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愛の挨拶
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「うーん…」
大学のキャンパスにある掲示板の前で、朱里は一人考え込んでいた。
「朱里、お待たせ!」
「あ、香澄ちゃん」
待ち合わせしていた香澄に声をかけられ、朱里は笑顔で振り返る。
「なに?真剣に見てたけど、何のお知らせ?」
「えっとね、インターンシップ」
「ああ、もうそういう時期よね。朱里はどれに参加するの?」
「それが迷っててね」
食堂に向かいながら話し出す。
「幼稚園教諭の免許を取るつもりだから、幼稚園の現場には行くつもりなの。それとは別に、職業体験とか工場見学とかにも興味があってね。あとは、子どもの為の芸術プログラムとか…」
「えええ?ちょっと、なんだか情報量過多なんですけど?」
あははと朱里は苦笑いする。
「そうだよね。とっ散らかってて自分でも呆れちゃう。でも、単に幼稚園児だけではなくて、もっとこう…視野を広くして幼児教育に関わりたいんだ。親子で参加出来るプログラムとか、美術館やコンサートホールで子ども向けのイベント企画したり…」
「ほえー!法学部の私にはさっぱりだけど、なんだかいいね!朱里らしいというか、楽しそうな世界ね」
「そう?ありがとう。まだ漠然としすぎてるけど、これから色々リサーチして考えてみるね」
食堂に着き、それぞれメニューを決めて空いている席に座る。
「ってことはさ、やっぱり考えてないの?桐生ホールディングスへの就職は」
麻婆豆腐定食を食べながら、香澄が聞いてくる。
朱里はギクリとして、思わず辺りをうかがった。
「なに?キョロキョロしてどうしたの?」
「香澄ちゃん、その話はここではしないで」
「その話って?桐生ホールディングスのこと?」
「だから、シーッてば」
ん?と香澄は首をかしげる。
朱里は、先日ここでの会話を聞かれて声をかけられたことを香澄に話した。
「そうなんだ!やっぱり凄いねー、桐生ホールディングスは」
「だから!もう香澄ちゃんってば」
「あ、ごめんごめん」
香澄は明るく笑ったあと声を潜める。
「それで?その声をかけてきた人とはつき合わないの?」
「は?つき合う訳ないじゃない。だって私と瑛を利用するつもりなんだよ?」
「そうだけどさ。朱里、全然浮いた話もないから、もう練習だと思ってとりあえずつき合ってみても良かったんじゃない?」
良くない!と、朱里は頬を膨らませて怒る。
「けどさー、せっかくの大学生生活。勉強と就活だけで終わっちゃうよ?」
「それだけじゃないもん。サークル活動もしてるもん」
「あー、あの潰れかけのどんチャカ団?」
「管弦楽団!それにまだ潰れてなーい!」
「まだってことは、いずれ潰れるの?」
「潰れませんってば!今日だって放課後練習あるんだよ」
そう言って朱里は、傍らに置いていたヴァイオリンケースを指差す。
「ふーん。でも私、そのヴァイオリンを拝見するのは随分お久しぶりですけど?」
朱里は、ウッと言葉に詰まる。
確かに朱里が所属している管弦楽団は幽霊部員の方が多く、活動日もろくに人が集まらないのが常だった。
高校の管弦楽部で毎日何時間もヴァイオリンを練習していた朱里にとっては、今のなんともゆるい活動は少し物足りない。
最近では演奏会の機会も減り、もっぱら練習に集まったメンバーでアンサンブルを楽しむ程度だった。
「でもね、今度演奏会やることになったの!大きなコミュニティマンションのロビーで、弦楽四重奏!」
「あら、そうなの?」
「うん。この大学に通ってる人が、そのマンションに住んでてね。管理組合で毎月住人向けのイベントを企画するんだって。それで、うちのサークルに演奏を依頼してくれたの」
「それってノーギャラ?」
「もちろん。演奏の機会をもらえただけで有り難いわよ」
「ひえー、もう管弦楽団じゃなくて、ボランティア団体じゃない」
「いいのいいの。何とでも言って」
久しぶりに仲間と演奏出来る、それだけで朱里は充分嬉しかった。
*****
放課後、いそいそウキウキと朱里は部室に向かう。
「おはようございまーす」
夕方でもそう挨拶する決まりは、なぜなのだろう?
とにかく朱里は元気良くドアを開けた。
「朱里ー!おはよう」
ロングヘアのいかにも清楚な雰囲気の美園が笑いかけてくれる。
「美園ちゃん、おはよう!久しぶりだねー」
「うん。キャンパスでもなかなか会わないよね、私達」
「美園ちゃん、理系だもんね。私、あっちの校舎にすら行ったことないよ」
「あはは!いつでも来てよ」
同い年の美園と話していると、ドアが開いてビオラの光一とチェロの奏が入って来た。
二人は朱里達の一つ上、大学四年生だったが、早々に就職先も決まり残り少ない大学生活を楽しもうと、今回の依頼演奏にも参加を決めたのだった。
「お、早いな。朱里に美園」
「はい、おはようございます」
四人はそれぞれ楽器を準備してから、ミーティングを始める。
「えっと、今回は大規模マンションのロビーでのカルテット。持ち時間は40分。客席は100席で、立ち見もあり。観客はマンションの住人で、小さいお子さんからご年配の方まで幅広い。プログラミング、どうしようか?」
奏の言葉に、皆でうーんと考え込む。
「やっぱり耳馴染みのある曲がいいですよね。クラシックでも、どこかで聞いたことあるような」
「そうだな。あとは、口ずさめる曲とか子ども向けの曲」
いくつか思いついた曲名を、ホワイトボードに書いていく。
「じゃあ、今楽譜があるものだけでも音出ししてみようぜ」
「はい」
四人で半円を描くように座り、お互い顔を見合わせて頷く。
楽器を構えてひと呼吸置くと、ファーストヴァイオリンの朱里が身体を使って合図を出した。
四人は同時にスッとブレスを取り、一斉に弓を弾く。
ザッと初めの一音が鳴り響き、朱里は空気が変わったのを感じて四人が奏でる音楽に浸った。
*****
「んー、家で弾くのも久しぶりだな」
帰宅してから、朱里は早速ミーティングで候補に挙がった曲をおさらいする。
それぞれどれがいいか考えて、明日の練習でプログラムを決めることになっていた。
譜面台に楽譜を載せ、楽器を用意すると、最後に部屋の窓を閉めた。
ヴァイオリンと言ってもかなりの音量だ。
隣の桐生家にも多少は聞こえてしまうだろう。
もちろん、桐生家からうるさいと言われることはなかったが、それでも最低限の気配りとして、ヴァイオリンを弾く時は必ず窓は閉めていた。
朱里は立ったまま左肩にヴァイオリンを載せ、チューニングしてから軽く音階を弾く。
一旦楽器を下ろし、譜面台に置いた楽譜をめくる。
(んー、まずはこれからいこう)
エルガーの『愛の挨拶』の楽譜を置くと、朱里は肩幅に足を開いて姿勢を正す。
ふうと息を吐いてから楽器を構え、歌い出すように弦を響かせた。
エルガーが、周囲の反対を押し切って自分と結婚してくれた妻アリスに捧げた愛の曲。
どこまでも甘く優しく幸せなこの曲は、弾いているだけでもうっとりとしてしまう。
弾き終えてから、朱里は思わず息をついた。
(素敵だなあ、こんなに愛されるなんて。でも、身分や年の差も気にせずにエルガーと結婚したアリスが、それだけ素敵な女性だったんだろうな)
エルガーに「私の作品を愛するのなら、まず妻のアリスに感謝すべきだ」とまで言わしめた女性。
ぽーっと頬を押さえて二人のラブストーリーに想いを馳せていると、なんだか妙に暑いことに気づいた。
(ラブラブの熱さじゃなくて、部屋の暑さか。暑い!)
エアコンも付けずに締め切っていた部屋は、朱里が窓を開けた途端、新鮮な外の空気と入れ替えられる。
「はあー、涼しい…って、ええ?!」
大きく深呼吸した朱里は、目の前に菊川の姿を見つけて固まる。
窓を開けてこちらに身を乗り出すように、菊川が優しく笑って朱里を見ていた。
「き、き、菊川さん?いつからそこに?」
「さっきからです。あんなに綺麗な音色が聴こえてきたら、誰だって吸い寄せられますよ」
「まさか、聴いて…?!」
朱里は両手で頬を押さえる。
(しかもあんなに自分の世界に浸った演奏…)
思い出すだけで恥ずかしい。
「朱里さん、とても素敵な演奏でしたよ。あなたの愛が溢れていました。いったい誰を想って弾けばこんなに甘い音色が出せるのだろうと、見ず知らずの相手にヤキモチ焼くくらいでした」
「いいい、いえいえ、あの。今のはコソ練、つまり、隠れてコソコソ練習していただけなんです。そんな、誰かを想ってなんて、まさか…」
アタフタする朱里に、菊川はふふっと笑う。
「では、いつか愛する人に聴かせてあげてください。きっと感動されると思います」
「ままま、まさかそんな。あの、そんなふうに言ってくださるのは、菊川さんだけですよ」
すると菊川は、意外そうに尋ねる。
「どうしてですか?」
「だ、だって。人前で演奏しても、感想を言ってくれる人なんてほとんどいませんよ。それどころか寝ちゃう人の方が多いかも?クラシックなんて、特に。それにこの曲が愛する人を想って書いた曲だって、菊川さんはよくご存知ですね?菊川さんこそ、音楽から色々なことを感じ取って言葉で伝えてくださる素敵な人です」
朱里の言葉を聞いて、菊川は少し考え込む。
「私は音楽に詳しくありません。ただ朱里さんの演奏を聴いて、思ったことを伝えただけです。素人の私が心惹かれ、愛の曲だって分かるほど、朱里さんの演奏は純粋に美しかったですよ」
朱里は照れて顔を真っ赤にする。
「朱里さん。その曲はどこかで演奏されるのですか?」
「え?あ、えっと。若葉台の『ヒルトップテラス』っていうコミュニティマンションのロビーで、カルテットで演奏するんです。まだ選曲中なんですけど、この曲も候補に挙がっていて…」
「そうですか。その曲も演奏していただけたら、きっとお客様も喜ぶと思います」
「あ、そ、そうでしょうか」
「練習、がんばってくださいね」
「は、はい。ありがとうございます」
うつむいたまま頭を下げ、朱里は窓を閉める。
菊川に聴かれるかと思うと、もう練習は続けられなかった。
*****
「よーし、じゃあそれぞれイチオシの曲教えて。これはやりたいってやつ」
次の日のミーティング。
集まった四人は、依頼演奏会の曲を相談していた。
奏の言葉に、まず光一が手を挙げる。
「俺は、アイネクライネかな」
「おお、王道だな。美園は?」
「私は、強いて言うならパッヘルベルのカノンがいいです」
「うん。これも有名だし聴きやすいな。朱里は?」
「あ、えっと…」
三人の視線を感じて少しためらってから、朱里は口を開く。
「私は、愛の挨拶…がいいです」
曲名を口にしただけなのに、なぜか顔が赤くなる。
「んー、どれも捨てがたいな」
奏が腕組みして宙を見る。
「持ち時間40分。多少オーバーしてもいいと言われてるし…。よし!じゃあこの三曲はやる方向で」
えっ!と朱里は顔を上げて奏を見る。
「アイネクライネは、抜粋でな。この三曲以外はクラシックじゃないのにしよう。映画音楽、歌謡曲、教科書にも載ってるような合唱曲、なんならポップスでも。手拍子で盛り上がれるような、アップテンポでノリがいいやつもな」
うんうんと、皆で頷く。
その日のうちに、プログラムはある程度決まった。
「あとは、俺が少しアレンジしておく。出来次第PDFで送るから、各自音出ししてくれ。来週の合わせで固めていこう」
「はい!」
奏に返事をしながら、朱里は楽しみで胸がワクワクした。
大学のキャンパスにある掲示板の前で、朱里は一人考え込んでいた。
「朱里、お待たせ!」
「あ、香澄ちゃん」
待ち合わせしていた香澄に声をかけられ、朱里は笑顔で振り返る。
「なに?真剣に見てたけど、何のお知らせ?」
「えっとね、インターンシップ」
「ああ、もうそういう時期よね。朱里はどれに参加するの?」
「それが迷っててね」
食堂に向かいながら話し出す。
「幼稚園教諭の免許を取るつもりだから、幼稚園の現場には行くつもりなの。それとは別に、職業体験とか工場見学とかにも興味があってね。あとは、子どもの為の芸術プログラムとか…」
「えええ?ちょっと、なんだか情報量過多なんですけど?」
あははと朱里は苦笑いする。
「そうだよね。とっ散らかってて自分でも呆れちゃう。でも、単に幼稚園児だけではなくて、もっとこう…視野を広くして幼児教育に関わりたいんだ。親子で参加出来るプログラムとか、美術館やコンサートホールで子ども向けのイベント企画したり…」
「ほえー!法学部の私にはさっぱりだけど、なんだかいいね!朱里らしいというか、楽しそうな世界ね」
「そう?ありがとう。まだ漠然としすぎてるけど、これから色々リサーチして考えてみるね」
食堂に着き、それぞれメニューを決めて空いている席に座る。
「ってことはさ、やっぱり考えてないの?桐生ホールディングスへの就職は」
麻婆豆腐定食を食べながら、香澄が聞いてくる。
朱里はギクリとして、思わず辺りをうかがった。
「なに?キョロキョロしてどうしたの?」
「香澄ちゃん、その話はここではしないで」
「その話って?桐生ホールディングスのこと?」
「だから、シーッてば」
ん?と香澄は首をかしげる。
朱里は、先日ここでの会話を聞かれて声をかけられたことを香澄に話した。
「そうなんだ!やっぱり凄いねー、桐生ホールディングスは」
「だから!もう香澄ちゃんってば」
「あ、ごめんごめん」
香澄は明るく笑ったあと声を潜める。
「それで?その声をかけてきた人とはつき合わないの?」
「は?つき合う訳ないじゃない。だって私と瑛を利用するつもりなんだよ?」
「そうだけどさ。朱里、全然浮いた話もないから、もう練習だと思ってとりあえずつき合ってみても良かったんじゃない?」
良くない!と、朱里は頬を膨らませて怒る。
「けどさー、せっかくの大学生生活。勉強と就活だけで終わっちゃうよ?」
「それだけじゃないもん。サークル活動もしてるもん」
「あー、あの潰れかけのどんチャカ団?」
「管弦楽団!それにまだ潰れてなーい!」
「まだってことは、いずれ潰れるの?」
「潰れませんってば!今日だって放課後練習あるんだよ」
そう言って朱里は、傍らに置いていたヴァイオリンケースを指差す。
「ふーん。でも私、そのヴァイオリンを拝見するのは随分お久しぶりですけど?」
朱里は、ウッと言葉に詰まる。
確かに朱里が所属している管弦楽団は幽霊部員の方が多く、活動日もろくに人が集まらないのが常だった。
高校の管弦楽部で毎日何時間もヴァイオリンを練習していた朱里にとっては、今のなんともゆるい活動は少し物足りない。
最近では演奏会の機会も減り、もっぱら練習に集まったメンバーでアンサンブルを楽しむ程度だった。
「でもね、今度演奏会やることになったの!大きなコミュニティマンションのロビーで、弦楽四重奏!」
「あら、そうなの?」
「うん。この大学に通ってる人が、そのマンションに住んでてね。管理組合で毎月住人向けのイベントを企画するんだって。それで、うちのサークルに演奏を依頼してくれたの」
「それってノーギャラ?」
「もちろん。演奏の機会をもらえただけで有り難いわよ」
「ひえー、もう管弦楽団じゃなくて、ボランティア団体じゃない」
「いいのいいの。何とでも言って」
久しぶりに仲間と演奏出来る、それだけで朱里は充分嬉しかった。
*****
放課後、いそいそウキウキと朱里は部室に向かう。
「おはようございまーす」
夕方でもそう挨拶する決まりは、なぜなのだろう?
とにかく朱里は元気良くドアを開けた。
「朱里ー!おはよう」
ロングヘアのいかにも清楚な雰囲気の美園が笑いかけてくれる。
「美園ちゃん、おはよう!久しぶりだねー」
「うん。キャンパスでもなかなか会わないよね、私達」
「美園ちゃん、理系だもんね。私、あっちの校舎にすら行ったことないよ」
「あはは!いつでも来てよ」
同い年の美園と話していると、ドアが開いてビオラの光一とチェロの奏が入って来た。
二人は朱里達の一つ上、大学四年生だったが、早々に就職先も決まり残り少ない大学生活を楽しもうと、今回の依頼演奏にも参加を決めたのだった。
「お、早いな。朱里に美園」
「はい、おはようございます」
四人はそれぞれ楽器を準備してから、ミーティングを始める。
「えっと、今回は大規模マンションのロビーでのカルテット。持ち時間は40分。客席は100席で、立ち見もあり。観客はマンションの住人で、小さいお子さんからご年配の方まで幅広い。プログラミング、どうしようか?」
奏の言葉に、皆でうーんと考え込む。
「やっぱり耳馴染みのある曲がいいですよね。クラシックでも、どこかで聞いたことあるような」
「そうだな。あとは、口ずさめる曲とか子ども向けの曲」
いくつか思いついた曲名を、ホワイトボードに書いていく。
「じゃあ、今楽譜があるものだけでも音出ししてみようぜ」
「はい」
四人で半円を描くように座り、お互い顔を見合わせて頷く。
楽器を構えてひと呼吸置くと、ファーストヴァイオリンの朱里が身体を使って合図を出した。
四人は同時にスッとブレスを取り、一斉に弓を弾く。
ザッと初めの一音が鳴り響き、朱里は空気が変わったのを感じて四人が奏でる音楽に浸った。
*****
「んー、家で弾くのも久しぶりだな」
帰宅してから、朱里は早速ミーティングで候補に挙がった曲をおさらいする。
それぞれどれがいいか考えて、明日の練習でプログラムを決めることになっていた。
譜面台に楽譜を載せ、楽器を用意すると、最後に部屋の窓を閉めた。
ヴァイオリンと言ってもかなりの音量だ。
隣の桐生家にも多少は聞こえてしまうだろう。
もちろん、桐生家からうるさいと言われることはなかったが、それでも最低限の気配りとして、ヴァイオリンを弾く時は必ず窓は閉めていた。
朱里は立ったまま左肩にヴァイオリンを載せ、チューニングしてから軽く音階を弾く。
一旦楽器を下ろし、譜面台に置いた楽譜をめくる。
(んー、まずはこれからいこう)
エルガーの『愛の挨拶』の楽譜を置くと、朱里は肩幅に足を開いて姿勢を正す。
ふうと息を吐いてから楽器を構え、歌い出すように弦を響かせた。
エルガーが、周囲の反対を押し切って自分と結婚してくれた妻アリスに捧げた愛の曲。
どこまでも甘く優しく幸せなこの曲は、弾いているだけでもうっとりとしてしまう。
弾き終えてから、朱里は思わず息をついた。
(素敵だなあ、こんなに愛されるなんて。でも、身分や年の差も気にせずにエルガーと結婚したアリスが、それだけ素敵な女性だったんだろうな)
エルガーに「私の作品を愛するのなら、まず妻のアリスに感謝すべきだ」とまで言わしめた女性。
ぽーっと頬を押さえて二人のラブストーリーに想いを馳せていると、なんだか妙に暑いことに気づいた。
(ラブラブの熱さじゃなくて、部屋の暑さか。暑い!)
エアコンも付けずに締め切っていた部屋は、朱里が窓を開けた途端、新鮮な外の空気と入れ替えられる。
「はあー、涼しい…って、ええ?!」
大きく深呼吸した朱里は、目の前に菊川の姿を見つけて固まる。
窓を開けてこちらに身を乗り出すように、菊川が優しく笑って朱里を見ていた。
「き、き、菊川さん?いつからそこに?」
「さっきからです。あんなに綺麗な音色が聴こえてきたら、誰だって吸い寄せられますよ」
「まさか、聴いて…?!」
朱里は両手で頬を押さえる。
(しかもあんなに自分の世界に浸った演奏…)
思い出すだけで恥ずかしい。
「朱里さん、とても素敵な演奏でしたよ。あなたの愛が溢れていました。いったい誰を想って弾けばこんなに甘い音色が出せるのだろうと、見ず知らずの相手にヤキモチ焼くくらいでした」
「いいい、いえいえ、あの。今のはコソ練、つまり、隠れてコソコソ練習していただけなんです。そんな、誰かを想ってなんて、まさか…」
アタフタする朱里に、菊川はふふっと笑う。
「では、いつか愛する人に聴かせてあげてください。きっと感動されると思います」
「ままま、まさかそんな。あの、そんなふうに言ってくださるのは、菊川さんだけですよ」
すると菊川は、意外そうに尋ねる。
「どうしてですか?」
「だ、だって。人前で演奏しても、感想を言ってくれる人なんてほとんどいませんよ。それどころか寝ちゃう人の方が多いかも?クラシックなんて、特に。それにこの曲が愛する人を想って書いた曲だって、菊川さんはよくご存知ですね?菊川さんこそ、音楽から色々なことを感じ取って言葉で伝えてくださる素敵な人です」
朱里の言葉を聞いて、菊川は少し考え込む。
「私は音楽に詳しくありません。ただ朱里さんの演奏を聴いて、思ったことを伝えただけです。素人の私が心惹かれ、愛の曲だって分かるほど、朱里さんの演奏は純粋に美しかったですよ」
朱里は照れて顔を真っ赤にする。
「朱里さん。その曲はどこかで演奏されるのですか?」
「え?あ、えっと。若葉台の『ヒルトップテラス』っていうコミュニティマンションのロビーで、カルテットで演奏するんです。まだ選曲中なんですけど、この曲も候補に挙がっていて…」
「そうですか。その曲も演奏していただけたら、きっとお客様も喜ぶと思います」
「あ、そ、そうでしょうか」
「練習、がんばってくださいね」
「は、はい。ありがとうございます」
うつむいたまま頭を下げ、朱里は窓を閉める。
菊川に聴かれるかと思うと、もう練習は続けられなかった。
*****
「よーし、じゃあそれぞれイチオシの曲教えて。これはやりたいってやつ」
次の日のミーティング。
集まった四人は、依頼演奏会の曲を相談していた。
奏の言葉に、まず光一が手を挙げる。
「俺は、アイネクライネかな」
「おお、王道だな。美園は?」
「私は、強いて言うならパッヘルベルのカノンがいいです」
「うん。これも有名だし聴きやすいな。朱里は?」
「あ、えっと…」
三人の視線を感じて少しためらってから、朱里は口を開く。
「私は、愛の挨拶…がいいです」
曲名を口にしただけなのに、なぜか顔が赤くなる。
「んー、どれも捨てがたいな」
奏が腕組みして宙を見る。
「持ち時間40分。多少オーバーしてもいいと言われてるし…。よし!じゃあこの三曲はやる方向で」
えっ!と朱里は顔を上げて奏を見る。
「アイネクライネは、抜粋でな。この三曲以外はクラシックじゃないのにしよう。映画音楽、歌謡曲、教科書にも載ってるような合唱曲、なんならポップスでも。手拍子で盛り上がれるような、アップテンポでノリがいいやつもな」
うんうんと、皆で頷く。
その日のうちに、プログラムはある程度決まった。
「あとは、俺が少しアレンジしておく。出来次第PDFで送るから、各自音出ししてくれ。来週の合わせで固めていこう」
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