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ミス・ハプニング?
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「J Wing(ジェイウイング)57.
Wind 260 at 10. Runway16 Left. Cleared for takeoff」
タワーの管制官から離陸許可が伝えられ、コックピットの右側の副操縦士席に座った恵真は、すぐさまリードバックする。
「Runway16 Left. Cleared for takeoff. JW 57」
羽田空港発、新千歳空港行きの日本ウイング航空JWA57便は、指定された滑走路へ向けて地上走行していた。
「いやー、今日はツイてるな。天候もいいしディレイもなし。おまけにランウェイも空いてる。手前で待機命令がなければ予定通りローリングテイクオフでいこう」
左隣りに座る機長の野中の言葉に、ローリングテイクオフ了解ですと答えつつ、恵真は心の中で首をひねる。
(そんなに上手くいく?この私が乗務してるのに?)
半信半疑で離陸の準備を進める中、やがて滑走路への最後のコーナーに差し掛かった。
タワーからの待機命令はない。
(え、すごい!本当にツイてる!ようやく私もミス・ハプニングの汚名返上だわ…って、ん?)
コーナーを曲がり終え、滑走路に正対すると、前方のセンターライン上に何かが動いているのが見えた。
「何だ?あれ」
野中も身を乗り出して目を凝らし、機体を停止させた。
「鳥…ですかね?」
「鳥…だな」
二人で前方を見つめつつ呟く。
(何か食べてる。鳩にしては大きいな。トンビ?…って、そんなこと考えてる場合じゃない!)
我に返り、恵真は野中に「タワーに連絡します」と告げた。
「Tokyo Tower. JW 57. There is a bird right in front of us」
すると、少し戸惑った声が返ってきた。
「JW 57. Tokyo Tower. Confirm…bird strike?」
先行機に当たったあとに落ちた鳥と思われたのだろうが、無理もない。
「JW 57. Negative, well…」
日本語でいいよ、と野中の声が聞こえ、頷いて恵真は続けた。
「日本語で失礼します。バードストライクではありません。えー、食事中の鳥です」
ぶっ!と野中が吹き出すのが視界に入った。
「食事中の鳥、了解しました。車両を向かわせますのでお待ちください。JW 57. Cancel takeoff clearance, hold position」
「Roger. Cancel takeoff clearance, hold position. JW 57」
交信を終えると、野中が肩を震わせて笑っている。
「ははっ!それいいな。使わせてもらうよ」
そう言って機内アナウンスを入れる。
「ご搭乗の皆様に機長の野中より申し上げます。当機は離陸に向け滑走路に進入致しましたが、前方に『食事中の鳥』がいるため、一旦停止しております。皆様への機内サービスもまだのところ、鳥が先に食事をしており大変恐縮ではございますが、今しばらくお待ちください。鳥が離陸し次第、当機も離陸致します」
後方のキャビンから、笑い声のような乗客のざわめきが聞こえてくる。
野中にニヤッと得意げな顔を向けられ、恵真はとりあえず笑顔を取り繕った。
◇
「お、恵真!お疲れ」
その日の乗務を終え、オフィスでのデブリーフィングに向かっていると、同期の伊沢に声をかけられた。
フライトバッグを引きながら、機長と並んで歩いてくる。
おそらく恵真と同じく今日の乗務を終えたところだろう。
「伊沢くん、お疲れ様」
伊沢の隣にいる機長の原田にお辞儀をしてからそう答えると、伊沢は、くくっと笑いを噛み殺した。
「恵真。今日、千歳往復だったんだろ?」
「そうだけど。よく知ってるね」
「だって俺達、羽田でお前の後続機だったんだ。そしたら…」
思い出したように笑いながら、伊沢は隣の原田に話し出す。
「キャプテン、彼女ですよ。今日のアレ」
なに?今日のアレって…と怪訝な面持ちの恵真に、原田は、ああ!と笑顔になる。
「君だったのか。いやー、面白かったよ」
すると恵真の隣にいた野中も、嬉しそうに話に加わる。
「でしょ?俺も思わず吹き出しちゃったよ。彼女も管制官も真面目にやり取りしててさ。いやー、シュールだったなあ」
そして三人で顔を見合わせながら声を揃える。
「食事中の鳥!」
ああ、そのことか…と、ようやく恵真は納得した。
「恵真、このあと飯行かないか?ちょっと話したいことあってさ」
ひとしきり笑ったあと、伊沢が恵真に向き直って言う。
「いいけど。何?話って」
「まあ、あとでな。それとその鳥の話も詳しく聞かせてくれよ」
「おおー、それは私も聞きたいな」
原田のセリフに恵真が思わずギョッとすると、「キャプテン、それはまたいずれ」と伊沢がかわした。
「じゃあ恵真、あとでな」
「うん。分かった」
恵真はもう一度原田にお辞儀をしてから、野中と一緒に歩き出した。
◇
「お疲れー!」
羽田空港からほど近い居酒屋で軽くグラスを合わせると、伊沢は早速身を乗り出して恵真に聞く。
「それで?どうなったの、その鳥。無事に追い払われて退いてくれたの?」
「うん、5分後にね。でもそれも野中キャプテンが速度調整して取り戻してくれたから、到着のディレイもなくて」
「ふーん、良かったじゃない」
「そうなんだけどさ…」
恵真は口をとがらせる。
「あーあ、せっかく今日は天候も良くてツイてるなって思ったのに…」
「それは強烈な晴れ男の俺のおかげよ」
自慢げに胸を反らせる伊沢に、恵真はため息をつく。
「いいなー、伊沢くん。いっつも穏やかなフライトだもんね」
「いや、でも俺からすれば、恵真は経験値高くていいなと思うよ。大抵のことは経験済みだろ?落雷もバードストライクも」
「うん。食事中の鳥は初めてだったけどね」
そう言うと、伊沢はゴホッと食べかけの焼き鳥にむせ返る。
「あっははは!ほんと、恵真のネタは増える一方だな。俺さ、キャプテンとの雑談で恵真の経験談話すと、一気に場が和むんだよ」
「えー、ちょっと!何を勝手に話してるのよ?」
「まあまあ、いいじゃないの。今日の原田キャプテンも、恵真と一緒に乗務するのを楽しみにしてるって言ってたぞ」
「え、そうなんだ」
伊沢に上手く丸め込まれた気もするが、確かにまだ面識のない機長にそう言ってもらえるのはありがたい。
なにせ社内には2千人以上のパイロットがいて、ほとんどの乗務は、初めましてと機長に挨拶することから始まるのだ。
ましてや恵真は、社内に25人しかいない女性パイロットの一人。
相手の機長も、女性副操縦士との乗務は慣れておらず、どう話していいか困惑されたりもするのだ。
そう思えば、伊沢が間に入ってくれて場が和むのなら、恵真にとっても喜ばしい。
「でも伊沢くん。いったい何人のキャプテンに私の話してるの?」
すると伊沢は、神妙な面持ちで手にしたグラスをテーブルに置いた。
「それなんだけど…。今日、恵真に話があるって言ったのはそのことでさ」
「ん?なあに」
恵真が首をかしげると、伊沢は真剣な顔で口を開いた。
「恵真、佐倉キャプテン知ってる?ほら、身長180cmのイケメン機長」
「佐倉さん?一緒になったことはないけど、顔と名前は把握してるよ」
乗務の度に、副操縦士は自分から機長に挨拶に行く為、恵真は必死で機長の顔写真を見ながら覚えていた。
佐倉機長は、社内でも異例の速さで機長に昇格したエリートパイロットと言われている。
いつか一緒に乗務出来れば、その技術を少しでも教わりたいと恵真は思っていた。
「伊沢くん、佐倉さんと一緒に飛んだの?」
「そうなんだよ。先週のパリ便」
「えー!パリ?じゃあ、現地のステイも一緒だったんだね」
「うん。それでさ、やっぱり佐倉さんの腕前、ものすごくて。俺、色々質問したくて思い切って、夕食ご一緒させてもらえませんか?って頼んでみたんだ。そしたら快くいいよって言ってくださって、二人で飲んだんだ」
ひゃー!と恵真は両手で頬を押さえる。
「それでそれで?どんな話したの?」
「えっとね、色々技術的なことも教えてくれたし、Rejected Takeoffの話とかも」
「V1前の離陸中止?うわー、聞きたいな」
「あと、デコンプも」
「ひえー、急減圧?!聞きたいような、聞きたくないような…」
思わず盛り上がる恵真に、伊沢はちょっと言いづらそうに顔をそらす。
「その、まあ、最初はそういう貴重な話を聞かせてもらってたんだけど。俺、途中からちょっと酔っちゃってさ。そこからは、余計なことをペラペラしゃべっちゃって…」
嫌な予感がして、恵真は真顔になる。
「まさか伊沢くん、佐倉さんにも私のネタを?」
「あ、いや、だからその…。まあ、少しだけ」
まったくもう、と恵真は腕を組む。
伊沢と恵真は、航空大学校からの同期で、それこそ寝食を共にした仲間だった。
右も左も分からない状態から毎日必死に勉強し、厳しい訓練を乗り越えてきた恵真の全てを伊沢は知っている。
どんなに涙し、どんなに落ち込み、どんなに打ちひしがれても、そこから必死で這い上がってきた恵真を、誰よりも近くで励ましてくれた。
同じ会社に内定をもらった時は手を取り合って喜んだし、入社後もこうして何でも話せる相手でいてくれることは、恵真にとって心強い。
そんな伊沢に対して、恵真が本気で怒ったり嫌になったりなどしない。
今も、一応とがめてはみたが、別に気分を害した訳ではなかった。
「伊沢くん、今度はなんの話をしたの?まさか航空大学校時代の話とかじゃないでしょうね?」
「え?それは、あれか?毎晩寝言で、ゴーアラウンド!とか叫んで、同室のこずえが飛び起きてたやつとか?」
「えっ、それを話したの?」
「いや、それは話してない。話すならもっと面白いやつあるしな…って、いや違う。そうじゃなくてさ」
伊沢は、ポリポリと頬をかきながらうつむく。
「実は酔った勢いで、心配な同期がいるって佐倉さんに話したんだ」
「心配な同期?って、もしかして私のこと?」
「ああ。恵真、航空大学校時代、事あるごとにハプニングに見舞われただろ?テストフライトでも、なぜだかお恵真が着陸する時だけ異様に風向き変わったり。訓練でも恵真が操縦桿握ると一気に雨が降り始めたり、離陸する時にキツネが飛び出してきたり…」
ああ、そんなこともあったなと、恵真は苦笑いする。
そしてついたあだ名が、ミス・ハプニングだった。
だが、皆が冗談交じりに恵真をそう呼ぶと、教官はそれをたしなめた。
間違ってもそんな縁起の悪いあだ名をつけるな。お客様の気持ちになってみろ。そんなあだ名のついたパイロットの飛行機に乗りたいと思うか?と。
そして恵真にも、決して自分をそんなふうに思うなと真剣に諭してくれたのだった。
その言葉は恵真の心を軽くしてくれ、今でも恵真を救ってくれている。
(そう言えば、伊沢くんも教官と同じように、あの時私を励ましてくれたっけ)
恵真がぼんやりと当時のことを思い出していると、伊沢がまた真剣に話し出した。
「学生時代だけで済むかと思ってたのに、実際にパイロットとして飛び始めてもやっぱり恵真は何かこう、すんなりいかない時が多いだろ?それで俺、つい佐倉さんに話しちゃったんだ。こんなことがこの先も続いて、大丈夫なんでしょうか?って。人一倍、誰よりも真面目に努力してるのに、割に合わない、とか…」
「ええ?!佐倉さんに、会ったこともない私のことをそんなふうに?」
「だから、ごめんって!反省してる。酔った勢いでつい、あいつはアルコールチェックを気にして酒はおろか、奈良漬もかす汁も口にしない。休みの日もずっと勉強してる。それなのに、なんであいつばっかり色んな目に?俺は酒にも酔うし、休みの日にはブラブラ遊んでるのに、フライトはいつも晴れでベストコンディション。俺はあいつに申し訳ない、とかなんとか…。色々しゃべったあげくに、佐倉キャプテン!藤崎と一緒になった時は、なにとぞよろしくお願い致します!とか…」
「い、言っちゃったの?私の名前を?」
「うん、言っちゃった」
はあ…、と恵真は脱力して椅子にもたれる。
ごめん!と伊沢は両手を合わせて、恵真に頭を下げた。
「うーん、そっか。分かった。いいよ、伊沢くんは私のこと心配してくれてたんだもんね」
「え、ほんとに?怒ってない?」
伊沢は、パッと顔を上げる。
「怒ってないよ。むしろ、そこまで気にかけてくれてたんだなってちょっと嬉しい。けど…」
「…けど?」
「いや、うーん。もし佐倉さんと一緒になることがあったら、なんだか話しづらいなと思って」
「そんなことないよ!佐倉さん最後に、分かった、俺も気に留めておくって言ってくださってさ」
「ええー?!そんな、さらに会いづらいんだけど!」
「まあまあ、恵真も一度会えば分かるよ。ほんといい人なんだって」
な?と伊沢に笑いかけられ、恵真は渋々頷いた。
(きっと社交辞令よね。佐倉さんも伊沢くんとの会話、そんなに覚えてないだろうし)
そうに違いないと納得し、恵真は話題を変えて、その後は伊沢と他愛もない話を楽しんだ。
Wind 260 at 10. Runway16 Left. Cleared for takeoff」
タワーの管制官から離陸許可が伝えられ、コックピットの右側の副操縦士席に座った恵真は、すぐさまリードバックする。
「Runway16 Left. Cleared for takeoff. JW 57」
羽田空港発、新千歳空港行きの日本ウイング航空JWA57便は、指定された滑走路へ向けて地上走行していた。
「いやー、今日はツイてるな。天候もいいしディレイもなし。おまけにランウェイも空いてる。手前で待機命令がなければ予定通りローリングテイクオフでいこう」
左隣りに座る機長の野中の言葉に、ローリングテイクオフ了解ですと答えつつ、恵真は心の中で首をひねる。
(そんなに上手くいく?この私が乗務してるのに?)
半信半疑で離陸の準備を進める中、やがて滑走路への最後のコーナーに差し掛かった。
タワーからの待機命令はない。
(え、すごい!本当にツイてる!ようやく私もミス・ハプニングの汚名返上だわ…って、ん?)
コーナーを曲がり終え、滑走路に正対すると、前方のセンターライン上に何かが動いているのが見えた。
「何だ?あれ」
野中も身を乗り出して目を凝らし、機体を停止させた。
「鳥…ですかね?」
「鳥…だな」
二人で前方を見つめつつ呟く。
(何か食べてる。鳩にしては大きいな。トンビ?…って、そんなこと考えてる場合じゃない!)
我に返り、恵真は野中に「タワーに連絡します」と告げた。
「Tokyo Tower. JW 57. There is a bird right in front of us」
すると、少し戸惑った声が返ってきた。
「JW 57. Tokyo Tower. Confirm…bird strike?」
先行機に当たったあとに落ちた鳥と思われたのだろうが、無理もない。
「JW 57. Negative, well…」
日本語でいいよ、と野中の声が聞こえ、頷いて恵真は続けた。
「日本語で失礼します。バードストライクではありません。えー、食事中の鳥です」
ぶっ!と野中が吹き出すのが視界に入った。
「食事中の鳥、了解しました。車両を向かわせますのでお待ちください。JW 57. Cancel takeoff clearance, hold position」
「Roger. Cancel takeoff clearance, hold position. JW 57」
交信を終えると、野中が肩を震わせて笑っている。
「ははっ!それいいな。使わせてもらうよ」
そう言って機内アナウンスを入れる。
「ご搭乗の皆様に機長の野中より申し上げます。当機は離陸に向け滑走路に進入致しましたが、前方に『食事中の鳥』がいるため、一旦停止しております。皆様への機内サービスもまだのところ、鳥が先に食事をしており大変恐縮ではございますが、今しばらくお待ちください。鳥が離陸し次第、当機も離陸致します」
後方のキャビンから、笑い声のような乗客のざわめきが聞こえてくる。
野中にニヤッと得意げな顔を向けられ、恵真はとりあえず笑顔を取り繕った。
◇
「お、恵真!お疲れ」
その日の乗務を終え、オフィスでのデブリーフィングに向かっていると、同期の伊沢に声をかけられた。
フライトバッグを引きながら、機長と並んで歩いてくる。
おそらく恵真と同じく今日の乗務を終えたところだろう。
「伊沢くん、お疲れ様」
伊沢の隣にいる機長の原田にお辞儀をしてからそう答えると、伊沢は、くくっと笑いを噛み殺した。
「恵真。今日、千歳往復だったんだろ?」
「そうだけど。よく知ってるね」
「だって俺達、羽田でお前の後続機だったんだ。そしたら…」
思い出したように笑いながら、伊沢は隣の原田に話し出す。
「キャプテン、彼女ですよ。今日のアレ」
なに?今日のアレって…と怪訝な面持ちの恵真に、原田は、ああ!と笑顔になる。
「君だったのか。いやー、面白かったよ」
すると恵真の隣にいた野中も、嬉しそうに話に加わる。
「でしょ?俺も思わず吹き出しちゃったよ。彼女も管制官も真面目にやり取りしててさ。いやー、シュールだったなあ」
そして三人で顔を見合わせながら声を揃える。
「食事中の鳥!」
ああ、そのことか…と、ようやく恵真は納得した。
「恵真、このあと飯行かないか?ちょっと話したいことあってさ」
ひとしきり笑ったあと、伊沢が恵真に向き直って言う。
「いいけど。何?話って」
「まあ、あとでな。それとその鳥の話も詳しく聞かせてくれよ」
「おおー、それは私も聞きたいな」
原田のセリフに恵真が思わずギョッとすると、「キャプテン、それはまたいずれ」と伊沢がかわした。
「じゃあ恵真、あとでな」
「うん。分かった」
恵真はもう一度原田にお辞儀をしてから、野中と一緒に歩き出した。
◇
「お疲れー!」
羽田空港からほど近い居酒屋で軽くグラスを合わせると、伊沢は早速身を乗り出して恵真に聞く。
「それで?どうなったの、その鳥。無事に追い払われて退いてくれたの?」
「うん、5分後にね。でもそれも野中キャプテンが速度調整して取り戻してくれたから、到着のディレイもなくて」
「ふーん、良かったじゃない」
「そうなんだけどさ…」
恵真は口をとがらせる。
「あーあ、せっかく今日は天候も良くてツイてるなって思ったのに…」
「それは強烈な晴れ男の俺のおかげよ」
自慢げに胸を反らせる伊沢に、恵真はため息をつく。
「いいなー、伊沢くん。いっつも穏やかなフライトだもんね」
「いや、でも俺からすれば、恵真は経験値高くていいなと思うよ。大抵のことは経験済みだろ?落雷もバードストライクも」
「うん。食事中の鳥は初めてだったけどね」
そう言うと、伊沢はゴホッと食べかけの焼き鳥にむせ返る。
「あっははは!ほんと、恵真のネタは増える一方だな。俺さ、キャプテンとの雑談で恵真の経験談話すと、一気に場が和むんだよ」
「えー、ちょっと!何を勝手に話してるのよ?」
「まあまあ、いいじゃないの。今日の原田キャプテンも、恵真と一緒に乗務するのを楽しみにしてるって言ってたぞ」
「え、そうなんだ」
伊沢に上手く丸め込まれた気もするが、確かにまだ面識のない機長にそう言ってもらえるのはありがたい。
なにせ社内には2千人以上のパイロットがいて、ほとんどの乗務は、初めましてと機長に挨拶することから始まるのだ。
ましてや恵真は、社内に25人しかいない女性パイロットの一人。
相手の機長も、女性副操縦士との乗務は慣れておらず、どう話していいか困惑されたりもするのだ。
そう思えば、伊沢が間に入ってくれて場が和むのなら、恵真にとっても喜ばしい。
「でも伊沢くん。いったい何人のキャプテンに私の話してるの?」
すると伊沢は、神妙な面持ちで手にしたグラスをテーブルに置いた。
「それなんだけど…。今日、恵真に話があるって言ったのはそのことでさ」
「ん?なあに」
恵真が首をかしげると、伊沢は真剣な顔で口を開いた。
「恵真、佐倉キャプテン知ってる?ほら、身長180cmのイケメン機長」
「佐倉さん?一緒になったことはないけど、顔と名前は把握してるよ」
乗務の度に、副操縦士は自分から機長に挨拶に行く為、恵真は必死で機長の顔写真を見ながら覚えていた。
佐倉機長は、社内でも異例の速さで機長に昇格したエリートパイロットと言われている。
いつか一緒に乗務出来れば、その技術を少しでも教わりたいと恵真は思っていた。
「伊沢くん、佐倉さんと一緒に飛んだの?」
「そうなんだよ。先週のパリ便」
「えー!パリ?じゃあ、現地のステイも一緒だったんだね」
「うん。それでさ、やっぱり佐倉さんの腕前、ものすごくて。俺、色々質問したくて思い切って、夕食ご一緒させてもらえませんか?って頼んでみたんだ。そしたら快くいいよって言ってくださって、二人で飲んだんだ」
ひゃー!と恵真は両手で頬を押さえる。
「それでそれで?どんな話したの?」
「えっとね、色々技術的なことも教えてくれたし、Rejected Takeoffの話とかも」
「V1前の離陸中止?うわー、聞きたいな」
「あと、デコンプも」
「ひえー、急減圧?!聞きたいような、聞きたくないような…」
思わず盛り上がる恵真に、伊沢はちょっと言いづらそうに顔をそらす。
「その、まあ、最初はそういう貴重な話を聞かせてもらってたんだけど。俺、途中からちょっと酔っちゃってさ。そこからは、余計なことをペラペラしゃべっちゃって…」
嫌な予感がして、恵真は真顔になる。
「まさか伊沢くん、佐倉さんにも私のネタを?」
「あ、いや、だからその…。まあ、少しだけ」
まったくもう、と恵真は腕を組む。
伊沢と恵真は、航空大学校からの同期で、それこそ寝食を共にした仲間だった。
右も左も分からない状態から毎日必死に勉強し、厳しい訓練を乗り越えてきた恵真の全てを伊沢は知っている。
どんなに涙し、どんなに落ち込み、どんなに打ちひしがれても、そこから必死で這い上がってきた恵真を、誰よりも近くで励ましてくれた。
同じ会社に内定をもらった時は手を取り合って喜んだし、入社後もこうして何でも話せる相手でいてくれることは、恵真にとって心強い。
そんな伊沢に対して、恵真が本気で怒ったり嫌になったりなどしない。
今も、一応とがめてはみたが、別に気分を害した訳ではなかった。
「伊沢くん、今度はなんの話をしたの?まさか航空大学校時代の話とかじゃないでしょうね?」
「え?それは、あれか?毎晩寝言で、ゴーアラウンド!とか叫んで、同室のこずえが飛び起きてたやつとか?」
「えっ、それを話したの?」
「いや、それは話してない。話すならもっと面白いやつあるしな…って、いや違う。そうじゃなくてさ」
伊沢は、ポリポリと頬をかきながらうつむく。
「実は酔った勢いで、心配な同期がいるって佐倉さんに話したんだ」
「心配な同期?って、もしかして私のこと?」
「ああ。恵真、航空大学校時代、事あるごとにハプニングに見舞われただろ?テストフライトでも、なぜだかお恵真が着陸する時だけ異様に風向き変わったり。訓練でも恵真が操縦桿握ると一気に雨が降り始めたり、離陸する時にキツネが飛び出してきたり…」
ああ、そんなこともあったなと、恵真は苦笑いする。
そしてついたあだ名が、ミス・ハプニングだった。
だが、皆が冗談交じりに恵真をそう呼ぶと、教官はそれをたしなめた。
間違ってもそんな縁起の悪いあだ名をつけるな。お客様の気持ちになってみろ。そんなあだ名のついたパイロットの飛行機に乗りたいと思うか?と。
そして恵真にも、決して自分をそんなふうに思うなと真剣に諭してくれたのだった。
その言葉は恵真の心を軽くしてくれ、今でも恵真を救ってくれている。
(そう言えば、伊沢くんも教官と同じように、あの時私を励ましてくれたっけ)
恵真がぼんやりと当時のことを思い出していると、伊沢がまた真剣に話し出した。
「学生時代だけで済むかと思ってたのに、実際にパイロットとして飛び始めてもやっぱり恵真は何かこう、すんなりいかない時が多いだろ?それで俺、つい佐倉さんに話しちゃったんだ。こんなことがこの先も続いて、大丈夫なんでしょうか?って。人一倍、誰よりも真面目に努力してるのに、割に合わない、とか…」
「ええ?!佐倉さんに、会ったこともない私のことをそんなふうに?」
「だから、ごめんって!反省してる。酔った勢いでつい、あいつはアルコールチェックを気にして酒はおろか、奈良漬もかす汁も口にしない。休みの日もずっと勉強してる。それなのに、なんであいつばっかり色んな目に?俺は酒にも酔うし、休みの日にはブラブラ遊んでるのに、フライトはいつも晴れでベストコンディション。俺はあいつに申し訳ない、とかなんとか…。色々しゃべったあげくに、佐倉キャプテン!藤崎と一緒になった時は、なにとぞよろしくお願い致します!とか…」
「い、言っちゃったの?私の名前を?」
「うん、言っちゃった」
はあ…、と恵真は脱力して椅子にもたれる。
ごめん!と伊沢は両手を合わせて、恵真に頭を下げた。
「うーん、そっか。分かった。いいよ、伊沢くんは私のこと心配してくれてたんだもんね」
「え、ほんとに?怒ってない?」
伊沢は、パッと顔を上げる。
「怒ってないよ。むしろ、そこまで気にかけてくれてたんだなってちょっと嬉しい。けど…」
「…けど?」
「いや、うーん。もし佐倉さんと一緒になることがあったら、なんだか話しづらいなと思って」
「そんなことないよ!佐倉さん最後に、分かった、俺も気に留めておくって言ってくださってさ」
「ええー?!そんな、さらに会いづらいんだけど!」
「まあまあ、恵真も一度会えば分かるよ。ほんといい人なんだって」
な?と伊沢に笑いかけられ、恵真は渋々頷いた。
(きっと社交辞令よね。佐倉さんも伊沢くんとの会話、そんなに覚えてないだろうし)
そうに違いないと納得し、恵真は話題を変えて、その後は伊沢と他愛もない話を楽しんだ。
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小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。
桜のティアラ〜はじまりの六日間〜
葉月 まい
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