再現出来ないとこぼし、美桜はこっそりクレアの目を盗んで厨房に行ったのだった。
用事を済ませて広間に戻ったクレアは、美桜がいないことにさぞかしびっくりしただろう。
「ごめんなさい、急にいなくなって」
美桜が謝ると、クレアは、いえ、そんなと恐縮した。
「それより、そろそろ昼食の時間ですわ。旦那様や坊ちゃまも間もなく広間にいらっしゃいます」
「そうね、急ぎましょ」
二人で肩を並べて歩き出した。
◇
「やあやあ、美桜ちゃん美桜ちゃん」
ジョージは陽気に声を掛けながら広間に入ってくると、美桜の手を握ってぶんぶん振る。
「こんにちは。お邪魔しています」
そう言いながら美桜は、必死に笑いを堪えていた。
(美桜ちゃん美桜ちゃんって。二回も)
なんだか笑いのツボに入ってしまったようだ。
ジョージの一挙手一投足がおもしろく感じてしまう。
(いや、笑っちゃ失礼よね)
なんとか真顔をつくると、美桜はジョージの後ろにいるアレンに目を向けた。
「こんにちは。アレン、具合はどう?」
「こんにちは。おかげですっかり良くなったよ」
「そう、良かった」
美桜が微笑むと、アレンも少し表情を緩める。
(あれ?でもなんか、いつもより元気なさそうな気がする)
美桜がそう考えていると、ジョージが、さあさあテーブルへどうぞと促す。
「先日、美桜ちゃんにはすっかりお世話になったね。本当にありがとう」
「いえ、そんな。何もしていません。私の方こそ、今回の滞在ではとても良くしていただいて。本当にありがとうございます」
いやいやいや、と顔の前で手を振りながらジョージが言う。
「いつでも気軽に遊びに来てください。なんならもう一週間ほど、パレスに泊まっていったらどう?」
「ええ?いえ、そんな」
「部屋はたくさんあるし、うん。そうすればいいよ。飛行機は手配し直せばいい」
「親父、無茶言うなよ。美桜は仕事があるんだ」
え、そうなのかい?と、アレンの言葉に驚いてジョージは美桜を見る。
「あ、はい。そうなんです。四年間働いているところに、卒業後正式に就職することになっていまして。今回有給休暇をもらって来ました」
そうなのか、それは仕方ない、とちょっとしょんぼりしたジョージは、気を取り直して言う。
「でもまた休みが取れる時はいつでも来てください。皆で大歓迎しますよ」
その言葉に、周りにいたクレアやグレッグ達も頷く。
「はい。ありがとうございます」
美桜は胸が熱くなるのを感じた。
昼食を終えると、クレアとグレッグがジョージに近づいて何やら言葉をかけた。
ジョージは頷くと、美桜に向き直る。
「美桜ちゃん。パレスのスタッフ一同、美桜ちゃんに感謝を伝えたいそうだ。聞いてくれるかな」
え?と戸惑っていると、クレアやグレッグ、メイソンやフレディ達が美桜の前に並ぶ。
「美桜様。美桜様がパレスに来てくださって、私達本当に幸せなひとときを過ごさせていただきました」
そう切り出したクレアは、急に涙がこみ上げてきて言葉が続けられない。
グレッグがそっと背中をさすって、クレアのあとを続ける。
「もう何年も、私達スタッフは心の底から笑ったことがなかったように思います。でも美桜様のおかげでここ数日間、皆明るく笑って過ごせました。生き生きと仕事をする皆の姿を見るのは、本当に久しぶりでした。美桜様がパレスに花を咲かせてくださったように思います。本当にありがとうございました」
そう言ってグレッグは深々とお辞儀をした。
クレアとメイソン、フレディもそれに続く。
美桜は、こみ上げる涙を止めることが出来なかった。
やがてクレアが美桜に、そっと何かを差し出す。
見ると、四角いビロードの、何かのケースのようだった。
「メアリーが、美桜様に何かプレゼントを贈りたいと提案して、私達で考えましたの。旦那様や坊ちゃまにもご協力いただき、今回こちらを作らせていただきました」
そう言ってそっと手にしていたケースを開ける。
「まあ!」
美桜は口元を押さえたまま、目を見張った。
「美桜様のイメージで作ったティアラです」
そう言ってクレアはそっと手に取り、美桜に見せてくれた。
「このお花の装飾、何かお分かりですか?」
美桜は涙を拭いながら、何度も頷く。
「桜、ね」
ようやく声に出すと、クレアはにっこり笑った。
「ええ、そうです。ピンクダイヤモンドも所々あしらっています」
キラキラと輝くティアラは、息を呑むほどの美しさで、美桜は何も言葉が出なかった。
「さあ、美桜様。着けてみてくださいませ」
「ええ?ううん。ダメよ、こんなすごいもの、私なんかが」
必死に手で拒んでいると、美桜ちゃん、とジョージの声がした。
「ウォーリング家の主として、お願いするよ。美桜ちゃんのために作らせたんだ。ぜひ受け取って欲しい。我々は、これを美桜ちゃんに贈ることをとても幸せに思っているんだ。こんな機会を与えてもらった事にも感謝している。ありがとう」
隣でアレンも微笑みながら頷く。
美桜はもう、涙で何も言葉に出来なかった。
「さあ、美桜様」
そう言ってクレアがゆっくりと美桜の頭にティアラを載せる。
「まあ、お美しい。本当によくお似合いですわ」
一歩離れたクレアが溜息混じりに言い、そこにいる誰もが頷いて微笑んだ。
「ありがとございます。本当に。私の方こそ皆さんに良くしていただいたのに、こんな…」
声を詰まらせながらお礼を言う美桜を、クレアがそっと抱きしめた。
◇
いよいよお別れの時だった。
パレスのエントランスに、ジョージをはじめ、クレア、グレッグ、メイソン、フレディが並ぶ。
少し離れた所にも、護衛隊の隊員や若いメイド達が並んだ。
車寄せには、珍しく濃紺のスポーツカーが停められていた。
アレンがフォレストガーデンまで運転してくれるのだという。
「じゃあ美桜、そろそろ行こうか」
やがてアレンが切り出し、美桜は頷いて皆に向き直った。
「皆さん、本当にありがとうございました」
深々とお辞儀をする。
「こちらこそ。美桜ちゃん、ここは美桜ちゃんの第二のふるさとだ。いつでも帰ってきて欲しい。皆で楽しみに待っているよ」
ジョージが優しく言い、美桜はまた涙が出そうになるのを堪える。
「はい。ありがとうございます」
続けて美桜は、クレア達一人一人に目を向けていく。
グレッグとフレディの優しい眼差し、いつも強面だけどどこか憎めないメイソン、若さとやる気に満ちた護衛隊員達、皆の顔を決して忘れないようにと心に刻む。
最後に美桜は、ハンカチで顔を覆ってひたすら涙を拭うクレアの前に立ち、苦笑する。
「クレア、最後は笑ってお別れしましょう。ね?」
「ええ、ええ」
そう言って頷くものの、どうにもクレアの涙は止まらない。
「クレア、ささやかなんだけど、受け取って」
そう言って美桜は、ポケットから小さなケースを取り出した。
「まあ、なんですの」
ピタッと涙を止めて、クレアが目を見開く。
「私からクレアへ。お世話になったお礼」
そう言ってケースからカメオブローチを取り出し、クレアの胸元につける。
「まあ、こんな素敵なブローチを。私なんかのために」
手でブローチをそっと触りながら、また泣き始める。
「もうそんな、大げさな。時々これを見て、私のことを思い出してくれたら嬉しいわ」
クレアは泣きながら何度も頷く。
「クレア、本当にありがとう。優しくて温かくて、私の本当のおばあさんみたい。って言ったら怒る?そんな歳じゃないわって」
美桜がそう言って笑うと、クレアもつられて笑い出した。
ようやく落ち着くと、二人は最後にしっかりと抱き合い、笑顔で頷く。
「じゃあ行こうか」
うん、とアレンを振り向いて、美桜は助手席に乗り込んだ。
メイソンがゆっくりとドアを閉めてくれる。
ありがとうと声をかけると、メイソンはいつものお辞儀ではなく、にっこりと笑った。
運転席のアレンがエンジンをかけると、美桜は窓から顔を出して、皆に手を振った。
「美桜様、お元気で!」
「ありがとう!みんなも」
ゆっくりと車が動き出し、美桜は身を乗り出すようにして、最後まで手を振り続けた。
◇
「美桜、最後にちょっと付き合ってもらってもいいかな?」
敷地を抜け、門のところまで来ると、アレンはウインカーを右に出しながら美桜に尋ねた。
「え、うん。もちろん」
美桜が答えると、アレンはフォレストガーデンとは反対方向の右へと車を走らせる。
「どこかに行くの?」
「ん、まあね」
そう言ってハンドルを握るアレンは、なんだかいつもと違って新鮮に映る。
しばらく黙って車を走らせたあと、着いたよ、とアレンはエンジンを切った。
(着いたよって、ここ?どこだろ)
美桜は窓の外を見て戸惑う。
山道のようなところをずいぶん登って行くなと思っていた矢先に、着いたよと言われても。
そう思いながら、ドアを開けてくれたアレンにお礼を言って降りる。
辺りはまさに山の中腹といった感じだ。
「アレン、ここって?」
「こっちだ」
美桜の質問には答えず、アレンは木々の間を歩いて行く。
美桜はそれに従うしかなかった。
「美桜、見て」
スカートの裾を汚さないよう、必死に足元を見て歩いていた美桜は、立ち止まったアレンの言葉に顔を上げて思わず息を呑んだ。
「うわ、すごい…」
そこには、夕焼けに照らされたのどかな風景が広がっていた。
どこまでも続く大地とその奥に見える海。そこに少しずつ沈み始めた太陽…。
広大な自然に圧倒され、美桜はただ立ち尽くした。
「時々一人でここに来るんだ。この景色は何もかも忘れさせてくれる」
隣でアレンがそう呟き、美桜はその言葉の意味を考えながら、ひたすら移りゆく景色を眺め続けた。
どれくらいそうしていただろう。
やがてアレンが、ここに座ってと切り株の上にハンカチを広げてくれる。
「ありがとう。あ、ちょうどいいね」
「そう。いいでしょ?この天然の椅子」
ふふっと美桜は笑って、もう一度視線を前に戻す。
「ずっと見ていられるね。自然の壮大さ、温かさ。自分なんてちっぽけだなって感じる」
「うん。本当にそう。気が付くと何時間か経っちゃうよ、いつも」
アレンにとって、この自然が癒やしなんだなと美桜は思った。
「アレンの大事な秘密の場所なのね、ここは」
「ああ。だから美桜に見せたかったんだ」
え?と美桜はアレンの横顔を見る。
「美桜ならきっと、自分と同じように感じてくれて、気持ちを共有出来るんじゃないかと思って」
そう言うとアレンは、美桜に優しく笑いかけた。
「連れてきて良かった」
夕焼けにふんわり照らされて微笑むアレンはとても綺麗で、美桜はドキリとしながら思わずうつむいた。
「美桜、改めて俺からもお礼を言うよ。あんなに楽しそうで明るいパレスのみんなを見るのは、何年ぶりか分からない。親父も、クレア達も、みんな幸せそうだった。本当にありがとう」
「ううん。私の方こそ、突然押しかけたのにとても優しくしてもらって。こんなにもこの数日間が大切なものになるなんて、思ってもみなかった。幸せな気持ちにしてもらったのは私の方よ。ありがとう」
そう言ってから美桜は、ポケットに手を入れる。
(どうしよう、本当に渡す?大丈夫かな)
迷いながら、そっと忍ばせていたものを取り出す。
「…アレン、あのね」
「ん?なに?」
「あの、これ。お礼、と言ってもお礼にはならないかもしれないんだけど。今回とてもお世話になったから、せめて何かお返しをしたくて…」
煮え切らないようにそう言い、おずおずと四角い箱を差し出す。
「え、俺に?開けてもいい?」
下を向いたままこくりと美桜が頷くと、アレンはするっとリボンをほどいて箱を開け、中からケースを取り出した。
ふたを開く音がして、美桜はますます身を固くする。
「これ…」
「あ、あの、もちろんアレンはもっといいもの持ってるし、フォーマルな装いには合わないと思ったんだけど、その、ほら、今日みたいにオフの時とか、カジュアルな服装の時にでも、着けてもらえたらって…」
早口でまくしたてる美桜の言葉は気にも留めず、アレンはゆっくりケースに手をやる。
取り出したのは腕時計だった。
ロイヤルブルーの深い色合いで、シックな雰囲気のなかにデザインの斬新さも感じられる。
一目で気に入ったアレンは、早速今着けている時計を外してポケットにしまうと、もらったばかりの時計をはめてみた。
大事そうに手で触れると、どう?と顔の横に持ってきて、美桜に見せる。
「あ、お、お似合いです」
妙な口調の美桜に笑うと、アレンはもう一度じっくり時計に目を落とす。
「ありがとう。ずっと大切にする」
「あ、うん」
アレンの穏やかな、それでいて嬉しそうな横顔を見ながら、贈ってよかったと美桜は思った。
二人はそのあとも、黙ったまま時を過ごした。
(この時間がもっと続きますように)
けれど確実に、夕陽は刻々と沈んでいった。
◇
「よし!これでオッケー」
絵梨がスーツケースのふたをパチンと閉めながら言う。
「じゃあ俺、先に車まで運んでおくよ」
そう言って仁は、絵梨と美桜のスーツケースを手にした。
「半分持つよ」
アレンが横から手を伸ばし、仁は黙って片方のスーツケースを渡した。
そのまま二人で廊下を歩いて行く。
いつもなら、どうでもいい会話をしていただろう。
だが今は、二人並んで黙々と歩く。
(まいったな。やっぱり変な空気じゃないか)
仁はそっと溜息をつく。
あの時のことを、アレンは掘り起こすつもりはないらしい。
それならそれで、仁としても触れるつもりはない。
だが、この空気のまま帰国するのは嫌だ。
「アレン」
意を決して、仁は呼びかける。
アレンは立ち止まって仁を振り返った。
「アレン、お前の立場はよく分かっているつもりだ。置かれている状況も理解できる。だがな、これだけは言っておく」
仁は一呼吸置くと、ぐっとアレンに近付いた。
「いいか、たとえどんなことがあっても美桜ちゃんを泣かせるな。どんなことになってもだ」
アレンは一瞬目を大きくさせる。
「もし彼女を泣かせるようなことがあったら、その時は俺が許さない。分かったか」
仁の真剣な眼差しを受け止めるように、アレンは頷いた。
「ああ、分かった」
よし、と仁は頷くと、再び歩き始めた。
(言いたいことは言った。あとはいつも通りだ)
◇
「美桜様、絵梨様、お忘れ物はないですか?」
「んー、大丈夫、なはず」
メアリーの問いかけに自信なさ気に答えて、美桜はもう一度部屋を見渡す。
「このお部屋ともお別れね」
「ほんと。あー、名残惜しい」
美桜と並んで、絵梨もぐるっと部屋を眺める。
最後に二人はメアリーに向き直った。
「メアリー、本当にお世話になりました。メアリーの細やかな心遣いと優しさ、ずっと忘れないわ。ありがとう」
美桜がそう言うと、メアリーはとたんに目に涙を浮かべ始めた。
「やだ、メアリー。泣かないで。ね?」
美桜はそっとメアリーを抱きしめる。
(本当に優しくて温かいな、メアリーは)
そう思いながら、さっきパレスから帰って来た時のメアリーの笑顔を思い出す。
「まあ、美桜様。とってもお似合いですわ」
そう言ってティアラを着けた美桜を、何度も頷きながら嬉しそうに見ていた。
改めて自分の全身を鏡で見た美桜は、今朝のメアリーの様子を思い出した。
(きっとメアリーは、今日パレスで私がこのティアラを贈られることを分かっていて、このドレスと髪型にしてくれたんだわ)
フォーマルなスタイルに髪をまとめ、桜のティアラに合うように、まるで花びらのようなデザインの薄い紫とピンクのドレス。
おかげで全体がとても良い雰囲気に仕上がっていた。
こんなにも心を尽くしてくれるメアリーには、本当に感謝しきれない。
「ね、美桜」
横からそっと絵梨が小さなケースを差し出し、美桜は頷いてメアリーから体を離した。
「メアリー、これ。絵梨ちゃんと私からのささやかなお礼なの。受け取ってくれる?」
「え、まあ!そんな。何ですの?」
絵梨がそっとケースを開けて、中からネックレスを取り出した。
「私達とお揃いのアクセサリーなの。私は星のピアス。ほら」
そう言って絵梨は左耳を触ってみせる。
「私はリボンのブレスレット」
美桜も左手首のブレスレットを見せる。
「そして、メアリーにはハートのネックレス」
絵梨がそう言って、メアリーの後ろに回ってネックレスを付けた。
「うん!よく似合ってる。みんな形は違うけど、流れるようなデザインは一緒なのよ。それと、左端に三つのラインストーン」
そう言って三人はそれぞれお互いのモチーフを見比べる。
「離れていても、心はいつでも繋がっているから」
そう言ってリボンを見せる美桜。
「寂しくなったら星を眺めてね。同じ空の下にいるよ」
絵梨が人差し指でピアスを触る。
「そしてハートの温かいメアリー。その優しさはいつまでも忘れないよ。ね?」
美桜と絵梨が微笑みかけると、もう無理とばかりにメアリーの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ありがとうございます。こんな、素敵な…。私の方こそ、お二人のことは決して忘れません。本当にありがとうございます」
三人は肩を寄せ合って抱き合い、半分泣き顔のまま笑い合った。
◇
空港へと向かう車の中、美桜はずっと窓の外を眺めていた。
アレンに会うためにやって来た今回のイギリス旅行。
こんなにもたくさんの素敵な出会いが待っているなんて、全く想像していなかった。
貴重な経験をたくさんさせてもらった。
(この六日間は、私の人生の宝物になる)
そう確信した美桜は、ありがとうと小さく、夕暮れのイギリスにお礼を言った。
◇
「うーん、結構時間ギリギリだな」
空港のカウンターで手続きを済ませた後、腕時計に目をやりながら仁が言う。
「ちょっとお茶でもしようかと思ってたけど、諦めてこのままゲートに向かった方が、ぐえっ!」
話の途中でいきなり変な声を上げる仁に、何事かと目を向けると、絵梨が後ろから羽交い絞めするように、仁の首に手を回している。
「ごめーん、美桜。私どうしても免税店見たいんだ。先に行ってるね」
「え、あ、うん。分かった」
「アレン!色々とありがとう。元気でね」
「ああ、絵梨も」
そうして絵梨は、後ろ向きの仁を引きずりながら、じゃあねーと手を振って去って行く。
「アレンー、達者でなー」
諦めたように引きずられながら、仁もアレンに手を振る。
やがて二人の姿が見えなくなると、アレンは手を下ろして苦笑した。
「なんだか最後までドタバタだな」
「そうね」
肩を並べて二人を見送っていたアレンと美桜は、しばらく間を置いてから向き合った。
(…お別れを言わなくちゃ)
下を向いて少し息を吸ってから、美桜は顔を上げてアレンを見た。
「アレン、本当に色々とありがとう」
「こちらこそ。ありがとう、美桜」
「お父様や、クレア、パレスのみんなにもよろしく伝えてね。メアリーやリサ達にも」
「ああ、分かった」
「あと、どんなに忙しくても、きちんと食事と睡眠は取ってね」
「うん、分かってる」
そこで会話は途切れた。
周りのざわめきや行き交う人達の流れ…。
二人はそれに溶け込めず、別次元に取り残されたかのようだ。
「…もう行かなきゃ」
「うん」
やがて美桜はそっと右手を差し出した。
アレンも同じように右手を出して握る。
(温かいアレンの手の温もり。覚えておこう。決して忘れないように)
美桜はきゅっと大事そうにアレンの手をもう一度握ると、そっと手を緩めた。
その時だった。
アレンがいきなりぐっと力を込めたかと思うと、そのままつないだ右手を引き寄せた。
思わずバランスを崩して前に倒れそうになった美桜は、気付くとアレンの大きな腕の中にいた。
(え?アレン…)
どうしたの、と聞こうとした美桜の耳元で、アレンのかすれた声が聞こえた。
「ごめん」
まるで絞り出すかのように、苦し気に、
「ごめん、美桜。ごめん」
何度もそう謝る。
どうして謝るの?そう聞こうとした。
けれど実際の美桜は、
「ううん」
そう言って首を振るだけだった。
アレンはより一層美桜を強く抱きしめる。
少し肩を震わせているのが、美桜にも分かった。
切なさや悲しさ、アレンの言葉に出来ない気持ちも伝わってきて、美桜の心の奥をギュッと締め付ける。
(考えちゃいけない。アレンの気持ちも自分の気持ちも。考えちゃダメ)
まるで呪文のように、何度も美桜の頭の中をその言葉が駆け巡る。
やがて美桜は、目を閉じたままおでこをアレンの胸につけた。
包み込まれるような安心感が、ふわっと美桜の体を温める。
(大丈夫。これできっとがんばれる。この先もずっと)
そう自分に言い聞かせると、小さく頷いてから、美桜は両手でそっとアレンの胸を押して離れた。
二人の間にすっと空気が流れ込む。
「じゃあ、またね」
そう言ってアレンに背を向けると、そのまま歩き出す。
決して振り返ることなく、美桜は速足で歩き続けた。
搭乗口までたどり着くと、飛行機に乗り込む人はまばらだった。
どうやら絵梨達ももう乗っているらしい。
明るく出迎えてくれるキャビンアテンダントになんとか笑顔で返し、座席番号を探しながら通路を歩いて行くと、心配そうに身を乗り出してこちらを見ている絵梨と仁に気付く。
「おまたせ。絵梨ちゃん、お買い物出来た?」
そう言いながら横に座り、シートベルトを締める。
ん?と絵梨を見ると、絵梨は真顔でじっと美桜を見つめたあと、片腕を回して美桜の頭を抱え込んだ。
(絵梨ちゃん?)
絵梨は、自分の肩に美桜の顔をもたれさせると、ポンポンと労わるように頭を撫でてくる。
ふっと気が緩んだ美桜は、知らず知らずのうちに目頭が熱くなってくるのを感じた。
(少しだけ。いいよね)
絵梨の肩を借りて、美桜は少しだけ泣いた。
まるで演劇のように、手を伸ばして見上げながら絵梨が声を張る。
「あはは。絵梨ちゃん、上手ね」
陶酔している絵梨に、美桜が笑う。
「さ、せっかくおいしいクロワッサンとコーヒーが冷めちゃうよ」
「そうね」
促されて絵梨は再び食べ始めた。
翌朝。
最後の朝食だからと、三人は一階のオープンスペースにあるカフェで朝食を取ることにした。
美味しいオムレツにフレッシュなオレンジジュース。
ゆったりと時間をかけながら、贅沢な気分を堪能する。
「それにしても、絵梨ちゃん元気ね。夕べ遅くまで起きてたんでしょ?」
「そ!仁と二人でバーで散々飲み明かしてたの」
「眠くない?もう一回寝る?」
「ううん、飛行機で寝たいから大丈夫」
それもそうね、と美桜は納得する。
「私は逆に、すごくたっぷり寝ちゃったのよね。いつの間に寝たのか記憶にないんだけど。飛行機で寝られるかなあ」
そう言って美桜は、さっきからずっと黙っている仁に向き直る。
「夕べ、仁くんが部屋まで運んでくれたんでしょ?ごめんね、重かったよね。ありがとう」
美桜に急に顔を覗き込まれて、仁はどぎまぎする。
「いや、違うんだよ、あの…」
運んだのはアレンで、と続けたかったが、ん?と小首を傾げる美桜に見つめられて、慌てて下を向く。
「いや、なんでもない」
「そう?仁くん、何か様子が変じゃない?あ!もしかして私、そんなに重かった?」
やだー、やっぱり太ったのかな、と美桜は見当違いな思い込みをする。
「ここに来てから、おいしいものたくさん食べたもんねー、仕方ないよ」
パンケーキを食べながら絵梨が言うと、ますます美桜は焦った顔をする。
「やっぱりそうかな。あーどうしよう、衣裳が入らなくなってたら」
「踊ってる最中に、ビリッ!とか?」
「絵梨ちゃん、怖い事言わないで」
両手で頬を押さえて真剣な表情の美桜を見ながら、仁はまたもや声をかけそびれた。
(言わなきゃ。美桜ちゃんを部屋まで運んだのは俺じゃなくてアレンだって。でも…)
それを言ったら、夕べアレンがここに来た事も言わなければいけない。
そしてなぜすぐ帰って行ったのかも。
アレンは美桜を部屋に運ぶと、すぐさまパレスに帰ったらしい事を、仁はメアリーから聞いていた。
だが美桜や絵梨達には話していないらしく、きっとメアリーもアレンの様子が何かおかしいと感じたのだろう。
(はあ、これからどんな顔でアレンと会えばいいんだろう。今までのような関係には戻れないのか?)
思わず頭を抱える仁に、美桜が心配そうに声をかける。
「仁くん、今朝はずっと様子が変だけど、具合悪い?大丈夫?」
「あ、いや、うん。ちょっと二日酔いかな」
「えー、珍しいね。仁が二日酔いなんて」
絵梨が驚いたように声を上げる。
「疲れたのもあるんじゃない?夕方の出発まで部屋で休んだ方がいいよ」
「うん、そうだね。そうする」
心配してくれる美桜に罪悪感を感じながら、仁はうなだれて返事をする。
「うわ、本当に珍しい。ちゃんと寝てなよ」
絵梨は仁にそう言ったあと、美桜は夕方までどうするの?と聞く。
「私はね、パレスにご挨拶に行こうかなって」
「そっか、色々あったんだもんね」
「うん。とてもお世話になったから。絵梨ちゃんは?」
「私はね、エステにスパに、最後までここを満喫させてもらうわ」
そう言うと絵梨は、再び演劇モードに入る。
「ああ、我が心のふるさと、フォレストガーデン。いつの日かまた会える日まで」
「あはは、上手上手!」
美桜は手を叩いて笑った。
◇
「美桜様のお支度を整えるのも、これが最後ですわね」
「え、やだメアリー。そんなにしんみりしないで。涙が出て来ちゃう」
「そうですわね。失礼しました。いつものように笑顔で、心を込めてお手伝いいたしますわ」
そう言って鏡越しに微笑んでから、メアリーは慣れた手つきで美桜のヘアメイクに取りかかった。
今日はどんなスタイルにするか、メアリーは美桜に尋ねることもなく進めていく。
(きっと今日はおまかせコースなのね。楽しみ)
やがて鏡の中の美桜は、髪をアップに、前髪も横に流して整えたフォーマルなスタイルに仕上げてもらった。
(なんだか、かしこまった雰囲気ね。でも最後に皆さんにきちんとお礼を言いたいから、合ってるかも)
鏡を覗き込みながら美桜がそう考えていると、後ろでメアリーがドレスを広げてくれた。
「こちらをどうぞ」
「わあ、綺麗な色ね」
薄い紫で裾が波打つように広がるドレスは、ウエストから左右に広がるように、薄いピンクがかったシルクオーガンジーが重ねてある。
同じような胸元のデザインも、幾重にか重なった花びらのようだ。
「とても良くお似合いですわ」
そう言って微笑むメアリーに、美桜はありがとうとお礼を言うと、たまらずメアリーに抱き付いた。
「まあ、美桜様。しんみりしてしまいますわ」
「そうね。ごめん」
お互い涙目になりながら笑う。
「ありがとう、メアリー。行ってきます!」
パレスに向かう道のりも、すっかりお馴染みになっていた。
ウォーリング家の巨大な門をくぐる時は、門番に手を振る。
到着すると、エントランスにはいつもと変わらない笑顔のクレアが出迎えてくれた。
いつもは馬車をストンと飛び降りる美桜だったが、今日はメイソンの肩を借りる。
メイソンも美桜のウエストを支えて床にトンと降ろしてくれた。
「ありがとう」
振り返って言うと、メイソンは胸に手を当ててお辞儀をした。
「美桜様、ようこそ」
「クレア」
エントランスに入ってすぐ、二人はハグをした。
お互いの気持ちが通じ合うのを感じる。
最後のパレスでのひと時、しっかり心に刻もうと美桜は思った。
◇
「すごいすごい!」
思わず美桜は手を叩いて歓声を上げた。
こちらに向かって敬礼をしている隊員とメイソンの顔を一人一人見ながら、頷いてみせる。
やがてメイソンの号令で敬礼を解くと、隊員達は皆一斉にほっとしたように美桜を見た。
「とっても良かったわ。短期間によくこんな完成度まで持ってこられたわね。トリックターンもピンフィールもばっちりよ。これなら式典でもきっと喜んでもらえると思う。まだ時間もあるし、もっと進化出来ると思うわ」
クレアが通訳すると、嬉しそうに笑顔を浮かべながら、隊員同士顔を見合わせている。
メイソンに、一度様子を見に来てもらえないかと頼まれて、美桜はパレスの北側広場に来ていた。
前回メイソンに送った動画を見ながら、隊員で話し合い、いくつか技を組み込んで練習したのだという。
出来れば式典で披露したいのだが、どうだろうかと相談されたのだった。
「式典では、いつもどんなふうにしていたの?」
美桜が聞くと、クレアが答えてくれた。
「お客様が待つ南側の庭園に向かって、ドラム隊の太鼓に合わせて隊列が入場してきます。そこで少し斜めの列になったり、交差したりと隊形を変えながら行進を披露します。最後にパレスに向かって皆で敬礼をして、ファンファーレの後に旦那様や坊ちゃまがバルコニーにお出ましになるのですわ」
「なるほど…」
美桜は少し考えると、庭園前のスペースを思い出していた。
マーチングの大会では、三十メートル四方の会場を使い、歩く歩幅は五メートルを八歩で、と統一されている。
庭園前のスペースも、三十メートル四方は優にあった気がする。
「三十メートル歩きながらフォーメーションを変えるとなると、かなり色んな事が出来ると思うわ。まずは、どんなことをやるかを紙に書き起こしてみるの。コンテと言うんだけどね。それでショーの全体を作ってみてから練習するの。あとは、ドラム隊やファンファーレ隊も、何か技とか見せ場があるといいんじゃないかしら?」
メイソンも隊員も、クレアの通訳に耳を傾けながら、美桜の話を真剣に聞いている。
「もし私に手伝えることがあったら、いつでも連絡してね。みんなで力を合わせて、式典で素敵な演技を披露出来るよう、私も祈ってます」
隊員達は皆、やる気に満ちた顔で美桜に頷いてみせた。
◇
「うん、おいしい!」
美桜は、よく味のしみ込んだかぶを一口味見したあと、フレディに笑顔を向ける。
「しっかりだしの味もするし、この配分がいいと思うわ」
「ありがとうございます。美桜様に相談出来て良かったです。今までいつも、煮物の味付けが濃くなってしまって納得出来なくて」
「きっと、だしが少なかったんだと思うわ。だから味付けの時に醤油が多くなってしまっていたのかも。基本、だしがおいしければ、あとの味付けは軽くてもいいと思うわよ」
そう言うと、もう一口食べようと箸を口に運ぶ。
と、ふと遠くから、美桜様ー?と自分を呼ぶクレアの声が聞こえてきて、美桜はがっくりうなだれながら箸を置いた。
隣でフレディが苦笑する。
「ここにいるのが見つかったらまた怒られるわね。じゃあね、フレディ」
ドレスのスカートを持ちながら、急いで厨房を出て行こうとした美桜は、最後にもう一度フレディを振り返った。
「その煮物、本当においしかったわ」
はい、と頷く前に出て行った美桜に、フレディはもう一度苦笑いしてから、自分も味見してみる。
(うん、おいしい。これだ)
ようやく納得のいく味付けが出来て、フレディはほっと息をついた。
◇
「まあ、美桜様。どちらにいらっしゃったのですか?」
「あ、ちょっとぶらぶらしてただけよ」
廊下の角を曲がったところでクレアとぶつかりそうになり、美桜は慌てて取り繕った。
クレアは首をひねって疑いの目を向けてくる。
メイソン達と別れて広間でお茶を飲んでいた時に、ケーキをサーブしてくれたフレディが、料亭で習った和食の味付けがどうも再現出来ないとこぼし、美桜はこっそりクレアの目を盗んで厨房に行ったのだった。
用事を済ませて広間に戻ったクレアは、美桜がいないことにさぞかしびっくりしただろう。
「ごめんなさい、急にいなくなって」
美桜が謝ると、クレアは、いえ、そんなと恐縮した。
「それより、そろそろ昼食の時間ですわ。旦那様や坊ちゃまも間もなく広間にいらっしゃいます」
「そうね、急ぎましょ」
二人で肩を並べて歩き出した。
◇
「やあやあ、美桜ちゃん美桜ちゃん」
ジョージは陽気に声を掛けながら広間に入ってくると、美桜の手を握ってぶんぶん振る。
「こんにちは。お邪魔しています」
そう言いながら美桜は、必死に笑いを堪えていた。
(美桜ちゃん美桜ちゃんって。二回も)
なんだか笑いのツボに入ってしまったようだ。
ジョージの一挙手一投足がおもしろく感じてしまう。
(いや、笑っちゃ失礼よね)
なんとか真顔をつくると、美桜はジョージの後ろにいるアレンに目を向けた。
「こんにちは。アレン、具合はどう?」
「こんにちは。おかげですっかり良くなったよ」
「そう、良かった」
美桜が微笑むと、アレンも少し表情を緩める。
(あれ?でもなんか、いつもより元気なさそうな気がする)
美桜がそう考えていると、ジョージが、さあさあテーブルへどうぞと促す。
「先日、美桜ちゃんにはすっかりお世話になったね。本当にありがとう」
「いえ、そんな。何もしていません。私の方こそ、今回の滞在ではとても良くしていただいて。本当にありがとうございます」
いやいやいや、と顔の前で手を振りながらジョージが言う。
「いつでも気軽に遊びに来てください。なんならもう一週間ほど、パレスに泊まっていったらどう?」
「ええ?いえ、そんな」
「部屋はたくさんあるし、うん。そうすればいいよ。飛行機は手配し直せばいい」
「親父、無茶言うなよ。美桜は仕事があるんだ」
え、そうなのかい?と、アレンの言葉に驚いてジョージは美桜を見る。
「あ、はい。そうなんです。四年間働いているところに、卒業後正式に就職することになっていまして。今回有給休暇をもらって来ました」
そうなのか、それは仕方ない、とちょっとしょんぼりしたジョージは、気を取り直して言う。
「でもまた休みが取れる時はいつでも来てください。皆で大歓迎しますよ」
その言葉に、周りにいたクレアやグレッグ達も頷く。
「はい。ありがとうございます」
美桜は胸が熱くなるのを感じた。
昼食を終えると、クレアとグレッグがジョージに近づいて何やら言葉をかけた。
ジョージは頷くと、美桜に向き直る。
「美桜ちゃん。パレスのスタッフ一同、美桜ちゃんに感謝を伝えたいそうだ。聞いてくれるかな」
え?と戸惑っていると、クレアやグレッグ、メイソンやフレディ達が美桜の前に並ぶ。
「美桜様。美桜様がパレスに来てくださって、私達本当に幸せなひとときを過ごさせていただきました」
そう切り出したクレアは、急に涙がこみ上げてきて言葉が続けられない。
グレッグがそっと背中をさすって、クレアのあとを続ける。
「もう何年も、私達スタッフは心の底から笑ったことがなかったように思います。でも美桜様のおかげでここ数日間、皆明るく笑って過ごせました。生き生きと仕事をする皆の姿を見るのは、本当に久しぶりでした。美桜様がパレスに花を咲かせてくださったように思います。本当にありがとうございました」
そう言ってグレッグは深々とお辞儀をした。
クレアとメイソン、フレディもそれに続く。
美桜は、こみ上げる涙を止めることが出来なかった。
やがてクレアが美桜に、そっと何かを差し出す。
見ると、四角いビロードの、何かのケースのようだった。
「メアリーが、美桜様に何かプレゼントを贈りたいと提案して、私達で考えましたの。旦那様や坊ちゃまにもご協力いただき、今回こちらを作らせていただきました」
そう言ってそっと手にしていたケースを開ける。
「まあ!」
美桜は口元を押さえたまま、目を見張った。
「美桜様のイメージで作ったティアラです」
そう言ってクレアはそっと手に取り、美桜に見せてくれた。
「このお花の装飾、何かお分かりですか?」
美桜は涙を拭いながら、何度も頷く。
「桜、ね」
ようやく声に出すと、クレアはにっこり笑った。
「ええ、そうです。ピンクダイヤモンドも所々あしらっています」
キラキラと輝くティアラは、息を呑むほどの美しさで、美桜は何も言葉が出なかった。
「さあ、美桜様。着けてみてくださいませ」
「ええ?ううん。ダメよ、こんなすごいもの、私なんかが」
必死に手で拒んでいると、美桜ちゃん、とジョージの声がした。
「ウォーリング家の主として、お願いするよ。美桜ちゃんのために作らせたんだ。ぜひ受け取って欲しい。我々は、これを美桜ちゃんに贈ることをとても幸せに思っているんだ。こんな機会を与えてもらった事にも感謝している。ありがとう」
隣でアレンも微笑みながら頷く。
美桜はもう、涙で何も言葉に出来なかった。
「さあ、美桜様」
そう言ってクレアがゆっくりと美桜の頭にティアラを載せる。
「まあ、お美しい。本当によくお似合いですわ」
一歩離れたクレアが溜息混じりに言い、そこにいる誰もが頷いて微笑んだ。
「ありがとございます。本当に。私の方こそ皆さんに良くしていただいたのに、こんな…」
声を詰まらせながらお礼を言う美桜を、クレアがそっと抱きしめた。
◇
いよいよお別れの時だった。
パレスのエントランスに、ジョージをはじめ、クレア、グレッグ、メイソン、フレディが並ぶ。
少し離れた所にも、護衛隊の隊員や若いメイド達が並んだ。
車寄せには、珍しく濃紺のスポーツカーが停められていた。
アレンがフォレストガーデンまで運転してくれるのだという。
「じゃあ美桜、そろそろ行こうか」
やがてアレンが切り出し、美桜は頷いて皆に向き直った。
「皆さん、本当にありがとうございました」
深々とお辞儀をする。
「こちらこそ。美桜ちゃん、ここは美桜ちゃんの第二のふるさとだ。いつでも帰ってきて欲しい。皆で楽しみに待っているよ」
ジョージが優しく言い、美桜はまた涙が出そうになるのを堪える。
「はい。ありがとうございます」
続けて美桜は、クレア達一人一人に目を向けていく。
グレッグとフレディの優しい眼差し、いつも強面だけどどこか憎めないメイソン、若さとやる気に満ちた護衛隊員達、皆の顔を決して忘れないようにと心に刻む。
最後に美桜は、ハンカチで顔を覆ってひたすら涙を拭うクレアの前に立ち、苦笑する。
「クレア、最後は笑ってお別れしましょう。ね?」
「ええ、ええ」
そう言って頷くものの、どうにもクレアの涙は止まらない。
「クレア、ささやかなんだけど、受け取って」
そう言って美桜は、ポケットから小さなケースを取り出した。
「まあ、なんですの」
ピタッと涙を止めて、クレアが目を見開く。
「私からクレアへ。お世話になったお礼」
そう言ってケースからカメオブローチを取り出し、クレアの胸元につける。
「まあ、こんな素敵なブローチを。私なんかのために」
手でブローチをそっと触りながら、また泣き始める。
「もうそんな、大げさな。時々これを見て、私のことを思い出してくれたら嬉しいわ」
クレアは泣きながら何度も頷く。
「クレア、本当にありがとう。優しくて温かくて、私の本当のおばあさんみたい。って言ったら怒る?そんな歳じゃないわって」
美桜がそう言って笑うと、クレアもつられて笑い出した。
ようやく落ち着くと、二人は最後にしっかりと抱き合い、笑顔で頷く。
「じゃあ行こうか」
うん、とアレンを振り向いて、美桜は助手席に乗り込んだ。
メイソンがゆっくりとドアを閉めてくれる。
ありがとうと声をかけると、メイソンはいつものお辞儀ではなく、にっこりと笑った。
運転席のアレンがエンジンをかけると、美桜は窓から顔を出して、皆に手を振った。
「美桜様、お元気で!」
「ありがとう!みんなも」
ゆっくりと車が動き出し、美桜は身を乗り出すようにして、最後まで手を振り続けた。
◇
「美桜、最後にちょっと付き合ってもらってもいいかな?」
敷地を抜け、門のところまで来ると、アレンはウインカーを右に出しながら美桜に尋ねた。
「え、うん。もちろん」
美桜が答えると、アレンはフォレストガーデンとは反対方向の右へと車を走らせる。
「どこかに行くの?」
「ん、まあね」
そう言ってハンドルを握るアレンは、なんだかいつもと違って新鮮に映る。
しばらく黙って車を走らせたあと、着いたよ、とアレンはエンジンを切った。
(着いたよって、ここ?どこだろ)
美桜は窓の外を見て戸惑う。
山道のようなところをずいぶん登って行くなと思っていた矢先に、着いたよと言われても。
そう思いながら、ドアを開けてくれたアレンにお礼を言って降りる。
辺りはまさに山の中腹といった感じだ。
「アレン、ここって?」
「こっちだ」
美桜の質問には答えず、アレンは木々の間を歩いて行く。
美桜はそれに従うしかなかった。
「美桜、見て」
スカートの裾を汚さないよう、必死に足元を見て歩いていた美桜は、立ち止まったアレンの言葉に顔を上げて思わず息を呑んだ。
「うわ、すごい…」
そこには、夕焼けに照らされたのどかな風景が広がっていた。
どこまでも続く大地とその奥に見える海。そこに少しずつ沈み始めた太陽…。
広大な自然に圧倒され、美桜はただ立ち尽くした。
「時々一人でここに来るんだ。この景色は何もかも忘れさせてくれる」
隣でアレンがそう呟き、美桜はその言葉の意味を考えながら、ひたすら移りゆく景色を眺め続けた。
どれくらいそうしていただろう。
やがてアレンが、ここに座ってと切り株の上にハンカチを広げてくれる。
「ありがとう。あ、ちょうどいいね」
「そう。いいでしょ?この天然の椅子」
ふふっと美桜は笑って、もう一度視線を前に戻す。
「ずっと見ていられるね。自然の壮大さ、温かさ。自分なんてちっぽけだなって感じる」
「うん。本当にそう。気が付くと何時間か経っちゃうよ、いつも」
アレンにとって、この自然が癒やしなんだなと美桜は思った。
「アレンの大事な秘密の場所なのね、ここは」
「ああ。だから美桜に見せたかったんだ」
え?と美桜はアレンの横顔を見る。
「美桜ならきっと、自分と同じように感じてくれて、気持ちを共有出来るんじゃないかと思って」
そう言うとアレンは、美桜に優しく笑いかけた。
「連れてきて良かった」
夕焼けにふんわり照らされて微笑むアレンはとても綺麗で、美桜はドキリとしながら思わずうつむいた。
「美桜、改めて俺からもお礼を言うよ。あんなに楽しそうで明るいパレスのみんなを見るのは、何年ぶりか分からない。親父も、クレア達も、みんな幸せそうだった。本当にありがとう」
「ううん。私の方こそ、突然押しかけたのにとても優しくしてもらって。こんなにもこの数日間が大切なものになるなんて、思ってもみなかった。幸せな気持ちにしてもらったのは私の方よ。ありがとう」
そう言ってから美桜は、ポケットに手を入れる。
(どうしよう、本当に渡す?大丈夫かな)
迷いながら、そっと忍ばせていたものを取り出す。
「…アレン、あのね」
「ん?なに?」
「あの、これ。お礼、と言ってもお礼にはならないかもしれないんだけど。今回とてもお世話になったから、せめて何かお返しをしたくて…」
煮え切らないようにそう言い、おずおずと四角い箱を差し出す。
「え、俺に?開けてもいい?」
下を向いたままこくりと美桜が頷くと、アレンはするっとリボンをほどいて箱を開け、中からケースを取り出した。
ふたを開く音がして、美桜はますます身を固くする。
「これ…」
「あ、あの、もちろんアレンはもっといいもの持ってるし、フォーマルな装いには合わないと思ったんだけど、その、ほら、今日みたいにオフの時とか、カジュアルな服装の時にでも、着けてもらえたらって…」
早口でまくしたてる美桜の言葉は気にも留めず、アレンはゆっくりケースに手をやる。
取り出したのは腕時計だった。
ロイヤルブルーの深い色合いで、シックな雰囲気のなかにデザインの斬新さも感じられる。
一目で気に入ったアレンは、早速今着けている時計を外してポケットにしまうと、もらったばかりの時計をはめてみた。
大事そうに手で触れると、どう?と顔の横に持ってきて、美桜に見せる。
「あ、お、お似合いです」
妙な口調の美桜に笑うと、アレンはもう一度じっくり時計に目を落とす。
「ありがとう。ずっと大切にする」
「あ、うん」
アレンの穏やかな、それでいて嬉しそうな横顔を見ながら、贈ってよかったと美桜は思った。
二人はそのあとも、黙ったまま時を過ごした。
(この時間がもっと続きますように)
けれど確実に、夕陽は刻々と沈んでいった。
◇
「よし!これでオッケー」
絵梨がスーツケースのふたをパチンと閉めながら言う。
「じゃあ俺、先に車まで運んでおくよ」
そう言って仁は、絵梨と美桜のスーツケースを手にした。
「半分持つよ」
アレンが横から手を伸ばし、仁は黙って片方のスーツケースを渡した。
そのまま二人で廊下を歩いて行く。
いつもなら、どうでもいい会話をしていただろう。
だが今は、二人並んで黙々と歩く。
(まいったな。やっぱり変な空気じゃないか)
仁はそっと溜息をつく。
あの時のことを、アレンは掘り起こすつもりはないらしい。
それならそれで、仁としても触れるつもりはない。
だが、この空気のまま帰国するのは嫌だ。
「アレン」
意を決して、仁は呼びかける。
アレンは立ち止まって仁を振り返った。
「アレン、お前の立場はよく分かっているつもりだ。置かれている状況も理解できる。だがな、これだけは言っておく」
仁は一呼吸置くと、ぐっとアレンに近付いた。
「いいか、たとえどんなことがあっても美桜ちゃんを泣かせるな。どんなことになってもだ」
アレンは一瞬目を大きくさせる。
「もし彼女を泣かせるようなことがあったら、その時は俺が許さない。分かったか」
仁の真剣な眼差しを受け止めるように、アレンは頷いた。
「ああ、分かった」
よし、と仁は頷くと、再び歩き始めた。
(言いたいことは言った。あとはいつも通りだ)
◇
「美桜様、絵梨様、お忘れ物はないですか?」
「んー、大丈夫、なはず」
メアリーの問いかけに自信なさ気に答えて、美桜はもう一度部屋を見渡す。
「このお部屋ともお別れね」
「ほんと。あー、名残惜しい」
美桜と並んで、絵梨もぐるっと部屋を眺める。
最後に二人はメアリーに向き直った。
「メアリー、本当にお世話になりました。メアリーの細やかな心遣いと優しさ、ずっと忘れないわ。ありがとう」
美桜がそう言うと、メアリーはとたんに目に涙を浮かべ始めた。
「やだ、メアリー。泣かないで。ね?」
美桜はそっとメアリーを抱きしめる。
(本当に優しくて温かいな、メアリーは)
そう思いながら、さっきパレスから帰って来た時のメアリーの笑顔を思い出す。
「まあ、美桜様。とってもお似合いですわ」
そう言ってティアラを着けた美桜を、何度も頷きながら嬉しそうに見ていた。
改めて自分の全身を鏡で見た美桜は、今朝のメアリーの様子を思い出した。
(きっとメアリーは、今日パレスで私がこのティアラを贈られることを分かっていて、このドレスと髪型にしてくれたんだわ)
フォーマルなスタイルに髪をまとめ、桜のティアラに合うように、まるで花びらのようなデザインの薄い紫とピンクのドレス。
おかげで全体がとても良い雰囲気に仕上がっていた。
こんなにも心を尽くしてくれるメアリーには、本当に感謝しきれない。
「ね、美桜」
横からそっと絵梨が小さなケースを差し出し、美桜は頷いてメアリーから体を離した。
「メアリー、これ。絵梨ちゃんと私からのささやかなお礼なの。受け取ってくれる?」
「え、まあ!そんな。何ですの?」
絵梨がそっとケースを開けて、中からネックレスを取り出した。
「私達とお揃いのアクセサリーなの。私は星のピアス。ほら」
そう言って絵梨は左耳を触ってみせる。
「私はリボンのブレスレット」
美桜も左手首のブレスレットを見せる。
「そして、メアリーにはハートのネックレス」
絵梨がそう言って、メアリーの後ろに回ってネックレスを付けた。
「うん!よく似合ってる。みんな形は違うけど、流れるようなデザインは一緒なのよ。それと、左端に三つのラインストーン」
そう言って三人はそれぞれお互いのモチーフを見比べる。
「離れていても、心はいつでも繋がっているから」
そう言ってリボンを見せる美桜。
「寂しくなったら星を眺めてね。同じ空の下にいるよ」
絵梨が人差し指でピアスを触る。
「そしてハートの温かいメアリー。その優しさはいつまでも忘れないよ。ね?」
美桜と絵梨が微笑みかけると、もう無理とばかりにメアリーの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ありがとうございます。こんな、素敵な…。私の方こそ、お二人のことは決して忘れません。本当にありがとうございます」
三人は肩を寄せ合って抱き合い、半分泣き顔のまま笑い合った。
◇
空港へと向かう車の中、美桜はずっと窓の外を眺めていた。
アレンに会うためにやって来た今回のイギリス旅行。
こんなにもたくさんの素敵な出会いが待っているなんて、全く想像していなかった。
貴重な経験をたくさんさせてもらった。
(この六日間は、私の人生の宝物になる)
そう確信した美桜は、ありがとうと小さく、夕暮れのイギリスにお礼を言った。
◇
「うーん、結構時間ギリギリだな」
空港のカウンターで手続きを済ませた後、腕時計に目をやりながら仁が言う。
「ちょっとお茶でもしようかと思ってたけど、諦めてこのままゲートに向かった方が、ぐえっ!」
話の途中でいきなり変な声を上げる仁に、何事かと目を向けると、絵梨が後ろから羽交い絞めするように、仁の首に手を回している。
「ごめーん、美桜。私どうしても免税店見たいんだ。先に行ってるね」
「え、あ、うん。分かった」
「アレン!色々とありがとう。元気でね」
「ああ、絵梨も」
そうして絵梨は、後ろ向きの仁を引きずりながら、じゃあねーと手を振って去って行く。
「アレンー、達者でなー」
諦めたように引きずられながら、仁もアレンに手を振る。
やがて二人の姿が見えなくなると、アレンは手を下ろして苦笑した。
「なんだか最後までドタバタだな」
「そうね」
肩を並べて二人を見送っていたアレンと美桜は、しばらく間を置いてから向き合った。
(…お別れを言わなくちゃ)
下を向いて少し息を吸ってから、美桜は顔を上げてアレンを見た。
「アレン、本当に色々とありがとう」
「こちらこそ。ありがとう、美桜」
「お父様や、クレア、パレスのみんなにもよろしく伝えてね。メアリーやリサ達にも」
「ああ、分かった」
「あと、どんなに忙しくても、きちんと食事と睡眠は取ってね」
「うん、分かってる」
そこで会話は途切れた。
周りのざわめきや行き交う人達の流れ…。
二人はそれに溶け込めず、別次元に取り残されたかのようだ。
「…もう行かなきゃ」
「うん」
やがて美桜はそっと右手を差し出した。
アレンも同じように右手を出して握る。
(温かいアレンの手の温もり。覚えておこう。決して忘れないように)
美桜はきゅっと大事そうにアレンの手をもう一度握ると、そっと手を緩めた。
その時だった。
アレンがいきなりぐっと力を込めたかと思うと、そのままつないだ右手を引き寄せた。
思わずバランスを崩して前に倒れそうになった美桜は、気付くとアレンの大きな腕の中にいた。
(え?アレン…)
どうしたの、と聞こうとした美桜の耳元で、アレンのかすれた声が聞こえた。
「ごめん」
まるで絞り出すかのように、苦し気に、
「ごめん、美桜。ごめん」
何度もそう謝る。
どうして謝るの?そう聞こうとした。
けれど実際の美桜は、
「ううん」
そう言って首を振るだけだった。
アレンはより一層美桜を強く抱きしめる。
少し肩を震わせているのが、美桜にも分かった。
切なさや悲しさ、アレンの言葉に出来ない気持ちも伝わってきて、美桜の心の奥をギュッと締め付ける。
(考えちゃいけない。アレンの気持ちも自分の気持ちも。考えちゃダメ)
まるで呪文のように、何度も美桜の頭の中をその言葉が駆け巡る。
やがて美桜は、目を閉じたままおでこをアレンの胸につけた。
包み込まれるような安心感が、ふわっと美桜の体を温める。
(大丈夫。これできっとがんばれる。この先もずっと)
そう自分に言い聞かせると、小さく頷いてから、美桜は両手でそっとアレンの胸を押して離れた。
二人の間にすっと空気が流れ込む。
「じゃあ、またね」
そう言ってアレンに背を向けると、そのまま歩き出す。
決して振り返ることなく、美桜は速足で歩き続けた。
搭乗口までたどり着くと、飛行機に乗り込む人はまばらだった。
どうやら絵梨達ももう乗っているらしい。
明るく出迎えてくれるキャビンアテンダントになんとか笑顔で返し、座席番号を探しながら通路を歩いて行くと、心配そうに身を乗り出してこちらを見ている絵梨と仁に気付く。
「おまたせ。絵梨ちゃん、お買い物出来た?」
そう言いながら横に座り、シートベルトを締める。
ん?と絵梨を見ると、絵梨は真顔でじっと美桜を見つめたあと、片腕を回して美桜の頭を抱え込んだ。
(絵梨ちゃん?)
絵梨は、自分の肩に美桜の顔をもたれさせると、ポンポンと労わるように頭を撫でてくる。
ふっと気が緩んだ美桜は、知らず知らずのうちに目頭が熱くなってくるのを感じた。
(少しだけ。いいよね)
絵梨の肩を借りて、美桜は少しだけ泣いた。
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