2 / 17
ピアノリサイタル
しおりを挟む
「館長、おはようございます」
翌日、美月は勤務先のコミュニティセンターに出勤すると、制服の紺のスーツに着替えてからカウンターに向かった。
「おはよう、風間さん。今日は遅番だよね?」
「はい、そうです。大ホールで19時からピアノのリサイタルが催されるので、それが終わるまでは」
「そうか。私は17時上がりなんだけど、大丈夫かな?」
「はい、お任せください」
「頼むよ。風間さんなら安心だ」
気のいいおじさんといった雰囲気の50代半ばの館長は、美月に笑いかけてからバックオフィスに戻っていった。
「美月ちゃん、おはよう」
早番のパートの主婦、桑原が、にこやかに顔を上げる。
「おはようございます、桑原さん。休憩行ってきてください」
「ありがとう。特に変わったことはないわよ。いつもと同じ」
「分かりました。ごゆっくり」
桑原と交代してカウンターの前に座った美月は、今日の利用状況を端末で確認する。
(えーっと、体育室は午後から卓球サークルの『ピンポンパン』ね。多目的室は吹奏楽団の『ブラブラバンバン』みんなどうしてこういうネーミングなのかしら? 和室は……あっ、噂をすれば『本読み会』だわ)
美月が勤務しているのは、区の公共施設のコミュニティセンター。
主に地域の人達の為の施設で、座席数500席の大ホールから、卓球やバドミントン、バレーボールなどにも対応出来る体育室、防音設備の整った多目的室、茶道や華道に最適な和室などがある。
他にもカラオケルームや勉強室、図書コーナーやプレイルームなどもあり、赤ちゃんからおじいちゃんおばあちゃんまで、ニーズに合った場所でそれぞれの時間を楽しんでもらう、いわば憩いの場でもあった。
サークル活動は曜日と時間が決まっていることが多く、美月もほとんどの利用者とは顔なじみだ。
「美月ちゃーん、こんにちは」
しばらくすると、『本読み会』のメンバーの一人がやって来た。
「こんにちは。もしかして、タキさんもご一緒ですか?」
「そうなの。悪いんだけど、お迎えお願い出来る?」
「かしこまりました。すぐに行きますね」
美月はバックオフィスの館長に声をかけてから、階段をタタッと駆け下りる。
90歳を過ぎた近所に住むおばあちゃんが、車椅子に座って待っていた。
「タキさん、お待たせ」
「いつも悪いねえ、美月ちゃん」
「いいえ。行きましょうか」
美月は車椅子の後ろに回るとハンドルを握り、ストッパーを外す。
「では動きますよー」
「はいー」
本読み会のメンバーが、ここに来る前にタキさんの自宅に立ち寄って、車いすを押して来るのがいつもの流れだった。
館内はバリアフリーになっているのだが、エレベーターの前のスロープだけは、車椅子を押すには力がいる。
補助する人も高齢者では危ないからと、美月はいつも「私が代わるので声かけてくださいね」と伝えていた。
エレベーターに乗ると、美月は壁の鏡越しにタキさんに話しかける。
「タキさん、今日はなんの本を読むの?」
「今日はね、古今和歌集よ」
「それは素敵!」
美月はうっとりと宙に目をやって口ずさむ。
『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』
するとタキさんがふふっと笑う。
「美月ちゃん、その歌はあなたの心境にはまだ早いわ。美月ちゃんは、そうねえ……。『夕月夜 さすや岡部の 松の葉の いつともわかぬ 恋もするかな』ってところかしら?」
「それって、いつ始まったのかも分からない恋をしているって意味でしょう?」
「そうよ。美月ちゃんにぴったりじゃない?」
美月は笑って否定する。
「残念ながら、私はその歌の心境ではないです」
「あら、気づいていないだけで、もう恋の中にいるかもしれないわよ?」
「ふふっ、そうだといいですけど。はい、着きましたよ」
エレベーターを降りると、廊下の突き当りの和室に入る。
畳の手前で車椅子を止めて、ストッパーをかけた。
「ありがとね、美月ちゃん」
「いいえ、ごゆっくり楽しんでくださいね」
明るく手を振ってから、美月は和室をあとにした。
そのあとはカウンターで、予約や問い合わせ、本の貸出業務などに追われる。
午後枠の部屋の利用時間が終わると、忘れ物や清掃のチェックに回り、次の夕方枠の利用者を受け入れた。
「風間さん、今のうちに休憩どうぞ」
「はい。17時には戻りますね」
16時になると館長と交代して、休憩室に向かう。
持ってきたお弁当を食べてから、食後のお茶を飲んでひと息ついた。
ぼんやりと、タキさんの言葉を思い出す。
(いつの間にか始まっている恋、か……。どんな状況? さっぱり想像つかない。それより私は、『本読み会』に入りたいよ。いいなあ、タキさん達。私もおばあちゃんになったら、あんなふうに気の合う友達と集まりたい。今から声かけておく? 60年後に『本読み会』をしませんかって)
真面目にそんなことを考える。
だが、すぐに苦笑いを浮かべた。
(また美空に、浮世離れしてるって言われちゃうわ。だけど恋より『本読み会』の方が楽しそうなんだもん。25歳になったらお見合いして、家庭を持って、仕事を定年退職したら『本読み会』に入る。うん、私の人生設計、ばっちりね。よーし、このあとも仕事がんばろう!)
美月は気合いを入れて立ち上がった。
◇
「それじゃあ、あとはよろしくね」
休憩から戻ると、館長が帰り支度を始めた。
「はい、お任せください。お疲れ様でした」
「お疲れ様」
館長を見送ると、入れ違いに大ホールを予約したピアニストがやって来た。
「こんにちは、友利です。今日はよろしくお願いします」
「こんにちは、風間と申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします。早速楽屋にご案内しますね」
若手のピアニストの友利 健二は、海外の有名なコンクールで賞を取ったばかり。
凱旋公演として、今はあちこちの地域でリサイタルを開いているらしい。
甘いルックスと爽やかな笑顔で、追っかけの女性達がこぞって前売り券を購入し、早々に完売していた。
美月は大ホールの通路脇の楽屋まで来ると、ドアを開けて「どうぞ」と友利を促す。
「空調はつけておきましたが、暑かったり寒かったりしたら、ご自由に設定してくださいね。ステージには、打ち合わせ通りにピアノを準備してあります。すぐにリハーサルされますか?」
「そうですね、弾いてみたいです」
「かしこまりました。ご案内します」
荷物を置いて楽屋を施錠すると、友利は手ぶらで美月のあとに続いた。
「楽譜はお持ちにならないんですね」
「あ、ええ。リサイタルなので、好きな曲ばかり弾きますから」
美月は手にしていた公演のプログラムに目をやる。
「ショパンが多いのですね」
「そうなんです、ガラにもなく……」
「ショパンに合うガラって、どういうのですか?」
「は?」
ポカンとしてから、友利は取り繕うように慌てた。
「えっと、そうですね。ショパンはピアノの詩人と呼ばれているので、やはり知的で繊細なピアニストが弾くイメージですかね」
「なるほど。日本人が和歌を詠んだように、ショパンは音を紡いだのでしょうか……って、こんなことを言うと大概の人は引いてしまうので、口にしないようにしています」
「そ、そうですか」
たじろぐ友利に、美月は、しまった……と顔をしかめる。
「申し訳ありません。これから演奏されるというのに、集中力を欠くようなことを申し上げてしまい……」
「いえいえ、そんな。良いインスピレーションをもらいました。なるほど、和歌を詠むのも、情景を思い浮かべますものね。今夜は日本人の視点から、ショパンの音楽を奏でたいと思います」
「そう言っていただけると……。すみません。自分は変わり者だと自覚しているのに、ついうっかり」
「ははは! いえ、私もかなりの変わり者ですよ。ピアニストなんて呼ばれますけど、単なるピアノオタクで音楽バカってだけなんです」
友利は笑いを期待していたようだが、美月は真顔で頷いた。
「それは言い得て妙です。面白い方ですね、友利さんって」
「いえ、風間さんこそ」
ちょうどピアノの前にたどり着き、美月は足を止めて友利を振り返った。
「ご自由に音出しなさってください。開場は18時ですから、その前にお声をかけに参りますね」
「ありがとうございます。あの……」
「はい、なにか?」
美月が向き直ると、友利はためらいがちに口を開く。
「もしよろしければ、終演後に感想をお聞かせ願えたらと……」
「いえいえ、まさか。わたくしは全くの素人で、音楽のことはさっぱり分かりませんので」
「音楽を聴くのに資格も知識もいりません。むしろ、率直なお言葉をいただければ嬉しいのですが」
「わたくしでいいのなら、かしこまりました。業務がありますので、少ししかホールの中では聴けないのですが」
友利は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「はい、少しだけでも構いません」
「そういうことなら、謹んで。それでは、後ほど」
お辞儀をしてから、美月は友利をホールに残して受付に戻った。
「あ、美月さん! お疲れ様です」
カウンターに行くと、アルバイトの詩音しおんが笑顔で近づいて来た。
大ホールで催しがある時は人手が必要になる為、登録制のアルバイトに手伝ってもらっている。
「お疲れ様、詩音ちゃん。今夜のリサイタル、よろしくね」
「はい! なんたって、友利 健二のリサイタルですからね。 ああ、楽しみ! もう楽屋入りしてるんですか?」
「うん。今、ホールで音出ししてるよ」
「えー、聴きに行きたい! 上手いんだろうなあ」
詩音は両手を組んで、目を輝かせた。
「あ、そっか。詩音ちゃん、ピアノやってるんだよね?」
「はい。私の周りでも、友利 健二のファンは多いですよー。今夜も聴きに来る知り合いたくさんいるし」
「それなら、詩音ちゃんも客席で聴きたかったんじゃない? お客様の来場が落ち着いたら、ホールの中で聴いていいわよ」
「ほんとですか!?」
詩音はガバッと美月に抱きつく。
「やったー! ありがとうございます、美月さん。この御恩は決して忘れませぬ」
「そんな大げさな……。しかもどうしてそんな口調なの?」
「美月様に合わせたのでござる」
「私、忍者じゃないからね」
「拙者、承知でござる!」
「やれやれ……。ほら、ホワイエの準備に行くわよ」
「ニンニン!」
テンションの高い詩音を連れて、美月はホワイエに向かう。
テーブルを並べてプログラムやチラシを置き、受付を設置した。
「お花やプレゼントを預かったらここに置いてね。アンケート回収ボックスはこれ。詩音ちゃんは慣れてるから、他のアルバイトの人達にも説明しておいてくれる?」
「がってん承知之助!」
「……詩音ちゃん、もはやそれ親父ギャグだからね?」
あとは詩音に任せて、美月は腕時計に目を落とす。
(開場10分前か。そろそろ友利さんに声かけに行かないと)
そう思い、ホールの一番後ろの扉を開いた。
(えっ……、すごい)
2重扉の2つ目を開いた途端、飛び込んできたピアノの音に圧倒されて、美月は立ち尽くす。
広いホールいっぱいに、キラキラと輝くような音の粒が響き渡っていた。
見下ろした先のステージで、ピアノに一人向かっている友利の姿。
この音が、彼一人の手によって生み出されているとは思えないほど、美月の全身にシャワーのように音が降り注ぐ。
(なにここ、宇宙? 異次元の世界?)
不思議な感覚に囚われたまま、言葉もなくただ聴き惚れた。
空間を支配していた音の世界は、やがて彼が手の動きを止めて、静けさを取り戻す。
美月もようやく我に返った。
「あ、風間さん」
友利が顔を上げて、美月に笑いかける。
美月はホールの階段を下りてステージに近づいた。
「もう時間ですか?」
友利にそう聞かれても、美月はまだ余韻から抜け出せない。
「はい、あと10分で。あの、びっくりしました」
え?と、友利が首をかしげる。
「もしかして、聴いてくださったんですか?」
「聴くというよりは、衝撃的な体験をしたような……。一瞬で別世界へと連れて行かれました。今の曲もショパンなのですか?」
「はい。エチュード、つまり練習曲です」
エチュード?と、美月は驚いた。
「とてもそんなふうには思えませんでした。情景が目に浮かぶような……。華やかで、きらびやかで、夜空から流星群が降り注ぐみたいに、美しい世界に包まれました」
友利は驚いたように目を見開いてから、柔らかい笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。最高に嬉しいです」
「え? あの、すみません。技術的なことが分からないので、的外れなことを言ってしまって……」
「それがとても嬉しいのです。ありがとう、風間さん」
その言葉に嘘はないのだろう。
友利の言葉も、美月の胸に真っ直ぐ届いた。
(こんなふうに、誰かに心を開いてもらえるなんて)
屈託のない友利の笑顔に、いつの間にか美月も笑みを浮かべていた。
◇
「こんばんは、いらっしゃいませ」
開場時間になり、美月は詩音達と一緒に、にこやかに来場者を迎えた。
チケットの半券を切り、プログラムとアンケートを手渡し、友利への花束や手紙を預かる。
やはり若い女性客が多く、皆オシャレに着飾って楽しそうにホールへと向かった。
開演5分前にはほぼ全員がホールに着席し、ホワイエはガランと静かになる。
「お疲れ様。詩音ちゃん、お客様の様子をうかがいがてら、ホールで演奏聴いて来ていいわよ」
「ほんとですか? ありがとうございます!」
詩音はウキウキとホールの中に入って行った。
「美月さん。友利さん側にはステージマネージャーとか、スタッフはいるんですか?」
舞台関係の専門学校に通っているアルバイトの男の子に聞かれて、美月は首を振る。
「ううん、いないと思う。お一人で来られてたから」
「それなら、一応楽屋に呼びに行った方がいいんじゃないですかね?」
「確かにそうだわ。私、行ってくる。教えてくれてありがとう」
「いいえー。お願いします」
美月はタタッと小走りで通路を駆け抜け、楽屋のドアをノックした。
「はい」
「友利さん、風間です。お時間3分前ですが、準備はいかがですか?」
「大丈夫です。今行きますね」
ガチャッとドアが開いて友利が姿を現すと、美月は驚いて目を見張った。
「わあ、友利さん、パリッパリですね」
「はっ?」
「あ、失礼しました。髪型もパリッと整っているし、タキシードもパリッと着こなしていらして、素敵です。と言おうとして、ものすごく端折ってしまいました」
「ははは! なるほど。良かった、一瞬せんべいになった気分でした」
「すみません、これから演奏されるピアニストの方に……」
身を縮こめる美月に、友利は明るく笑う。
「いいえ、おかげで緊張がほぐれました。楽屋に一人でいると悶々としてしまって、テンションも下がり気味でしたから」
二人で下手の舞台袖に行くと、スタッフが顔を上げた。
「開演1分前です。よろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
友利はキリッと表情を引き締める。
「それでは、本ベル鳴らして照明落とします」
客席にチャイムが鳴り、照明が絞られると、人々のざわめきが消えた。
「友利さん、行ってらっしゃい」
美月が笑顔で送り出す。
「行ってきます」
友利は口角を上げて頷くと、スッと背筋を伸ばしてステージへと歩き始めた。
◇
そのまま舞台袖で聴きたい気持ちを抑え、美月はホワイエに戻る。
「ごめんね、大丈夫だった?」
「はい、問題ないですよ。美月さんもホールの中で聴いて来たらいいのに」
気を使ってくれるアルバイトの男の子に、美月は「ありがとう、でも大丈夫」と笑った。
ホワイエに設置されたモニターがステージの様子を映し、かすかに演奏が聞こえてくる。
(そう言えばあの曲、なんて名前なんだろう? エチュードって言ってたよね)
先ほど感銘を受けた演奏を思い出し、プログラムを開いてみた。
バラードやポロネーズ、ノクターンなどが並ぶ中、ショパンのエチュードはOp.10-12「革命」しかない。
(革命は私も知ってるけど、さっきの曲とは違うよね。でも他にエチュードはないし……)
不思議に思いながらも、モニターから聞こえてくる音に耳を澄ませた。
(やっぱりすごく引き込まれる。素敵な演奏)
1曲目が終わり、遅れて来たお客様をホール内に案内すると、友利がマイクを握って話し始めた。
「皆様、本日は私のような無名の新人のリサイタルに、ようこそお越しくださいました。この時間、この空間を皆様と共有出来ることに感謝し、今感じている喜びと幸せを全て演奏に込めたいと思います。どうぞ最後までごゆっくりお楽しみください」
深々とお辞儀をする友利に、温かい拍手が贈られる。
「見た目はかっこいいのに、性格が控えめなところがいいわよねえ」
「うん。ピアノの腕前もいいし、これから一気に有名人になりそう。私達、先見の明ありよね」
「そうね。ファンクラブ出来たら会員番号ひと桁狙おう」
客席の女性達から、そんな会話が聞こえてきた。
やっぱりひと桁ってなんだか特別よねと、美月は妙なことを考えながらホールを出る。
その後は遅れて来る来場者もなく、預かった友利への花束やプレゼントを袋にまとめて、アンケート回収ボックスをいくつか並べた。
最後の曲が終わると、感激の面持ちで詩音がホールから出て来た。
「はあ、すっごく良かったです。美月さん、ありがとうございました」
「どういたしまして。アンコールは聴かなくていいの?」
「はい、さすがにそこまでは……。ちゃんとお仕事しなきゃ」
詩音は、使い終わったテーブルをバックヤードに運び始める。
すると、モニターから聞こえていた拍手の音が止み、再びピアノの音色が聞こえてきた。
美月はハッとする。
(この曲、さっきの……!)
間違いない。
キラキラと輝きながら降り注ぐ流星群のような曲。
(アンコールだったんだ。プログラムに載ってない訳ね)
うっとりと聞き惚れていると、詩音が戻って来た。
「えっ、嘘! すごい!」
詩音もモニターから聞こえてくる音に釘付けになる。
短い曲はあっという間に終わった。
「ひゃー、この曲をこんなに簡単そうに弾くなんて」
「詩音ちゃん、この曲知ってるの?」
「はい。ショパンの『滝』っていうエチュードなんですけど、右手が恐ろしくワイドなアルペジオで超絶技巧なんです。それをこんなに軽やかに弾くなんて……」
「滝!? そんな名前だったのね」
言われてみれば、自由自在に流れを変える水のようにも思えるが、友利の演奏はもっとスケールが大きく、輝きに満ちている気がする。
余韻に浸っていると、場内が明るくなり、観客が一斉に扉から外に出て来た。
美月と詩音は、急いでテーブルに戻る。
「ありがとうございました。アンケートはこちらのボックスにお願いいたします」
声をかけながら笑顔で観客を見送った。
◇
「ふう、お疲れ様。夜遅いから、みんなもう上がってね」
最後の観客を見送ると、ホール内の忘れ物チェックと受付の撤収作業をしてから、美月はアルバイトの詩音達を帰らせた。
紙袋にまとめた花束やプレゼントなどを両手いっぱいに抱えて、楽屋に向かう。
どうにか右手を動かしてノックをすると、「はい」という返事のあとにドアが開いた。
「わっ、びっくりした」
驚いて後ずさる友利に、美月は大量の花束の横から顔を覗かせる。
「すみません、友利さん。手がふさがっていて……。こちらは全てお客様から友利さんへの贈り物です」
「あっ、そうでしたか。ありがとうございます」
友利は美月の手から紙袋を受け取った。
「こんなにたくさんいただいたんですね。嬉しいなあ」
「ええ。皆様、演奏も聞き惚れていらっしゃいましたよ。ファンクラブが出来たら入りたいって。会員番号ひと桁狙いで」
「ファンクラブ!? 僕なんかがそんな……」
「作ったら喜ばれるんじゃないですか?」
「いえいえ。まだフリーで活動していますし、エージェントにも拾ってもらえないので」
「きっとあっという間にCDデビューも果たされますよ。今夜の演奏、とっても素敵で……あっ」
美月は思い出して言葉を止める。
「どうかしましたか?」
「はい、あの。先ほどは見当違いなことを申しまして失礼しました。あのエチュード、滝というのですね」
友利は、ああ、と笑顔になった。
「とんでもない、とても嬉しかったです。今までは『難しいのによく弾けますね』とか、『まさに滝のようでした』と褒めていただくことしかなかったのですが、僕はこの曲を、難易度や滝のイメージを払拭して演奏してみたかったのです。あなたはそれを感じ取ってくださった。流星群のようだったと言われて、本当に嬉しかったです」
純粋な眼差しで、嘘偽りなく語る友利に、美月も笑顔で頷く。
「わたくしのような素人の感想がお役に立つなんて、こちらこそ嬉しいです。でも、他の曲はホールの中では聴けなくて……」
「そうでしたか。ではまたいつか、コンサートにいらしてください」
「はい。あ、もうお着替え済まされてるなら、お荷物運びますよ」
来た時と同じラフなジーンズとジャケット姿の友利は、帰る支度も整っているようだった。
「ありがとう」
美月の手から半分紙袋を受け取り、友利は楽屋を出る。
美月も、忘れ物がないかチェックしてから楽屋の電気を消すと、友利のあとに続いた。
「大通りに出れば、すぐにタクシーを拾えると思います」
「タクシーか……。電車で帰るつもりだったんだけどね」
「ふふっ。こんなにたくさんの花束とプレゼントを抱えて、電車に乗る勇気はおありですか?」
「……ございません」
降参とばかりに頭を下げる友利に、美月は笑い出す。
「友利さんなら、あっという間にタクシーを乗りこなすリッチな生活になりますよ。もう既にファンの方がたくさんいらっしゃるんですから」
「うーん、実感が湧かないなあ」
「ではご自宅で、ファンレターをじっくり読んでくださいね。あ、空車のタクシー来ました」
美月が手を挙げると、タクシーはウインカーを出して二人の横に止まる。
「すみません、トランクお願いします」
美月は運転手に声をかけると、手にした荷物をトランクに入れた。
「風間さん、なにからなにまで本当にありがとう」
「いいえ。リサイタルのご盛会、おめでとうございます。これからもどうぞお身体に気をつけて、ご活躍くださいね」
「ありがとう。あなたにまたいい演奏を届けられるよう、精進します」
「はい。本日は当ホールをご利用いただき、ありがとうございました」
笑顔でタクシーに乗り込んだ友利を、美月はお辞儀をして見送った。
翌日、美月は勤務先のコミュニティセンターに出勤すると、制服の紺のスーツに着替えてからカウンターに向かった。
「おはよう、風間さん。今日は遅番だよね?」
「はい、そうです。大ホールで19時からピアノのリサイタルが催されるので、それが終わるまでは」
「そうか。私は17時上がりなんだけど、大丈夫かな?」
「はい、お任せください」
「頼むよ。風間さんなら安心だ」
気のいいおじさんといった雰囲気の50代半ばの館長は、美月に笑いかけてからバックオフィスに戻っていった。
「美月ちゃん、おはよう」
早番のパートの主婦、桑原が、にこやかに顔を上げる。
「おはようございます、桑原さん。休憩行ってきてください」
「ありがとう。特に変わったことはないわよ。いつもと同じ」
「分かりました。ごゆっくり」
桑原と交代してカウンターの前に座った美月は、今日の利用状況を端末で確認する。
(えーっと、体育室は午後から卓球サークルの『ピンポンパン』ね。多目的室は吹奏楽団の『ブラブラバンバン』みんなどうしてこういうネーミングなのかしら? 和室は……あっ、噂をすれば『本読み会』だわ)
美月が勤務しているのは、区の公共施設のコミュニティセンター。
主に地域の人達の為の施設で、座席数500席の大ホールから、卓球やバドミントン、バレーボールなどにも対応出来る体育室、防音設備の整った多目的室、茶道や華道に最適な和室などがある。
他にもカラオケルームや勉強室、図書コーナーやプレイルームなどもあり、赤ちゃんからおじいちゃんおばあちゃんまで、ニーズに合った場所でそれぞれの時間を楽しんでもらう、いわば憩いの場でもあった。
サークル活動は曜日と時間が決まっていることが多く、美月もほとんどの利用者とは顔なじみだ。
「美月ちゃーん、こんにちは」
しばらくすると、『本読み会』のメンバーの一人がやって来た。
「こんにちは。もしかして、タキさんもご一緒ですか?」
「そうなの。悪いんだけど、お迎えお願い出来る?」
「かしこまりました。すぐに行きますね」
美月はバックオフィスの館長に声をかけてから、階段をタタッと駆け下りる。
90歳を過ぎた近所に住むおばあちゃんが、車椅子に座って待っていた。
「タキさん、お待たせ」
「いつも悪いねえ、美月ちゃん」
「いいえ。行きましょうか」
美月は車椅子の後ろに回るとハンドルを握り、ストッパーを外す。
「では動きますよー」
「はいー」
本読み会のメンバーが、ここに来る前にタキさんの自宅に立ち寄って、車いすを押して来るのがいつもの流れだった。
館内はバリアフリーになっているのだが、エレベーターの前のスロープだけは、車椅子を押すには力がいる。
補助する人も高齢者では危ないからと、美月はいつも「私が代わるので声かけてくださいね」と伝えていた。
エレベーターに乗ると、美月は壁の鏡越しにタキさんに話しかける。
「タキさん、今日はなんの本を読むの?」
「今日はね、古今和歌集よ」
「それは素敵!」
美月はうっとりと宙に目をやって口ずさむ。
『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』
するとタキさんがふふっと笑う。
「美月ちゃん、その歌はあなたの心境にはまだ早いわ。美月ちゃんは、そうねえ……。『夕月夜 さすや岡部の 松の葉の いつともわかぬ 恋もするかな』ってところかしら?」
「それって、いつ始まったのかも分からない恋をしているって意味でしょう?」
「そうよ。美月ちゃんにぴったりじゃない?」
美月は笑って否定する。
「残念ながら、私はその歌の心境ではないです」
「あら、気づいていないだけで、もう恋の中にいるかもしれないわよ?」
「ふふっ、そうだといいですけど。はい、着きましたよ」
エレベーターを降りると、廊下の突き当りの和室に入る。
畳の手前で車椅子を止めて、ストッパーをかけた。
「ありがとね、美月ちゃん」
「いいえ、ごゆっくり楽しんでくださいね」
明るく手を振ってから、美月は和室をあとにした。
そのあとはカウンターで、予約や問い合わせ、本の貸出業務などに追われる。
午後枠の部屋の利用時間が終わると、忘れ物や清掃のチェックに回り、次の夕方枠の利用者を受け入れた。
「風間さん、今のうちに休憩どうぞ」
「はい。17時には戻りますね」
16時になると館長と交代して、休憩室に向かう。
持ってきたお弁当を食べてから、食後のお茶を飲んでひと息ついた。
ぼんやりと、タキさんの言葉を思い出す。
(いつの間にか始まっている恋、か……。どんな状況? さっぱり想像つかない。それより私は、『本読み会』に入りたいよ。いいなあ、タキさん達。私もおばあちゃんになったら、あんなふうに気の合う友達と集まりたい。今から声かけておく? 60年後に『本読み会』をしませんかって)
真面目にそんなことを考える。
だが、すぐに苦笑いを浮かべた。
(また美空に、浮世離れしてるって言われちゃうわ。だけど恋より『本読み会』の方が楽しそうなんだもん。25歳になったらお見合いして、家庭を持って、仕事を定年退職したら『本読み会』に入る。うん、私の人生設計、ばっちりね。よーし、このあとも仕事がんばろう!)
美月は気合いを入れて立ち上がった。
◇
「それじゃあ、あとはよろしくね」
休憩から戻ると、館長が帰り支度を始めた。
「はい、お任せください。お疲れ様でした」
「お疲れ様」
館長を見送ると、入れ違いに大ホールを予約したピアニストがやって来た。
「こんにちは、友利です。今日はよろしくお願いします」
「こんにちは、風間と申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします。早速楽屋にご案内しますね」
若手のピアニストの友利 健二は、海外の有名なコンクールで賞を取ったばかり。
凱旋公演として、今はあちこちの地域でリサイタルを開いているらしい。
甘いルックスと爽やかな笑顔で、追っかけの女性達がこぞって前売り券を購入し、早々に完売していた。
美月は大ホールの通路脇の楽屋まで来ると、ドアを開けて「どうぞ」と友利を促す。
「空調はつけておきましたが、暑かったり寒かったりしたら、ご自由に設定してくださいね。ステージには、打ち合わせ通りにピアノを準備してあります。すぐにリハーサルされますか?」
「そうですね、弾いてみたいです」
「かしこまりました。ご案内します」
荷物を置いて楽屋を施錠すると、友利は手ぶらで美月のあとに続いた。
「楽譜はお持ちにならないんですね」
「あ、ええ。リサイタルなので、好きな曲ばかり弾きますから」
美月は手にしていた公演のプログラムに目をやる。
「ショパンが多いのですね」
「そうなんです、ガラにもなく……」
「ショパンに合うガラって、どういうのですか?」
「は?」
ポカンとしてから、友利は取り繕うように慌てた。
「えっと、そうですね。ショパンはピアノの詩人と呼ばれているので、やはり知的で繊細なピアニストが弾くイメージですかね」
「なるほど。日本人が和歌を詠んだように、ショパンは音を紡いだのでしょうか……って、こんなことを言うと大概の人は引いてしまうので、口にしないようにしています」
「そ、そうですか」
たじろぐ友利に、美月は、しまった……と顔をしかめる。
「申し訳ありません。これから演奏されるというのに、集中力を欠くようなことを申し上げてしまい……」
「いえいえ、そんな。良いインスピレーションをもらいました。なるほど、和歌を詠むのも、情景を思い浮かべますものね。今夜は日本人の視点から、ショパンの音楽を奏でたいと思います」
「そう言っていただけると……。すみません。自分は変わり者だと自覚しているのに、ついうっかり」
「ははは! いえ、私もかなりの変わり者ですよ。ピアニストなんて呼ばれますけど、単なるピアノオタクで音楽バカってだけなんです」
友利は笑いを期待していたようだが、美月は真顔で頷いた。
「それは言い得て妙です。面白い方ですね、友利さんって」
「いえ、風間さんこそ」
ちょうどピアノの前にたどり着き、美月は足を止めて友利を振り返った。
「ご自由に音出しなさってください。開場は18時ですから、その前にお声をかけに参りますね」
「ありがとうございます。あの……」
「はい、なにか?」
美月が向き直ると、友利はためらいがちに口を開く。
「もしよろしければ、終演後に感想をお聞かせ願えたらと……」
「いえいえ、まさか。わたくしは全くの素人で、音楽のことはさっぱり分かりませんので」
「音楽を聴くのに資格も知識もいりません。むしろ、率直なお言葉をいただければ嬉しいのですが」
「わたくしでいいのなら、かしこまりました。業務がありますので、少ししかホールの中では聴けないのですが」
友利は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「はい、少しだけでも構いません」
「そういうことなら、謹んで。それでは、後ほど」
お辞儀をしてから、美月は友利をホールに残して受付に戻った。
「あ、美月さん! お疲れ様です」
カウンターに行くと、アルバイトの詩音しおんが笑顔で近づいて来た。
大ホールで催しがある時は人手が必要になる為、登録制のアルバイトに手伝ってもらっている。
「お疲れ様、詩音ちゃん。今夜のリサイタル、よろしくね」
「はい! なんたって、友利 健二のリサイタルですからね。 ああ、楽しみ! もう楽屋入りしてるんですか?」
「うん。今、ホールで音出ししてるよ」
「えー、聴きに行きたい! 上手いんだろうなあ」
詩音は両手を組んで、目を輝かせた。
「あ、そっか。詩音ちゃん、ピアノやってるんだよね?」
「はい。私の周りでも、友利 健二のファンは多いですよー。今夜も聴きに来る知り合いたくさんいるし」
「それなら、詩音ちゃんも客席で聴きたかったんじゃない? お客様の来場が落ち着いたら、ホールの中で聴いていいわよ」
「ほんとですか!?」
詩音はガバッと美月に抱きつく。
「やったー! ありがとうございます、美月さん。この御恩は決して忘れませぬ」
「そんな大げさな……。しかもどうしてそんな口調なの?」
「美月様に合わせたのでござる」
「私、忍者じゃないからね」
「拙者、承知でござる!」
「やれやれ……。ほら、ホワイエの準備に行くわよ」
「ニンニン!」
テンションの高い詩音を連れて、美月はホワイエに向かう。
テーブルを並べてプログラムやチラシを置き、受付を設置した。
「お花やプレゼントを預かったらここに置いてね。アンケート回収ボックスはこれ。詩音ちゃんは慣れてるから、他のアルバイトの人達にも説明しておいてくれる?」
「がってん承知之助!」
「……詩音ちゃん、もはやそれ親父ギャグだからね?」
あとは詩音に任せて、美月は腕時計に目を落とす。
(開場10分前か。そろそろ友利さんに声かけに行かないと)
そう思い、ホールの一番後ろの扉を開いた。
(えっ……、すごい)
2重扉の2つ目を開いた途端、飛び込んできたピアノの音に圧倒されて、美月は立ち尽くす。
広いホールいっぱいに、キラキラと輝くような音の粒が響き渡っていた。
見下ろした先のステージで、ピアノに一人向かっている友利の姿。
この音が、彼一人の手によって生み出されているとは思えないほど、美月の全身にシャワーのように音が降り注ぐ。
(なにここ、宇宙? 異次元の世界?)
不思議な感覚に囚われたまま、言葉もなくただ聴き惚れた。
空間を支配していた音の世界は、やがて彼が手の動きを止めて、静けさを取り戻す。
美月もようやく我に返った。
「あ、風間さん」
友利が顔を上げて、美月に笑いかける。
美月はホールの階段を下りてステージに近づいた。
「もう時間ですか?」
友利にそう聞かれても、美月はまだ余韻から抜け出せない。
「はい、あと10分で。あの、びっくりしました」
え?と、友利が首をかしげる。
「もしかして、聴いてくださったんですか?」
「聴くというよりは、衝撃的な体験をしたような……。一瞬で別世界へと連れて行かれました。今の曲もショパンなのですか?」
「はい。エチュード、つまり練習曲です」
エチュード?と、美月は驚いた。
「とてもそんなふうには思えませんでした。情景が目に浮かぶような……。華やかで、きらびやかで、夜空から流星群が降り注ぐみたいに、美しい世界に包まれました」
友利は驚いたように目を見開いてから、柔らかい笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。最高に嬉しいです」
「え? あの、すみません。技術的なことが分からないので、的外れなことを言ってしまって……」
「それがとても嬉しいのです。ありがとう、風間さん」
その言葉に嘘はないのだろう。
友利の言葉も、美月の胸に真っ直ぐ届いた。
(こんなふうに、誰かに心を開いてもらえるなんて)
屈託のない友利の笑顔に、いつの間にか美月も笑みを浮かべていた。
◇
「こんばんは、いらっしゃいませ」
開場時間になり、美月は詩音達と一緒に、にこやかに来場者を迎えた。
チケットの半券を切り、プログラムとアンケートを手渡し、友利への花束や手紙を預かる。
やはり若い女性客が多く、皆オシャレに着飾って楽しそうにホールへと向かった。
開演5分前にはほぼ全員がホールに着席し、ホワイエはガランと静かになる。
「お疲れ様。詩音ちゃん、お客様の様子をうかがいがてら、ホールで演奏聴いて来ていいわよ」
「ほんとですか? ありがとうございます!」
詩音はウキウキとホールの中に入って行った。
「美月さん。友利さん側にはステージマネージャーとか、スタッフはいるんですか?」
舞台関係の専門学校に通っているアルバイトの男の子に聞かれて、美月は首を振る。
「ううん、いないと思う。お一人で来られてたから」
「それなら、一応楽屋に呼びに行った方がいいんじゃないですかね?」
「確かにそうだわ。私、行ってくる。教えてくれてありがとう」
「いいえー。お願いします」
美月はタタッと小走りで通路を駆け抜け、楽屋のドアをノックした。
「はい」
「友利さん、風間です。お時間3分前ですが、準備はいかがですか?」
「大丈夫です。今行きますね」
ガチャッとドアが開いて友利が姿を現すと、美月は驚いて目を見張った。
「わあ、友利さん、パリッパリですね」
「はっ?」
「あ、失礼しました。髪型もパリッと整っているし、タキシードもパリッと着こなしていらして、素敵です。と言おうとして、ものすごく端折ってしまいました」
「ははは! なるほど。良かった、一瞬せんべいになった気分でした」
「すみません、これから演奏されるピアニストの方に……」
身を縮こめる美月に、友利は明るく笑う。
「いいえ、おかげで緊張がほぐれました。楽屋に一人でいると悶々としてしまって、テンションも下がり気味でしたから」
二人で下手の舞台袖に行くと、スタッフが顔を上げた。
「開演1分前です。よろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
友利はキリッと表情を引き締める。
「それでは、本ベル鳴らして照明落とします」
客席にチャイムが鳴り、照明が絞られると、人々のざわめきが消えた。
「友利さん、行ってらっしゃい」
美月が笑顔で送り出す。
「行ってきます」
友利は口角を上げて頷くと、スッと背筋を伸ばしてステージへと歩き始めた。
◇
そのまま舞台袖で聴きたい気持ちを抑え、美月はホワイエに戻る。
「ごめんね、大丈夫だった?」
「はい、問題ないですよ。美月さんもホールの中で聴いて来たらいいのに」
気を使ってくれるアルバイトの男の子に、美月は「ありがとう、でも大丈夫」と笑った。
ホワイエに設置されたモニターがステージの様子を映し、かすかに演奏が聞こえてくる。
(そう言えばあの曲、なんて名前なんだろう? エチュードって言ってたよね)
先ほど感銘を受けた演奏を思い出し、プログラムを開いてみた。
バラードやポロネーズ、ノクターンなどが並ぶ中、ショパンのエチュードはOp.10-12「革命」しかない。
(革命は私も知ってるけど、さっきの曲とは違うよね。でも他にエチュードはないし……)
不思議に思いながらも、モニターから聞こえてくる音に耳を澄ませた。
(やっぱりすごく引き込まれる。素敵な演奏)
1曲目が終わり、遅れて来たお客様をホール内に案内すると、友利がマイクを握って話し始めた。
「皆様、本日は私のような無名の新人のリサイタルに、ようこそお越しくださいました。この時間、この空間を皆様と共有出来ることに感謝し、今感じている喜びと幸せを全て演奏に込めたいと思います。どうぞ最後までごゆっくりお楽しみください」
深々とお辞儀をする友利に、温かい拍手が贈られる。
「見た目はかっこいいのに、性格が控えめなところがいいわよねえ」
「うん。ピアノの腕前もいいし、これから一気に有名人になりそう。私達、先見の明ありよね」
「そうね。ファンクラブ出来たら会員番号ひと桁狙おう」
客席の女性達から、そんな会話が聞こえてきた。
やっぱりひと桁ってなんだか特別よねと、美月は妙なことを考えながらホールを出る。
その後は遅れて来る来場者もなく、預かった友利への花束やプレゼントを袋にまとめて、アンケート回収ボックスをいくつか並べた。
最後の曲が終わると、感激の面持ちで詩音がホールから出て来た。
「はあ、すっごく良かったです。美月さん、ありがとうございました」
「どういたしまして。アンコールは聴かなくていいの?」
「はい、さすがにそこまでは……。ちゃんとお仕事しなきゃ」
詩音は、使い終わったテーブルをバックヤードに運び始める。
すると、モニターから聞こえていた拍手の音が止み、再びピアノの音色が聞こえてきた。
美月はハッとする。
(この曲、さっきの……!)
間違いない。
キラキラと輝きながら降り注ぐ流星群のような曲。
(アンコールだったんだ。プログラムに載ってない訳ね)
うっとりと聞き惚れていると、詩音が戻って来た。
「えっ、嘘! すごい!」
詩音もモニターから聞こえてくる音に釘付けになる。
短い曲はあっという間に終わった。
「ひゃー、この曲をこんなに簡単そうに弾くなんて」
「詩音ちゃん、この曲知ってるの?」
「はい。ショパンの『滝』っていうエチュードなんですけど、右手が恐ろしくワイドなアルペジオで超絶技巧なんです。それをこんなに軽やかに弾くなんて……」
「滝!? そんな名前だったのね」
言われてみれば、自由自在に流れを変える水のようにも思えるが、友利の演奏はもっとスケールが大きく、輝きに満ちている気がする。
余韻に浸っていると、場内が明るくなり、観客が一斉に扉から外に出て来た。
美月と詩音は、急いでテーブルに戻る。
「ありがとうございました。アンケートはこちらのボックスにお願いいたします」
声をかけながら笑顔で観客を見送った。
◇
「ふう、お疲れ様。夜遅いから、みんなもう上がってね」
最後の観客を見送ると、ホール内の忘れ物チェックと受付の撤収作業をしてから、美月はアルバイトの詩音達を帰らせた。
紙袋にまとめた花束やプレゼントなどを両手いっぱいに抱えて、楽屋に向かう。
どうにか右手を動かしてノックをすると、「はい」という返事のあとにドアが開いた。
「わっ、びっくりした」
驚いて後ずさる友利に、美月は大量の花束の横から顔を覗かせる。
「すみません、友利さん。手がふさがっていて……。こちらは全てお客様から友利さんへの贈り物です」
「あっ、そうでしたか。ありがとうございます」
友利は美月の手から紙袋を受け取った。
「こんなにたくさんいただいたんですね。嬉しいなあ」
「ええ。皆様、演奏も聞き惚れていらっしゃいましたよ。ファンクラブが出来たら入りたいって。会員番号ひと桁狙いで」
「ファンクラブ!? 僕なんかがそんな……」
「作ったら喜ばれるんじゃないですか?」
「いえいえ。まだフリーで活動していますし、エージェントにも拾ってもらえないので」
「きっとあっという間にCDデビューも果たされますよ。今夜の演奏、とっても素敵で……あっ」
美月は思い出して言葉を止める。
「どうかしましたか?」
「はい、あの。先ほどは見当違いなことを申しまして失礼しました。あのエチュード、滝というのですね」
友利は、ああ、と笑顔になった。
「とんでもない、とても嬉しかったです。今までは『難しいのによく弾けますね』とか、『まさに滝のようでした』と褒めていただくことしかなかったのですが、僕はこの曲を、難易度や滝のイメージを払拭して演奏してみたかったのです。あなたはそれを感じ取ってくださった。流星群のようだったと言われて、本当に嬉しかったです」
純粋な眼差しで、嘘偽りなく語る友利に、美月も笑顔で頷く。
「わたくしのような素人の感想がお役に立つなんて、こちらこそ嬉しいです。でも、他の曲はホールの中では聴けなくて……」
「そうでしたか。ではまたいつか、コンサートにいらしてください」
「はい。あ、もうお着替え済まされてるなら、お荷物運びますよ」
来た時と同じラフなジーンズとジャケット姿の友利は、帰る支度も整っているようだった。
「ありがとう」
美月の手から半分紙袋を受け取り、友利は楽屋を出る。
美月も、忘れ物がないかチェックしてから楽屋の電気を消すと、友利のあとに続いた。
「大通りに出れば、すぐにタクシーを拾えると思います」
「タクシーか……。電車で帰るつもりだったんだけどね」
「ふふっ。こんなにたくさんの花束とプレゼントを抱えて、電車に乗る勇気はおありですか?」
「……ございません」
降参とばかりに頭を下げる友利に、美月は笑い出す。
「友利さんなら、あっという間にタクシーを乗りこなすリッチな生活になりますよ。もう既にファンの方がたくさんいらっしゃるんですから」
「うーん、実感が湧かないなあ」
「ではご自宅で、ファンレターをじっくり読んでくださいね。あ、空車のタクシー来ました」
美月が手を挙げると、タクシーはウインカーを出して二人の横に止まる。
「すみません、トランクお願いします」
美月は運転手に声をかけると、手にした荷物をトランクに入れた。
「風間さん、なにからなにまで本当にありがとう」
「いいえ。リサイタルのご盛会、おめでとうございます。これからもどうぞお身体に気をつけて、ご活躍くださいね」
「ありがとう。あなたにまたいい演奏を届けられるよう、精進します」
「はい。本日は当ホールをご利用いただき、ありがとうございました」
笑顔でタクシーに乗り込んだ友利を、美月はお辞儀をして見送った。
70
あなたにおすすめの小説
幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜
葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在
一緒にいるのに 言えない言葉
すれ違い、通り過ぎる二人の想いは
いつか重なるのだろうか…
心に秘めた想いを
いつか伝えてもいいのだろうか…
遠回りする幼馴染二人の恋の行方は?
幼い頃からいつも一緒にいた
幼馴染の朱里と瑛。
瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、
朱里を遠ざけようとする。
そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて…
・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・
栗田 朱里(21歳)… 大学生
桐生 瑛(21歳)… 大学生
桐生ホールディングス 御曹司
君に何度でも恋をする
明日葉
恋愛
いろいろ訳ありの花音は、大好きな彼から別れを告げられる。別れを告げられた後でわかった現実に、花音は非常識とは思いつつ、かつて一度だけあったことのある翔に依頼をした。
「仕事の依頼です。個人的な依頼を受けるのかは分かりませんが、婚約者を演じてくれませんか」
「ふりなんて言わず、本当に婚約してもいいけど?」
そう答えた翔の真意が分からないまま、婚約者の演技が始まる。騙す相手は、花音の家族。期間は、残り少ない時間を生きている花音の祖父が生きている間。
嘘をつく唇に優しいキスを
松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。
桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。
だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。
麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。
そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。
Blue Moon 〜小さな夜の奇跡〜
葉月 まい
恋愛
ーー私はあの夜、一生分の恋をしたーー
あなたとの思い出さえあれば、この先も生きていける。
見ると幸せになれるという
珍しい月 ブルームーン。
月の光に照らされた、たったひと晩の
それは奇跡みたいな恋だった。
‧₊˚✧ 登場人物 ✩˚。⋆
藤原 小夜(23歳) …楽器店勤務、夜はバーのピアニスト
来栖 想(26歳) …新進気鋭のシンガーソングライター
想のファンにケガをさせられた小夜は、
責任を感じた想にバーでのピアノ演奏の代役を頼む。
それは数年に一度の、ブルームーンの夜だった。
ひと晩だけの思い出のはずだったが……
全部私が悪いのです
久留茶
恋愛
ある出来事が原因でオーディール男爵家の長女ジュディス(20歳)の婚約者を横取りする形となってしまったオーディール男爵家の次女オフィーリア(18歳)。
姉の元婚約者である王国騎士団所属の色男エドガー・アーバン伯爵子息(22歳)は姉への気持ちが断ち切れず、彼女と別れる原因となったオフィーリアを結婚後も恨み続け、妻となったオフィーリアに対して辛く当たる日々が続いていた。
世間からも姉の婚約者を奪った『欲深いオフィーリア』と悪名を轟かせるオフィーリアに果たして幸せは訪れるのだろうか……。
*全18話完結となっています。
*大分イライラする場面が多いと思われますので苦手な方はご注意下さい。
*後半まで読んで頂ければ救いはあります(多分)。
*この作品は他誌にも掲載中です。
距離感ゼロ〜副社長と私の恋の攻防戦〜
葉月 まい
恋愛
「どうするつもりだ?」
そう言ってグッと肩を抱いてくる
「人肌が心地良くてよく眠れた」
いやいや、私は抱き枕ですか!?
近い、とにかく近いんですって!
グイグイ迫ってくる副社長と
仕事一筋の秘書の
恋の攻防戦、スタート!
✼••┈•• ♡ 登場人物 ♡••┈••✼
里見 芹奈(27歳) …神蔵不動産 社長秘書
神蔵 翔(32歳) …神蔵不動産 副社長
社長秘書の芹奈は、パーティーで社長をかばい
ドレスにワインをかけられる。
それに気づいた副社長の翔は
芹奈の肩を抱き寄せてホテルの部屋へ。
海外から帰国したばかりの翔は
何をするにもとにかく近い!
仕事一筋の芹奈は
そんな翔に戸惑うばかりで……
友達の肩書き
菅井群青
恋愛
琢磨は友達の彼女や元カノや友達の好きな人には絶対に手を出さないと公言している。
私は……どんなに強く思っても友達だ。私はこの位置から動けない。
どうして、こんなにも好きなのに……恋愛のスタートラインに立てないの……。
「よかった、千紘が友達で本当に良かった──」
近くにいるはずなのに遠い背中を見つめることしか出来ない……。そんな二人の関係が変わる出来事が起こる。
忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる