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二章 二人の距離感
十七話 セクハラで訴えるぞ!?
しおりを挟む甘い、果実水のような声に、俺は羞恥も眠気もすっ飛んでいった。
反射的に起き上がれば、ガツンっと額に衝撃が走る。
「「っ~~~―――!!!」」
痛い。すげー痛い。
頭が割れた。絶対に割れた。
だがそんなことはどうでもいい。
(いまっ、こいつ俺にき、きす……ッ)
キスしやがった! 鼻だけど! 口じゃねーけど!!
顔が熱い。全身が心臓になったみたいにバクバクと煩い。
俺は勢いよく甘利を見る。俯いたままの甘利は、額を抑えて呻いている。少ししてのそりと上がる顔に、俺は反射的に後ろに後退ってしまった。
ガタタン、と椅子が音を立てる。甘利が「あ」と声を上げ、俺は肩が跳ね上がった。
「せ、先輩、俺――」
「わ、悪い! 俺用事あったんだった!!」
勢いよく立ち上がり、バッグを拾い上げる。引き留めて来る甘利の声も聞かず「じゃ、じゃあ、先帰るな! また今度!」と声を上げた俺は、そのままの勢いで部室を飛び出した。
ガシャン! と開け放たれた扉がけたたましい音を立てる。だが振り返る気にはならなかった。振り返ったら、甘利に捕まる気がして。
「はぁっ、はぁっ……!」
全速力で廊下を駆け抜ける。
バッグが重い。疲れている体に余計に疲労が重なる。下駄箱で靴を取り落としながらも靴を履き替え、俺は校門を出る。しばらく自分の帰り道を走り続け……俺は脇腹に走った痛みにずるずるとしゃがみ込んだ。
「ってぇー……」
文化部の体力を舐めないで欲しい。
息も絶え絶え。吹き出す汗が気持ち悪い。何度も大きく呼吸を繰り返した肺が痛む。
(ちくしょう……っ、なんで俺がこんな……)
こんな……こと……――――。
「っ――!!」
頭を過る“例の光景”に、ぶわりと熱が上がる。
(あの、馬鹿……!)
何が「あ」だよ! 「あ」じゃねーよ! ごめんなさいだろうが!! 何やらかしたみたいな顔してんだよ!
少しでも気を許した俺が馬鹿だった。鼻に触れ、指で鼻先を擦る。しかし、甘利の唇の感触が中々消えない。
(どうしてくれんだよっ)
これ、絶対何回かは思い出すやつだろ! つーか鼻先とか……もっといい場所あっただろ!
悶々と駆け巡る感情に、俺は頭を掻き毟る。何が甘利のスイッチになったのかはわからない。
(まさか後輩にキスされるなんて思わなかった)
「……あ」
俺はふと残してきた甘利の事を思い出す。
(俺、飛び出して来たな)
……つまり、前回の甘利と同じことをしているわけで。
「せっかく仲直りしたばっかだっつーのに……!」
(セクハラで訴えるぞ)
俺は力なく脱力した。……今回は明確に喧嘩したわけじゃないけど、むしろ変な方向に舵を切ってしまった気がする。はあ、と大きく息を吐く。また気まずくなるのかと思うと、気が重い。
(それにしても、アイツ。今までと雰囲気違ったよな……)
俺を見下げる甘利の顔を思い出す。いつもは真っすぐ射抜いてくるのに、今日に限っては優しく、愛おしいものを見るような瞳をしていた。
(……あれは、アイツが俺の事を好きだから、だよな)
そう改めて理解すると、恥ずかしさが込み上げて来る。
「馬鹿だろ、アイツ」
やってしまった、なんて顔すんじゃねーよ。
やるならやるで思い切ってやれっつーの。本番でもあんな顔するつもりかよ。
(本番……)
「って! 俺なに考えてんだ……っ!?」
ぶわわっと込み上げる羞恥に、俺はブンブンと首を振った。
疲れているからだ。疲れているから、変なことを考えてしまうんだ。
「さっさと帰って、さっさと寝よ」
俺は勢いよく立ち上がると、思考を振り払うように足早で帰路を歩き出す。
家に着くまで何度も反芻した甘利の顔は風呂に入って布団に入った瞬間、睡魔に負けて俺の意識外へと追い出された。
――それから振り替え休日を含めた週末を満喫した俺は、週明けの朝。学校に向かう途中で足を止める。
(げっ)
校門で立ち止まる、見覚えのある姿。
高い身長をこれでもかと見せびらかし、整った顔で平然と立っている。周囲には女子生徒が群がり、「おはよう」「何してるの?」「直立不動なのかわいー」などとよくわからない賛辞まで浴びている男――甘利の姿に、俺は顔を引き攣らせる。
(……忘れてた)
あの男の行動力の高さを。
最初の頃も、朝にこうして何度も待ち伏せされたのを思い出した。
(多少察してくれりゃあいいのに)
――三日三晩の休みの間。俺は甘利からの連絡を全て既読無視していた。
仕方ないだろう。あんなことがあったのだ。どんな顔をして返事を打てばいいかなんてわからない。
しかも最初は『急にあんなことしてすみませんでした』としおらしかったのに、昨日は『連絡してください。先輩の声が聞きたいです』なんて図々しいものに進化していた。「あんなことしておいて呑気に『声が聞きたいです~』なんて言われて連絡するやつがいるかよ!」とスマートフォンをベッドに投げつけたのは、記憶に新しい。
「! 先輩!」
「げっ」
「“げ”ってなんですか、“げ”って」
むっとする甘利。駆け寄って来る姿は相変わらず懐いた犬のようで。
抱き着いてくる甘利に驚くのも面倒になった。
「先輩、すみませんでした。俺が変なことをしたから……」
「わかってるならくっつくな。目立ってんだよ」
「先輩となら目立ってても大丈夫です!」
(お前が大丈夫でも俺が大丈夫じゃねーんだわ)
にこやかに笑う甘利の頬を引っ張る。周りの女子が甘利の笑顔にきゃーと悲鳴を上げているが、構うもんか。
「つーか待ち伏せやめろって言ったよな?」
「いたたた……先輩に早く会いたくて、つい」
「うっ」
「すみません」としょげる甘利。見えない耳と尻尾が垂れ下がっている。周りからの視線が容赦なく突き刺さった。
(こいつ……!)
自分の顔を武器にするなんて、卑怯だぞ。
俺は拳を握りしめる。わなわなと震わせ、「ったく、仕方ねーな」と呟いた。
「次やったら無視するからな」
「! はい」
ブンブンと尻尾が振られる。上機嫌になった甘利に、俺はモヤモヤしていたのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
(考えるだけ無駄か)
犬に噛まれたとでも思って忘れよう。俺は突き刺さる視線から逃げるべく、足早に校舎の中へと急ぐ。甘利はといえば、結局俺のクラスまで着いて来て、予鈴が鳴るのと同時に自分のクラスへと戻って行った。その間、いつも通りの彼に俺は肩透かしを食らった気分だった。
「なーに、今日はペット同伴だったの? めずらしーじゃん」
「悪い。今お前の相手してる体力ねーわ」
「ひどくない?」
「労ってやろうと思ってのにさぁ」と呟く秋人。
(嘘だろ。声が笑ってるし)
俺は秋人の言葉を無視して、空を見上げる。じんわりと汗ばむ季節は、どんどん夏へと進んでいた。
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