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雨の夜の出逢い
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(雨……?)
カフェのカウンター席に座って本を読んでいた美月は、顔を上げて窓の外に目を凝らす。
降りしきる雨の向こうに、夜の街明かりが滲んで見えた。
いつの間に降り始めたのだろう。
耳を澄ませば聞こえてくるザーッという心地良い音は、外のざわめきやノイズを包み込むように消してくれていた。
(道理で集中出来た訳ね)
ふっと頬を緩めて本を閉じた美月は、外の景色をぼんやりと眺める。
時刻は夜の9時半。
行きつけの広いブックカフェ。
仕事終わりに、こうやってのんびりと窓際のカウンター席で本を読むのが美月は好きだった。
(雨の音って、不思議と落ち着く。シャワーみたいな……拍手みたいな?)
頬杖をついて目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。
それだけで気持ちがほぐれ、心が開放されるのを感じた。
しばらくそうしてから、ようやく席を立つ。
外に出ると、肩にかけたトートバッグから折りたたみ傘を取り出して広げた。
天気予報では雨が降るとは言われていなかったが、日傘と雨傘兼用の折りたたみ傘をいつも持ち歩いているおかげで助かった。
紺色で、内側に細かい星が散らしてあるデザインの傘は、夜に差すと気分が上がる。
雨足は強いが風は穏やかで、4月の下旬ともなると程よく心地いい。
美月は夜空のような傘の絵柄を見上げ、くるっと持ち手を回してから、雨の中を歩き始めた。
「ちょっと待って」
後ろから聞こえてきた声に振り返ると、カフェの出口から、ブラウンのスプリングコートを着た背の高い男性が駆け寄って来た。
「これ、落ちてたんだけど、君のじゃないかな?」
そう言って差し出されたのは、文庫本に挟んであるお気に入りの栞だった。
切り絵をモチーフにしたその栞は、美術館のショップで購入したもので、そこでしか手に入らない。
「あ! はい、そうです」
「やっぱり。周りで本を読んでたのは、君くらいだったから」
受け取った美月は、男性に頭を下げた。
「ありがとうございます。大切にしている栞なんです。本を閉じた時に落としたんですね。本当にありがとうございました」
「いや、無事に返せて良かった。それじゃ」
コートの襟を立てて雨の中に駆け出した男性に、今度は美月が声をかける。
「あの!」
「ん? なに」
振り返った男性に駆け寄り、美月は腕を伸ばして頭の上に傘をかざした。
「傘、お持ちではないのですね。お送りします。どちらまで行かれますか?」
「いや、いいよ。すぐそこのオフィスビルだから」
「でも、せっかく買ったのに濡れてしまいますよ?」
そう言って美月は、男性が手にしていたカフェの紙袋に目をやる。
おそらくテイクアウトしたものが入っているのだろう。
「大丈夫、走ればそんなに濡れないから。じゃあ」
また背を向ける男性に、美月は再び声をかけた。
「あの! では早足でいいので、歩いていただけませんか?」
「は?」
ポカンとする男性の横に並んで歩き出すと、つられて歩き始めた男性がクスッと笑う。
「君、面白いね」
「え?」
「いや、違うな。さり気ない心配りが出来る人だ。言葉遣いって、気遣いだから」
「言葉遣いは、気遣い……」
その言葉を頭の中で繰り返していると、ふいに男性が美月の手から傘を受け取り、美月の方に傾けて差す。
「ごめん、俺のせいで肩が濡れたな」
「いえ、大丈夫です」
自分より20cmほど背が高い男性の頭上に傘をかざしていたせいで、美月の右肩は雨に当たってしまっていた。
すると男性は、左手に持っていたカフェの紙袋を美月に差し出す。
「ちょっと持っててくれる?」
「え? はい」
男性は美月に紙袋を渡すと、傘を左手に持ち替え、右手をポケットに入れてハンカチを取り出した。
左手で傘を指したまま右腕を美月の背中に回し、ハンカチで美月の右肩の雨粒を拭く。
「あ……、ありがとうございます」
「いや、俺こそありがとう。実は内ポケットにタブレットを入れていてね。おかげで濡れずに済んだ」
オフィスビルの前まで来ると、男性は立ち止まって美月に傘を返した。
受け取った美月が預かっていた紙袋を差し出すと、男性は笑ってサラリと言う。
「それ、あげる。せめてものお礼。じゃあ」
「えっ、あの!」
男性はビルのエントランスに入ると、IDカードをかざしてゲートを通り過ぎてから、美月を振り返った。
「知らない人から食べ物を受け取ったらだめだよ。俺以外からは」
もう一度クスッと笑うと、じゃあ、と男性は軽く手を挙げてから去って行った。
◇
「お帰り、優吾」
ビルの15階にあるオフィスに戻ると、デスクでパソコンに向かっていた同僚の光太郎が顔を上げた。
「腹減った。なに買ってきた?」
「あー、ごめん。買ってない」
「はあー? なんか買ってきてくれって頼んだだろ?」
「それが、外すごい雨でさ。濡れると思って」
「えっ、雨降ってんの?」
光太郎は立ち上がると窓際に行き、ブラインドの隙間から外を眺める。
「ほんとだ。結構降ってるな」
「ああ」
「その割りにはお前、濡れてなくない?」
「ん? まあ、よけたからな」
「よけたって、なにを?」
「雨を」
はいー?と眉間にしわを寄せる光太郎の肩をポンと叩いて、優吾は自分のデスクに行く。
コートの内ポケットからタブレットを取り出してカバンにしまうと、パソコンもシャットダウンした。
「光太郎。今日はもう終わりにして、なんか食べに行かないか?」
「おっ、行く行く! でもまだ終わってないタスクあってさ」
「じゃあ、食べ物買って来なかったお詫びに、俺が今夜うちでやっておく」
「いいのか? やったぜー! 秒で支度するから、待ってろ」
慌ただしくデスクの上を片付け始めた光太郎を、優吾は苦笑いを浮かべながら待つ。
二人の職場は、アメリカに本社を置く外資系コンサルティング会社で、勤務時間も自由。
もともとそんなに社員は多くないこともあって、オフィスには他に誰も残っていなかった。
「お待たせ! いつもの居酒屋行こうぜ」
「はいはい」
優吾は光太郎と肩を並べて、オフィスをあとにした。
◇
「ただいま」
マンションに帰ってくると、美月は明かりが点いているリビングのドアを開けて声をかける。
「お帰りー、お姉ちゃん」
二人暮らしをしている大学4年生の妹、美空が、ソファの前の床に座ってフェイスパックしたまま振り返った。
「雨、急に降ってきたけど大丈夫だった?」
「うん、いつも折りたたみ傘を持ち歩いてるから」
「さっすがー! 私はびしょ濡れで、さっきシャワー浴びたところ……ん? カフェでなにか買ってきたの?」
美空の視線を追って、美月は「ああ、これ」と手にしていた紙袋をソファの前のローテーブルに置いた。
「なんかちょっと、わらしべ長者的なことになって……」
「どういうこと? 中、見てもいい? あー、エッグベネディクトにクロックムッシュだ! このカフェ、結構なお値段するから、買えないんだよねー」
確かに、と美月も袋の中を覗き込む。
トロリと溶けたチーズとポーチドエッグがこぼれそうなほどたっぷり載ったエッグベネディクトと、こんがり焼き色のついたボリュームのあるクロックムッシュが、ボックスの中に溢れんばかりに入っていた。
「美味しそう! ね、お姉ちゃん。半分ちょうだい」
「言うと思った」
「でしょ?」
ふふっと笑い合うと、美月は紙袋を手に立ち上がってキッチンへ行く。
手を洗ってからお皿を二枚用意し、ナイフで半分に切って取り分けた。
「はい、どうぞ。まだほんのり温かいわよ」
「ほんとだ。いっただっきまーす!」
美空は大きな口を開けて、エッグベネディクトを頬張る。
「んー、美味しい! うちで食べると、食べ方気にしなくていいから最高!」
フェイスパックをつけたまま、美空は満面の笑みを浮かべた。
「ほら、お姉ちゃんも食べなよ」
「うん、いただきます」
美月も半分にカットしたエッグベネディクトを手に取り、ひと口かじる。
トロリとした卵とチーズ、カリッと焼いたベーコンが口の中でジュワッと混ざり合い、なんとも言えない美味しさが広がった。
「はあ、美味しい……」
「でしょー? 目をつぶれば高級ホテルのラウンジで食べてるみたい」
顔を上げたまま目を閉じ、うっとりと味わっている美空に、美月は笑い出す。
「美空、ご満悦ね」
「うん、優雅なひとときになったわ。ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして。って、私が買った訳じゃないんだけどね」
すると美空は急に真顔になった。
「そうなの? じゃあ誰が買ったの?」
美月は思い出しながら説明する。
「いつもみたいに、仕事の帰りにあのカフェで本を読んでたの。そしたら栞を落としたみたいで、男性が追いかけて来て渡してくれて……。傘も持たずにそのまま走って行こうとするから、歩いてくださいって言って、隣に並んで歩いたの。ちょうど方角も同じだったし。そしたらお礼にって、これをくれて。なんだか逆に悪いことしちゃった。ほんとはあの人が食べるはずだったのに」
美空は、ふーん、と言いながら頬杖をつく。
「多分さ、その男性はお姉ちゃんだからこれを渡そうと思ったんだよ」
「え? どういうこと?」
美月が眉根を寄せると、美空はふふっと笑って宙に目をやった。
「きっと普通の人なら『濡れちゃうから、傘入ってください』とか言うと思うんだよね。だけどお姉ちゃんは、走って行こうとするその人に『歩いてください』って言って、隣を歩いた。傘に入れてあげるって素振りなく、結果的にその人は傘に入れてもらったのよ。だからその人も、なにかお姉ちゃんにさり気ないお返しをしたくなったんじゃないかな?」
そう言ってから、美空は身を乗り出して尋ねる。
「ね、どんな人だったの? その男性」
「えっとね、焦げ茶色のスプリングコートを着ていて、背の丈は私より20cmほど高く、髪はナチュラルな感じで色は黒……」
すると美空が「ちょちょ、ちょっと!」と手で遮った。
「警察の目撃証言じゃないんだから。もっとこう、他に言い方あるでしょ?」
「たとえば?」
「んー、じゃあ年齢はいくつくらい?」
「そうね、ギリギリ平成ひと桁生まれじゃないかしら」
「ぶっ、昭和ひと桁みたいに言わないの! じゃあ、芸能人で言うと?」
「思いつく芸能人がいないわ。テレビも動画も見ないから」
「でしょうね。もうー、ほんとにお姉ちゃんって、なんて言うのか、浮世離れしてる」
美空はため息をついてから、声を潜めてポツリと呟く。
「お姉ちゃん、ほんとにするの? お見合い」
「なあに? いきなり。うん、するわよ。時の流れがこのままならね」
「また昭和歌謡曲みたいなこと言って……。実家に帰る度に私、お父さんとお母さんに念を押されるのよ? 美月は本当にお見合いの話を進めるつもりなのか? このままだとすぐに25歳になるぞって。お父さんもお母さんも、お見合いには反対みたいよ。自分で好きな人を見つけてほしいって」
父親の学生時代からの古い親友に、美月より5歳上のひとり息子がいて、その息子が30歳、つまり美月が25歳になっても互いにいい人がいなければ、お見合いさせようと言われたらしい。
小さい頃はよく一緒に遊んだこともあり、相手側は美月とのお見合いに乗り気だとか。
なんでも「今どき珍しく、擦れてない家庭的なお嬢さん」という印象を持たれているそうだ。
父は美月に、どうせ断るだろうと思いつつその話をしたらしいが、美月があっさり「それもいいね」と頷いたものだから、未だにオロオロしている。
「お姉ちゃんてさ、平安時代だったらモテただろうなって雰囲気で、親世代にはウケがいいよね」
「なにそれ。褒めてるの? けなしてるの?」
「分かんないけど、とにかくお見合いには向いてる気がする。軽い気持ちで引き受けたら、あとに引けなくなるかもよ?」
「承知の上よ。全くの見ず知らずの相手ではないし、25歳になったら話を進めるわ。私に彼氏は出来ないだろうから」
「もう、お姉ちゃん! 分かってる? お見合いって、そのまま行くと結婚するのよ?」
「もちろん分かってるわ。それをお見合いと呼ぶのだから」
「その語り口調はやめて。ほんとに分かってる? 恋をせずに結婚することになるのよ?」
恋……と美月は考え込む。
「そうね、そこに恋はないでしょうね。だって最初から『結婚しますか? しませんか?』って話し合うんだから。あっ、でもそこに愛はあるんじゃない? ほら、お見合いの『あい』」
ガクッと美空は首を折った。
「お姉ちゃん、本の読みすぎだよ。どうしてそう、なんでもかんでも言葉遊びみたいになるの? もっとこう、人との会話のやり取りで楽しめない?」
「んー、気兼ねなく話せる相手は美空くらいだもん。いつも相手の様子を気にかけながらしゃべってて、逆に疲れちゃう。本なら、なんでも好きなことを思いながら読めるでしょ? そこが楽しいの」
「そうなんだ……。それなら、『読書好きの会』みたいなので相手を探したら?」
「そうなの! 実際にそういうの、あるのよ! 私の職場で月に一回集まってる『本読み会』っていうのが」
急に声を張ると、美空は驚いたように身を引く。
「へ、へえ、あるんだ。そこでいい人見つけられそう?」
「話が合うおばあちゃんはいるよ。でね、その会の最高齢のおばあちゃんが、昭和ひと桁生まれなのよ。すごいでしょう?」
「う……うん。そっか。じゃあ私、そろそろ寝るね。なんだかついていけなくなったから」
フェイスパックをつけたまま、ヨロヨロと立ち上がる美空を、美月は「おやすみ」と声をかけて見送った。
カフェのカウンター席に座って本を読んでいた美月は、顔を上げて窓の外に目を凝らす。
降りしきる雨の向こうに、夜の街明かりが滲んで見えた。
いつの間に降り始めたのだろう。
耳を澄ませば聞こえてくるザーッという心地良い音は、外のざわめきやノイズを包み込むように消してくれていた。
(道理で集中出来た訳ね)
ふっと頬を緩めて本を閉じた美月は、外の景色をぼんやりと眺める。
時刻は夜の9時半。
行きつけの広いブックカフェ。
仕事終わりに、こうやってのんびりと窓際のカウンター席で本を読むのが美月は好きだった。
(雨の音って、不思議と落ち着く。シャワーみたいな……拍手みたいな?)
頬杖をついて目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。
それだけで気持ちがほぐれ、心が開放されるのを感じた。
しばらくそうしてから、ようやく席を立つ。
外に出ると、肩にかけたトートバッグから折りたたみ傘を取り出して広げた。
天気予報では雨が降るとは言われていなかったが、日傘と雨傘兼用の折りたたみ傘をいつも持ち歩いているおかげで助かった。
紺色で、内側に細かい星が散らしてあるデザインの傘は、夜に差すと気分が上がる。
雨足は強いが風は穏やかで、4月の下旬ともなると程よく心地いい。
美月は夜空のような傘の絵柄を見上げ、くるっと持ち手を回してから、雨の中を歩き始めた。
「ちょっと待って」
後ろから聞こえてきた声に振り返ると、カフェの出口から、ブラウンのスプリングコートを着た背の高い男性が駆け寄って来た。
「これ、落ちてたんだけど、君のじゃないかな?」
そう言って差し出されたのは、文庫本に挟んであるお気に入りの栞だった。
切り絵をモチーフにしたその栞は、美術館のショップで購入したもので、そこでしか手に入らない。
「あ! はい、そうです」
「やっぱり。周りで本を読んでたのは、君くらいだったから」
受け取った美月は、男性に頭を下げた。
「ありがとうございます。大切にしている栞なんです。本を閉じた時に落としたんですね。本当にありがとうございました」
「いや、無事に返せて良かった。それじゃ」
コートの襟を立てて雨の中に駆け出した男性に、今度は美月が声をかける。
「あの!」
「ん? なに」
振り返った男性に駆け寄り、美月は腕を伸ばして頭の上に傘をかざした。
「傘、お持ちではないのですね。お送りします。どちらまで行かれますか?」
「いや、いいよ。すぐそこのオフィスビルだから」
「でも、せっかく買ったのに濡れてしまいますよ?」
そう言って美月は、男性が手にしていたカフェの紙袋に目をやる。
おそらくテイクアウトしたものが入っているのだろう。
「大丈夫、走ればそんなに濡れないから。じゃあ」
また背を向ける男性に、美月は再び声をかけた。
「あの! では早足でいいので、歩いていただけませんか?」
「は?」
ポカンとする男性の横に並んで歩き出すと、つられて歩き始めた男性がクスッと笑う。
「君、面白いね」
「え?」
「いや、違うな。さり気ない心配りが出来る人だ。言葉遣いって、気遣いだから」
「言葉遣いは、気遣い……」
その言葉を頭の中で繰り返していると、ふいに男性が美月の手から傘を受け取り、美月の方に傾けて差す。
「ごめん、俺のせいで肩が濡れたな」
「いえ、大丈夫です」
自分より20cmほど背が高い男性の頭上に傘をかざしていたせいで、美月の右肩は雨に当たってしまっていた。
すると男性は、左手に持っていたカフェの紙袋を美月に差し出す。
「ちょっと持っててくれる?」
「え? はい」
男性は美月に紙袋を渡すと、傘を左手に持ち替え、右手をポケットに入れてハンカチを取り出した。
左手で傘を指したまま右腕を美月の背中に回し、ハンカチで美月の右肩の雨粒を拭く。
「あ……、ありがとうございます」
「いや、俺こそありがとう。実は内ポケットにタブレットを入れていてね。おかげで濡れずに済んだ」
オフィスビルの前まで来ると、男性は立ち止まって美月に傘を返した。
受け取った美月が預かっていた紙袋を差し出すと、男性は笑ってサラリと言う。
「それ、あげる。せめてものお礼。じゃあ」
「えっ、あの!」
男性はビルのエントランスに入ると、IDカードをかざしてゲートを通り過ぎてから、美月を振り返った。
「知らない人から食べ物を受け取ったらだめだよ。俺以外からは」
もう一度クスッと笑うと、じゃあ、と男性は軽く手を挙げてから去って行った。
◇
「お帰り、優吾」
ビルの15階にあるオフィスに戻ると、デスクでパソコンに向かっていた同僚の光太郎が顔を上げた。
「腹減った。なに買ってきた?」
「あー、ごめん。買ってない」
「はあー? なんか買ってきてくれって頼んだだろ?」
「それが、外すごい雨でさ。濡れると思って」
「えっ、雨降ってんの?」
光太郎は立ち上がると窓際に行き、ブラインドの隙間から外を眺める。
「ほんとだ。結構降ってるな」
「ああ」
「その割りにはお前、濡れてなくない?」
「ん? まあ、よけたからな」
「よけたって、なにを?」
「雨を」
はいー?と眉間にしわを寄せる光太郎の肩をポンと叩いて、優吾は自分のデスクに行く。
コートの内ポケットからタブレットを取り出してカバンにしまうと、パソコンもシャットダウンした。
「光太郎。今日はもう終わりにして、なんか食べに行かないか?」
「おっ、行く行く! でもまだ終わってないタスクあってさ」
「じゃあ、食べ物買って来なかったお詫びに、俺が今夜うちでやっておく」
「いいのか? やったぜー! 秒で支度するから、待ってろ」
慌ただしくデスクの上を片付け始めた光太郎を、優吾は苦笑いを浮かべながら待つ。
二人の職場は、アメリカに本社を置く外資系コンサルティング会社で、勤務時間も自由。
もともとそんなに社員は多くないこともあって、オフィスには他に誰も残っていなかった。
「お待たせ! いつもの居酒屋行こうぜ」
「はいはい」
優吾は光太郎と肩を並べて、オフィスをあとにした。
◇
「ただいま」
マンションに帰ってくると、美月は明かりが点いているリビングのドアを開けて声をかける。
「お帰りー、お姉ちゃん」
二人暮らしをしている大学4年生の妹、美空が、ソファの前の床に座ってフェイスパックしたまま振り返った。
「雨、急に降ってきたけど大丈夫だった?」
「うん、いつも折りたたみ傘を持ち歩いてるから」
「さっすがー! 私はびしょ濡れで、さっきシャワー浴びたところ……ん? カフェでなにか買ってきたの?」
美空の視線を追って、美月は「ああ、これ」と手にしていた紙袋をソファの前のローテーブルに置いた。
「なんかちょっと、わらしべ長者的なことになって……」
「どういうこと? 中、見てもいい? あー、エッグベネディクトにクロックムッシュだ! このカフェ、結構なお値段するから、買えないんだよねー」
確かに、と美月も袋の中を覗き込む。
トロリと溶けたチーズとポーチドエッグがこぼれそうなほどたっぷり載ったエッグベネディクトと、こんがり焼き色のついたボリュームのあるクロックムッシュが、ボックスの中に溢れんばかりに入っていた。
「美味しそう! ね、お姉ちゃん。半分ちょうだい」
「言うと思った」
「でしょ?」
ふふっと笑い合うと、美月は紙袋を手に立ち上がってキッチンへ行く。
手を洗ってからお皿を二枚用意し、ナイフで半分に切って取り分けた。
「はい、どうぞ。まだほんのり温かいわよ」
「ほんとだ。いっただっきまーす!」
美空は大きな口を開けて、エッグベネディクトを頬張る。
「んー、美味しい! うちで食べると、食べ方気にしなくていいから最高!」
フェイスパックをつけたまま、美空は満面の笑みを浮かべた。
「ほら、お姉ちゃんも食べなよ」
「うん、いただきます」
美月も半分にカットしたエッグベネディクトを手に取り、ひと口かじる。
トロリとした卵とチーズ、カリッと焼いたベーコンが口の中でジュワッと混ざり合い、なんとも言えない美味しさが広がった。
「はあ、美味しい……」
「でしょー? 目をつぶれば高級ホテルのラウンジで食べてるみたい」
顔を上げたまま目を閉じ、うっとりと味わっている美空に、美月は笑い出す。
「美空、ご満悦ね」
「うん、優雅なひとときになったわ。ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして。って、私が買った訳じゃないんだけどね」
すると美空は急に真顔になった。
「そうなの? じゃあ誰が買ったの?」
美月は思い出しながら説明する。
「いつもみたいに、仕事の帰りにあのカフェで本を読んでたの。そしたら栞を落としたみたいで、男性が追いかけて来て渡してくれて……。傘も持たずにそのまま走って行こうとするから、歩いてくださいって言って、隣に並んで歩いたの。ちょうど方角も同じだったし。そしたらお礼にって、これをくれて。なんだか逆に悪いことしちゃった。ほんとはあの人が食べるはずだったのに」
美空は、ふーん、と言いながら頬杖をつく。
「多分さ、その男性はお姉ちゃんだからこれを渡そうと思ったんだよ」
「え? どういうこと?」
美月が眉根を寄せると、美空はふふっと笑って宙に目をやった。
「きっと普通の人なら『濡れちゃうから、傘入ってください』とか言うと思うんだよね。だけどお姉ちゃんは、走って行こうとするその人に『歩いてください』って言って、隣を歩いた。傘に入れてあげるって素振りなく、結果的にその人は傘に入れてもらったのよ。だからその人も、なにかお姉ちゃんにさり気ないお返しをしたくなったんじゃないかな?」
そう言ってから、美空は身を乗り出して尋ねる。
「ね、どんな人だったの? その男性」
「えっとね、焦げ茶色のスプリングコートを着ていて、背の丈は私より20cmほど高く、髪はナチュラルな感じで色は黒……」
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「警察の目撃証言じゃないんだから。もっとこう、他に言い方あるでしょ?」
「たとえば?」
「んー、じゃあ年齢はいくつくらい?」
「そうね、ギリギリ平成ひと桁生まれじゃないかしら」
「ぶっ、昭和ひと桁みたいに言わないの! じゃあ、芸能人で言うと?」
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「でしょうね。もうー、ほんとにお姉ちゃんって、なんて言うのか、浮世離れしてる」
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「お姉ちゃん、ほんとにするの? お見合い」
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父親の学生時代からの古い親友に、美月より5歳上のひとり息子がいて、その息子が30歳、つまり美月が25歳になっても互いにいい人がいなければ、お見合いさせようと言われたらしい。
小さい頃はよく一緒に遊んだこともあり、相手側は美月とのお見合いに乗り気だとか。
なんでも「今どき珍しく、擦れてない家庭的なお嬢さん」という印象を持たれているそうだ。
父は美月に、どうせ断るだろうと思いつつその話をしたらしいが、美月があっさり「それもいいね」と頷いたものだから、未だにオロオロしている。
「お姉ちゃんてさ、平安時代だったらモテただろうなって雰囲気で、親世代にはウケがいいよね」
「なにそれ。褒めてるの? けなしてるの?」
「分かんないけど、とにかくお見合いには向いてる気がする。軽い気持ちで引き受けたら、あとに引けなくなるかもよ?」
「承知の上よ。全くの見ず知らずの相手ではないし、25歳になったら話を進めるわ。私に彼氏は出来ないだろうから」
「もう、お姉ちゃん! 分かってる? お見合いって、そのまま行くと結婚するのよ?」
「もちろん分かってるわ。それをお見合いと呼ぶのだから」
「その語り口調はやめて。ほんとに分かってる? 恋をせずに結婚することになるのよ?」
恋……と美月は考え込む。
「そうね、そこに恋はないでしょうね。だって最初から『結婚しますか? しませんか?』って話し合うんだから。あっ、でもそこに愛はあるんじゃない? ほら、お見合いの『あい』」
ガクッと美空は首を折った。
「お姉ちゃん、本の読みすぎだよ。どうしてそう、なんでもかんでも言葉遊びみたいになるの? もっとこう、人との会話のやり取りで楽しめない?」
「んー、気兼ねなく話せる相手は美空くらいだもん。いつも相手の様子を気にかけながらしゃべってて、逆に疲れちゃう。本なら、なんでも好きなことを思いながら読めるでしょ? そこが楽しいの」
「そうなんだ……。それなら、『読書好きの会』みたいなので相手を探したら?」
「そうなの! 実際にそういうの、あるのよ! 私の職場で月に一回集まってる『本読み会』っていうのが」
急に声を張ると、美空は驚いたように身を引く。
「へ、へえ、あるんだ。そこでいい人見つけられそう?」
「話が合うおばあちゃんはいるよ。でね、その会の最高齢のおばあちゃんが、昭和ひと桁生まれなのよ。すごいでしょう?」
「う……うん。そっか。じゃあ私、そろそろ寝るね。なんだかついていけなくなったから」
フェイスパックをつけたまま、ヨロヨロと立ち上がる美空を、美月は「おやすみ」と声をかけて見送った。
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