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酔っ払い小雪、再び
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定時を過ぎたオフィス棟では、たくさんの社員が出口に向かっていた。
山下も、3階の企画広報課の部屋を出ると階段を下りる。
すると後ろから、山下!と声をかけられた。
振り返ると、加藤がタタタッと階段を下りて来る。
「お疲れ様です。どうかしましたか?」
「ああ。あのさ、お前これから予定ある?」
「いや、何もないですけど」
「そしたらちょっと飲みに行かないか?話したい事があってさ」
え、何ですか?と聞くと、まあ後でな、とはぐらかされる。
山下は、先日の居酒屋に加藤と向かった。
「へえー、なかなかいい店だな」
「大学の時、行きつけだったんですよ。ここの焼き鳥とおでん、うまいですよ」
「いいな!じゃあそれと、取り敢えず生ビールで」
二人は、お疲れ様と乾杯すると、早速料理を食べ始めた。
「うまい!確かにこの焼き鳥、最高だな」
「ですよねー?追加で頼みましょうよ」
山下は、スタッフを呼ぼうと顔を上げる。
その時、若い女の子二人が、加藤の後ろの席に案内されて座るのが見えた。
「なかなか雰囲気いいねー。素朴な木のぬくもりって感じで」
山下の正面に座った女の子が店内を見渡しながらそう言うと、向かい側のもう一人の子が、でしょ?と答える。
「この間、職場の人に連れて来てもらったんだ。つくね串とか、美味しいんだよー」
(ん?この声、なんか聞いた事あるような…)
だが、山下からはその子の背中しか見えない。
気のせいか、と山下はスタッフに料理を注文した。
「ところでさ、山下。話ってのは…」
ひとしきり料理を食べた後、加藤が真剣な顔で切り出す。
「今度の人事異動で、青木課長が部長に昇進するのは知ってるだろ?」
「はい。リーダーミーティングで、総支配人がそう仰ってましたし」
「うん。それでさ、実は課長と一緒に俺も総支配人に呼ばれて打診されたんだ」
山下は頷く。
青木が部長になれば、今まで課長補佐だった加藤が課長に昇進するのは自然な事だ。
だが加藤は、予想外の事を口にした。
「俺が、部長になる青木さんの補佐をする事になった」
えっ!と山下は加藤を見る。
「そ、それじゃあ、加藤さんが部長補佐って事ですか?そんな…。青木さんと加藤さん、どっちもいなくなったら、企画広報課はいったい誰がまとめるんですか?!」
「お前だ、山下」
「なっ…?!」
山下は絶句する。
「そ、そ、そんな…。無理ですよ!俺なんて」
「いや、お前しかいない。総支配人に、次に企画広報課の課長になるのは誰が適任かと聞かれて、俺も青木課長もお前の名前を挙げた。総支配人も同意されていた。それに、青木課長が2年前に部長を引き受けていれば、今頃お前が課長になっているはずだろう?」
「で、でも、お二人同時にいなくなるなんて、企画広報課はどうなるのか…」
「大丈夫だよ。奈々ちゃんや瑠璃ちゃんもいてくれるし、それに青木さんも俺も、同じ営業部にいる事には変わりない。何でも相談に乗る」
山下はうつむいた。
(正直言って心細い…。でも、青木課長にも加藤さんにも、ちゃんと昇進して欲しい。それなら俺も、やるしかない)
決意を固めると、顔を上げて加藤を見る。
「分かりました。青木課長と加藤さんが安心して昇進出来るように、自分もしっかり企画広報課を守っていきます」
加藤は大きく頷いた。
「ああ、頼んだぞ。お前なら大丈夫だ。今までお前がどんな仕事にも、真摯に真面目に向き合ってきたのを、俺も青木課長も良く知っている。課の雰囲気を盛り上げようとして、率先してバカな事して、空回りして逆に場をシラケさせたり、鬱陶しがられたり、ドン引きされたり…」
「ちょ、ちょっと、加藤さん!褒めてるんですか?けなしてるんですか?」
「もちろん、べた褒めしている」
どこがですか…と、山下が肩を落とすと、加藤はおかしそうに笑った。
「異動までの間、あともう少しよろしく頼むな。盛り上げ隊長!」
「はーい、盛り下げないように頑張ります~」
加藤がおかしそうに笑っていると、ふと手元に置いていたスマートフォンにメッセージが届く。
「お、すまん山下。俺、そろそろ行くわ」
「…ひょっとして、彼女ですか?」
加藤は、鞄を引き寄せながらニヤッと笑う。
「そっ!無事に昇進したら、入籍しようと思ってるんだ。だから社宅のプロジェクトも興味津々でさ。新居もそこから選ぶつもりだから」
そう言って伝票を手に立ち上がる。
「あ、俺の分…」
山下が財布を取り出すと、
「いいってば、気にすんな。うまかったよ、この店。じゃあな」
片手を上げてから背を向ける加藤に、ごちそうさまでした、と山下は立ち上がって頭を下げた。
一人残された後は、ボンヤリと考えながらビールを飲む。
(俺が課長か…。なんだか実感湧かないな。まだ青木さん達がいてくれる間に、しっかり教わっておこう)
ふと前を見ると、今まで加藤の背後にいた女の子達が目に入る。
「都会でひとり暮らしなんて、大丈夫?って思ってたけど、なんとか上手くやってるのね」
山下から顔が見える子がそう言うと、反対側の背中を向けている子が頷く。
「もっちろんよー。それにね、私、お酒もすんごく強くなったの。この間もね、ここでたくさん飲んで酔っ払ったのに、ちゃんと家に帰ってベッドで寝てたのよ。しかも、部屋の電気もちゃんと消して、タオルケットもしっかり掛けてね」
「ふうーん…。記憶失くしたりしなかったんだ」
「あ、それが、あんまり覚えてないんだけどねー。メイクも落とさないで服のまま寝ちゃってたし、それにそう!部屋の鍵が見当たらないのよ」
ええー?!と、正面の子が驚いた声を上げる。
「ちょっと、大丈夫なの?ひとり暮らしの部屋の鍵失くすなんて」
「うん、大丈夫。合鍵あるし」
「そうじゃなくて!誰かに拾われて、部屋に入られたりしたらどうするのよ?!」
「それはないよ。だって私、鍵を開けて部屋に入って、そこから失くしたのよ?いつもの棚の上になかったから、きっとどこかの引き出しの中にでも入れたんじゃないかしら。そのうち見つかるわよ」
はあー?と、正面の子は呆れている。
「それ、立派に酔っ払って記憶失くしてるじゃない。もうだめ!今日はそれ以上飲まないでよ?」
「えー、いいじゃない。せっかく久しぶりに会えたのにー。2年ぶりでしょー?もっと飲んでおしゃべりしようよー」
山下は、もう二人の会話に釘付けだった。
(この声、この話の内容…。後ろ姿しか見えないけど、きっとこの子は)
そう思った時、
「すみませーん、ウーロンハイ下さーい」と手を上げる子を、小雪、もうだめ!と止める声がした。
(…やっぱりか)
山下は、ハアーとため息をつく。
(まさかあの日、俺が連れて帰った事を覚えていないなんて…)
その上、鍵がないと言っている。
(じゃあ今もあの鍵は、ドアポケットの中って事か…)
やれやれと肩をすくめる。
あの夜小雪に、無防備過ぎると注意すると、ボロボロと涙を溢し始めたっけ。
山下としては、号泣する小雪に相当面食らってしまったのに、肝心の小雪は何も覚えていないらしい。
そして鍵を失くした事にも、あっけらかんとしている。
(ほんとにこの子は…。危なっかしいなあ)
今日もちゃんと帰れるのだろうか、と山下が心配した時、ほら、もう帰るわよ、と、正面の子が小雪を立たせた。
と、次の瞬間、ガターン!と大きな音が店内に響く。
「ちょ、ちょっと!小雪!」
ふらついて椅子とテーブルにぶつかる小雪を、もう一人の子が必死で支えようとする。
「あれー?なんかちょっと、ふわふわする」
そう言って小雪はテーブルに手を付き、お皿がガシャンと音を立てた。
「ちょっと、だめ!食器が割れちゃうでしょ!」
必死で小雪を歩かせようとするが、なおも小雪は他のテーブルにぶつかりそうになっている。
山下は立ち上がって近付くと、小雪の身体を支えた。
「え?あ、あの…あなたは?」
小雪の腕を掴んでいた子が、驚いて山下を見る。
「こんばんは。俺は小雪ちゃんの職場の同僚です。君達が偶然あとから入って来た事に気付いてたんだけど、邪魔しちゃ悪いから声をかけなかったんだ」
「そうなんですか!良かったー。小雪、こんなになっちゃって、私1人でどうやって帰らせようかと思ってて…」
山下は、小雪を支えつつポケットから名刺を取り出す。
「俺はこういう者です。彼女と自宅方面が一緒なんだ。これからタクシーで帰るつもりだったから、ついでに彼女をアパートまで送って行くよ」
怪しまれないように考えながらそう言ったが、女の子は少しためらっているようだった。
「そ、そうですか…。あの、小雪はあなたのこと、良く知ってるんでしょうか?」
きちんとした子だな、この子くらい慎重であって欲しいものだと思いながら、山下は提案する。
「では、あなたも一緒に彼女のアパートまでお連れしますよ。私は部屋に上がりませんから」
と、その時、ふいに小雪が目を開けて山下を見上げた。
「あれー?稜さんだー。つくね串、もっと食べる?」
「食べないから!もう帰るぞ」
「ええー?稜さん、ちゃんと食べた?食べてなかったでしょ?」
「食べたって!君の知らないうちにね。ほら、タクシーで帰ろう」
山下は、小雪を支えて店を出る。
タクシーを拾っていると、女の子が支払いを済ませて出て来た。
山下は、財布から1万円札を取り出す。
「彼女の分、これで足りるかな?」
「えっ?そんな、多過ぎますよ!今お釣りを…」
「いいよ、取っておいて。手がこんな状況だから、返されても困るし」
山下がそう言うと、少しうつむいてから、
すみません、じゃあお言葉に甘えて…と受け取る。
タクシーに小雪を乗せてから、君もどうぞ、と振り返ると、女の子は首を振った。
「いえ、私は大丈夫です。小雪もあなたのこと、良く知ってるみたいだし。安心しました。小雪をどうぞよろしくお願いします」
頭を下げると、じゃあね、小雪、とタクシーの中に声をかけてから去って行った。
◇
「小雪ちゃん、ほらアパートに着いたよ。鍵は?」
「鍵、失くしたのー」
「そっちじゃなくて、合鍵!あるでしょ?」
「合鍵、持ってるよー。偉いでしょー」
「はいはい。偉い偉い」
山下は、ゴソゴソと鞄を探った小雪から鍵を受け取ると、玄関を開ける。
(確か、この棚の上に置くんだったな)
入ってすぐの棚の上にある、小さな小物入れに合鍵を入れると、山下は小雪を支えながらベッドに連れて行く。
もう下手に話をするのはやめて、小雪をベッドに寝かせると、山下は手帳を取り出してメモを書いた。
『鍵は玄関のドアポケットに入れておきます。 山下』
ビリッとページを破くと、ローテーブルに置く。
(さすがにこれで分かるよな)
そして部屋の電気を消し、玄関に向かう。
ドアポケットを開けると、案の定見覚えのあるキーホルダー付きの鍵が入っていた。
それを手に玄関を出ると、外から鍵をかけてまたドアポケットに入れる。
「じゃあねー…って言っても、聞こえてないか」
肩をすくめると、山下は足早に階段を下りて行った。
山下も、3階の企画広報課の部屋を出ると階段を下りる。
すると後ろから、山下!と声をかけられた。
振り返ると、加藤がタタタッと階段を下りて来る。
「お疲れ様です。どうかしましたか?」
「ああ。あのさ、お前これから予定ある?」
「いや、何もないですけど」
「そしたらちょっと飲みに行かないか?話したい事があってさ」
え、何ですか?と聞くと、まあ後でな、とはぐらかされる。
山下は、先日の居酒屋に加藤と向かった。
「へえー、なかなかいい店だな」
「大学の時、行きつけだったんですよ。ここの焼き鳥とおでん、うまいですよ」
「いいな!じゃあそれと、取り敢えず生ビールで」
二人は、お疲れ様と乾杯すると、早速料理を食べ始めた。
「うまい!確かにこの焼き鳥、最高だな」
「ですよねー?追加で頼みましょうよ」
山下は、スタッフを呼ぼうと顔を上げる。
その時、若い女の子二人が、加藤の後ろの席に案内されて座るのが見えた。
「なかなか雰囲気いいねー。素朴な木のぬくもりって感じで」
山下の正面に座った女の子が店内を見渡しながらそう言うと、向かい側のもう一人の子が、でしょ?と答える。
「この間、職場の人に連れて来てもらったんだ。つくね串とか、美味しいんだよー」
(ん?この声、なんか聞いた事あるような…)
だが、山下からはその子の背中しか見えない。
気のせいか、と山下はスタッフに料理を注文した。
「ところでさ、山下。話ってのは…」
ひとしきり料理を食べた後、加藤が真剣な顔で切り出す。
「今度の人事異動で、青木課長が部長に昇進するのは知ってるだろ?」
「はい。リーダーミーティングで、総支配人がそう仰ってましたし」
「うん。それでさ、実は課長と一緒に俺も総支配人に呼ばれて打診されたんだ」
山下は頷く。
青木が部長になれば、今まで課長補佐だった加藤が課長に昇進するのは自然な事だ。
だが加藤は、予想外の事を口にした。
「俺が、部長になる青木さんの補佐をする事になった」
えっ!と山下は加藤を見る。
「そ、それじゃあ、加藤さんが部長補佐って事ですか?そんな…。青木さんと加藤さん、どっちもいなくなったら、企画広報課はいったい誰がまとめるんですか?!」
「お前だ、山下」
「なっ…?!」
山下は絶句する。
「そ、そ、そんな…。無理ですよ!俺なんて」
「いや、お前しかいない。総支配人に、次に企画広報課の課長になるのは誰が適任かと聞かれて、俺も青木課長もお前の名前を挙げた。総支配人も同意されていた。それに、青木課長が2年前に部長を引き受けていれば、今頃お前が課長になっているはずだろう?」
「で、でも、お二人同時にいなくなるなんて、企画広報課はどうなるのか…」
「大丈夫だよ。奈々ちゃんや瑠璃ちゃんもいてくれるし、それに青木さんも俺も、同じ営業部にいる事には変わりない。何でも相談に乗る」
山下はうつむいた。
(正直言って心細い…。でも、青木課長にも加藤さんにも、ちゃんと昇進して欲しい。それなら俺も、やるしかない)
決意を固めると、顔を上げて加藤を見る。
「分かりました。青木課長と加藤さんが安心して昇進出来るように、自分もしっかり企画広報課を守っていきます」
加藤は大きく頷いた。
「ああ、頼んだぞ。お前なら大丈夫だ。今までお前がどんな仕事にも、真摯に真面目に向き合ってきたのを、俺も青木課長も良く知っている。課の雰囲気を盛り上げようとして、率先してバカな事して、空回りして逆に場をシラケさせたり、鬱陶しがられたり、ドン引きされたり…」
「ちょ、ちょっと、加藤さん!褒めてるんですか?けなしてるんですか?」
「もちろん、べた褒めしている」
どこがですか…と、山下が肩を落とすと、加藤はおかしそうに笑った。
「異動までの間、あともう少しよろしく頼むな。盛り上げ隊長!」
「はーい、盛り下げないように頑張ります~」
加藤がおかしそうに笑っていると、ふと手元に置いていたスマートフォンにメッセージが届く。
「お、すまん山下。俺、そろそろ行くわ」
「…ひょっとして、彼女ですか?」
加藤は、鞄を引き寄せながらニヤッと笑う。
「そっ!無事に昇進したら、入籍しようと思ってるんだ。だから社宅のプロジェクトも興味津々でさ。新居もそこから選ぶつもりだから」
そう言って伝票を手に立ち上がる。
「あ、俺の分…」
山下が財布を取り出すと、
「いいってば、気にすんな。うまかったよ、この店。じゃあな」
片手を上げてから背を向ける加藤に、ごちそうさまでした、と山下は立ち上がって頭を下げた。
一人残された後は、ボンヤリと考えながらビールを飲む。
(俺が課長か…。なんだか実感湧かないな。まだ青木さん達がいてくれる間に、しっかり教わっておこう)
ふと前を見ると、今まで加藤の背後にいた女の子達が目に入る。
「都会でひとり暮らしなんて、大丈夫?って思ってたけど、なんとか上手くやってるのね」
山下から顔が見える子がそう言うと、反対側の背中を向けている子が頷く。
「もっちろんよー。それにね、私、お酒もすんごく強くなったの。この間もね、ここでたくさん飲んで酔っ払ったのに、ちゃんと家に帰ってベッドで寝てたのよ。しかも、部屋の電気もちゃんと消して、タオルケットもしっかり掛けてね」
「ふうーん…。記憶失くしたりしなかったんだ」
「あ、それが、あんまり覚えてないんだけどねー。メイクも落とさないで服のまま寝ちゃってたし、それにそう!部屋の鍵が見当たらないのよ」
ええー?!と、正面の子が驚いた声を上げる。
「ちょっと、大丈夫なの?ひとり暮らしの部屋の鍵失くすなんて」
「うん、大丈夫。合鍵あるし」
「そうじゃなくて!誰かに拾われて、部屋に入られたりしたらどうするのよ?!」
「それはないよ。だって私、鍵を開けて部屋に入って、そこから失くしたのよ?いつもの棚の上になかったから、きっとどこかの引き出しの中にでも入れたんじゃないかしら。そのうち見つかるわよ」
はあー?と、正面の子は呆れている。
「それ、立派に酔っ払って記憶失くしてるじゃない。もうだめ!今日はそれ以上飲まないでよ?」
「えー、いいじゃない。せっかく久しぶりに会えたのにー。2年ぶりでしょー?もっと飲んでおしゃべりしようよー」
山下は、もう二人の会話に釘付けだった。
(この声、この話の内容…。後ろ姿しか見えないけど、きっとこの子は)
そう思った時、
「すみませーん、ウーロンハイ下さーい」と手を上げる子を、小雪、もうだめ!と止める声がした。
(…やっぱりか)
山下は、ハアーとため息をつく。
(まさかあの日、俺が連れて帰った事を覚えていないなんて…)
その上、鍵がないと言っている。
(じゃあ今もあの鍵は、ドアポケットの中って事か…)
やれやれと肩をすくめる。
あの夜小雪に、無防備過ぎると注意すると、ボロボロと涙を溢し始めたっけ。
山下としては、号泣する小雪に相当面食らってしまったのに、肝心の小雪は何も覚えていないらしい。
そして鍵を失くした事にも、あっけらかんとしている。
(ほんとにこの子は…。危なっかしいなあ)
今日もちゃんと帰れるのだろうか、と山下が心配した時、ほら、もう帰るわよ、と、正面の子が小雪を立たせた。
と、次の瞬間、ガターン!と大きな音が店内に響く。
「ちょ、ちょっと!小雪!」
ふらついて椅子とテーブルにぶつかる小雪を、もう一人の子が必死で支えようとする。
「あれー?なんかちょっと、ふわふわする」
そう言って小雪はテーブルに手を付き、お皿がガシャンと音を立てた。
「ちょっと、だめ!食器が割れちゃうでしょ!」
必死で小雪を歩かせようとするが、なおも小雪は他のテーブルにぶつかりそうになっている。
山下は立ち上がって近付くと、小雪の身体を支えた。
「え?あ、あの…あなたは?」
小雪の腕を掴んでいた子が、驚いて山下を見る。
「こんばんは。俺は小雪ちゃんの職場の同僚です。君達が偶然あとから入って来た事に気付いてたんだけど、邪魔しちゃ悪いから声をかけなかったんだ」
「そうなんですか!良かったー。小雪、こんなになっちゃって、私1人でどうやって帰らせようかと思ってて…」
山下は、小雪を支えつつポケットから名刺を取り出す。
「俺はこういう者です。彼女と自宅方面が一緒なんだ。これからタクシーで帰るつもりだったから、ついでに彼女をアパートまで送って行くよ」
怪しまれないように考えながらそう言ったが、女の子は少しためらっているようだった。
「そ、そうですか…。あの、小雪はあなたのこと、良く知ってるんでしょうか?」
きちんとした子だな、この子くらい慎重であって欲しいものだと思いながら、山下は提案する。
「では、あなたも一緒に彼女のアパートまでお連れしますよ。私は部屋に上がりませんから」
と、その時、ふいに小雪が目を開けて山下を見上げた。
「あれー?稜さんだー。つくね串、もっと食べる?」
「食べないから!もう帰るぞ」
「ええー?稜さん、ちゃんと食べた?食べてなかったでしょ?」
「食べたって!君の知らないうちにね。ほら、タクシーで帰ろう」
山下は、小雪を支えて店を出る。
タクシーを拾っていると、女の子が支払いを済ませて出て来た。
山下は、財布から1万円札を取り出す。
「彼女の分、これで足りるかな?」
「えっ?そんな、多過ぎますよ!今お釣りを…」
「いいよ、取っておいて。手がこんな状況だから、返されても困るし」
山下がそう言うと、少しうつむいてから、
すみません、じゃあお言葉に甘えて…と受け取る。
タクシーに小雪を乗せてから、君もどうぞ、と振り返ると、女の子は首を振った。
「いえ、私は大丈夫です。小雪もあなたのこと、良く知ってるみたいだし。安心しました。小雪をどうぞよろしくお願いします」
頭を下げると、じゃあね、小雪、とタクシーの中に声をかけてから去って行った。
◇
「小雪ちゃん、ほらアパートに着いたよ。鍵は?」
「鍵、失くしたのー」
「そっちじゃなくて、合鍵!あるでしょ?」
「合鍵、持ってるよー。偉いでしょー」
「はいはい。偉い偉い」
山下は、ゴソゴソと鞄を探った小雪から鍵を受け取ると、玄関を開ける。
(確か、この棚の上に置くんだったな)
入ってすぐの棚の上にある、小さな小物入れに合鍵を入れると、山下は小雪を支えながらベッドに連れて行く。
もう下手に話をするのはやめて、小雪をベッドに寝かせると、山下は手帳を取り出してメモを書いた。
『鍵は玄関のドアポケットに入れておきます。 山下』
ビリッとページを破くと、ローテーブルに置く。
(さすがにこれで分かるよな)
そして部屋の電気を消し、玄関に向かう。
ドアポケットを開けると、案の定見覚えのあるキーホルダー付きの鍵が入っていた。
それを手に玄関を出ると、外から鍵をかけてまたドアポケットに入れる。
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