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お見合い
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「親父、あの話進めてくれ」
突然の瑛の言葉に、皆は一斉に手を止める。
「…あの話って?」
「都築製薬の会長の孫の件」
「瑛、お前分かってるのか?それって…」
「ああ、分かってる」
静けさが広がり、朱里も思わずうつむいた。
今夜は雅が優を連れて実家に顔を出しており、夕食に朱里も招かれていた。
先日の演奏会の感想や、次回の演奏曲について皆でひとしきり盛り上がったあと、ふいに瑛が口を開いたのだった。
(それってつまり…お見合いするってことだよね)
朱里は手を止めたまま、そっと隣の瑛の横顔を見る。
瑛は淡々と食事の手を進めていた。
「瑛、なんでまた急にそんなこと言い出すのよ?」
雅の問いに、瑛は怪訝な面持ちで答える。
「急じゃないだろ?前々から言われてたし。俺なりによく考えて決めたんだ」
雅は口ごもり、また静けさが広がった。
すると瑛が小さくため息をつく。
「なんだよ。親父が勧めてきた話だろ?俺に受けて欲しかったんじゃないのか?」
「それはそうだが…。お前、本当に納得してるのか?嫌なら断っても…」
「だから!受けるって言ってるだろう?」
「わ、分かった」
瑛が珍しく語気を強め、皆は驚いて何も言えなくなった。
*****
食後、瑛は早々に自室に引き揚げ、朱里はソファで優の相手をしながら雅とお茶を飲んでいた。
「ねえ、朱里ちゃん。瑛、何かおかしくない?突然あんなこと言うなんて」
「…そうですね、私も驚きました。でも瑛はきっと今まで色々な事を考えていたんだと思います」
「そうだけど。どうして今それを決めたのかしら。朱里ちゃん、最近あの子と何か話した?」
「いいえ、まったく。こうやって顔を合わせても、瑛は私に話しかけてこなくて」
そう言うと、雅はうーん…と腕を組む。
「何かあったのかしらねえ。無理してないといいんだけど」
「そうですよね」
するとダイニングテーブルにいた瑛の父が話に加わる。
「ひとまず先方には、一度会うだけ会ってみたいという感じで話しておくよ。あくまで見合いとか、結婚には直結しないと念を押しておく」
「そうね。それがいいと思うわ、お父様」
「ああ。これからも瑛の様子は気にかけておこう。朱里ちゃんも、もし何か気づいた事があったら教えてもらえるかい?」
朱里は真剣な表情で頷く。
「分かりました。私も気にかけておきます」
「ありがとう。助かるよ」
そして2週間後、瑛はお相手の令嬢をこの屋敷に招くことになった。
*****
車のハンドルを握りながら、菊川はバックミラー越しに後部座席の二人の様子をうかがう。
瑛と都築製薬の令嬢。
二人は不自然なほど、それぞれ左右のドアの近くに座り距離を取っていた。
瑛はぼんやりと窓の外を見ている。
「あの、瑛さん」
「はい、何でしょうか」
「あ、はい。私、お母様に何かご無礼な振る舞いをしないか心配で…」
「あなたがそんな事をされるはずはありません。どうぞご心配なく」
「あ、はい…」
瑛は再び外に目をやり、令嬢はますます身を硬くしたようだった。
やがて屋敷に到着し、車を停めた菊川は、瑛の横のドアを開ける。
瑛は車を降りると反対側に回り、令嬢に手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
恥じらいながらそっと瑛の手を握って、令嬢が車を降りた時だった。
「お邪魔しましたー!」
明るい声が聞こえてきて、思わず皆はそちらを見る。
玄関から朱里が出て来て、トントンと軽やかに短い階段を下りると、そのままタタッとアプローチを進む。
と、ふと視線を上げて車の横にいる瑛を見た。
「あ、瑛!お帰り」
「ただいま。来てたんだ」
「うん。おば様からメールもらったの。今日お客様用にたくさんケーキを焼いたからおすそ分けにって。ほら!」
そう言って、小さな箱を目の高さに上げて見せる。
次の瞬間、瑛の後ろに令嬢の姿を見つけて、朱里の顔から笑顔が消えた。
朱里の視線を追ってそれに気づいた瑛が、彼女に朱里を紹介する。
「聖美さん。彼女は私の幼馴染…」
「いえ!あの、私、桐生家の隣に住む栗田と申します。いつも桐生の皆様には良くしていただいてまして。今日も奥様からおすそ分けを頂きに来ただけなんです」
朱里が瑛の言葉を遮って早口でまくし立てる。
「あ、そうでしたか。わたくしは、都築 聖美と申します。初めまして」
「初めまして。それでは私はこれで」
お辞儀をすると、朱里はそそくさと立ち去った。
(なんだ?あいつ。変だな)
瑛がじっと朱里の背中を目で追っていると、菊川の咳払いが聞こえてきた。
「あ、失礼。ではどうぞ中へ」
「は、はい」
瑛は聖美を屋敷の中へ促した。
*****
「まあ、そうなのねえ。聖美さんは日本舞踊も茶道もお上手なのね」
「いえ、あの。たしなむ程度です」
「でも素晴らしいわ。そうなのねえ…」
そう言って紅茶を口に運ぶ母に、瑛は心配になってくる。
(さっきから、ちょっと話しては会話が途切れてお茶を飲む、の繰り返し。そのうち腹がチャポチャポになるぞ)
「えっと、他には何かなさるの?趣味などは?」
「はい。3歳の頃からピアノを続けています」
「まあ、そう。ピアノをねえ。素晴らしいわ」
「いえ、大した腕前ではありません」
「でも長く続けていらっしゃるのでしょう?素晴らしいわよ」
そしてまた紅茶を口にする。
瑛はいよいよ母の腹具合が心配になり、助け舟を出した。
「聖美さんは、音楽がお好きなのですか?」
「あ、そうですね。好きです。本当は5歳からヴァイオリンも始めたのですが、続かなくて…」
まあ、ヴァイオリン?!と、急に母が前のめりになる。
「え?あ、はい。でもヴァイオリンはとても難しくて、すぐにやめてしまいました」
「まあ、そんなに難しいの?」
「はい。ピアノは鍵盤を押せばその音が出ますけれど、ヴァイオリンは印がある訳でもないので、なかなか思うように音が出せなくて…。何か一曲でもサラッと弾けるようになりたかったのですが」
「そうなのねえ…」
そこでまた会話は途切れ、母は紅茶を口にする。
そろそろ限界だろうと、瑛は聖美に提案した。
「聖美さん、よろしければ庭を散歩しませんか?」
「あ、ええ!是非」
どうやら聖美も居心地が悪かったのだろう、瑛の提案に嬉しそうに頷いた。
*****
「すっかり夏の気配ですね」
「そうですね。聖美さんは夏はお好きですか?」
「どちらかというと苦手です。秋が一番好きですね」
「なるほど。そんな感じがします」
「え、そうでしょうか?」
二人で肩を並べながら、庭に咲く花々を見て回る。
「もう少し先に温室もありますよ」
「まあ!拝見してもよろしいでしょうか?」
「もちろん。ご案内します」
「はい」
すると、ふと聖美が足を止めた。
「どうかしましたか?」
「ええ、あの。瑛さん、何か聞こえませんか?」
え?と瑛は耳を澄ませる。
風に乗って、かすかにヴァイオリンの音色が聞こえてきた。
「ああ、こちらからですね」
そう言って瑛は歩き始めた。
朱里の家を隔てる塀の近くまで来ると、はっきりとメロディが聞き取れる。
「まあ!ヴァイオリン?!」
「ええ。先程の彼女が弾いているんです」
「そうなのですね。なんて素敵なのかしら…。私、この曲大好きなんです」
へえ、と瑛は感心する。
「私は音楽はさっぱりで。この曲は何という曲なのですか?」
「マスカーニ作曲の歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲ですわ」
瑛は目が点になる。
「は?な、なんだかもの凄く覚えにくそうですね」
「ふふふ、本当に」
初めて聖美が笑顔を見せる。
白いワンピースと長い髪が風に揺れ、上品な仕草の聖美はとても清らかに見えた。
「あの、瑛さん」
「はい」
「このヴァイオリンの音色、もっと聴きたいです。あの方にお願い出来ますでしょうか?窓を開けて弾いていただけないかと」
「あ、はい。分かりました」
瑛は塀に近づくと、いつものように声をかけた。
「おーい、朱里ー!」
ピタリと音が止み、2階の窓が開く。
「なーに?ごめん、うるさかった?」
「いや違う。彼女が、窓を開けて弾いてくれないかって」
「は?」
朱里が瑛の背後にいる聖美を見ると、聖美は丁寧にお辞儀をする。
慌てて朱里も頭を下げた。
「不躾に申し訳ありません。とても素敵な演奏で感激してしまって…。もう少し聴かせていただけませんか?」
「え?!あの、そんな。下手くそでお耳汚しでは?」
「とんでもない!うっとりしてしまいましたわ。大好きな曲だったんです。本当に素敵でした」
それを聞いて朱里はにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。私の演奏でよろしければ。次は何を弾きましょうか?」
「お任せしますわ。何の曲か、それも楽しみですし」
「かしこまりました」
頷いた朱里は、少し考え込む。
瑛は聖美に、どうぞそちらへと、テラスのベンチを勧めた。
二人が座ると、朱里は少し目を閉じてからゆっくりと深呼吸し、楽器を構えた。
すっと弓を動かすと、まろやかで美しい音色が響き出す。
聖美がはっとしたように口元に手をやるのが見えた。
先程、窓越しに聞こえてきた音色とは明らかに違う。
空気を伝い、直に響いてくる音色。
心が浄化され、暖かく包み込まれるような美しい響き。
いつの間にか、菊川と母も後ろに来ていた。
言葉も忘れ、皆で朱里の演奏に聴き入る。
聖美は目に涙を浮かべながら、両手を胸の前で組み、祈るように聴いていた。
やがて長く最後の音が響き、風に溶けて消えていく。
聖美は立ち上がり、泣き笑いの表情で朱里に大きな拍手を送る。
瑛も、母も菊川も。
皆で朱里を称える拍手を送った。
朱里は照れ笑いを浮かべながらお辞儀をする。
「お嬢様のお気に召しましたでしょうか?『タイスの瞑想曲』は」
「ええ、これも大好きな曲ですわ。ありがとうございました」
「こちらこそ。聴いていただき、ありがとうございました」
朱里は聖美と微笑み合う。
が、急に我に返って両手で頬を押さえた。
「やだー、もう!おば様や菊川さんまで、いつの間に?しかもこんな、窓からこんにちはって状態で。もう、本当にごめんなさい」
あはは!と皆は笑い出す。
「朱里ちゃーん!素敵だったわよー」
「ええ。屋根の上のヴァイオリン弾きって感じですね」
「あら、ほんと。まさにそれね!」
朱里もつられて笑い出す。
その場の皆が、笑顔で顔を見合わせていた。
*****
「瑛。都築製薬の会長から連絡が来た。聖美さんが正式に、お前と結婚を前提におつき合いしたいとのことだ」
数日後、帰宅した父は真剣な表情で瑛に告げた。
瑛はしばらく視線を落として考える。
「どうする?断ってもいいぞ。まだ一度しかお会いしてないしな。もう少し考えさせてくれって話しても…」
いや、と瑛は父の言葉を遮る。
「俺も異存はない」
「え?それじゃあ、お前、彼女と…」
「ああ。結婚を前提におつき合いする」
きっぱりと言い切る瑛に、父は何も返す言葉がなかった。
突然の瑛の言葉に、皆は一斉に手を止める。
「…あの話って?」
「都築製薬の会長の孫の件」
「瑛、お前分かってるのか?それって…」
「ああ、分かってる」
静けさが広がり、朱里も思わずうつむいた。
今夜は雅が優を連れて実家に顔を出しており、夕食に朱里も招かれていた。
先日の演奏会の感想や、次回の演奏曲について皆でひとしきり盛り上がったあと、ふいに瑛が口を開いたのだった。
(それってつまり…お見合いするってことだよね)
朱里は手を止めたまま、そっと隣の瑛の横顔を見る。
瑛は淡々と食事の手を進めていた。
「瑛、なんでまた急にそんなこと言い出すのよ?」
雅の問いに、瑛は怪訝な面持ちで答える。
「急じゃないだろ?前々から言われてたし。俺なりによく考えて決めたんだ」
雅は口ごもり、また静けさが広がった。
すると瑛が小さくため息をつく。
「なんだよ。親父が勧めてきた話だろ?俺に受けて欲しかったんじゃないのか?」
「それはそうだが…。お前、本当に納得してるのか?嫌なら断っても…」
「だから!受けるって言ってるだろう?」
「わ、分かった」
瑛が珍しく語気を強め、皆は驚いて何も言えなくなった。
*****
食後、瑛は早々に自室に引き揚げ、朱里はソファで優の相手をしながら雅とお茶を飲んでいた。
「ねえ、朱里ちゃん。瑛、何かおかしくない?突然あんなこと言うなんて」
「…そうですね、私も驚きました。でも瑛はきっと今まで色々な事を考えていたんだと思います」
「そうだけど。どうして今それを決めたのかしら。朱里ちゃん、最近あの子と何か話した?」
「いいえ、まったく。こうやって顔を合わせても、瑛は私に話しかけてこなくて」
そう言うと、雅はうーん…と腕を組む。
「何かあったのかしらねえ。無理してないといいんだけど」
「そうですよね」
するとダイニングテーブルにいた瑛の父が話に加わる。
「ひとまず先方には、一度会うだけ会ってみたいという感じで話しておくよ。あくまで見合いとか、結婚には直結しないと念を押しておく」
「そうね。それがいいと思うわ、お父様」
「ああ。これからも瑛の様子は気にかけておこう。朱里ちゃんも、もし何か気づいた事があったら教えてもらえるかい?」
朱里は真剣な表情で頷く。
「分かりました。私も気にかけておきます」
「ありがとう。助かるよ」
そして2週間後、瑛はお相手の令嬢をこの屋敷に招くことになった。
*****
車のハンドルを握りながら、菊川はバックミラー越しに後部座席の二人の様子をうかがう。
瑛と都築製薬の令嬢。
二人は不自然なほど、それぞれ左右のドアの近くに座り距離を取っていた。
瑛はぼんやりと窓の外を見ている。
「あの、瑛さん」
「はい、何でしょうか」
「あ、はい。私、お母様に何かご無礼な振る舞いをしないか心配で…」
「あなたがそんな事をされるはずはありません。どうぞご心配なく」
「あ、はい…」
瑛は再び外に目をやり、令嬢はますます身を硬くしたようだった。
やがて屋敷に到着し、車を停めた菊川は、瑛の横のドアを開ける。
瑛は車を降りると反対側に回り、令嬢に手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
恥じらいながらそっと瑛の手を握って、令嬢が車を降りた時だった。
「お邪魔しましたー!」
明るい声が聞こえてきて、思わず皆はそちらを見る。
玄関から朱里が出て来て、トントンと軽やかに短い階段を下りると、そのままタタッとアプローチを進む。
と、ふと視線を上げて車の横にいる瑛を見た。
「あ、瑛!お帰り」
「ただいま。来てたんだ」
「うん。おば様からメールもらったの。今日お客様用にたくさんケーキを焼いたからおすそ分けにって。ほら!」
そう言って、小さな箱を目の高さに上げて見せる。
次の瞬間、瑛の後ろに令嬢の姿を見つけて、朱里の顔から笑顔が消えた。
朱里の視線を追ってそれに気づいた瑛が、彼女に朱里を紹介する。
「聖美さん。彼女は私の幼馴染…」
「いえ!あの、私、桐生家の隣に住む栗田と申します。いつも桐生の皆様には良くしていただいてまして。今日も奥様からおすそ分けを頂きに来ただけなんです」
朱里が瑛の言葉を遮って早口でまくし立てる。
「あ、そうでしたか。わたくしは、都築 聖美と申します。初めまして」
「初めまして。それでは私はこれで」
お辞儀をすると、朱里はそそくさと立ち去った。
(なんだ?あいつ。変だな)
瑛がじっと朱里の背中を目で追っていると、菊川の咳払いが聞こえてきた。
「あ、失礼。ではどうぞ中へ」
「は、はい」
瑛は聖美を屋敷の中へ促した。
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「まあ、そうなのねえ。聖美さんは日本舞踊も茶道もお上手なのね」
「いえ、あの。たしなむ程度です」
「でも素晴らしいわ。そうなのねえ…」
そう言って紅茶を口に運ぶ母に、瑛は心配になってくる。
(さっきから、ちょっと話しては会話が途切れてお茶を飲む、の繰り返し。そのうち腹がチャポチャポになるぞ)
「えっと、他には何かなさるの?趣味などは?」
「はい。3歳の頃からピアノを続けています」
「まあ、そう。ピアノをねえ。素晴らしいわ」
「いえ、大した腕前ではありません」
「でも長く続けていらっしゃるのでしょう?素晴らしいわよ」
そしてまた紅茶を口にする。
瑛はいよいよ母の腹具合が心配になり、助け舟を出した。
「聖美さんは、音楽がお好きなのですか?」
「あ、そうですね。好きです。本当は5歳からヴァイオリンも始めたのですが、続かなくて…」
まあ、ヴァイオリン?!と、急に母が前のめりになる。
「え?あ、はい。でもヴァイオリンはとても難しくて、すぐにやめてしまいました」
「まあ、そんなに難しいの?」
「はい。ピアノは鍵盤を押せばその音が出ますけれど、ヴァイオリンは印がある訳でもないので、なかなか思うように音が出せなくて…。何か一曲でもサラッと弾けるようになりたかったのですが」
「そうなのねえ…」
そこでまた会話は途切れ、母は紅茶を口にする。
そろそろ限界だろうと、瑛は聖美に提案した。
「聖美さん、よろしければ庭を散歩しませんか?」
「あ、ええ!是非」
どうやら聖美も居心地が悪かったのだろう、瑛の提案に嬉しそうに頷いた。
*****
「すっかり夏の気配ですね」
「そうですね。聖美さんは夏はお好きですか?」
「どちらかというと苦手です。秋が一番好きですね」
「なるほど。そんな感じがします」
「え、そうでしょうか?」
二人で肩を並べながら、庭に咲く花々を見て回る。
「もう少し先に温室もありますよ」
「まあ!拝見してもよろしいでしょうか?」
「もちろん。ご案内します」
「はい」
すると、ふと聖美が足を止めた。
「どうかしましたか?」
「ええ、あの。瑛さん、何か聞こえませんか?」
え?と瑛は耳を澄ませる。
風に乗って、かすかにヴァイオリンの音色が聞こえてきた。
「ああ、こちらからですね」
そう言って瑛は歩き始めた。
朱里の家を隔てる塀の近くまで来ると、はっきりとメロディが聞き取れる。
「まあ!ヴァイオリン?!」
「ええ。先程の彼女が弾いているんです」
「そうなのですね。なんて素敵なのかしら…。私、この曲大好きなんです」
へえ、と瑛は感心する。
「私は音楽はさっぱりで。この曲は何という曲なのですか?」
「マスカーニ作曲の歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲ですわ」
瑛は目が点になる。
「は?な、なんだかもの凄く覚えにくそうですね」
「ふふふ、本当に」
初めて聖美が笑顔を見せる。
白いワンピースと長い髪が風に揺れ、上品な仕草の聖美はとても清らかに見えた。
「あの、瑛さん」
「はい」
「このヴァイオリンの音色、もっと聴きたいです。あの方にお願い出来ますでしょうか?窓を開けて弾いていただけないかと」
「あ、はい。分かりました」
瑛は塀に近づくと、いつものように声をかけた。
「おーい、朱里ー!」
ピタリと音が止み、2階の窓が開く。
「なーに?ごめん、うるさかった?」
「いや違う。彼女が、窓を開けて弾いてくれないかって」
「は?」
朱里が瑛の背後にいる聖美を見ると、聖美は丁寧にお辞儀をする。
慌てて朱里も頭を下げた。
「不躾に申し訳ありません。とても素敵な演奏で感激してしまって…。もう少し聴かせていただけませんか?」
「え?!あの、そんな。下手くそでお耳汚しでは?」
「とんでもない!うっとりしてしまいましたわ。大好きな曲だったんです。本当に素敵でした」
それを聞いて朱里はにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。私の演奏でよろしければ。次は何を弾きましょうか?」
「お任せしますわ。何の曲か、それも楽しみですし」
「かしこまりました」
頷いた朱里は、少し考え込む。
瑛は聖美に、どうぞそちらへと、テラスのベンチを勧めた。
二人が座ると、朱里は少し目を閉じてからゆっくりと深呼吸し、楽器を構えた。
すっと弓を動かすと、まろやかで美しい音色が響き出す。
聖美がはっとしたように口元に手をやるのが見えた。
先程、窓越しに聞こえてきた音色とは明らかに違う。
空気を伝い、直に響いてくる音色。
心が浄化され、暖かく包み込まれるような美しい響き。
いつの間にか、菊川と母も後ろに来ていた。
言葉も忘れ、皆で朱里の演奏に聴き入る。
聖美は目に涙を浮かべながら、両手を胸の前で組み、祈るように聴いていた。
やがて長く最後の音が響き、風に溶けて消えていく。
聖美は立ち上がり、泣き笑いの表情で朱里に大きな拍手を送る。
瑛も、母も菊川も。
皆で朱里を称える拍手を送った。
朱里は照れ笑いを浮かべながらお辞儀をする。
「お嬢様のお気に召しましたでしょうか?『タイスの瞑想曲』は」
「ええ、これも大好きな曲ですわ。ありがとうございました」
「こちらこそ。聴いていただき、ありがとうございました」
朱里は聖美と微笑み合う。
が、急に我に返って両手で頬を押さえた。
「やだー、もう!おば様や菊川さんまで、いつの間に?しかもこんな、窓からこんにちはって状態で。もう、本当にごめんなさい」
あはは!と皆は笑い出す。
「朱里ちゃーん!素敵だったわよー」
「ええ。屋根の上のヴァイオリン弾きって感じですね」
「あら、ほんと。まさにそれね!」
朱里もつられて笑い出す。
その場の皆が、笑顔で顔を見合わせていた。
*****
「瑛。都築製薬の会長から連絡が来た。聖美さんが正式に、お前と結婚を前提におつき合いしたいとのことだ」
数日後、帰宅した父は真剣な表情で瑛に告げた。
瑛はしばらく視線を落として考える。
「どうする?断ってもいいぞ。まだ一度しかお会いしてないしな。もう少し考えさせてくれって話しても…」
いや、と瑛は父の言葉を遮る。
「俺も異存はない」
「え?それじゃあ、お前、彼女と…」
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きっぱりと言い切る瑛に、父は何も返す言葉がなかった。
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