Bravissima!

葉月 まい

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合宿

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「わあ、なんて綺麗な雪景色!」

12月27日。
聖が運転する青い4WDで、三人は軽井沢の別荘地にやって来た。

高速道路を降りると、辺りは一面の銀世界が広がっている。

舗装されていない道をしばらく上り、木々の間を抜けると、三角屋根の大きなコテージが見えてきた。

(素敵な建物。レストランかホテルかな?)

芽衣が身を乗り出して窓の外を見ていると、やがて聖はその建物の入り口近くに車を停めた。

「着いたぞ、イスラメイ」
「え、ええ?!ここですか?」

想像よりもはるかに大きくてオシャレな別荘に、芽衣はポカンと放心する。

(こんな素敵な別荘、本当にあるんだ……)

目の前に広がる非日常の世界は、まるでドラマや映画のようだった。

「おい、早く降りろ。ロックするぞ?」
「わっ!待って」

運転席のドアから後ろを覗き込んだ聖にぶっきらぼうに言われて、芽衣は慌てて車を降りた。

「芽衣ちゃん、荷物は俺が運ぶから、先に入って」
「すみません、高瀬さん。ありがとうございます」

軽々と両手にスーツケースを持つ公平に頭を下げて、芽衣は丸太の階段を上がった。

大きな玄関扉は分厚い木で出来ており、それだけで重厚感がある。

聖は鍵を開けると、芽衣を中へと促した。

「お邪魔します。わあ、あったかい」
「ああ、遠隔操作で暖房を入れておいた。湿度も管理されてるはず。リビングはこっちだ」

玄関ホールからして既に広かったが、ドアを開けた先のリビングは、もはや室内とは思えないほど広々とした空間だった。

「す、すごい……」

天井は吹き抜けで高く、壁一面はガラス張りで太陽の光が燦々と降り注いでいる。

そしてその中央には、神々しいまでにグランドピアノが鎮座していた。

芽衣は吸い寄せられるようにピアノに近づく。

「あ、そこ段差あるから気をつけろ……って、うわ!」

ガクンと足を踏み外した芽衣を、聖が咄嗟に抱き留めた。

「あっぶね。転んで手をついたらどうする?」
「ごめんなさい!」

大きな腕にがっしりと抱きしめられ、芽衣は慌てて聖から離れようともがいた。

「暴れるなって!ここ、段差が続いてる。ちゃんと足元見て」
「あ、はい」

芽衣はようやく下を見下ろし、三段続いている段差を下まで下りた。

「もう大丈夫です。ありがとうございました」
「ん。くれぐれもケガだけはするなよ」
「はい」

するとスーツケースを運びながら、公平がリビングに入って来た。

「聖。芽衣ちゃんの部屋、1階のゲストルームでいいか?」
「ああ」
「じゃあ芽衣ちゃん、部屋に案内するよ。こっちだ」
「はい、ありがとうございます」

通された部屋は、ホテルのスイートルームかと思うほど、豪華で広い部屋だった。

「えっ、こんなお部屋を使わせていただいてもいいのでしょうか?」
「もちろん。って、俺の別荘じゃないけどね。あはは!えーっと、バスルームもついてるから、いつでも気兼ねなく使って。俺と聖の部屋は2階なんだ。何かあったら声かけて」
「はい。色々と本当にありがとうございます」
「どういたしまして。荷物を整理したらリビングでコーヒーでも飲もう。じゃあ、あとでね」

公平が出て行くと、芽衣は改めて部屋を見渡した。

(なんて素敵なお部屋なの。ここで1週間過ごせるなんて夢みたい。それにリビングのあのピアノ!ずっと弾いていられるなんて、もう本当に夢の世界!あー、早く弾きたい!)

芽衣はウキウキしながら、スーツケースを開けて荷物を取り出した。

ひと通り荷物を整理すると、芽衣は楽譜のデータが入ったタブレットと紙の楽譜の両方を胸に抱えてリビングに戻る。

ドアを開けると、コーヒーの良い香りが広がっていた。

「芽衣ちゃん、ちょうど良かった。コーヒー持っていくね。座ってて」

公平がにっこり笑ってキッチンから声をかけてくる。

「ありがとうございます。高瀬さん、なんだかいい旦那様って感じですね」
「ええ?!俺、そんなふうに見える?」
「はい。休日に奥様に優しくコーヒーを淹れてくれる、素敵な旦那様のイメージです」
「えー、彼氏じゃなくて旦那様か。若々しさがないのかな」

あ!と芽衣は慌てて否定した。

「そうですよね。高瀬さん、まだお若いですから、旦那様は失礼ですよね。ごめんなさい」
「いや、いいよ。俺も早く家庭持ちたい方だからさ」
「そうなんですね。高瀬さんなら、きっと綺麗で優しい奥様と結婚されるんでしょうね」
「ははは、そうだといいけど。まずは彼女を作らないとな」
「え?高瀬さん、今は彼女いないんですか?」
「残念ながらそうなんだ。はい、コーヒーどうぞ」

大きな木のダイニングテーブルに、公平はコーヒーカップを置く。

「ありがとうございます。いい香り」

芽衣は公平と向かい合って座り、コーヒーを味わった。

「もう少ししたら昼食作るね。理事長が手配してくれて、冷蔵庫にたくさん食料品が入ってたんだ。あ、ピアノの調律も終わってるよ」
「えー!なんてありがたい。本当に恐縮です。帰ったら理事長にお礼に伺いますね。それにしても高瀬さん、お料理も出来るんですか?」
「うん、結構好きなんだ。休日はたいてい自炊してるよ」
「うわ、うちにも来て欲しい」

こっそり呟いたつもりが、聞こえてしまったらしい。

「あはは!いつでも呼んでよ。一人だと毎回作り過ぎちゃうからさ」
「そんなこと言われると、本当に呼んじゃいますよ?」
「どうぞどうぞ?」

ふふっと二人で顔を見合わせて笑う。

その時、ふいに2階からヴァイオリンの音が聴こえてきた。

「お、聖のやつ、早速弾き始めたか。当分下りて来ないだろうな。芽衣ちゃん、先に二人で昼食食べようか」

そう言って目を向けると、芽衣はじっと耳を澄ませてヴァイオリンの音色に聴き入っている。

「芽衣ちゃん?おーい、芽衣ちゃーん」

公平がひらひらと手を振ると、ようやく芽衣はハッと我に返った。

「ごめんなさい!えっと、どうかしましたか?」

公平はクスッと笑う。

「いや。芽衣ちゃんも早くピアノ弾きたいのかなーって」
「はい!いいでしょうか?」

早くも芽衣は、タブレットと楽譜を抱えて立ち上がる。

「どうぞ、お好きなだけ弾いて」
「ありがとうございます!」

満面の笑みで芽衣はいそいそとピアノに向かう。

「これは二人とも、昼ごはんは当分先だな」

カップを持ち上げながら、公平はポツリと独りごちた。

キッチンで料理をしながら、公平は聞こえてくる芽衣のピアノに感心する。

(ほんとに基礎を徹底的にやるんだな。恐ろしいほど丁寧に正確に、しっかり時間をかけて)

芽衣はスケールやアルペジオを、リズムやアーティキュレーションや速度を変えてひたすら弾き続けていた。

その横顔は、もはや周りのことなど一切目に入っていないようだった。

単調なその響きが、徐々に音楽的になっていく。

クレッシェンドで大きくしたり、アクセントでメリハリをつけたり。

ジャズっぽくスウィングしたり、アルゼンチンタンゴのリズムでキレを良くしたり。

(お、今度はシャンソン風?その次は、ブラジルのサンバか。まるで音階の世界旅行だ)

公平がパスタやスープ、サラダを作り終えても、聖のヴァイオリンと芽衣のピアノの音は止まない。

心得てますとばかりに、公平は黙って先に食べることにした。



「あー、腹減った」

そう言いながら階段を下りてきた聖の声に、ハッと我に返った芽衣が手を止める。

「あれ?ここ、どこ?」

小さく呟いてキョロキョロしている。

公平はたまらず笑い出した。

「芽衣ちゃん、没頭してたもんね。ここは聖の別荘。今日は合宿初日で現在午後3時」

3時ー?!と、聖と芽衣が声を揃えた。

「どうりで腹が減ってる訳だ」
「はいはい。すぐ用意するよ。芽衣ちゃんも、ダイニングに座って待ってて」

公平がカウンターキッチンに行くと、芽衣がついてきた。

「私もお手伝いします」
「そう?ありがとう。じゃあスープを温めてよそってくれる?あと、冷蔵庫にサラダも入ってるんだ」
「はい、分かりました」

公平はパスタを茹でると、作ってあったソースを絡めて盛り付ける。

「どうぞ、ジェノベーゼパスタ。ここは新鮮な食材が豊富だからね、味は保証する」
「すごい!彩も良くて美味しそう。いただきます」

芽衣は目を輝かせてから、くるくるとフォークで巻いて口に入れる。

「うん、とっても美味しいです!高瀬さん、このソースを1から作ったんですか?」
「まあね、自分好みの味にしたくて」
「本当にすごいです。あー、高瀬さんのお料理、毎日食べられたらなあ」
「ははっ!1週間だけなら希望を叶えよう。合宿中は俺が料理を担当するよ」
「えっ、いいんですか?うわー、とっても楽しみ!」
「そんなに喜んでもらえると、作り甲斐があるよ。聖なんてもう慣れちゃって、今更うまいとも言ってくれない。こいつ、結婚しても奥さんの手料理を当たり前に食べて、愛想尽かされるだろうな」

じとっと公平が聖を横目で睨むと、黙々と食べていた聖が顔を上げる。

「結婚しなければいいだろ?公平の手料理がたまに食べられればそれでいい」
「俺は嫌だよ!愛する奥さんと毎日一緒に料理したいのに、何が悲しくてお前にも食べさせなきゃいけないんだよ」
「えー、そう言わずにさ。頼むよ、公平」
「嫌だ。自分でどうにかしろ」
「俺より女を取るのかよ?」
「当たり前だ!まったくもう……」

そう言いつつも公平は、聖と芽衣の為に食後のコーヒーを淹れた。

「コーヒー飲みながらでいいんだけど、改めて二人に動画の反響を見て欲しくてさ。コメントがたくさん届いてるから」

そう言って公平は、パソコンの向きを変えて二人に見せた。

如月フィルの公式動画サイトに、聖と芽衣の演奏動画のサムネイルがずらりと並んでいる。

「へえ、初めて見るわ」
「私もです」

聖と芽衣の言葉に、ええ?!と公平は仰け反った。

「二人とも、動画観たことないの?」
「ああ。なんかこう、毎回気持ち良く演奏出来たから、反省会はしたくないというか……」

聖の言葉に芽衣も頷く。

「分かります。これが課題なら必ず聴き返して反省するんですけど、如月さんとの演奏は楽しいままの思い出にしたくて」
「そうだよな。でもそろそろ聴いてみるか。ブラッシュアップしないまま演奏すれば、恥の上塗りになる」
「そうですね、私もちゃんと改善していきたいです」
「という訳で、公平、再生してくれ」

公平は頷くと、古いものから順に再生していく。

聖と芽衣は、見た目にも分かりやすく、がっくりとうなだれ始めた。

「あかん、全然あかんやん。出来てるつもりで、全然出来てない」
「本当です。ああ、もう、恥ずかしい。これ全部撮り直したいくらいです」
「だよな。しっかり合わせをやってから全部撮り直すか?」

すると意外にも公平が首を振った。

「いや。視聴者が求めてるのはそこじゃないと思う。二人の初見1発撮りが生み出すもの、その時にしか出せない感情の盛り上がりだったりとか、奇跡的にピタリとはまる瞬間とか、そういうのが聴いていて楽しいんじゃないかな?コンサートなら、じっくり合わせをやって完璧を目指すけど、この動画の趣旨はそこじゃない」
「うーん、そんなもんか?」
「ああ。少なくともこれまではずっと再生回数が伸び続けているんだ。だからしばらくはこのままいきたい」
「まあ、そういうことなら」

聖と芽衣は渋々納得する。

「じゃあ次はどの曲にする?出来ればコメント欄にあるリクエストに応えていきたいんだけど」

公平がスクロールするコメントを、聖と芽衣も肩を寄せ合って覗き込んだ。

「あ、そう言えばワックスマンの『カルメン幻想曲』まだやってなかったな。これからいくか?」

聖の提案に芽衣も頷き、早速いつものように1発撮りすることになった。

チューニングの間に、公平がカメラワークを確認する。

「聖、もうちょっと芽衣ちゃんに近づいて。でないと芽衣ちゃんの顔が映っちゃう」

二人のバランスや背景にも気をつけて、聖の立ち位置や撮影ポイントを決めた。

「よし!いくぞ、イスラメイ」

聖が気合いを入れる。

「はい!木村 芽衣です」

もはや恒例のやり取りのあと、二人はアイコンタクトを取った。

華やかなピアノから始まり、ヴァイオリンが空気を切るような低音を響かせてから、高い音へと一気に駆け上がる。

それだけで公平は身体がぞくりとした。

よく知られた有名なカルメンのメロディが、超絶技巧を交えて情緒豊かに奏でられる。

やがて魅惑的なハバネラの旋律に移った時だった。

聖がピタリと手を止めて驚いたように芽衣を振り返る。

(えっ!)

芽衣もハッとして手を止めた。

「あの、何か……?」

恐る恐る聞いてみると、聖は眉間にしわを寄せて怪訝そうに首をひねる。

「お前、どうかしたか?」
「はい?どうもしてませんが」
「急に人が変わったかと思った。かかしが演奏してるのかと」

か、かかし?!と芽衣は目を丸くする。

「真面目に弾いてたのか?」
「はい、もちろんです。どんな時も全力で弾いています」

すると聖はため息をついて楽譜に目を落とした。

「他は全く問題ない。今までもそうだった。だけどこのハバネラだけはひどい。色気のかけらも感じられなかった」

芽衣の顔が一気に赤くなる。
自覚があったからだ。

たいていの曲なら弾き方が分かる。
けれど大人の妖艶さや色っぽさ、更には男を惑わせるほどエロティックに弾け、と言われても分からない。

精一杯想像して弾いてみるが、しょせん薄っぺらい演奏だった。

ピアノを始めてからずっと、ピアノのことしか考えて来なかった。

誰かに憧れたり恋をしたり、デートしたりつき合ったり……
そんな経験がまるで芽衣にはなかった。

ハリウッド映画を観て研究したが、身体のラインを強調するドレスをまとい、視線一つで男性を虜にするセクシーな女優に、こんなの無理!とおののいた。

今もまた、やっぱり無理だと泣きそうになる。

そんな芽衣の様子を見て聖は楽譜を閉じた。

「カルメンはやめだ。他にしよう」

そう言って別の楽譜を選びに行く。

「あの、すみません。私のせいで……」

芽衣は立ち上がって頭を下げた。

「気にするな。別に大学の課題曲でもないんだし。気持ち良く弾けるやつにしよう」
「はい、申し訳ありません」
「いいってば。じゃあこれにするか。メンコン」
「はい」

そして今度こそ1発撮りでメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲 第1楽章」を演奏した。
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